第九十九話 天泣
生き物の魂が最も強く輝くのは死の間際だと、先代の霊術師が言っていた。
もっと生きたいという願いや未練、遺してゆくものへの執着や愛着が一生の記憶と共に押し寄せ、炸裂し、魂を燃え上がらせるのだと。
そして霊術師の霊力は、魂の強さや輝きに比例する。
つまり魂が最も輝く死の間際こそ、霊術師の力は最高潮まで高まるのだ。
先代のその教えは正しかったと、実際に死の間際になってクムは理解した。
ジェレミーと名乗る大陸の客人に刺された肉体は着実に死へ向かっているのに、魂は未だかつてないほど強く、強く燃え上がっているのが分かる。
一人前の霊術師として認められた直後の、若かりし日の自分でさえこれほどの霊力を練ることはできなかっただろう。おかげでクムは本来聞くことができないはずの言葉を聞けた。死にゆく己の傍らで交わされるルルという名の少女と侵略者の会話を、精霊の口を通じて聞くことができたのだ。
(やはりオルオルを説得したのは正解だったな……)
と、目の前を通りすぎてゆくかつての記憶にほくそ笑む。
どうしても島を出たいと言って聞かない孫息子に頭を抱えていた幼馴染みに、行かせてやれ、と告げたのは他でもない自分だった。
何故ならクムには分かっていたのだ。オルオルの次に一族を率いる長となるのは婿養子のサガドではなく、族長の血を引く孫息子のカヌヌだと。
(おかげで一族は安泰だ。カヌヌは島の外から希望を連れて戻ってきた)
ラナキラの子として生まれながら争いを嫌い、馬鹿げた夢ばかり追いかける愚か者と後ろ指を指され続けた少年。それでも自らの信念を曲げず、外の世界へ力強く羽ばたいていった彼が島へ持ち帰ったのは、他の者たちが恐れてやまなかった病や変化などではなく無名諸島の未来だった。
(鰐人族の巫女も理解していた。今のままではそう遠くない未来、島々は侵略者たちに蹂躙され滅びゆくと……だがあらゆる部族が融和を選び、すべての島がひとつとなれば、いずれ来る災いにも一丸となって立ち向かうことができるだろう)
利害関係による一時の脆い結束ではなく、無名諸島に住まうすべての部族を同胞とする。その思想を根づかせるためにはどれほど疑われようが、罵倒されようが、傷つけられようが、笑って手を差し伸べ続ける強さが必要だった。
そしてカヌヌは確かにそれを持っている。
そんな彼だからこそ、クムたちが長年しがみついてきた自分だけのちっぽけな安寧を投げ出して、より大きな平和と繁栄への一歩を踏み出せた。カヌヌが島の外から呼び寄せた希望は、彼が幼い頃から捧げ続けた祈りに精霊が応えた結果だろう。
(あれはよい族長になる……)
その姿を傍で見届けられないことだけが口惜しい。
族長が一族にとっての光なら、霊術師は族長に連れ添う影だ。
ふたりでひとつ。表裏一体。
各部族の族長たちは、遥かな昔からそうやって一族を守ってきた。
だがクムが死ねばラナキラの霊術師は絶える。
何故ならクムは生涯弟子を持たなかった。もちろんオルオルには何度も「早く弟子を取れ」と急かされたが、そうしなかったのは弟子にふさわしい者は誰かと尋ねても精霊が答えなかったからだ。何年も何年も同じ質問を繰り返し、しかし如何な答えを得られぬまま、ついに老境を迎えてしまった。されどすべてのことにはちゃんと意味があったのだと、この瞬間になってようやく確信できる。
たとえラナキラの霊術師が途絶えても、同盟が結ばれた今なら鰐人族の巫女が次なるラナキラの霊術師を育て、共に一族を守る道を示してくれるだろう。
そうなれば一族の者たちも、二度と鰐人を邪険にはできない。
何しろ霊術師は部族の生命線だ。精霊の声を聞き、同胞の怪我や病を癒やす者がいなくなれば、一族は路頭に迷うしかない。けれどカヌヌが鰐人との同盟を成したことで、完全に霊術師を失う事態は何とか避けられそうだ。
とすれば鰐人族と歩み寄ったカヌヌの選択は英断だったと、一族の誰もがそう納得するようになるだろう。それによってカヌヌは真に族長として認められ、ラナキラの鰐人族に対する偏見や敵意も薄れていく……。
(まったく、さすがは神の采配よ)
自分のような老いぼれの死さえも、神はカヌヌの祈りを叶えるために利用した。
笑い出したくなるほど痛快で満たされた気分だった。
霊術師にとってこれ以上はない、栄誉の死だ。
自らを呑み込む霊樹の光が強さを増す。
クムはその光を杖の先に集め、今、眼前に居座る侵略者へ向けて翳した。
〔去れ、悪霊の子よ。汝らの穢れた足を乗せることが許される地は、この聖なる島々のどこにもない〕
網膜を灼く黄金の光の中で、顔を歪めたジェレミーは声を頼りにクムの居場所を掴んだようだった。そうして一度はルルに向けた悪霊の筒をクムへと翳し、人差し指を引こうとしたようだが動かない。何故なら今ジェレミーの右手には、大地から霊樹を駆け上ってきた精霊がまとわりつき、指先のほんのわずかな動きさえも封じていた。姿なきはずの彼らが確かにそこにいることを感じながら、クムはラナキラの霊術師としての最期の仕事を完遂する。
〔ここは我らの楽園だ。残念ながら我らの神に選ばれなかった冒涜者には──お引き取り願おう〕
杖の先に集まっていた光が炸裂した。
それはクムの魂からほとばしる生命力の奔流だった。
幼子の声がクムを呼ぶのが聞こえる。
ゆえにクムはゆっくりと彼女を振り返り、光の中で微笑んだ。
×
瞬間、ぴくりと震えたラッティの狐耳が微かな水音を捉えた。
ふと見上げた空ではいつの間にか灰色の雲が渦を巻き、太陽の光を遮って、低い獣のうなりにも似た雷鳴を響かせている。
「あ……」
そんな雲の狭間から零れた一滴の雫が、ぱたりと森の主の葉を叩き、そこからさらにするりと落ちてラッティの鼻を濡らした。それを合図としたかのように、森の草木があちこちで雨音を奏で始め、ついには土砂降りの雨となる──驟雨だ。
「あ……雨だ、雨だぁ! やったぞ! ルルがやってくれたぞぉ!」
ほどなくバケツをひっくり返したような雨の中、ずぶ濡れになりながら頭の上のヨヘンがはしゃいだ。その歓声さえ掻き消してしまいそうなほど激しい雨音を聞きながら、ラッティも橋向こうの〝聖域〟を見やって思わず顔を綻ばせる。
「ルル……!」
やはりあの子はやってくれた。
島に驟雨を呼んだ雨雲は〝聖域〟の奥──カヌヌたちに霊樹と呼ばれるひと際巨大な巨人樹が、一昨日の晩と同じように輝いた途端に現れたのだ。
とすればこの雨を呼んだのは、まぎれもなくルルであるのだろう。
だが天候を操り、意のままに雨をも降らせるなんて力は、かつて南西大陸に存在したという大神刻のひとつ《天神刻》の伝説でしか聞いたことがない。
とすればルルの胸に刻まれたあの神刻は、大神刻にも匹敵するほどの力を帯びているということか。
あるいは彼女は本当に、カヌヌたちが〝精霊の愛し子〟と呼ぶ特別な存在?
いずれにせよルルは能力も生い立ちも、ごく平凡な人間の女の子、ではない。
その事実が果たして今後、彼女にとって吉と出るか凶と出るか……。
目も開けていられないほどの雨の中、水煙の向こうに視線を凝らしながら、ラッティは未だ鎮まらぬ胸騒ぎを抱えて立ち尽くした。
そしてのちに自らの予感が正しかったことを知る。
何故ならこの日ワイレレ島に降った雨は、森の王に抱かれて慟哭するひとりの少女を憐れんだ、天のもらい泣きだったのだから。
×
突然頭上で何かが光ったと思ったら、塗り潰すような雨が降り出した。
呆気に取られ、ぽかんと立ち尽くしたグニドとは裏腹に、周囲では喜色を湛えたラナキラ族の戦士たちが歓呼の声を上げている。
「ウア、ウア!」
と口々に叫ぶ彼らは、突如降り出した豪雨を歓迎しているのだろうか。
確かにこれほど猛烈な雨ならば、森に広がりつつあった火の手は自ずと押し潰されて消えるだろう。されどグニドはここまで激しく降る雨というものを見たことがなく、雲の上にある湖の底に穴でも開いてしまったのではないかと天を仰いだ。
が、そこにあるのは黒く渦を巻く雨雲のみ。まるで巨大な天蛇のごとく蜷局を巻いた雲の腹の中では、何かがゴロゴロと不穏に蠢いている。
「こ、この雨は……まさしく精霊の微笑みデス! おかげでボクたち、火を消すヒツヨーなくなりマシタ! あとは残りのマモノさえ倒せば……!」
「うん……魔物の数も着実に減ってきてる。あとは討ち漏らしがないように、慎重に掃討すれば……」
ところが背後で交わされるカヌヌとヴォルクの会話の狭間に、俄然空がチカリと瞬き、大地が震えんばかりの轟きを上げた。
その稲光を浴びた刹那、グニドの胸中を不思議な感覚が満たしていく。
「……ルル?」
何故だろう。そんなわけがないのに呼ばれた気がした。
この奇妙なざわめきは一体何だ?
ただの胸騒ぎにしては鮮烈で、されどまったく輪郭がない──
(……煙のにおい)
とそこでグニドは気がついた。何か、どこかで嗅いだ覚えのある奇怪なにおいが、ほんの微かに鼻孔の奥で燻っている。これは、そう、ヌァギクが咥えていた煙管、アレから立ち上っていた変なにおいだ。
しかし視界もきかないほどの雨の中で煙のにおいを嗅ぐなんて。
明らかにおかしい。普通、水にはにおいを掻き消す性質があり、雨の日はさすがの竜人も鼻がきかない。だというのにグニドは確かに今、あの煙のにおいを嗅いでいる。一体どこから漂ってくるのか、においの出どころを突き止めようとフンフン鼻を鳴らしたら、戦士としての直感が告げた──ルルのもとへ走れ、と。
「グニド? どうかした?」
「……スマン、ヴォルク。オレ、ラナキラ村、戻ル」
「え?」
「ルルガ、呼ンデル。ソウ思ウ。空飛ブ蛇モ、気ニナル」
「……分かった。なら一緒にラッティたちのこと、頼んでもいい?」
という予想もしていなかったヴォルクの言葉に、グニドは束の間目を見張った。
てっきり自分がこう言えば、ヴォルクも一緒に村へ戻ると言い出すだろうと思ったのに。何しろ彼はこの世の何よりもラッティを大事にしている。
ならば森を焼く火の心配がなくなり、魔物の数も減り始めた今ならば、ひと足先に村へ戻って仲間の安否を確かめたがるかと思った。
されどいつもと同じ、感情が薄い眼差しでグニドを見据えたヴォルクの瞳は澄んでいる。黒い凪の中にあるのは、まぎれもなくグニドへの信頼だった。
たぶんヴォルクは災難の連続で疲れ果てているカヌヌを置いてはいけないと思っているのだろう。いくらラナキラ族の戦士がついているとは言え、カヌヌと彼はかつて何年も共に旅した仲間なのだから。
「……ウム、任セロ。ラッティモ、ポリーモ、ヨヘンモ、オレガ守ル」
「うん。俺もこっちが片づいたらすぐに引き返すから、それまでみんなを頼むよ」
ふたりの会話はそこまでだった。
あとは何も言わずに頷き合い、グニドは身を翻す。
別にヴォルクから信頼されていない、などと感じたことは今まで一度もないけれど、今はその信頼が誇らしかった。
グニドは彼との約束を胸に抱き、ざあざあ降りの雨の中をひた駆ける。
(村までの道は……こっちか)
相変わらず雨粒の幕が下りて視界はきかず、本来なら鼻もあてになりそうにない状況だが、グニドはほとんど道などないように見える木立の合間を迷わず馳せた。
というのも、先程感じたヌァギクの煙のにおいが今もはっきりと感じられ、これを辿れば村へ帰れるという確信に近い予感があるためだ。
そして実際、予感は正しかった。
グニドがヴォルクたちと別れてしばらくすると、行く手から雷とはまた違う轟音が聞こえ始める。あの音には聞き覚えがあった。
そう、数日前にアビエス連合国へ向かう飛空船が魔物に襲われたとき、ヴェンを始め連合国の兵士たちが撃ちまくっていた希術銃の銃声だ。
(だが今、島にいる連合国人はヴェンだけだ。ということは──)
間違いなくヴェンが戦っている。恐らくは地上のグニドらを無視し、まるで何かに呼ばれるように村へ向かっていった三つ首の蛇の魔物と。
「ヴェン!」
果たして予想は的中した。
ほどなく行く手に周囲の森よりひと際高い森の主たちが見え始めると、グニドは上空にほとばしる雷光の中、魔物の周りを飛び回る小さな船影を発見した。
凝視するまでもなく分かる。あれは連合国軍が保有する空飛ぶ小舟だ。
とすれば繰り手はやはりヴェン以外にありえない。ゆえにグニドは魔物の真下、森の木々がいくらか開けた場所に陣取ると、雷鳴にも劣らぬ声量で吼えた。
激しい雨音をも貫いて、自分が戻ったことを知らせるために。
「グニドナトス!」
するとややあってヴェンもグニドに気づき、次々に噛みつこうとする魔物の牙をひらりと躱すと、直後、滑るように空から下りてきた。
何も知らない者が見れば、落下していると誤解するほどの急降下だ。
「乗れ!」
ところが地上へ迫る舟の上からヴェンが投げかけたのは予想外のひと言だった。
てっきり一度舟から降りて合流を図るつもりかと思えば〝乗れ〟だって?
だがグニドはすぐに理由を察した。
ヴェンの降下につられた三つ首の魔物が、蝙蝠のような翼を広げて滑空し、ヴェンの真後ろに迫っているのだ。あれでは舟を停める暇などありはしない。
ゆえにグニドも腹を決め、泥濘に沈む両足に力を込めた。そうして次の瞬間、体中の筋肉を使って跳躍し、地表すれすれに滑り込んできた高速艇へと飛び移る。
今にも舳先から地面に激突するかに見えた艇はグニドの体重を受けて一瞬ぐんっと沈んだものの、すぐさままた空を向き、今度は矢のごとき急上昇を開始した。
「うおぉ……! グニドナトス、お前思ったより重てえな! おかげで艇の出力が上がらねえ……!」
「ジャ!? ダガ、乗レト言ッタハ、オマエダ!」
「そうだけどよ! てか森の方はどうなった!? 火の手は治まったみてえだが、お前がひとりで戻ってきたってことは……」
「ウム。魔物、ホトンド倒シタ。生キ残リ、マダ居ルガ、カヌヌタチガ片ヅケル。ダカラ、オレ、先ニ村ノ様子、見ニ戻ッタ」
「そうか。けどこっちは見てのとおりだ。もうちょっとであのデカブツを墜とせるとこだったんだが、この雨で銃の威力が落ちてトドメが刺せねえ。おまけにあんまり高く飛ぶと雷に打たれそうでよ。どうしたもんかと考えてたとこだ」
そう話すヴェンはずぶ濡れの服を着て、小舟の前の方で〝操舵輪〟と呼ばれる馬車の車輪に似た輪っかを握っていた。雨雲に向かって急上昇する艇には地上よりも強く雨が叩きつけ、まるで極小の礫を浴びているかのようだ。鱗の間の皮膚に絶え間なく雨粒が突き刺さるようで、耐えられないほどではないが、なかなか痛い。
「そもそもあのデカブツ自体、火に耐性のある魔物でな。三つの首が火を吐く堕竜蛇って化け物だ。おかげで迂闊に近づけねえし……」
「ムウ……火ヲ、吐クノカ。ナラバ、ラナキラ村、トテモ危険」
「ああ。この雨も夕立みたいなもんで、そんなに長く降る雨じゃねえ。雨が上がったところであいつが村に突っ込めば大惨事だ。何とか地上に墜とせりゃ仕留めようもあるんだが──」
とヴェンが話す間にも、ふたりが乗る高速艇を執念深く追跡する堕竜蛇が、背後でおぞましい咆吼を上げた。かと思えば真っ赤に開かれた口の奥でチラチラと、紫色の何かが瞬き出す。直後、それは炎の形を取って艇に襲いかかった。
するとヴェンも素早く舵を切り、艇を右へ左へ大きく揺らして巧みに魔物の追撃を回避する。しかし空飛ぶ船に慣れないグニドは、艇を襲う慣性によって投げ出されそうになり、慌てて船縁へしがみついた。
まったくとんでもない操縦をする。そもそもこの雨の中、覆いもない艇の上で何故目を開けていられるのかと思ったら、ヴェンはルエダ・デラ・ラソ列侯国の人間が〝眼鏡〟と呼んでいたものに近い道具をかけていた。
ちょうど目玉を覆うくらいの透明な板を二枚並べて、目もとに固定したものだ。
おまけにヴェンの眼鏡は板と肌の間がぴったりと目張りされており、あれなら雨水が目に入る心配もない。ずいぶんと便利そうな道具だ。
もっともグニドには水や砂に潜るときに使う自前の透明な瞼があるから、わざわざ道具に頼るまでもないのだが。
「オイ、ヴェン! コノママダト、オレ、艇カラ落チル。アノ魔物ノ真上、飛ブコト出来ルカ?」
「ああ? そりゃ上を取れってんならできねえこたねえが、どうする気だ?」
「オレガ、ヤツヲ、地上ニ落トス。ソノアト、三ツノ首、仕留メテ殺ス」
「お前が地上に墜とす、って、そんなことできんのかよ?」
「大丈夫ダ。蛇ノ相手スルハ、慣レテイル」
グニドが口の端を持ち上げながらそう言えば、肩越しにこちらを見やったヴェンが怪訝そうにするのが分かった。蛇と戦うのには慣れている、なんて、確かに砂漠の外の人間には理解できないに違いない。しかしグニドは戦士としてひとり立ちしたときから、確かに蛇と戦い続けてきたのだ。
何しろ生まれ故郷のラムルバハル砂漠では、あの堕竜蛇とかいう化け物と同じかあれよりもデカい砂漠の大蛇が竜人の天敵だった。
だから、今度の相手は首が三つあって火を噴く砂漠の大蛇だと思えば恐ろしくはない。蛇狩りはグニドの得意分野だ。ゆえに任せろ、と目だけで伝えると、ヴェンは小さく舌打ちをした。そうして再び前を向き、念押しするように尋ねてくる。
「分かったよ。とにかくなんか考えがあるんだな?」
「ウム」
「そういうことなら、すぐに野郎の鼻先まで連れてってやる。振り落とされねえように掴まってろ。でないと命の保証はできねえぞ」
「噫。望ムトコロダ」
前を向いたままのヴェンの表情は見えなかったが、黒い髭に覆われた彼の口角がニッと上がったのをグニドは感じた。直後、高速艇は再びぐんと沈むような感覚に捉われたのち、にわかに爆発的な速力をまとって矢よりも速く飛び始める。
今まで経験したことがないほどの、とんでもないスピードだった。
大量の雨粒と共に空気が壁のような質量を帯び、行く手から叩きつけてくる。
それによって肺が押し潰されるような感覚と、耳穴が内側から塞がれるような感覚。ふたつの異変に襲われながら、しかしグニドは牙を食い縛り、船縁にしがみついて耐えた。前にヨヘンか誰かが、ヴェンは極めて命知らずな飛び方をすると言っていたがまさしくそのとおりだ。まるで最初から命なんてものは持ち合わせていないかのように──あるいは肉体ごと大空へ投げ出すかのようにヴェンは飛ぶ。
艇の後方にはなおも堕竜蛇が食い下がっているものの、巨体すぎるためか高速艇の速さにはとてもついてこられないようだった。ヴェンはそんな化け物をぐんぐん引き離し、かと思えば突如急旋回して、もと来た方向へと引き返す。
「ヒャッホウ!」
果たして何が楽しいのか、人間六人分の体重を持つグニドすら吹き飛ばされそうな衝撃の中に、ヴェンのご機嫌な歓声が響いた。
そして次の瞬間、ふたりを乗せた艇が真下に堕竜蛇を、捉える。
「お望みどおり届けたぞ、グニドナトス!」
ヴェンの呼び声が合図だった。グニドは激しく揺さぶられすぎた脳がぐらぐらするのを感じながらも何とか大竜刀を手に立ち上がり、ぶるりと全身を振るわせる。
そうすることでどうにか平衡感覚を取り戻した。
一瞬ののち、覚悟を決めて船縁に足をかける。渾身の力で艇を蹴り、跳んだ。
地上からの距離はおよそ二十枝(百メートル)。空と森に挟まれた灰色の虚空に、天を喰らうかのごとく大口を開けた堕竜蛇が待ち構えている。
何度見ても、人間の血のように赤い口だ。その奥で再び紫の炎が明滅する。
自ら逃げ場のない空中へ身を投げたグニドを、丸焼きにして喰らってやろうという魂胆なのだろう。三つの首が吐き出した紫の炎がグニドを呑み込んだ。
熱い。全身が燃える。されどぴったりと鼻孔を閉じ、息を止め、耐えて刀を振り上げた。一瞬焼かれた程度では、竜人は死なない。
何せこの大雨だ。天がワイレレ島を救うために降らせた雨が、グニドを焼き殺そうとした禍つ火を、瞬く間に洗い流す。
「ジャアアアアアアアアアッ!」
炎の壁を抜け、再び視界を取り戻した刹那、グニドは吼えた。
腹の底から沸き上がる力を刀に乗せて、唖然とこちらを見上げる堕竜蛇の脳天へ破壊の一撃を叩き込む。狙ったのは真ん中の首だった。
グニドの全体重と落下の勢いを乗せた分厚い刃は魔物の頭蓋を粉々に粉砕し、両の目玉が飛び出すほど強烈に押し潰す。
「グルオォォ……!」
おぞましき断末魔の叫びが谺した。
悠然と空に浮いていた魔物の巨体が仰け反り、傾ぐ。
そうして落下を始めた魔物を斬りつけた反動を活かし、グニドはやつの後方に向かって跳んだ。いや、より正確には跳ぶように落下の軌道を変えたのだが、それによって天地が逆しまになる中、頭蓋を破壊された真ん中の首が黒血を撒き散らしながら、ぐでんと背後に向かって垂れたのを確認する。
──よし。少なくとも真ん中は間違いなく仕留めた。
そう確信した直後、グニドは全身に衝撃を感じた。
地上まではまだあと十枝(五十メートル)以上ある目算だったため、突然のことに思わず「ジャヒッ!?」と上擦った声が出る。
全身あちこち火傷した体にこの衝撃はかなり響いた。ゆえに仰向けに倒れたままピクピクと動けずにいると、不意に頭の上から声が降ってくる。
「やるじゃねえか、竜人。さすがに今のは見直したぜ」
その声を聞いてようやく、グニドは落下していた自分の体がヴェンの操る高速艇に受け止められたのだと理解した。が、もはや痛みのあまり答える気力もなく、ただ人間の真似をして三本指のうち親指の一本だけを立てておく。
ほどなく森にすさまじい轟音が響き渡り、満目の緑に魔物の巨体が沈んだ。かと思えば戦いの終わりを見越したように、あれほど激しかった雨が止む。上空を覆っていた雨雲は役目を終えると静かに姿を変え始め、やがて小さな狭間を生んだ。
そこから斜めに注いだ陽光が、大地の木々に槍のごとく貫かれ、動かなくなった魔物の姿を照らしている。