第八話
そこは、ひどく奇妙な部屋だった。
立方体を、縦に二つ積み上げたような不自然な造り。壁面はおろか、滑らかな床、唯一の出入り口と思わしき扉までも、乳白色の大理石で構築されていた。天井には照明灯の一つも見当たらないにも拘わらず、室内は真昼の如く明るい。
まるで徹底的に漂白されたような。
どこか決定的に隔離されたような。
そんな部屋に、少女は居た。
がらんとした室内にひとり、両足を投げ出すようにして床にぺったりと座り込んでいる。
簡素なワンピースからのぞく病的なまでに白い肌と、背を流れ腰を過ぎ、床に散らばるほどに長い髪が特徴的な少女であった。
何をするわけでもなく、ぼんやりと中空を見上げている。
だが、その瞳には何も写ってはいない。
まるで初めからそう《・・》であったかのように、両の瞼は固く閉ざされている。
対照的に口元は浅く開いたままで、薄い唇の端から滴る涎が、肌を伝って衣服の首元を濡らしていた。
まるで、糸の切れた操り人形のように、少女は微動だにしない。
と、そこに。
不意に、ノックの音が響いた。
来訪を知らせる合図にも、少女は何の反応も示さない。
一拍を置いて、扉が押し開かれる。
現れたのは、精悍な顔付きをした青年だった。
背に流されたオールバックに、猛禽の王である鷹の如き鋭い双眸。ただそこに居るだけで周囲を威圧するような、峻厳たる雰囲気を身にまとった青年だった。
青年はゆっくりと歩を進め、彼女の前で片膝を付いた。
少女の耳元へ顔を近付け、真一文字に結ばれた口元を開く。
「……玲奈」
呼びかけに、少女はようやく反応らしい反応を示した。緩慢な動作で声の主を探す。
おずおずと伸ばされた手が、青年の頬に触れた。少女の口元に、じんわりと微笑が浮かぶ。
頬に触れるひんやりとした小さな手に、青年は自身の手を重ね、呟く。
「やはり、解るか」
独白のような呟き。
「ようやくだ。ようやく、最後の破片が揃った」
小首を傾げる少女に、青年は言う。
「――『再創世』を、始めよう」
▼
一夜明けて。
やはり昨日の疲れが残っていたのか、正示は平時よりも遅めに目を覚ました。
学生寮の自室、寝ぼけ眼をこすりつつ、二段ベッドのハシゴをのろくさと降りる。いつもならば昼夜を問わず騒々しいルームメイトに叩き起こされるのが常であったのだが、彼は現在所要で関西へと出向いており、妙に静かなものだからついつい寝過ごしてしまった。
歯ブラシを手に洗面所へと向かい、疎らに残る友人たちと挨拶を交わしつつ、洗顔、歯磨きを終える。
自室へとって返し、手早く身支度を整え卓上の時計を見れば、やはりというか悠長に朝食を食べている余裕などありはしなかった。行き掛けにコンビニに寄ろうと思う。
寮を出て、学校へ向かう。
いい天気だ。気温も暑すぎず寒すぎず、ちょうどいい塩梅。本格的な梅雨入り前のこのぐらいの時期が、四季を通して一番過ごしやすいと正示は思う。
入学から一ヶ月、ようやく慣れ始めた通学路を行きつつぼんやりと考えるのは、やはりというか一善の事。
〈セフィラスフェザー〉との戦闘中に突如乱入、自分と沙希の窮地を救ってくれた恩人。
やたらと腕組みが似合う、筋金入りの風来坊。
椎名とは浅からぬ因縁があるようなのだが、詳細は不明。驚天動地の〈クリフォトスフィア〉へのスカウトをすげなく断った、傍若無人を絵に描いたような女性である。
ううむ、と正示は唸る。
改めて、凄い人だった、と思う。
個人的には、とても好感がもてる人物であった。外国暮らしが長かったせいか多少感情表現が大袈裟ではあるが、裏表のまるで無い――女性への形容として我ながらどうかとは思うが――どこまでも男らしい豪放な性格と、何より、あの椎名を相手に一歩も引かぬ物言いは、いっそ清々しくすらあった。
昨晩は「またな」の一言であっさり別れてしまったが、しばらくは国内に留まるそうなので、機会があればまたぞろ会う事もあるだろう。
そう結論付け、鼻歌まじりに角を曲がった所で、
「お早う、遠藤君」
待ち構えていた挨拶に、危うく悲鳴を上げそうになった。
「……お、おはようございます、沙希さん」
ばくばくと脈打つ心臓をなだめつつ、なんとか挨拶を返す。
「随分と重役出勤ね。急がないと、遅刻するわよ?」
「は、はぁ……」
促され、通学を再開する。
隣を歩く彼女の横顔を盗み見しつつ、それとなく待ち伏せの理由に思いを巡らせば、
「昨日の――神代さんについて、相談したい事があったのよ」
相変わらず見透かしていたかのようなタイミングで、沙希が話を切り出した。
「気になって、あれから本部ビルに残って少し調べてみたのだけれど……。彼女、いったい何者なの?」
存外に深刻な声音に、正示も思わず息を呑んで、
「な、何者と言いますと……?」
「彼女が何かしらのアドレス能力を保有してるのは間違いないと思うのだけれど……。本人はアドレスはおろかクリエイターすら知らないと言うし、統さんに訊いても知人の娘だの一点張り。情報部のアドレスホルダーデータベースを検索してみても、それらしい人物は見当たらなかった」
すらすらと言葉を紡ぐ沙希に対し、正示は未だ思考が追いついておらず、
「か、神代さんがクリエイター、ですか?」
「遠藤君も見たでしょう? 彼女が、たった一人で、五百号級の大型クリーチャーを打倒したのを」
「……あ。」
正示の呟きを聞き付け、沙希の顔が能面の如き無表情に固定される。
「――まさか、今の今まで忘れてました、なんて間抜けた事を言うんじゃないでしょうね?」
身も凍るような冷たい声での問いに、正示は漏れそうになる悲鳴をなんとか噛み殺す。
通常、対クリエイターとの戦闘には、クリエイターをもって当たるのが定跡とされている。
アドレス能力によって産み出された「作品」に対抗するには、同じアドレス能力を持つ者でなければ困難であるからだ。
昨晩の戦闘において、一善はその身一つで大型のクリーチャーを打倒した。症例こそ少ないが、クリエイターの中には己が肉体を表現の手段として使う者もいる。沙希が疑ってかかるのも、そこからの連想なのであろう。
そんな正示の様子を見、沙希はまったく、と呆れ顔を作って、
「遠藤君? 〈クリフォトスフィア〉の一員として、もう少し緊張感を持ちなさい」
厳しい注意の言葉に、反論が有ろうはずも無く。
正示は当てにならぬと判断したのか、ブツブツと自問を始める沙希の背を追ううちに、そろそろ周囲にも生徒の数が増えてきた。既に学び舎も見え始めている。
創凜学園高等部。
東都、丁区は双篠杜という都会のど真ん中に有りながら、広大な敷地、豊富な施設、そして何より、やりすぎなぐらいに芸術方面に傾向した学風がウリの私立校である。
「とりあえず、神代さんの件は一旦保留にしておきましょう。緊急連絡にはすぐ応じられるように」
ガヤガヤと騒がしい下駄箱長屋に到着、沙希は正示の了解を律儀に待って、
「では、御機嫌よう」
スカートの裾を翻し、足早に教室へと向かって行った。
ボヤボヤしてはいられない。急ぎ一年生の下駄箱へと移動する。
……なんか、いつにも増して機嫌悪かったなぁ。
上履きに履き替えつつ、正示は内心でため息をつく。
四組の扉を開き、自身の机に座った直後、担任の柴田悟教員――あだ名はサトュルヌス。ちなみに独身なので喰らう我が子は無し――が入室してきた。
慌てて席に戻る生徒を一瞥、ボサボサの白髪をわしゃわしゃ掻きながら教壇へと向かい、
「――はい、おはようさんネ」
毎度お馴染みの挨拶の後、平時ならば淡々と出席を取り始める、はずだったのだが……
「今日はネ、急だけどネ、転入生がいるから」
サトュルヌスの言葉に、教室中が俄かにざわめき立つ。
窓際、中程に座る正示も同様で、夏休みを間近に控えたこの時期に転入だなんて珍しい事もあるもんだなぁ、と軽い関心を示していた。
要するに、油断しきっていたのだ。
「それじゃ、入ってきて自己紹介ネ」
間を空けず、教室の扉が開く。
おー、と男女問わず押し殺した歓声が上がって、
直後。
「おう、セージじゃねえか!」
響いた声に、危うく椅子から転げ落ちそうになった。
ボリュームを上げたざわめきの中、ひとたまりもなく狼狽する正示に対し、真新しい夏服姿の転校生はどこ吹く風で、
「っと、悪ぃ悪ぃ。ちっと知った顔が居たんで声掛けちまった」
仕切り直しにダン! と踵を鳴らし、教室中の視線を一手に集める。
教室中を眺め回し、がっしと腕組み。その顔にどこまでも挑戦的な笑みを浮かべつつ、隣のクラスはおろか学校中に響くのではという程の大音声で、
「神代・一善だ! ガッコウってなぁ来んの初めてだから、色々世話ぁかけるかもしんねえけど――まぁ、ヨロシクしやがれ!」
有無を云わせぬ命令形での挨拶を受け、凍りついたように静まりかえる教室に、正示の漏らした呻き声だけが小さく響いた。