第一〇二話 ライフ・ゴーズ・オン
ワイレレ島の浜辺を覆う砂は、ラムルバハル砂漠の砂よりも白く粒が細かい。
それゆえか手触りもやわらかく、ルルを抱えたグニドが一歩踏み出すたび、三本爪の生えた足が深く沈んだ。おかげで波打ち際には点々と、ルルの頭ほどもある足跡がいくつもいくつも続いている。その足跡に届きそうで届かない、もどかしげな波の立てる飛沫や泡の音が、何だか妙に心地よかった。
『ルル』
そんな波音を聞きながら、グニドは右腕に抱えたルルを見やる。彼女は黒緑色の鱗に覆われたグニドの上腕にしがみつき、やはり顔を上げなかった。立ち止まり、来た道を振り向いてみてもそこにはもうラッティやカヌヌたちの姿はない。
いるのは頭上でクァ、クァ、と甲高く鳴く海鳥の群と、時折波打ち際の砂の上でカサカサ動く甲虫に似た生き物だけ。後者は左右に小さなハサミを持っていて、そいつを器用に使っては、せっせと砂を喰っているようだった。
『見ろ、ルル。この島には本当に、色んな生き物がいるな』
『……うん』
『どいつもこいつも砂漠では見たこともないような生き物ばかりだ。おれは谷を出るまで、世界にはこんなにたくさんの生き物がいるなんて知らなかったよ』
『……』
『ここじゃ鳥も、魚も、蛇も虫もとにかく色んなのがいる。列侯国では人間に飼われてる生き物は色々いたが、野生のやつはあんまり見かけなかった。みんな人間を恐れて寄ってこなかったんだな。だがここでは、人間も他の生き物と同じ自然の一部だ。だから精霊たちも人間のすぐ傍にいて、当たり前に一緒に暮らしているんだろう──ほら』
『……? グニド……これ、なに?』
『〝サンゴ〟という生き物らしい。海の中にいて、色のついた岩みたいな見た目だが、実際には生きてるんだそうだ。でもってこの赤色は精霊の色だとカヌヌが言ってた。サンゴは体の中に精霊を宿すんだと』
『精霊を、やどす……?』
『ああ。つまりこいつが赤いのは、火精を宿してるからってことだな。他にも青とか黄色とか、色んな色のやつがいたぞ』
グニドがそう言って差し出したサンゴのかけらを受け取ると、ルルはしばし無言でそれを眺めていた。ひょっとするとグニドの耳には聞こえない声で、サンゴの中の精霊と交信しているのかもしれない。無名諸島には彼女と同じように精霊の声を聞く霊術師やヌァギク、そして人蛇と呼ばれる者たちがいた。
けれどもルルの力は、長い長い歴史と伝統の中で育まれてきた彼らの業とは似て非なるものだ。何しろルルは、長く苦しい修業の果てに精霊とつながったわけではない。すべては生まれたときから胸にある万霊刻によって与えられた力であり、ルルが望んで手にしたものではなかった。
もちろん万霊刻がもたらす恩恵が、今日まで幾度となくルルを守ってくれたこともまた事実だ。しかしその力を狙う者が現れた以上、今後は神刻がもたらす恩恵よりも災いの方が重くのしかかってくるのかもしれない。
こんなにも小さく、幼い肩に。
『……ルル』
『……なに?』
『クムのことだが……あれはお前が責任を感じることじゃない。自分を責めるな、と言っても今はまだ難しいかもしれないが、少なくともこの島に、お前を責めるやつはいない。もちろん獣人隊商の中にもな』
『……うん』
やがてグニドが本題を切り出すと、ルルは小さなサンゴのかけらをぎゅうっと握り締め、自身の胸に押し当てた。そうしながらもう一方の手でグニドに抱きつき、肩に顔をうずめてくる。グニドはそんなルルの後ろ頭を優しくぽんぽんと叩いてから、誰もいない砂浜にどかりと腰を下ろした。長い首を伸ばし、強い陽射しからルルを守るために、ちょっとした影を作ってやる。
『これはヴェンに聞いたんだが……あの日、クムとお前がいた〝聖域〟には、神刻の力を封じる魔術がかけられていたそうだ。ジェレミーは他にも魔術を使って、島に魔物を呼び寄せたりしていたからな。魔界の連中が使うような邪悪な術を、いくつも知っていたんだろう』
『……だから、森の王さま、ルルにこたえてくれなかったの? 風精とか、水精とか、他の精霊もみんな……』
『ああ、恐らくはな。お前はいつも万霊刻を通じて精霊と言葉を交わしてる。だから万霊刻を封じられると、途端に精霊の声が聞こえなくなってしまうんだろう。神刻の助けなしに交信してる霊術師やヌァギクとは違ってな』
この話はあくまで推測の域を出ないが、ルルが万霊刻の力を使えなかったという状況と、後日ヌァギクが見てきた〝聖域〟の状態から考えて、まず間違いないだろうとヴェンは言っていた。特定の地点に魔物を呼び寄せる術も、神刻の力を封じる術も、人間が魔界と契らずに使える魔術の中に存在するものであるらしい。
もっともその術の効果は生け贄の魂の強さや量に比例する。ゆえにジェレミーは卓越した霊力を備える霊術師を狙い、魔術のための生け贄に捧げたのだろう。
似たようなことが、実を言うとルエダ・デラ・ラソ列侯国でもあった。
グニドたちが列侯国を離れる少し前、エレツエル神領国の手先である《兇王の胤》なる者たちが、ルルを攫おうとしたときのことだ。
あのときもルルは封刻環と呼ばれる手枷を嵌められ、万霊刻の力を封じられたがために自らの身を守ることができなかった。
もっとも封刻環は今回ジェレミーが使った力とは真逆の、神の力による封印らしいが、それゆえに非常に神聖で、手に入れるのが困難な代物であるらしい。
だからジェレミーは生け贄ひとつでことが済む魔術の方を選んだのだろう。しかし神と魔、まったく真逆の力を使いながらも、やつらは等しくルルを狙っていた。
ということはジェレミーもまた《兇王の胤》の一員なのだろうか?
少なくとも現状思いつく限り、ルルと万霊刻の存在を知り、狙っていると考えられるのはやつらだけだとラッティは言った。神領国の機密でもあるルルの情報を、やつらがそう易々と余所に洩らすというのも考えにくいし。
『ちなみに、ルル。思い出すのはつらいかもしれないが……〝聖域〟でジェレミーに襲われたとき、やつはお前に何か言ってたか? 何の目的でお前を攫おうとしたのかとか、誰かの命令を受けて来たとか』
『……わかんない。あのひと、すごくこわくて、早口で、ルル、なにを言ってるのかぜんぜん聞き取れなかった。ただ、あのひとといっしょに行けば〝らくえん〟にたどりつける、って……』
『ラクエン?』
『うん……前に、ポリーがお話してくれた。〝らくえん〟はエマニュエルの神さまがみんな目をさましたらやってくるものだって。そこではだれもケンカしないし、毎日おいしいものがたべられるし、さむくもないしあつくもない、とってもしあわせなところなんだって』
『ほう……』
『でもルルは……ルルの知ってる精霊たちは、そんなこと言わないの。ルルは〝らくえん〟なんて知らない。だから行かないって、あのひとに言った。あのひとの言う〝らくえん〟は、きっとうそだって思った。それに、ルルは〝らくえん〟なんか行かなくたって、グニドがいればへっちゃらだから。でも……』
そう話すルルの声は次第に尻すぼみになり、最後にはじっと耳を澄まさないと波音に掻き消されてしまいそうだった。ゆえにグニドは辛抱強く耳を傾けていたのだが、やがて彼女の言葉が途切れる。ルルは再びうつむいて顔を上げなかった。だからちょっとだけ首を丸めるようにして、グニドは逆さまにルルの横顔を覗き込む。
『でも、なんだ?』
『……クムが……』
『うん』
『クムが、死んじゃったとき……ルルね、気づいたの。グニドがいても、ぜんぜんへっちゃらなんかじゃないって。だって、グニドはいつもルルのこと、守ってくれるけど……そうしたらグニドもいつか、クムみたいに死んじゃうかもしれない。ルルを守って……ルルのせいで』
『ルル』
『だけど、ルル、そんなのはイヤ。ぜったいにイヤ。ルルは、ずっとグニドといっしょにいたいけど……でも、ルルのせいでグニドが死んじゃうなんてやだ。やだ、やだ……やだよぉ……』
──ああ、そうか。そういうことだったのか。
クムを目の前で失ってから、ルルがずっと塞ぎ込んでいた本当の理由。
グニドはそれがすとんと腑に落ちて、声を震わせ泣き出したルルを抱き寄せた。
思えばルルが直接誰かの死に触れたのは、今回が初めてだったのだ。
グニドらはかつて谷で長老を失ったが、当時まだ家畜であったルルには彼の死が詳しく知らされず、どこか遠い世界での出来事のように感ぜられたはずだった。
さらにルエダ・デラ・ラソ列侯国でも、侯王軍との戦いで多くの人間が命を落としたものの、突き放した言い方をすればルルにとって彼らは〝他人〟だった。
けれどもクムとは言葉が通じないながらも意思の疎通を試み、少なからず親しみを覚え始めていたはずだ。ゆえに彼の死は幼いルルの心に耐え難い衝撃を与え、ほとんど粉々に砕ける寸前の深い亀裂を走らせた。ゆえにルルは怯えている。
罅だらけになってしまった小さな心臓が、今度こそ粉々に砕け散る瞬間に。
そんな日がいつか訪れるかもしれないという、生々しい実感を帯びた不安に。
されどグニドは、
『ルル、分かった。分かったからもう泣くな。確かにおれは神子と違って不老じゃないし、不死でもない。だから、お前を遺して死んだりしない、とは誓えない。けどな、おれだって同じくらい怖いんだぞ』
『グニドにも……こわいもの、あるの?』
『もちろん、あるさ。前にも言ったろ。おれもお前を失うのが怖い。竜人のせいで人間からひどいことを言われたり、石を投げられたり、嗤われたりするのもな』
『……うん』
『だがお前は、それでもおれと一緒にいたいと言ってくれた。列侯国に残って、普通の人間として生きていくこともできたのに、だ。そしておれも、まだまだお前と一緒に世界の色んなものを見て、聞いて、感じて、触って、驚いたり感動したり、笑ったりしたいと思ってる。おれにとっての〝ラクエン〟は、いつだってお前の隣だ、ルル』
可能な限り優しく聞こえる声音でそう言えば、こちらを見上げたルルが途端に顔をくしゃくしゃにした。かと思えばすぐに声を上げて泣き出したルルの頭を、低く喉を鳴らしながら撫でてやる。谷を出てからというもの、ルルを傷つけないために欠かさず丸めている爪で、今度は髪を梳くように。
『まあ、なんだ。そんなわけで、絶対死なない、とは約束できないが……いや、そもそも命あるものはいつか必ず霊道に呼ばれるものだから、どんな形であれ、おれとお前の間にも別れのときはやってくるだろう。だが、だからこそおれはこれからも、お前と過ごす一日一日を大切にすると誓うよ。あと、極力死なずに長生きできるよう努力することもな』
『……じゃあ、グニドは、長生きしたら何歳まで生きる?』
『うーむ、そうだな……大した怪我も病もしなくて済むなら、あと二十年くらいは生きたいな。二十年もあれば世界を隅々まで見られるだろうし』
『にじゅうねん生きたら、グニドは何歳?』
『三十七だな』
『さんじゅうなな……』
『竜人の寿命はだいたい三十歳くらいだから、三十七まで生きればまあまあ長生きしたと言える方さ。欲を言えば四十くらいまで生きてみたいが』
『じゃあ、ルルは何歳まで生きる?』
『お前は人間だから、普通は四十とか五十くらいじゃないか? シャムシール人の寿命はもっと短かったが、砂漠の外でなら、たぶん……』
『ごじゅうって、グニドのさんじゅうななより多い?』
『ああ、多いな。ざっと十年くらい』
『じゅうねん……』
『ああ。つまりお前は、何もなければおれよりずっと長生きするってことだ。だからおれが霊道に呼ばれる前に、ふたりでお前の居場所を見つけよう。おれがいなくなったあともお前が不自由したり、寂しがったりしなくて済むように』
グニドがなおも青みがかった鬣を撫でやりながらそう言えば、手の中のルルがぐずっと洟をすすった。そうして何度も涙を拭い、ルルは懸命に泣き止もうとしている。けれども絞り出された声はまだ震えていた。
『そっか……グニドはいつか、ルルより先にいなくなっちゃうんだ……』
『ああ。寿命ばっかりは、どれだけ熟練の戦士でも太刀打ちできないからな。だから大人は自分の生きてるうちに、子供のためにできることは何でもしてやりたいと思うんだよ。その気持ちだけは竜人も、人間もきっと同じだ』
『うん……』
と頷いた拍子に、ルルの瞳から再び涙が零れ落ちた。それが白い貫頭衣に小さなシミを作るのを目にとめて、まだ幼いルルに話すには少々残酷な話だったかもしれないと思う。しかしいつかは話し合わなければならないことだった。
グニドもルルも互いを失わず、永遠に生き続けることなどできないのだから。
ならば今はいずれ来る別れのときに怯えるよりも、共に過ごす日々を精一杯生きたい。不安や恐怖に目を塞がれて、大切なものを見落としながら歩いていくなんてごめんだ。そんな生き方はもったいない。グニドは息を引き取る間際まで目を見開いて、世界の広さや美しさ、そしてルルの笑顔を見ていたかった。
そのためならどんな困難に直面しても足を踏ん張り、戦い続けることができるのがきっと〝親〟というものなのだろう。グニドがまだ幼かった頃、いつもまぶしく見上げていた戦士たちもまたそうであったように。
『……じゃあ、ルルも』
『うん?』
『ルルも、グニドといっしょにいられる間に、グニドのためにできること、いっぱいする』
『そうか』
『にじゅうねんの間に、グニドとの思い出、いっぱいつくる。そうしたら……いつかルルだけになっても、さみしくないかな?』
『そうだな。少なくとも、あのときああしておけばよかったとか、もっとこうしておけばよかったとか、取り戻せなくなってから後悔するよりはずっといいだろう。あとは、そうだな……おれが生きているうちに、お前にもつがいを見つけてやらなきゃいけないな』
『つがい?』
『ああ。人間はオスとメスがひとりずつ組を作って家族になるだろ。列侯国のヒーゼルとマルティナがそうだったみたいに』
『ルルのつがいは、グニドじゃないの?』
『同じ家族でも〝親子〟と〝つがい〟は別だろう……たぶん。それに人間のつがいなら、お前と同じくらい長生きして一緒にいてくれるはずだ。そうしたら、おれがいなくなっても寂しくないだろ』
『さみしいよ!』
『まったくのひとりぼっちになるよりは、って意味だ。まあ、おれは別に、お前のつがいは人間じゃなくてもいいと思ってるが、獣人の寿命は短いからな。長く一緒にいたいなら、やっぱり人間のつがいが一番だろう』
『うーん……でも、つがいって、どうやって見つけるの?』
『さあ。ラッティは人間のオスとメスとが〝恋〟とかいうのをするとつがいになると言ってたが。まあ、仮にそれが何だか分からなくても、おれが強くて竜気があって、お前を大事にしてくれそうなオスを見つけてやる』
『エリクみたいな?』
『……お前、つがいにするならエリクみたいなやつがいいのか?』
『だって、グニドがいなくなったあともルルといっしょにいてくれるひとでしょ。だったらルルは、ルルのすきなひとといっしょにいたいよ』
『うーむ、そうか……確かにただ強いだけじゃダメだな。お前が一緒にいて楽しくて、気の合うやつじゃないと。あとは歳も近い方がいいか』
『じゃあ、やっぱりエリクみたいなひとだ。でも、そんなひと、ほかに見つかるかな?』
『見つかるさ。なんたって世界はこんなに広いんだからな』
グニドがそう確信を込めて答えれば、ルルもようやく笑顔を見せた。そうしながらグニドを映した瞳をすぐそこの海よりもきらきらさせて、今度は胸に飛び込んでくる。グニドのまとう衣服に顔をうずめ、ヤーウィ、と小さく呟きながら。
『グニド』
『うん?』
『ルル、やっぱりグニドがすき。だいすき』
『ああ。生憎つがいにはなれないけどな』
『つがいじゃなくても、ルルとグニドはずっといっしょだからいいの!』
『ははは、それもそうか。じゃ、そろそろ村に戻るぞ。あんまりのんびりしてるとおれたち抜きで宴が始まっちまう』
『うん!』
『クムを見送るための宴だ。お前も最後に元気な姿を見せてやれ。クムが安心してウミガメについていけるようにな』
『うみがめ?』
『ああ、さっきカヌヌたちが海で捕まえたんだ。硬くて丸い盥みたいなのを背負った変なやつでな。お前もアレを見たらきっと驚くぞ──』
と他愛もない親子の会話を始めながら、グニドはルルを抱えて立ち上がり、再び浜辺を歩き出した。波に浚われず残っていた三本爪のくぼみが折り返し、また新たな軌跡を紡ぎ出す。海鳥は鳴き、波は歌い、風は森を賑わせて、常夏の太陽が浜辺に残る足跡を燦々と白く輝かせた。まるで精霊の祝福のように。