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第九話 それぞれの屈辱

『絶っっっ対納得いかないわ!!』


 と、むろ全体を揺るがすほどのエヴィの怒声が、グニドの耳をつんざいた。

 こういうとき、スエンは救いようのないバカだがいざというときの機転は利くな、とグニドはいつも感心する。何故なら彼は直前にエヴィの怒号が来るのを察知して、素早く耳――と言っても、竜人ドラゴニアンのそれはただの小さな穴だが――を塞いでいた。

 もっともグニドがスエンのようにエヴィの怒りに対して敏感だったところで、今回ばかりはその反射神経も役には立たなかっただろう。

 何しろグニドは目下、先の決闘で負った左肩の傷をイダルに手当てしてもらっているところだ。おかげで左手は自由が利かず、耳を塞ごうにも動かせる手は右しかない。


『納得いかない、納得いかない、納得いかない! どうして次の長老レドルがよりにもよってあの糞ったれなトカゲ野郎なのよ! あの決闘で勝った方が次の長老になるって約束は何だったの!? 決闘に勝ったのはグニドだって、一族中のみんなが知ってるのに!』

『お、おい……気持ちは分かるが少し落ち着いたらどうだ、エヴィ? お前、さっきからずっとその調子だぞ』

『これが落ち着いていられると思う!? だいたいグニド、この状況で一番怒らなきゃいけないのはあんたでしょ!? あんたは神聖な決闘の結果を、あんな形で反故ほごにされたのよ! なのに何でそんな平気な顔をしてるわけ!?』

『い、いや、別に平気ってわけじゃないが……経緯はどうあれ、あれは谷中の部族の長たちが皆で決めたことだろう。それにおれみたいな一介の戦士が口を挟んだところで、今更決定は変えられないさ。おれたちの次の長は、もうイドウォルに決まったんだ』


 諭すような口調でグニドが言えば、エヴィは言葉に詰まったように黙り込んだ。

 が、その枯れ草色のたてがみは今も逆立ち、全身が屈辱に震えている。ここが狭い室の中でなかったら、今にも大竜刀を振り回して暴れ出しそうな剣幕だ。


『だけどまさか、イドウォルが他部族の長たちにまで根回ししていたとはね……大方、これからはアタシらドラウグ族の狩り場を他の部族にも貸してやるとか、産卵期になったらうちのメスを分けてやるとか、そんな甘言をちらつかせて余所の長老たちに取り入ったんだろうさ』

『それを見抜けなかった時点で、おれたちはイドウォルに負けていたんだ。そのイドウォルに長老としての権限が渡った以上、おれたちにはもうどうすることもできない……』


 グニドはなおもイダルの手当てを受けながら、長い首をわずかに垂れて沈黙した。

 エヴィにはああ言ったが、グニドとてこの結果が不服でないと言えば嘘になる。この先一族はあのイドウォルに率いられることになるのかと思うと、暗澹あんたんたる気持ちが垂れ込めるほどだ。


 だがあの腕っ節だけが取り柄のイドウォルがまさか次期長老の座を狙っているなどと、グニドはこれまで考えたこともなかった。イドウォルは確かに戦士としては優秀だが、とても一族の長になれるような器ではなかったし、もっと正直に言ってしまえば、そんな智恵がある・・・・・・・・とは思ってもいなかった。

 しかし結論から言えば、イドウォルはグニドたちが思っていたほど馬鹿ではなかったということだ。その事実にもっと早く気がついていれば、こんな事態になることは避けられたかもしれない。


『先代は……』

『え?』

『先代だったらこんなとき、どうしただろうな。イドウォルが次期長老の座を狙っていることを、先代は分かっていたんだろう?』

『そうだね……もしかしたらあの方には、こうなる未来が見えていたのかもしれないねえ……だけどアタシは思うんだよ。だからこそあの方は、ドニクを自分の次の長老に選んだんじゃないかって』

『……? どういう意味だ?』

『こんな言い方は死んだドニクに悪いけれどね。ドニクは確かに仲間想いで智恵もあったが、やっぱりどこか長の器じゃなかった。だから先代はそんなドニクを次の長老に指名して、イドウォルの出方を窺ったんじゃないかって気がしてならないのさ。――つまりイドウォルがドニクを殺す可能性まで見越して、敢えてドニクを後継者に指名した』

『そ、それって……』


 そのときイダルの言葉を聞いたエヴィが、ついに全身から噴き出していた殺気を収めた。

 同時にグニドも首を傾げる。耳を疑う、とはまさにこのことだ。


『それってつまり、先代はドニクを囮にしたってこと? イドウォルの本性を炙り出すために』

『ああ、そうさ。自分と同世代の戦士が次の長老に選ばれれば、イドウォルはきっと嫉妬に狂って暴走する。あいつの野心を警戒していた先代なら、むしろそれくらいのことは予測できていたと思うんだよ』

『でも、どうしてそんなこと? いくらイドウォルの野心を暴いたって、次の長老がいなくなったりしたら、一族は路頭に迷うことになるのに……!』

『もちろん、先代だってそれは考えていたさ。だからあの方は、もう一人の長老候補としてグニドの名を上げた。先代が真の後継者として選んだのは、ドニクじゃなくてグニドだったんだ。そしてグニドなら必ずイドウォルの野望を砕き、正統な長老として一族を導いてくれると信じた』


 そう話すイダルの声には、揺るぎない確信の響きがあった。それを聞いたエヴィとスエンが、唖然と口を開けたままグニドを振り向いてくる。

 だが開いた口が塞がらないのはグニドの方だった。

 たった今イダルが語ってみせたことは、彼女の憶測でしかない。けれど長年先代の傍に仕えていた彼女の言葉を、そんなものはただの妄言だと一蹴する気にもなれない。

 先代は本当に、そこまで未来を読んだ上で後事をグニドに託そうとしたのか。しかし仮にその推測が当たっていたとしても、既に谷中の長老たちの合意の上で決まったことを覆すなんて不可能だ。


『グニド……』


 そのとき、エヴィもきっとグニドと同じことを考えたのだろう。当惑を隠しきれない彼女の声が、岩に座り込んだグニドの背中を叩いた。

 と同時にイダルによる傷の手当てが終わる。左肩に負った傷にはナルナ百足アルドネポを煮詰めて作った傷薬が塗り込まれ、しっかりと包帯も巻かれていた。

 が、イダルもそれ以上は何も言わない。

 四人の間に垂れ込めたのは、重く気まずい沈黙だけだ。


『ま、まあ、けどよ、まずはグニドが無事だっただけ良かったじゃねえか。ジイさんの真意はどうあれ、もしあそこでグニドがイドウォルに殺されてたら、そんなジイさんの目論見も全部パアだったわけだろ?』


 と、ときに沈黙を破ったのは、いつになく大袈裟な身振り手振りをつけたスエンだった。どうもスエンはこういう沈黙が耐えられないタチらしく、意味もなくぶんぶんと振られた両腕は、あたりに漂う静寂を必死に追い払っているようにも見える。


 実はあの決闘のあと、諸部族の長たちの権威を笠に着たイドウォルは、新しい長老に楯突いたグニドを処刑すべきだと喚き立てた。

 だがそれが実行に移されなかったのは、それまで固唾を飲んで二人の決闘の行方を見守っていた一族の者たちがさすがに猛反発したためだ。彼らは皆一様にグニドを支持し、神聖な決闘の結果を歪めることは許されないとイドウォルの主張を非難した。


 おかげでグニドは窮地を免れたわけだが、それで事が丸く収まったとはとても言えない。今や一族はイドウォル派とグニド派の二つに割れ、一触即発の空気になっていると言って良かった。

 このままでは早晩、一族の結束は乱れる。数ある部族の中でも特に力のあるドラウグ族が秩序を失えば、それはやがて死の谷モソブ・クコル全体の秩序の崩壊に繋がると言っても過言ではないだろう。


『――やっぱり戦うべきよ』


 と、ときに決然とそう言ったのはエヴィだ。


『あたしはあのトカゲ野郎が次の族長だなんて認めない。他のみんなだってきっと同じ気持ちでいるに決まってるわ。何よりさっきのイダルの話を信じるなら、あたしたちは先代のご遺志を優先すべきよ。先代のお考えがいつだって正しかったことは、あたしたちみんなが知ってる』

『エヴィ』

『あなただって本当は分かってるんでしょう、グニド。先代はいつだってあたしたちのことを……一族の未来を考えてくれてた。その先代が、あなたを次の長に選んだの。なら、それを拒む理由があたしたちにある?』

『確かに先代の判断はいつだって正しかった。あの人はどんなときも一族を守ろうと心を砕いていた。でも、だからこそ……おれは戦えない』

『グニド』

『これはもう決まったことなんだ。その決定を覆そうとすれば戦になる。しかも同胞はらから同士が殺し合う血みどろの戦だ。そんなことを先代が望むと思うか? いつだって一族のことを一番に考えていた先代が』

『だからってこのまま尻尾切って逃げるって言うの? あたしたちは竜人なのよ。そこら辺を無様に這いずり回ってる蜥蜴ドラズィル家守オークセグとは違う。あたしたちには強い鉄と誇りがある』

『エヴィ、どんなに立派な誇りがあったって、同胞を手にかけたらイドウォルと同じだ。そんなのはトカゲ以下だ。おれは人間ナムみたいに、同族同士で醜く殺し合うようなことはしたくない。今はただ耐えるしかないんだ』

『待ちなさいよ、グニド。どこに行くの?』


 これ以上は水掛け論でしかない。そう判断したグニドは腰を上げ、ちょっと肩の具合を確かめた。

 まだとても刀を振れるような状態ではないが、薬が効いているのか痛みはほとんど消えている。これなら多少巣穴を歩き回っても大丈夫だろうと判断したグニドは自らの大竜刀を腰に提げ、のしのしと室の出口へ向かっていく。


『イダル。傷の手当て、ありがとう。また明日も頼むよ』

『グニド!』

『ちょっと気になることがあるから、おれは祠に行ってくる。エヴィはその間に頭を冷やしてくれ』

『お、おい、じゃあオレは?』

『お前はエヴィが暴れようとしたら体張って止めろ』

『おい! それさりげなく死ねって言ってるだろ!』

『大丈夫だ。たとえそうなったとしても、おれはお前のことを忘れない』

『だから何一つ大丈夫じゃねーっつーの! 何ちょっとかっこいいこと言って誤魔化そうとしてんだ! おい、グニド!』


 もしこいつに殺されたら化けて出て祟ってやるからな! と喚くスエンの抗議を背に、グニドは一人室を出た。

 〝もし殺されたら〟なんて言い方をするということは、スエンも一応エヴィを止める努力はするということだろう。それならあとのことはあの悪友に任せていい。


 グニドはそれから立ち止まることも振り返ることもなく、巣穴の中を道なりに進んだ。途中、道端で擦れ違う仲間の中には不安そうにグニドを目で追ってくる者や、不躾な視線を送ってくる者、露骨に舌打ちする者など、様々な反応を示す者がいる。

 中でも後ろ二つはまず間違いなく〝イドウォル派〟とでも呼ぶべき者たちだろう。彼らはあのイドウォルを打ち負かしたグニドの前に立ち塞がるような真似こそしないが、まるで敵愾心てきがいしんという言葉が竜人の皮を被ったような気配でそこにいる。


 逆に心中ではグニドを支持しているとおぼしい者たちは、グニドに助けを乞うような眼差しを向けこそすれ、積極的に声をかけてくることはなかった。

 ここであからさまにグニドを擁護するような真似をすれば、新長老であるイドウォルからどんな仕打ちを受けるか分からないと皆怯えているのだろう。グニドもそれを分かっているから、皆の反応に落胆したり憤慨したりすることはなかった。ただ周りの景色など何一つ視界に入っていないふりをして、まっすぐ祠を目指すだけだ。


 そうして巣穴の奥にある竜祖の祠まで辿り着くと、一度だけ入り口に立っていた門番らしき者たち――まあ、有り体に言えばイドウォルの手下だ――に止められた。

 が、彼らが「ここから先は長老であるイドウォルの縄張りだ」と主張するので、「いくらイドウォルでも継承の儀を済ませなければ正式な族長ではない」と返せば、彼らも反論できずに渋々と道を開ける。

 グニドはそんな門番たちの間を悠々と通り抜けて、一路ルルのもとを目指した。後ろから無言で追いかけてくる視線はどれも恨めしげだが、やはり彼らもイドウォルを負かしたグニドに噛みつくような真似はしない。


『ルル』


 やがて地下への階段を下りきると、グニドはルルを呼びながら檻の前へと向かった。

 が、ルルからの返事はない。一瞬ひやりと嫌な予感が背筋を舐めたが、慌てて鉄格子の向こうを覗き込むと、その心配は杞憂に終わった。


 ルルは何枚もの襤褸ぼろ切れが山を成している檻の隅で、その襤褸切れにくるまって眠っている。

 小さく体を丸め、すやすやと寝息を立てている様は、十年前と変わらず何とものんきで無防備だ。


『まったく、この状況を分かってるのか、こいつは……』


 と、それを見たグニドは心底呆れながら、ルルのいる檻の前に座り込んだ。

 規則正しいルルの寝息が聞こえる。眠りが浅いときはすぐにグニドの気配に気づいて起き出してくることを考えると、よほど熟睡しているようだ。

 だが今はまだ正午ひる前である。こんな時間からルルが深い眠りに就いているというのは、かなり珍しいことだった。

 何しろ彼女はいつもならグニドたちとそう変わりない時間に目覚めている。そうしてグニドやイダルが餌やりに来るのを今や遅しと待ち構えているのだが、いくら今日はここへ来るのが遅れたとは言え、それならなおのこと姿を見せないグニドたちを気にかけて待ちくたびれていそうなものだ。


 そのルルが今、目の前で熟睡している。

 グニドは冷たい床の上にじっと座り込んだまま、その事実と自分の頭の中にある推測とを照らし合わせた。


『……あの風……』


 と、グニドが思わず呟いたのは、先程決闘のさなかに突然起きたあの竜巻のことである。

 あれはどう考えても自然に起きたものではなかった。かと言ってグニドが何か超人的な力でもって起こしたものでも当然ない。

 思い起こされるのは、竜巻が発生する直前に耳元で聞こえた囁き声。

 あの声は今、目の前で無防備に眠るこの少女のものではなかったか。

 だとしたら、あの風の正体は――。


『……お前なのか、ルル』


 ――お前がおれを守ってくれたのか。

 グニドがぽつりと口にしたその問いかけは、地下の闇に呑まれて消えた。

 なおも座り込んだまま動かないグニドの頭上で、不寝ねずの炎がちらちらと、妖しく風に揺れている。



          ×



『ジャアアアアアアッ!!』


 すさまじい咆吼と共に、あらゆる物が薙ぎ倒された。

 室内にあった卓が倒れ、そばにあった茶炉を巻き込み、物が床に散乱する。

 力任せに叩きつけられた茶炉などは、その衝撃で柱の部分がぽっきりと折れてしまっていた。その様子を遠巻きに見ていた者たちは、どうにかしなければと思いながらも皆その場を動けずにいる。


『くそっ、くそっ、くそっ!! グニドナトス……あのクソガキが、この俺を虚仮こけにしやがって!!』


 竜祖の祠、その最奥にある長老の室で暴れているのは、他でもない次期長老のイドウォルだった。彼は烈火のごとき怒りに任せて先程から荒れ狂い、目につくものは薙ぎ倒し、更にその長い尾でこれから彼の寝床となる砂山をも叩き崩す。

 吹き飛ばされた砂は無惨にもあたりに散らばり、偶然そばにいた取り巻きの一人が頭からそれを被った。取り巻きはぶるぶると全身を振るって何とかその砂をはたき落したものの、当然ながら今のイドウォルに抗議する勇気など持ち合わせていない。


 これまで一族最強と謳われ、自らもその称号を疑わずにいたイドウォルは、先の決闘での敗北を未だ認められずにいた。

 最後にイドウォルを宙高く巻き上げたあの風の正体は分からないが、あれのせいで一族中の者たちが口を揃えて「イドウォルが負けた」と騒ぎ、敗者の言い分に耳を貸す理由はないと次期長老へ背を向けたのだ。

 その事実が、イドウォルの自尊心をいたく傷つけた。あの正体不明の竜巻が現れる直前まではどう考えてもイドウォルの優勢だったというのに、一族の者たちはその事実にすら見向きもしない。


 だがあれはどう考えても事故だ。あの竜巻が自然に発生したものとはとても考え難いが、かと言ってグニドが起こしたものかと言われればそんなわけがない。竜人は例外なく、先天的に神刻エンブレムを使えないはずだ。

 だからイドウォルはあのときたまたま風に足をすくわれただけであって、自分はグニドに敗北したわけではないと信じていた。

 が、それをさもグニドの手柄であるかのように褒めそやす連中が許せなかったし、何よりあのときグニドが見せたしたり顔を思い返すだけではらわたが煮え繰り返る。


 その憤怒を抑えきれず、イドウォルは再び天井へ向かって吼えた。

 既に体は暴れ疲れ、気づけば肩で息をしているが、それでもイドウォルの中でのたうち回る怒りは一向に鎮まる気配がない。


『絶対に殺してやる……!』


 と、イドウォルは目を血走らせ、ぎりぎりと牙を噛み締めた。

 だが今の状況では、そう簡単にグニドを殺せないことはイドウォルにも分かっている。何故なら皆があの決闘の勝者をグニドだと思っている限り、たとえ秘密裏にグニドを葬ったとしても、誰もが決闘に負けた・・・イドウォルの仕業はらいせだと考えるだろう。

 そうなれば今度こそ、イドウォルは大義名分なく同族を手にかけた大罪人としてカプから追放される。それではせっかく手に入れた長老の座が水の泡だ。あんな青トカゲ一人のために、ようやく手にした栄光を手放すつもりはない。かと言って、あいつはどうあっても生かしてはおけない――。


 イドウォルは堂々巡りを繰り返す思考に歯噛みしながら、すっかり散らかった室の中をうろうろと歩き回った。

 何か、何かいい方法があるはずだ。あの人間かぶれエズィ・ナムを一族の掟に照らし、誰にも文句を言わせずにこの世から消し去る方法が――。


『――イドウォルさん……ってうわっ、何だこれ?』


 と、ときにふと自分を呼ぶ声が聞こえ、イドウォルは室の中をぐるぐると巡っていた足を止めた。

 見れば外からやってきたと思しい若い竜人が、室内の惨状を見て愕然としている。が、事の一部始終を知る取り巻きたちはどうにも間が悪そうに、顔を背けて沈黙しているだけだ。


『何だ。あの青トカゲに何か動きがあったのか?』

『へっ? あっ、いや、動きというかですね。グニドのやつ、入り口を見張ってたやつらの制止を突っぱねて、今、この祠の地下に来てまして……』

『何?』


 聞き返したのはイドウォルで、他の者は誰一人声を上げなかったが、あたりは不意にざわめきにも似た空気に包まれた。

 それまで激昂したイドウォルに戦々恐々としていた取り巻きたちが、グニドの名を聞いて凍りついたのだ。しかもよりにもよってイドウォルの怒りの原因であるあのクソトカゲは、長老の縄張りであるこの祠に堂々と侵入してきたという。


 だがイドウォルは初め、そんな情報には微塵も心が動かなかった。大方この祠の地下で飼われているという人間のガキに、今朝の騒動でやりそびれた餌でもやりに来たのだろうと思ったからだ。

 むしろそんなくだらない情報をいちいち報告に来る部下に腹が立ち、今後の教育も兼ねて殴り倒してやろうかと思った。

 しかしそこでふと気づく。

 そう言えばグニドが〝人間かぶれ〟などと呼ばれるようになったのは、家畜であるはずの人間をずいぶんかわいがっているという噂がネダに流れたためではなかったか――。


『なるほど……そうか。その手があったか』


 これは試してみる価値がある。そう思い至ったイドウォルは、口角に細い笑みを浮かべた。

 それは砂漠で獲物を見つけた竜人が、決まって浮かべる愉悦の笑みだ。

 途端にイドウォルはぶるりと一度身震いし、腹の底から込み上げてきた狂喜に尾を打ち鳴らす。


『おい、今すぐ手の空いてる連中をここに集めろ。お前たちには長老から直々に任務を与える。――グニドナトスを潰すぞ』


 イドウォルが酷薄な笑みと共に告げた言葉に、取り巻きたちは一瞬驚いたような顔をした。

 が、直後には彼らも喜色を浮かべ、歓喜に喉を鳴らして拳を上げる。

 取り巻きのうちの数人が、すぐさま室を駆け出していった。

 薄暗い祠の奥に、イドウォルの高笑がこだましていた。


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