第三話
封鎖区域内に入って二分もしない内に、正示は早々と音を上げた。
ただでさえ濁流のような人混みを突っ切って消耗している上に、追加で約五百メートルの全力疾走である。疲労はとうに限界に達しており、正示はもはや歩くのとさして変わらぬ速度で手足を動かしつつ、先行する沙希の背に声をかける。
「ちょっと、待って、ください、沙希さん、僕、もう限界が……」
息も切れ切れの哀願に、沙希はぴたりと足を停めた。
ゆっくりと振り向いたその目に宿るのは、身も凍るような極寒の冷気。まるで養豚場のブタでも見るかのような、「可哀想だけど明日の昼にはお肉屋さんの店先に並ぶ運命なのね……」とでもいわんばかりの視線だった。
ふぅ、と隠しもせず呆れの溜め息を漏らし、沙希はつかつかとこちらに歩み寄ってくる。本能的な恐怖からついつい身構えてしまう正示を見、訝しげな顔をしつつも、
「少し休みましょう。ほら、汗拭いて」
プリーツスカートのポケットから、淡い桃色のハンカチを取り出した。
咄嗟に遠慮しようとするものの、沙希の「いいから」の圧力に押し切られ、有り難く借り受ける。
「まったく、この程度の運動でへばるだなんて……。だから常日頃から身体を鍛えておけと言っているのに……」
ぶつぶつと小言を並べる沙希は、言うだけあって息の乱れはおろか、汗のひとつもかかずに涼しげな顔である。文芸部と美術部という、同じ文科系の部活に所属しているとはとても思えない、恐るべき身体能力の差であった。
汗を吸ったハンカチを、感謝の言葉とともに「洗って返します」と半ば強引にポケットに収めて、正示は改めてぐるりと周囲を見回す。
無人の荒鬼ヶ丘。場違いに明るい店内BGMが流れている以外には、物音一つしない空っぽの街。どこか不安を掻き立てる、不気味な光景であった。
背筋に這い寄る悪寒の気配を振り払うため、傍らに立つ沙希に声を掛ける。
「椎名さんの話だと、今回の相手は四人だそうですが……。どこかに隠れているんですかね?」
問いに、沙希は油断無く周囲を警戒しながら応じる。
「どうかしら……。独断で来ているという話だから増援の心配は無いでしょうけれど、それにしては包囲を破って逃げ出すつもりもないみたいだし……」
しばし悩んだ様子で口を閉じ、不意に眉根を寄せた険しい表情を浮かべて、
「どうにも、妙なのよね」
「……妙、ですか?」
正示のオウム返しに、沙希は「ええ」と前置き、
「なんというか、目的が判然としないのよ。いきなり繁華街で暴れてそれっきりだなんて、いくらなんでも場当たり的過ぎると思わない? 捕まえてくれって言ってるようなものじゃない」
「はぁ、まぁ……」
確かに、と同意する正示をよそに、沙希は浅く俯き、思案顔で続ける。
「考えられる可能性としては……目立ちたがり屋の馬鹿が暴走したとか、逃げ遅れた人を捕まえて人質にしているとか……」
そこで一旦言葉を区切り、
「或いは、始めから私たちを誘い出すのを目的としている、とか――」
その時だった。
足元、アスファルトに向けられていた沙希の視線が、いきなり頭上へと跳ね上がった。
その目が驚愕に見開かれ、
「――くっ!」
次の瞬間には、沙希はスタートを切っていた。
重心を落とし身を低く、這うようにしてこちらに突っ込んでくる沙希に対し、未だ何が起こっているのか分からぬ正示は、その場にカカシの如く立ち尽くす。
気が付いた時には、疾走の勢いもそのままに沙希の肩口が腹部に突き刺さっており、成す術もなく後方へと押し倒されていた。
何事かと思うと同時、傾いだ視界を眩い閃光が埋め尽くす。
刹那、凄まじい爆音と叩きつけるような熱風とが降り注ぎ、
――爆発!? 不意打ち!? いったいどこから!?
盛大に混乱する頭が、兎にも角にも沙希を守らねば、と指令を発した直後、
「っゥうン――!」
ガッ、と絶妙な角度で硬いアスファルトに尾てい骨から着地、一拍遅れてやってきた真っ白い激痛が、あらゆる思考を一瞬で蒸発させた。
もはや恥も外聞もかなぐり捨てて、尻をおさえて「オーゥオーゥ」と首を左右に悶え苦しむ正示を横目に、沙希は素早く体勢を立て直し、
「遊んでいないで早く立ちなさい! 来るわよ!」
鋭い叱咤に涙ながらに従いつつ、正示も遅まきながら気付く。
もうもうと立ち昇る黒煙の中には、二つの人影が並び立っており、
「……遅かったじゃねえか、特務の犬ども!」
大音声と共に現れたのは、奇妙極まりない格好をした二人組みだった。
ひょろ長い手足をした痩せた男に縦にも横にも大きな大きな男と、絵に描いたように対照的なコンビ。揃いのペンキにまみれた白のスウェットスーツを身にまとい、目深にかぶったフードの下は、なんの冗談か、深緑のガスマスクで顔前面を覆い隠している。
「へっ、やっぱり“ノロマの二番”に“ヒス持ちの五番”が残ってやがったか」
向かって右側、巨漢の方がマスク越しにでも分かるダミ声でがなり立て、
「さっすが兄貴だ、関西動乱で手薄になってる今が好機ってなぁ! 良い読みしてやがる!」
左側、ナナフシを連想させるもう一人が無闇に甲高いキーキー声で引き継いだ。
身構える正示の隣、沙希はなんら臆する事なく、一歩前へと進み出る。
立ちはだかる二人に対し、刃の切っ先の如き鋭い視線を向けて、
「確認します。反体制組織、〈セフィラスフェザー〉所属構成員ですね?」
もはや問うまでもない。こんなおかしな格好で封鎖区域内をウロウロしている人間が、他にいようはずもない。
はたして、彼らは傲然と胸を張り、
「応ともよ。第五遊撃隊、泣く子もバビる〈ヴァンダル・ブラザーズ〉たぁ、オレサマたちのことだ!」
誇らしげな肯定を耳にして、沙希の全身から、余計な力が抜け落ちた。
眼前の二人を、明確な敵として認めた証拠だった。
「――空現法違反及び、公務執行妨害の現行犯で、あなた方を逮捕します」
よく通る声で発せられた定型句に、
「ヤれるもんならヤってみろよ、お譲ちゃん?」
返されたのは、やはり、予想通りの台詞。
「……相も変わらず貧弱な語彙ね、あなた達は。もう少し気の利いた台詞は言えないのかしら」
沙希の声音に、明らかな嫌悪と怒気が混じる。
正示もごくりと喉を鳴らし、全身に緊張を充填していく。
そして――
「行くぜ兄弟!」
互いに号令を発しつつ、
「来るわよ遠藤君!」
その場にいる全員が、
「オウケイ兄貴!」
示し合わせたかのように一斉に、
「了解です!」
戦いの火蓋を切った。