第二十話
タワー周辺の異常、その元凶たる展望台もまた、混沌の様相を呈していた。
玲奈に抱き留められた一善の身体が、真昼の太陽の如き光を発している。その白光が、壁、床、天井、窓とその向こうの景色さえも上書きして、展望台内部を埋め尽くしていた。
上下左右の感覚すらも曖昧な白の浄域と化した空間で、正示は見る。
三百六十度、全方位の白をスクリーンとして、突如として澄んだ青色が映り込む。
見渡す限りの蒼天が、どこまでも果てしなく広がっている。遥か下方には雲海が見え、頭上には燦然と輝く太陽があった。
いきなり高空に放り出されたかのような感覚に襲われ、正示はひとたまりもなく立ち竦む。
だが、それは始まりに過ぎなかった。
周囲の青が徐々に深度を増していき、唐突に海の底へと変化した。魚影が頭上を横切り、差し込む光が波に揺られてオーロラのように揺れて、再度変化が訪れる。周囲の群青が鬱蒼とした密林の深緑へと転じ、原色のみで構築された鮮やかな色彩に目が眩みそうになる。またも変化。むせ返るような湿気が瞬く間に温度を上げて、陽炎揺らめく砂漠へと姿を変える。
光に映し出される光景が変化するたびに、響く鼓動が音量を上げていく。
変移は止まらない。河川が映る。動物が映る。山岳が映る。植物が映る。荒野が映る。星空が映る。湖畔が映る。町並みが映り、そこに住まう人々の営みが映る。
驚き、悲しみ、怒り、好み、恐れ、嫌い、奮い、満ちて、笑う。
――これは……。
正示の疑問を見透かしたかのように、誠一郎が口を開く。
「この十年、世界を放浪していた神代・一善が得た、記憶、知識、経験――その全てだ」
全天を取り囲む光景に目を細め、
「転送された膨大な知識と、力の源である一善を取り込んだ玲奈に、もはや創れぬものは無くなる。その上で、俺たちは国を創る。迫害されるクリエイターを守るための王国、全てのクリエイターたちが真に望むものを産み出せる楽園だ」
今やビリビリと肌に当たるほどの大音量で鳴り響く鼓動に合わせ、変遷は限りなく続いていく。
極大の光の中、もはや一善の姿は溶け消えかけていた。
――終わって、しまった……?
否、と思う。どうにかしなくては、とも。思うのだが、焦れば焦るほど思考は空転するばかりで、なんの手立ても見つけられない。
金縛りにあったかのように動けぬ正示を尻目に、誠一郎は吹き飛ばされた三人の元へと向かい、順に助け起こしていく。
目を覚まし、改めて周囲の異様を目の当たりにして、少なからず当惑を見せる仲間に対し、
「……予定通り『生命の樹』の起動に成功した。〈知識〉の転送が終わるまで、しばし休んでいてくれ」
指示を終え、誠一郎は改めてこちらへと向き直る。
鋭い鷹の目が、正示を真っ直ぐに見据える。
「正示」
呼びかけは、これまでになく柔らかな声音をもって響いた。
「俺と、共に来い」
言葉と共に、誠一郎はその手を差し伸べる。
思いもよらぬ誘いに、ただでさえ焦燥に固まっていた正示の顔に、惑いの色が混じる。
「“全て”のクリエイターたちが望む楽園、その言葉に偽りは無い。お前はもとより、望むならば〈クリフォトスフィア〉の構成員も受け入れよう」
「……兄さん。僕は……」
「なぜお前が、奴らの言いなりになって戦う必要がある! 異能の力を目の当たりにし、悪魔と恐れ蔑んだ連中のために!」
声を荒げる誠一郎に対し、正示は呆然と立ち尽くす。
争いは嫌いだった。誰かに敵意をぶつけることも、ぶつけられることもご免だった。それでも戦い続けてきたのは、こうしてもう一度兄と会うためだ。目的は既に達せられたと言ってもいい。
だが。
兄の誘いを受け入れてしまえば、椎名や関西にいる仲間を、支援してくれた〈クリフォトスフィア〉の皆を――なにより、沙希を裏切ることになる。
それでもいいか、と思う自分がいる。
それではだめだ、と思う自分もいる。
ふと、一善ならば、どうするだろうかと思った。
思った直後、どこからか彼女の声が聞こえた気がした。
或いはそれも、正示の弱気が生んだ幻聴かもしれなかったが、それでも尋ねずにはいられなかった。
「……一善、さんは?」
震える声音もそのままに問えば、
「転送が終わったら、一善さんはどうなるんですか?」
誠一郎は、怪訝そうに眉根を寄せて、
「――あれ《・・》は、玲奈に創作された『キャラクター』に過ぎない。役目を終えた今、消えて無くなるだけだ」
返答を聞いて、正示の全身から力が抜けた。
顎先が胸に付くほど深く、俯く。
「そう、ですか……」
呟き、瞼を閉じる。
心の奥底に、ぽつりと点が穿たれる。
吹けば飛ぶようような僅かな熱が、しかし消えずに、じりじりと胸中を焦がしていく。
意志の炎が燃え上がる。頭の天辺から爪先まで、瞬く間に全身に燃え広がる。
顔を上げる。
「兄さん、僕は――」
拳を握り、前を見る。
「ずっと、あなたに会いたかった。会って、話したいことがたくさんあったんだ」
こちらに向けられる鷹の双眸を、真っ向から見つめ返す。
「でも……」
覚悟が決まる。
気付いた時には、左手が動いていた。
制服のポケットから深緑色のちびた鉛筆を取り出し、キャップを親指で弾き飛ばす。
息を吸う。両の肺を酸素で満たし、眩い光の白を白紙と見立てて集中を開始。
脳裏に思い描くのは、天真爛漫・大胆不敵・喧嘩上等の三冠王。
おそろしく腕組みが似合う、どこまでも男らしい、天下無敵の姐御肌。
「――やめろ、正示!」
正示の意図に気付き、誠一郎が制止の声を上げる。
構わず描く。
薄い眉に高い鼻。苛烈なまでに意志の光に満ちた両の瞳。
トレードマークのポニーテールに、猫科の猛獣の如くしなやかなボディライン。着古したティーシャツと、あちこち擦り切れてボロボロのジーンズ。もちろん、口元にはなんとも男らしいハードボイルドな微笑が浮かんでいる。
不意に、描いた線がぐにゃりと歪んだ。
玲奈が保有する桁違いの異能が、正示のアドレスに干渉、侵食しているのだ。
気にせず描く。歪む。上書きする。また歪む。
――もっと速く!
何度でも、歪む端から描き直していく。出会ってから今日に至るまで、まるで春の嵐のように暴れに暴れたその面影を、余すことなく鉛筆に乗せる。
描く、
歪む、
なぞる、
縒れる、
書き殴る、
捩じくれる、
――もっと強く!
遂には侵食の速度を越えて、光の中に溶け消えていた一善の姿が、徐々に輪郭を纏っていく。
肺に溜まった熱の塊を吐き出し、大きく息を吸って、
「兄さん!」
思いを胸に、声を放つ。
「僕は、あなたの力にはなれません!」
心を焦がす熱のままに、吠えるようにして声を張り上げる。
「僕たちの力は、思いを伝えるための力だ! 誰かを傷付けるためのものじゃない!」
もはや思うがままに、正示は叫ぶ。
「特務機関〈クリフォトスフィア〉、独立執行部隊所属――<愚鈍>の遠藤・正示!」
左手が跳ね上がる。
線は荒く、勢いだけの殴り書きに近い。
それでも、いま自分が描ける全力をぶつけたつもりだ。
だから。
「あなたを、止めます!」
完成を叫ぶと同時、線画が動いた。
がっしと腕組み、おもいっきり息を吸って、
「――上出来だ!」
大喝の直後、無音の爆裂を伴って、白光が砕け散った。
本来の姿を取り戻した展望台、きらきらと舞い散る光の破片の中で、一善がゆっくりと振り返る。
「そーゆーワケだからよ、母さん」
片膝をつき、座り込んだままの玲奈に身を寄せて、
「全部返してやりてェのはヤマヤマなんだが、ダチがああ言ってンだ。もうちっとだけ、遊んでくるわ」
頬に啄ばむように口付け、立ち上がる。
ぐるりと踵を返す一善の顔に、にやりと不敵な笑みが貼り付いて、
「逃げんぞ! セージ!」
駆け出したその身が、あっと言う間に疾風と化した。
加速の勢いもそのままに、腕を取られた正示も転げるようにして走り出す。
背後、倒れ付した玲奈の元へと駆け寄る誠一郎が、切迫した叫びを放つ。
「――待て!」
「待てっ言われて待つバカがいるかよ!」
首だけで振り向きばーかばーか、と子供のような罵倒を重ねつつ、一善は逃げの一手を打つ。
「逃がすな!」
「応!」
いらえの怒号が響くと同時、山里が追撃を開始。
彼の脅威はつい先日味わったばかりだ。だが、本来のあるべき姿に戻った展望台に、木や岩などの自然物が有るはずもなく、
「頼む、宮元!」
「分かっています!」
野太い依頼の声に応えたのは、以前沙希の創作を完封した眼鏡の少女だった。
まずい、と思う間にも、彼女は懐から取り出した毛筆を右手に素早く四画。
画かれた「木」の一字に対し、さらに同画を二度繰り返して「森」とする。
反応は直後、展望台の床がみしみしと音を立ててめくれ上がる。這い出すようにして現れた若木は、映像を早送りするかのような気違い染みた速度で成長、瞬く間に生い茂る樹木の壁と化してフロアを覆う。
「――存分に!」
正示たちの妨害と山里への支援を一挙動でやってのけた宮元の異能を目の当たりにして、正示は彼女の能力、その正体に思い至る。文章系でありながら絵画系の属性も併せ持つアドレス、『書道家』だ。
だが、正示の知る限りこのような桁違いの「フィールド・エンチャント」は記録に無い。山里といい彼女といい、やはり〈セフィラスフェザー〉幹部の座は伊達ではないらしい。
「有り難い!」
感謝を伝えるや、山里は作務衣の懐に手を突っ込んだ。取り出した大振りのノミと木づちを手に傍らに生えた巨木に取り付き、凄まじい勢いで彫刻を施していく。
振り向き、鬼気迫る表情で巨木を削る山里を見、正示は盛大に慌てふためいて、
「彫ってる、彫ってますよ一善さん!」
「分かってンよ! オラ急げ急げ!」
乱暴な口調にせかされ、密集する木々の隙間を縫うようにして前進、やっとの思いで大階段へと続く扉まで辿り着く。
だが、取ってに手をかけ開こうとして、はたと止まる。
正示が来た時にはすんなり開いた扉が、どれだけ力を入れようとも開かない。
押したり引いたり悪戦苦闘する正示を脇に寄せ、一善が体重を乗せた飛び蹴りをぶちかますのだが、扉はまるで分厚い壁の如く微動だにしない。
それはつまり、通常では有り得ない力が働いているということであり、
「――ウチもおるの、忘れんとってな?」
森の奥から響く勝ち気そうな声は、残る幹部の最後の一人、香田のものだ。
だとすればこれは、空間設計系のデザイナーが得意とする『立入禁止』で、
「埒があかねェ! セージ、他に出口は――」
問うた一善の顔に、深く険が刻まれる。
正示も気付く。めきめきと物騒な音を立ててこちらに近付いてくる足音は、決して人のものでありえない重さと数で、
「先の決着、いま此処で!」
山里の怒号と共に、枝葉をへし折り現れたのは、木彫りの熊であった。
前回の戦いで見たカラスや大鷹と比べれば、どうしても粗は目立つ。目を瞠るような細工もなく、形状の大枠を削り出しただけに過ぎないのだが、問題はその大きさだ。
本物には及ばぬものの、それでも正示と同じかそれ以上という堂々たる体躯である。いくらアドレス能力による底上げがあるとはいえ、わずか数分の間に彫り上げたとは思えない出来であった。
四つ足で突っ込んで来る木像の獣に対し、一善は正示を庇って囮となる。
自ら巨獣の進路へ飛び出し、半身を捩り肩を盾にした迎撃態勢を取って、
「――どっ、せい!」
衝突、肉打つ鈍い音が響いた直後、一善の身体が軽々と宙を舞った。
跳ね飛ばされた一善は、そのまま窓際、鉄柵にぶち当たってようやく停止。苦の表情を浮かべて態勢を立て直した時には既に、間合いを詰めたクリーチャーが追撃に移ろうとしていた。
まさしく丸太のように逞しい後ろ足で以てすっくと立ち上がり、右の前足を振りかぶる。
袈裟に振り下ろされた豪腕を、一善は紙一重で回避。空を切った熊の爪が背後にあった鉄柵を打撃した。
ごん、と鈍い音を立てて無残にひしゃげる鉄柵を見、正示の全身がぞわりと粟立つ。
――あんなのが直撃ったら……!
思う間にも、左が振るわれる。またも間一髪で上体を逸らし避けるも、すぐさま追撃の右が放たれる。
間断なく振るわれる左右の連打を眼前に置いて、一善も負けてはいない。一打必倒の猛攻を、的確に躱し、弾き、払い、往なしていく。
だが、
「ちっ、きしょうこのヤロ、ちったぁ、休ませやがれ……!」
ここにきて、拮抗が崩れつつあった。
集中的に打撃を受ける一善の両腕に、無数の爪痕が刻まれていく。傷口からは、血液の代わりに白光が漏れ出していた。
「一善さん……!」
呟き、己が不甲斐無さを呪う。やはり、自分の描写では一善を描き切れていないのだ。
以前の化け物じみた身体能力を知っているだけに、今の一善がどこか精彩を欠いているのがはっきりと分かる。
――このままじゃ……!
そんな正示の弱気を見透かしたかのように、一善は嵐のような乱打の隙間を縫って胴体への前蹴りを差し込み、
「――ちょっと間、退いてろぉっ!」
距離を空け、ほんの僅かな時間を稼ぐ。
振り返り、ボロボロになった両腕を掲げて、
「馬力が足ンねえ! どうにかしてくれ!」
いつもと変わらぬ不敵な笑みを見、弱気が吹き飛ぶ。
「了解です!」
握りっぱなしだった鉛筆を構え、集中を開始。
願い求めるのは、眼前の脅威に対抗できるだけの力。弱肉強食の掟の元に、万難排する無双の怪力。
一善の両腕、肘から先目掛け、正示は全精力を振り絞り、描く、描く、描く!
「――どうぞ!」
完成したのは、獣毛に覆われたケダモノの腕。百獣の王たる獅子の前足だ。
確かめるように五指を開閉、一善は満足げに歯を見せ笑い、
「イカすぜセージ!」
ぐるぐると肩を回しながら、クリーチャーとの間合いを無造作に詰めていく。
「よっくも散々ぶっ叩いてくれたなコノヤロウ……」
豪腕が振り上げられるも、意にも介さず、
「三倍返しだオラぁ!」
怒号と共に放った獅子の爪が、クリーチャーの腹部、堅牢な木材を深々と貫いた。
苦悶に身を折り曲げる巨獣に対し、一善は獲物に躍り掛かる猛獣の如く身を低く、
「ふんっ!」
下がった頭部、下アゴ目掛けて掌打を放ち、
「そぅりゃ!」
跳ねるようにしてがら空きの脇腹へ左肘の追撃、
「これでェ――!」
独楽の如くその場で旋転、目の前に垂れ下がった前足を両腕でがっちり捕獲して、
「――仕舞いだァっ!」
一本背負いの要領で、クリーチャーの巨体を投げ捨てる。
尋常ならざる膂力で投げ飛ばされた熊の巨躯が、大質量の砲弾と化して窓に激突、張ってあった分厚いガラスを粉々に粉砕した。
轟々と雪崩込んでくる強風に髪を躍らせながら、一善はくるりと反転、正示に対して背を晒して
「頼む!」
その一言だけで、一善の考えていることが手に取るように分かった。
「――はい!」
左手が動く。
思い描くのは一対の翼。ただし、天使の背にあるような鳥の羽ではない。蝙蝠の如く膜を張った、悪魔の翼だ。
わずか数秒で描写を終えて、ついでとばかりに頭に角まで付け加えた正示に対し、一善は背に生えた翼をばさりと一打ち、苦笑を浮かべて、
「これ、ちっとデカすぎねえか?」
「だ、大は小を兼ねますから!」
正示の答えに、一善は「違えねェや」と歯を見せ笑う。
躊躇いなく手摺を乗り越え、窓枠から身を乗り出す一善が、こちらに肉球付きの右手を差し出してくる。
「――正示!」
背後から兄の声が響くも、正示は振り返らない。
一善の手を取り、躊躇いもせず高度百五十メートルの空へと身を躍らせる。
重力を感じたのはほんの一瞬、すぐさま落下が止まる。
翼を全開に広げ、一善が風を叩けば叩くほど、みるみる高度が上がっていく。
渦巻く風の音に、いまさらのように恐怖を覚える正示に対し、一善は眼下に広がる東都の夜景をぐるりと見渡し、
「絶景かな絶景かな――ってなァ! どら、もっと近くで見てみっか!?」
「ちょ、一善さん! 待っ――」
慌てて止めようとするも、間に合わない。
快哉を叫び急降下を開始する一善と共に、正示の悲鳴が夜空を切り裂いていった。