第一〇一話 島での最後の思い出に
小舟からざぶんと飛び込み、水中に潜ってみると、驚くほど色とりどりの世界が広がっていた。
まるで青い希石を溶かしたような海の明るさと透明さだけでも目を見張るというのに、光の模様がゆらゆら揺れる海底には、奇妙な色つきの岩がたくさんある。
その岩は途中から木のように枝分かれしていて、ひと目見ただけでは岩なのか植物なのか判然としなかった。でも触れると硬くて石に似た手触りがあるし、何より土や砂ではなく岩肌からにょきにょき生えている。ということはやっぱり岩だ。
「違いマスヨ、グニドサン。ソレは珊瑚デス!」
ところが中でもひと際綺麗な赤色の枝を手折り、何故ここの岩はこんなに色がついているのかと浮上して尋ねたら、海面にぷかぷか浮いたカヌヌが笑って答えた。
「大陸のコトバでは〝サンゴ〟と言いマス。サンゴは岩ではなくて、こう見えてもイキモノ、デス!」
「ジャ……!? コレガ……イキモノ……?」
「ハイ! サンゴは海の霊術師デス。色がたくさんなのは、精霊をカラダに宿しているからネ。そして、海をとってもキレイでゲンキにしてくれマス! 無名諸島の海、キラキラでイキモノいっぱいなのは、全部サンゴのおかげデス!」
カヌヌの解説を聞いたグニドは指で摘んだサンゴをしげしげと眺めて、そうか、これは精霊の色なのかと大いに納得した。
言われてみれば、確かに精霊にはそれぞれの象徴となる色がある。
火の精霊なら赤、水の精霊なら青、風の精霊なら緑……といった具合に。
であれば無名諸島の海の極彩色は、土地の清浄さと豊かさの表れだ。
これほどの精霊が一洞に会しているとなれば、海や島が生命で満ち溢れているのにも頷ける。精霊に見捨てられた土地と呼ばれ、色彩が乏しかったラムルバハル砂漠とは雲泥の差だ──まさにここは、地上の楽園。
今ならカヌヌがこの楽園を失うまいと必死に戦っていた理由が分かるな、と思いながら、グニドは火精を宿すサンゴのかけらを常夏の太陽に翳した。
ラナキラ族の前族長、オルオルが人蛇の霊薬により目を覚ましてから早三日。
グニドは現在ラナキラ族の漁師たちと海に潜り、宴の準備を手伝っている。
準備というのは他でもない、宴の食卓を飾る食材の確保だ。
無名諸島の海で暮らす魚たちは色とりどりのサンゴの森を棲み処にしているせいか、とてもカラフルで華やかだった。彼らがまとう七色の色彩は間違いなく、宴の席をより明るく賑やかなものにしてくれるだろう。
「実はもともと、今回のジケンがなくても、ラッティサンたちが島にいる間に、村を挙げてのウタゲを開くつもりで居マシタ。鰐人族との同盟がデキた日に、ヌァギクサマとお話して、みんなで同盟のお祝いしようと言ってたデス。デスガ……」
とカヌヌが皆に打ち明けたのは、昨日の昼過ぎのこと。
試練に向かった日から不眠不休で島の問題解決に奔走していたカヌヌは、祖父が無事息を吹き返したと知った直後に安堵でバッタリと倒れてしまい、次に目を覚ましたのが昨日の昼だったのである。
「今回、島がマモノに襲われて……クムサマを始め、同胞がたくさんギセイになりマシタ。だから、同盟のオイワイじゃなくてもウタゲが必要デス。今日から島のみんなで、そのための準備、始めようと思いマス」
「はあ? なんで人死にが出てるのに宴を強行するんだよ? 普通こういうときってのは死者を悼んで、祝いごとなんかは自粛するもんじゃねえのか? まあ、俺ァ酒が飲めるなら何でもいいけど」
「逆ですよ、リベルタス提督。無名諸島流の葬式ってのは、飲めや歌えやの大騒ぎをして死者の魂を送り出すんです。何でも遺された連中がいつまでもめそめそしてると、心配した死者の霊魂が島に留まって、やがて生者を羨む悪霊になっちまうって信仰があるとかで」
「ハイ。なのでボクたち、盛大な〝弔いの宴〟開いて、クムサマたちのコト、見送りマス。ボクたちはダイジョーブ、みんなでチカラ合わせて乗り越えるから、心配しないでと伝えるために!」
とそんな経緯があってグニドは目下、カヌヌらと共に海に潜っている。
宴は今日の夕方から始まる予定で、もうすぐブワヤ島からも鰐人たちが駆けつけるはずだった。彼らとの同盟成立とオルオルの回復を祝い、同時に死者を弔う宴。
奇しくも様々な意味合いを持つこととなった弔いの宴は、とにかく盛大で華やかなものにしたいとカヌヌは言った。
ちなみにこの宴は二日間に渡って続く。というのもヌァギクが、同盟成立を祝う宴は互いの一族を互いの島に招いて行うのが礼儀だと言い、明日はラナキラ族がブワヤ島に渡って鰐人たちの歓待を受ける運びになったのだ。
当初グニドは、これをラナキラ族の者たちが拒絶するのではないかと案じたが、彼らは意外にも鰐人族の里に招待されることを素直に受け入れた。
理由は恐らく、精霊に許された者しか立ち入ることができないというラナキラ族の〝聖域〟から、ヌァギクがクムの亡骸を持ち帰ってくれたことにあるのだろう。
一連の事件について、あらましを聞いたヌァギクは今後当分の間、霊術師を失ったラナキラ族のために力を貸すことを約束してくれた。無名諸島で暮らす者たちにとって、精霊の声を聞く霊術師の存在はなくてはならないものだから、ラナキラ族から次の霊術師が育つまでは、ヌァギクが代理として一族の面倒を見るそうだ。
その話を聞いて以来、鰐人族を〝略奪者〟とか〝人喰い〟と蔑んでいた者たちは鳴りを潜めた。今も本心では鰐人族の手を借りるなんて屈辱だと感じているのかもしれないが、同じような排他主義を貫いていたはずのオルオルがカヌヌを次の長と認め、支持を表明した以上、彼らも口を噤む他なかったのだろう。
「──オー、よかった! 今日はとっても大漁デス! グニドサンも泳ぐのとてもジョーズでビックリしたヨ! ゴキョーリョク感謝デス!」
それから三刻(三時間)ほどひたすら海に潜り、カヌヌらと共に魚を獲り続けたグニドは、浜へ戻るやぶるぶると激しく体を振って、重くなった鬣の水気を飛ばした。グニドたちが捕まえては小舟に揚げていった魚の数は、大きな網四つ分にもなっている。
グニドはいずれも──砂漠のオアシスや大地の肚の地底湖でそうしていたように──生きた魚を手掴みで捕まえては網に押し込んでいたのだが、カヌヌらも人間とは思えぬほど長い時間海に潜り、手にした〝銛〟なる得物を使って、鋭い牙を持つ蛇のような魚や、体がぐにゃぐにゃで脚なのか触手なのかよく分からないものをたくさん生やした生き物などを次々と仕留めていた。さらに変な獲物としては、
「オイ、カヌヌ……コレハ、ナンダ?」
「え? ナニって海亀デスヨ! あ、ハノーク語では〝ウミガメ〟と言いマス。グニドサン、カメを見るのは初めてデスカ?」
「ウミガメ……」
と、教わった名を復唱し、グニドは網の中にいる奇妙な生物を見つめて首を傾げた。無名諸島に来てからというもの初めて目にする生き物に困惑してばかりだが、この〝ウミガメ〟というやつは特に珍奇だ。
何しろ背中に丸みを帯びた盥みたいなものを背負っていて、そこから小さな頭と尻尾、そして手足代わりの四枚のヒレが突き出している。が、試しにしゃがんで叩いてみると、楕円形の盥は思いのほか硬く、とても食えそうになかった。
ひっくり返してみたところで、やはり腹も硬い殻に覆われているし……こんな食うところのない生き物を、カヌヌたちは何故わざわざ捕まえたのだろうか?
「カヌヌ。オマエラ、ウミガメモ、宴デ食ウカ? ダガ、コイツ、トテモ硬イ」
「そうデスネ。でもウミガメは甲羅が硬いだけで、中のお肉は食べられマスヨ! ソレに弔いの宴には、どうしてもウミガメが必要デス」
「……? ソウナノカ?」
「ハイ。ウミガメは、神……つまり海の神サマの使いと言われてマス。そして同時に、死者のタマシイを神サマのところへ運んでくれる、聖なるイキモノでもあるんデス。だからボクたち、普段はゼッタイにウミガメ食べないヨ。でも、神聖なギシキのときにだけ、みんなでウミガメのお肉食べて、神サマとつながりマス」
「ムウ……神ト、人ヲ、ツナグモノ、カ……ダガ、ウミガメ、食ワレタラ、魂、運ブモノ、居ナクナル。スルト、オマエタチ、困ラナイカ?」
「え? でも、死者のタマシイを運んでもらうんだから、カメもタマシイにならないとダメヨ。神の島に行けるのは、同じ死者だけデスから!」
なるほど、そういう考え方もあるのかと感心しながら、グニドは改めて網の中でもがくウミガメを見下ろした。初めて島に上陸してからの数日間、様々なことがありすぎてゆっくり噛み締める暇もなかったが、やはり無名諸島の文化というのは面白い。同じ人間であるはずなのに、大陸で暮らす人間たちとは言語も習慣も、食べるものも信仰も価値観も違う。世界はまだまだ知らないことばかりだ。
そして知れば知るほどに面白い。
これまで見てきた世界の色が塗り替えられていくようで──常識という名の壁を越え、自分の意識がどこまでもどこまでも広がっていくようで。
「おーい、グニド、カヌヌ!」
ところがグニドたちが浜へ戻ると、ほどなく森の方から呼び声がした。
振り向けばラッティ、ポリー、ヨヘンに付き添われたルルが、手を引かれてこちらへやってくるのが見える。が、うつむきがちに砂浜を歩くルルの表情は暗い。
太陽も海も砂浜もこんなに輝いているのに、まるで世界中のいかなる光も、彼女にだけ届かなくなってしまったかのように。
「ラッティサン! ルルサンの船酔い、よくなりマシタカ?」
「あー、うん、木陰でしばらく休んだら何とか、ね。アンタが用意してくれたココナッツウォーターもおいしかったよ。ありがとう」
「オー、どういたしマシテ、デス! ヴォルクサンはまだ戻らないデスカ?」
「ああ。向こうは森ン中に分け入っての狩りだからね。ヴォルクの嗅覚を借りたとしても、まだまだ時間がかかるんじゃないかな?」
「うーん、そうデスネ……ボクも村の猟師に、アルマジロ見つけてきてほしいとオネガイしちゃいマシタから、苦戦してるかもしれないデス。でも、今回こそはラッティサンたちに、アルマジロのお肉食べてほしいから……」
「え、えっと……でも、アルマジロって島でも人気のご馳走なんデショ? なら、他にも食べたい人はたくさんいるだろうから、ワタシたちの分は無理しなくていいのヨ、カヌヌ」
「えー! オイラは食いたいぞ、無名諸島の三大珍味! だから今度こそ絶対に見つけてこいってヴォルクにも言ったんだ! 何としてもオイラの冒険記の一ページに、他じゃ食えないアルマジロの肉の食レポを記しておきたいからな!」
「いや、無名諸島って逆に珍味だらけだと思うんだけど、何をもって〝三大珍味〟なの?」
「そりゃあ数ある珍味の中でも特に珍しいアルマジロと海亀と猿の脳ミソだな! カタツムリとか鰐とか陸亀も捨て難いけど……」
「カタツムリとか亀はともかく、鰐の肉はまずいだろ。今日の宴には鰐人族も来るんだから……下手したらせっかく結んだ同盟がパアになるぞ」
「じゃあ、蛇とか蛙とか蝙蝠とか?」
「ヒィッ、もうヤメテ……! 恐ろしすぎて聞きたくないワ……!」
と、仲間たちが賑やかに談笑している間も、ルルはポリーに手を握られたまま顔を上げようとしなかった。実はグニドたちが海に潜り始めた当初、ルルもラッティたちに連れられて小舟に乗り、生まれて初めての海に漕ぎ出したのだ。
ところが小さな手漕ぎ舟はよく揺れるので、ルルは〝フナヨイ〟と呼ばれる吐き気に見舞われて浜へ引き返してしまった。もっとも彼女の眼差しが暗い理由がそれだけでないことは、グニドも理解しているのだが。
(ううむ……目新しい体験でもすれば少しは気がまぎれるかと思ったが、やはりそう簡単にはいかないか。ルルにもあのサンゴの森を見せてやれればいいんだが、水に潜る訓練はさせたことがないし……)
何よりルルは、かつてグニドがオアシスで泉に潜る提案をしたとき「苦しいのはイヤ」と言って、万霊刻の力で泉を割ってしまった。あれと同じことをこの海ですれば、数え切れないほどの魚やサンゴがひどい目に遭うに違いない。
ならばルルを元気づけるには、もっと別の方法を考えないとな……と、グニドは顎を擦って考えた。
(ジェレミーの行方が分からない以上、仲間の傍を離れるのはやめた方がいいだろうと思って、今日まで極力避けてきたが……ここはやはり、ルルとふたりで話をしておいた方がよさそうだ)
そうしてほどなくひとつの結論に行き着き、グニドは彼女を見下ろした。
目の前でクムを失ったあの日から、ルルはずっとこうなのだ。
本人は口を噤んだまま何も話そうとしないものの、恐らくは死にゆくクムに何もしてやれなかったことを、今も深く悔やんでいるのだろう。
『ルル』
ならばグニドは、ルルのそんな自責の念をやわらげてやりたい。
悪いのはクムを救えなかったルルではなく、島の人間たちまで巻き込んで己が欲望を満たそうとしたジェレミーだ。ルルも頭ではそう分かっているはず。
だからちゃんと話をしよう。自分が竜人で、ルルが預言者である限り、この先も同じような困難は何度も巡ってくるのだろうから。
『ルル。頭が痛いのと吐きそうなのはもう大丈夫なのか?』
『うん……もう、へいき。波のぐらぐら、なくなったから……』
『そうか。じゃあ、少しふたりで浜辺を散歩しないか? 島の宴が終わったら、アビエス連合国から迎えの船が来るから、おれたちはここを離れなきゃならない。そしたらもう、こんなに綺麗な海は見られないかもしれないぞ』
グニドがしゃがんでそう声をかければ、ルルはやはり顔を上げないまま、されどこくんと頷いた。それを見たグニドは一度、ルルの頭を軽く撫でやると、次に仲間たちを見やって言う。
「ラッティ。オマエタチ、先ニ村、戻ッテイテクレ」
「え?」
「オレ、ルルト、話アル。ダカラ、帰ルノ、少シ、遅クナル」
「あー……うん、そっか。分かった。じゃあ、アタシらは先に戻って宴の準備を進めとくよ。ルルのこと──頼んだ」
ラッティからそう託されて、グニドは迷わず頷いた。恐らくは彼女もまた、グニドの意図を察してくれたのだろう。かくてひと足先に村へと戻るラッティたちを見送りつつ、グニドは軽々とルルを抱き上げ、右腕に座らせた。
『よし。行くか』
『……うん』
打ち寄せる波の音を聞きながら、白くきらめく砂浜を、ルルと共に歩き出す。