第一〇〇話 そしてまた朝が来る
ヴェンの飛空船に乗せられて樹上のラナキラ村へ戻ると、待っていたのは割れんばかりの大喝采だった。グニドがふらふらと船から降り立つや、あたりはたちまち黒い顔に取り囲まれ、村に残っていた戦士たちが口々に言葉をかけてくる。
もちろん何を言っているのかはさっぱり分からないものの、皆が興奮し切っていることだけは確かなようだ。おかげでグニドは詰め寄ってくる黒山の人だかりに押し潰されそうになり、たまらずヴェンに助けを求めた。
「グウゥ……ヴェン! コイツラ、何ト言ッテルカ、オレ、ワカラナイ……!」
「心配すんな、俺にもサッパリだからよ。だがまあ、雰囲気から何となく読み取るとすりゃ、あの魔物を退治してくれてありがとうとか、その空飛ぶ船は何だとか、リベルタス提督カッコイイ! 抱いて! とか、そんな感じじゃねえか?」
「ムウ……〝抱ク〟トハ〝ハグ〟カ? 〝ハグ〟スレバ、コイツラ落チ着クカ?」
「おい、やめろよそういうボケ殺し。なんか言ったこっちがいたたまれなくなってくるだろうが」
「ジャ……!? ヨク、ワカランガ、スマン……」
なおもぐいぐいと詰め寄ってくる島民を押さえつつ、グニドは混乱する頭で必死に事態の収拾に努めた。対して未だ船の上にいるヴェンは、取り囲まれたグニドを後目に船縁へ腰を下ろし、ふーっと口から煙を吐いている。
一体いつの間に取り出したのか、手には彼が〝ハマキ〟と呼ぶ巻き紙の棒があって、ヴェンは悠然とそれを吹かしていた。どうやらひとりだけ安全な場所に居座り高みの見物を決め込むつもりのようだ。少しはこっちの身にもなってほしい。
「グニドサン! ヴェンサン……!」
而してしばらくの間、グニドが言葉の通じない島民たちを宥めるのに苦慮していると、不意に足もとから声がした。はっとして樹上から身を乗り出してみれば、森に残してきたはずのカヌヌやヴォルク、クワトといった面々が共に戦った仲間を引き連れて、村の麓まで帰ってきている。
「カヌヌ! 無事ダッタカ……!」
「ハイ! 森の火は消えマシタし、マモノもゼンブ倒して来マシタ……! 村は大丈夫デスカ!?」
「いや、実はあんまり大丈夫じゃねえ。さっきから村の連中が大騒ぎで身動きが取れねえんだ。この状況、さっさと族長権限で何とかしてくれ」
と、ヴェンも船縁から身を乗り出してそう言えば、こちらを見上げたカヌヌは白い目玉を真ん丸にして、不思議そうにきょとんとしていた。が、ほどなく梯子を上り、樹上に戻ってきたところでだいたいの事情は察したようだ。何でもグニドに群がる島民たちは、グニドとヴェンが天翔ける精霊の船を操り、人間の何倍も大きな魔物を退治した姿を見て、口々に「英雄だ!」と騒いでいるらしい。
ちょっと前までは鰐人に似た外見のグニドをあれほど警戒し、遠巻きにしていたというのに、彼らのそんな記憶はどうやら先程の豪雨に洗い流されてどこかへ行ってしまったみたいだった。しかしふと気がつけば、あの雨が嘘のように晴れ渡った空の彼方でゆっくりと日が傾き始めている。
森でルルの声を聞いてからもうずいぶん時間が経ったのだと、そのときになってグニドはようやく気がついた。ゆえに慌てて話題を切り上げ、カヌヌにルルや獣人隊商の仲間たちはどこへ行ったのかと尋ねてみる。
彼女らの居場所は共に集落に残ったラナキラ村の者たちが知っているはずだ。
「ええと、みんなが言うには、ラッティサンたち、広場の方に行ったみたいデス。ヴェンサンがマモノと戦ってるとき、ジェレミーサンが来て、少し話したあと、みんなでついていった……でも、そこからは誰も見てないと言ってマス」
『ジェレミーが……?』
と思わず竜語で呟いた刹那、グニドはぞくりと背筋を刺す悪寒に見舞われた。
何故だろう。理由は分からないが、ひどく不吉な予感がする。
この鬣がヒリつく感じは、そう──今朝、人蛇の森から帰る途中で、背中に乗せたジェレミーから感じたのと同じ気配だ。
(あいつはおれたちの前ではずっと愛想よくしていたが、ルルや鰐人たちは何故か皆、あのオスを警戒していた……)
そう思い返せば返すほど不吉な予感は募り、グニドはいてもたってもいられなくなった。ゆえにカヌヌらとそれ以上の言葉を交わす間も惜しみ、長い尾を翻して走り出す。誰かの呼び止める声がしたが構わなかった。とにかくルルたちの無事を確かめたい一心で真っ黒な人垣を抜け、ラナキラ村の広場を目指す。堕竜蛇の炎に焼かれた全身がヒリヒリと痛み、いくらも駆けないうちに息が上がった。しかし火傷など構うものか。死ぬほどの傷でないのなら、痛がる時間すらも惜しい。
「ルル……!」
ほどなく森の主たちの枝が複雑に絡み合って生まれた広場に辿り着くと、グニドはそこに数人の人影を認めた。〝聖域〟へと続く橋の前に集まっている者たちがいる。言うまでもなく獣人隊商の仲間たちだった。けれど彼女らの姿を見つけてほっとしかけたのも束の間、グニドは何やら様子がおかしいことに気づく。
先程から広場中に響いているこの震えた声は──泣き声、か?
しかも堕竜蛇の炎によってグニドの鼓膜が壊れてしまったわけでないのなら、
「ラッティ……!」
一体何があったというのだろう。
長い長い吊り橋の袂では、ラッティが泣きじゃくるルルを抱き留めて立ち尽くしている。ゆえにグニドは彼女の名を呼び、仲間たちへ駆け寄った。
振り向いたラッティと目線が搗ち合う。
彼女の草原色の瞳は、動揺と悲しみに揺れていた。
「グニド……! アンタ、戻ってたのか……!」
「ウム。ヴォルクモ、カヌヌモ、ヴェンモ無事ダ。シカシ……何ガアッタ?」
とグニドがラッティにしがみついて泣くルルと彼女とを見比べて尋ねると、ラッティは何か言いたげに口を開きかけ、されどすぐにうつむいた。
隣ではポリーも顔を覆って泣いているし、彼女の肩に乗ったヨヘンまで背中を丸めてうなだれている。彼が魔物退治から戻ったグニドを見るなり飛びついて「どうだった、何があった!?」と質問責めにしてこないなんて、きっと只事ではない。
ひょっとしたらさっきの大雨はそのせいで降ったのではないかと思えるほどだ。
「……ごめん、グニド」
けれどもグニドが困惑気味に仲間たちの様子へ目を配っていると、ルルを抱き締め、うつむいたままのラッティが小さく言った。
「アタシのせいだ。アタシが、ジェレミーさんを信じたりしたから……」
「ジェレミー……? ジェレミーガ、ドウカシタカ?」
「……うん。迂闊だった。最初から騙されてたんだよ、アタシたち。あの人は、大陸から来たさすらいの吟遊詩人なんかじゃなかった。きっと今回、アビエス連合国を目指してた飛空船が落ちたのも……」
「へえ。俺の船が何だって? そいつァぜひ詳しく話を聞きたいね」
ところがラッティが何か言い淀んだところへ、背後から割り込んできた声があった。見ればグニドを追ってきたのか、そこには口を挟んできたヴェンの他、ヴォルクやカヌヌ、クワトもいる。
彼らの姿を認めると、ラッティはますます狐耳を垂れてうなだれた。その横顔にずぶ濡れの鬣から垂れた雫が落ちて、まるでラッティまで泣いているみたいだ。
「……カヌヌ。アタシ、アンタにも謝らなきゃいけない」
「え?」
「ジェレミーさんの正体を見抜けなくて……何もできなくて、ごめん」
「ら、ラッティサン……どうしたデスカ?」
「──クムさんが死んだ」
ラッティがそう答えた刹那、森の時間が止まった気がした。
居合わせた皆の息遣いや、突然の雨が上がったことを喜ぶように歌っていた鳥たちの囀り。それらがほんの一瞬、されど確かに聞こえなくなったのだ。
いや、あるいはラッティの告白が生んだ衝撃が、立ち尽くすグニドの五感を一時的に遮断してしまっただけかもしれないが。
「え……? クムサマが死んだ、って……どうして──」
「──ルルのせい」
「ルル、」
「ルルの、せいで……ルルのために、クム、死んじゃった。霊樹の上で、ルルをまもって……なのに、ルル、なにもできなかった。クムのこと……たすけてあげられなかった……!」
薄い肩を今にも壊れんばかりに震わせて、ルルは叫んだ。
うつむき、大粒の涙を零しながら。
ここまで話を聞いても、グニドたちの留守中に村で何があったのか、経緯がまったく見えてこない。だがグニドは何故だかそうしなければならない気がして、すぐにラッティからルルを引き取り、何も言わずに抱き上げた。雨に濡れたルルの体は冷たく、震えていて、グニドはそんな彼女の小さな背中を撫でやった。
低く喉を鳴らしながら、温めるように、慰めるように、何度も。
「──……そっか。つまりクムさんはルルより先に、雨を呼ぶために〝聖域〟にいて……そこをジェレミーさん……いや、ジェレミーに襲われた。島に突然魔物が現れたのも、堕竜蛇が俺たちには目もくれずラナキラ村へ向かってたのも……全部、ジェレミーが使った魔術が原因。クムさんは、そのための生贄にされながら……それでも、ルルを守ってくれたんだね」
ほどなくグニドたちはラッティの口からクムの身に起きた出来事を聞いた。
とは言え〝聖域〟で起きたことに関しては、ラッティたちもルルから途切れ途切れに話を聞いただけで、詳しいことは分からないらしい。
唯一はっきりしているのは、ジェレミーがルルを狙う刺客だったということと、クムが彼の陰謀に巻き込まれて命を落としたこと。
そしていまわの際のクムに逆襲されたジェレミーが、忽然と姿を消したことだ。
彼の行方は杳として知れず、生死すら定かでないとラッティは言った。
ルルの話を聞く限りでは、クムの放った霊術をまともに受けていたようだから、少なくとも無傷で逃げおおせたということはないはずだ。
されど仮に命を落としたのなら遺体や痕跡が一切残っていないのは不自然で、その事実はグニドらの胸中に不吉な影を落とした。
「そんな……父サマに続いて、クムサマまで……ふたりとも、ラナキラにとても必要な人だったのに……父サマも、クムサマも……ラナキラを、守るために……っ」
しかしクムの死に最も心を痛めたのは、言わずもがなカヌヌだ。
彼は苔生した森の主の枝に崩れるように座り込むと、額を押さえてうなだれた。
無理もない。父親、キーリャ、クムと、カヌヌはこの数日であまりに多くのものを失った。これから族長としてラナキラ族を負って立つカヌヌにはあまりに残酷な現実だ。力なく槍に身をもたせ、肩を落としたカヌヌの目もとから雫が零れ落ちていくのを見たグニドは、何も言葉をかけられなかった。カヌヌが今日までどれほど悩み、傷つき、もがいてきたかを知っているからこそ、なおさら。
「カヌヌ」
ところが重い沈黙が垂れ込めた広場に、突然カヌヌを呼ぶ声が響く。声はここにいる誰のものでもない──もっと遠く、広場の入り口の方から聞こえた。
さては村の者たちが遅れてやってきたのか、と振り向き、そしてグニドは目を見張る。同じように視線をやった仲間たちも、驚愕に息を飲むのが分かった。
何故ならそこには骨と皮だけになった体をカヌヌの母に支えられ、杖をついて佇んだ、ひとりの老爺の姿があったから。
「お……オルオルさま……!?」
と、途端にポリーが上げた驚きの声を聞き、カヌヌもはっとしたように顔を上げた。されど見間違いであるはずがない。
何しろ島へやってきてからの数日間、グニドたちはずっと寝泊まりしていたカヌヌの家で、昏睡したまま目覚めない前族長の姿を絶えず目にしていたのだから。
「あ……な……母サマ……爺サマ……!」
ほんの数瞬、まるで幽霊でも見たかのような顔をしていたカヌヌはやがてよろよろと立ち上がるや、槍を投げ出し家族のもとへ駆け寄った。
よくよく見ればラウレアに付き添われて現れたオルオルの背後には、前族長が目覚めたと知ってついてきた村の者たちも大勢いる。彼らはやや遠巻きに、けれど安堵と不安が入り混じったような表情で、新旧の族長の再会をじっと見守っていた。
〔爺様、やっと意識が……よくぞご無事で……!〕
〔うむ……おおよその話はラウレアから聞いた。どうやらずいぶん苦労をかけたようだな……しかしこの騒ぎは一体どうしたことだ。森に魔物が現れたと聞いたが、やつらは鎮まったのか? おまえがここにいるということは、森の火は消し止めたのだな?〕
どうやら人蛇の霊薬というものは、本当に死者を霊道から呼び戻す力を帯びていたらしい。だが果たしてオルオルは、己の居ぬ間に族長へと成り代わったカヌヌを認めてくれるだろうか。ふたりが島の言葉で何事か話し合う姿を見守りながら、グニドもまた複雑な心境で成り行きを見守った。やがてカヌヌはオルオルが病に倒れてからの経緯をひと通り話し終えたらしい。病み上がりの祖父を丸太のような枝に座らせ、自らはその前に膝をついて、彼は静かに涙を流した。
〔……そうか。クムは逝ったか。いつも儂の後ろをついて回っていたあの男に、よもや最後の最後で追い抜かれるとは……やはり儂も老いたのだな〕
〔……申し訳ありません、爺様。僕は、ラナキラの霊術師であり……爺様の大切な友人だったクム様をお守りできませんでした。クム様は最期の瞬間まで、一族を守るために力を尽くして下さったのに……〕
〔馬鹿者。生涯を賭して一族を守り導くは、霊術師たる者の使命であり本懐だ。ならばクムとてこの結果を悔いてはいまい。顔を上げよ、カヌヌ。族長たる者が皆の前で、そう易々と涙を見せてはならぬ〕
〔え……?〕
向かい合ったふたりが何を話しているのかは、当然ながらグニドたちには分からなかった。されどオルオルが座したまま、握った杖の先でタンッと枝を打ったのを合図に、目を丸くしたカヌヌが涙で濡れた顔を上げる。
〔じ……爺様、今、なんて……?〕
〔族長たる者が皆の前で涙を見せるなと、そう言った。よいか、カヌヌ。霊術師が見えざる力で一族を支える影ならば、族長はいかなるときも堂々と胸を張り、誰の目にも映る力で一族を導く光だ。クムが霊術師としての使命をまっとうした今、おまえはそれに恥じぬ長にならねばならぬ。でなければ光は影に呑み込まれ、おまえを長として仰ぎ見る者は、九つの島の上にただのひとりも残らぬだろう〕
〔だ、だけど、爺様……父様のおかげで、爺様はこうして目を覚まされました。なら、ラナキラの長はやっぱり爺様で……〕
〔言ったはずだ。儂は老いた。娘婿の血と祈りは我が魂を地上に留めたが、さりとてこの余生もそう長くはあるまい。何よりおまえはクムと人蛇の祝福を受け、れっきとした族長に選ばれたのだ。であるならば今更その座を奪い返し、しがみつくつもりは儂にはない〕
〔爺様──〕
〔ラナキラの長はおまえだ、カヌヌ。亡きサガドの遺志を継ぎ、立派に島を治めてみせよ。おまえにならきっとできるはずだと、クムもそう申しておったぞ〕
〔クム様が……?〕
〔ああ……実を言うと目覚める直前、儂は夢でクムと会うておってな。やつめ、最後の最後に断れるはずもない遺言を置いていきおった……先に逝くあやつに代わって、どうかおまえを支えてやってくれとな。だが、他でもない我が旧友の頼みだ。ならば儂も、おまえはいい族長になると言って笑っていた、あやつの言葉を信じてみよう〕
ふたりを取り巻いていたラナキラ族の者たちが、不意にざわめくのが分かった。
途端にカヌヌの瞳から大粒の涙が溢れ、しかし彼はそれを覆い隠すように目もとに腕を押し当てる。そんな孫息子の肩に、オルオルが痩せ衰えた手を乗せるのが見えた。咽び泣く彼を見つめる眼差しには確かな慈愛の光があった。おかげでグニドたちもまた、カヌヌは新たな長として認められたのだと確信できる。
そのころ西の水平線に、常夏の太陽が燃えながらゆっくりと没し始めた。
空を七色に塗り替えて日は沈み、そしてまた、朝が来る。