第十九話
ベースタウン屋上広場にて、沙希は激戦を繰り広げていた。
桜庭が踊る。己の口ずさむハミングに合わせ、揺れ、跳び、回る。
咄嗟に視線を切ろうとするも、間に合わない。躍動する身体に無意識のレベルで視線が奪われる。書き掛けていた描写の追加を諦め、沙希は背後へと逃げの一手を打つ。
過去、幾度か交戦したことのある『パフォーマー』とはまるで次元が違う。どうあっても目を引く動きでこちらに集中を強制しつつ、舞う動きそのものがそのまま移動、回避、攻撃へと連動する、攻防一体なんて表現では生易しいほどの恐るべき能力だ。
三日月を描き迫る足先が、はつり《・・・》と前髪を掠める。まさしく紙一重で直撃を躱し、沙希はなおも後方へと跳び退る。風切り走る足刀は、直撃したが最後、良くて骨折、悪くて昏倒レベルの馬鹿げた威力だ。回避するたび背筋に冷たい汗が流れる。
着地と同時に疾走。左回りに桜庭の背後へと回り込みながら、右手を動かす。
『壁がある』
『槍が降る』
『盾が現れる』
『矢が放たれる』
書き殴るのは、どれも短い一文ばかり。描写を付け加える余裕はどこを探しても見つからない。気を抜くと桜庭を凝視してしまうため、自分の視線を自分で作った障害物で遮りつつ、ろくに狙いも付けずに牽制ばかりを撃ち放つ。
追い込まれつつある。
日頃から体力向上に努めているものの、交戦から既に五分以上も動き続けだ。息は切れ切れ、鼓動は早鐘の如く激しく脈打ち、酷使し続けの両足は鉛のように重い。
限界は近い。
対する桜庭は、相も変わらず笑みを浮かべて余裕の構えである。
――やるしかない、か……!
きっかり一秒で腹を括り、沙希は足を止める。
顔を上げ、「もっと見たい」と訴える両の瞼を、意志の力を総動員して説き伏せる。
風の音が、やけに大きく響く中、
「あらん、もう諦めるのかしらん。諦めたらそこで試合終了ですぞって、エラい人も言ってたわよ?」
挑発は右斜め前方、直線距離にして三メートルの位置から響いてくる。
――まだ遠い。
「……どーやら自棄ってワケでもなさそーねぇ」
視覚を遮断してもなお、桜庭が放ついっそ馬鹿馬鹿しいほどに圧倒的な気配が伝わってくる。
――まだ……まだ!
奥歯を噛み締め、聴覚を研ぎ澄ます。深呼吸を繰り返し、その一瞬が来るのを待つ。
チャンスは一度。失敗は即、敗北に繋がる危うい賭けだ。
“一か八か”は元来沙希の好みではない。
だが、或いは「それこそ」が。
勝ちに通じる唯一の道だと、最近知り合った友人が体現してみせたのだ。
「それじゃあ、その手があたしに通じるかどうか、試してみましょうか」
とんとんとその場で跳ねていた桜庭が、
「――行くわよん?」
踏み切った。
直後、轟の一音を従えて桜庭が突っ込んでくる。
まだ。
まだ、まだ。
まだ、まだ、まだ――!
――ここで!!
閉じていた目を見開き、沙希は右手を閃かせる。
視界の中、視線と制動で二度のフェイントを置いて放たれた桜庭の左足が、息のかかる距離にまで迫る。
攻撃を仕掛けた桜庭本人も必中を確信する致命の一撃に対し、沙希は目を見開いたままの棒立ちで――
す、と。
側頭部を狙い紫電の速度で放たれた上段蹴りを、沙希はわずかに上体を反らしただけで回避してのけた。
驚愕の一瞬を噛み潰し、攻勢の有利に任せた追撃をもかなぐり捨てて距離を離そうとする桜庭に対し、まったく同じタイミングで沙希も前方へと踏み込む。
右手が閃く。
着地の音も重なる刹那、桜庭は即座に旋転、ゆるく握った右の拳でもってバックハンドブローを打ち放つ。
だが、これも当たらない。
神をも薙ぐような必殺の半円を、沙希は予め知っていたかのように身を伏せ回避。遠心力に振られて泳ぐ上体目掛けて一気呵成に飛び掛る。
遠心力に振られ伸び切った右腕を片手で捕獲、脇の下を潜るようにして背後へと回る。
みし、と桜庭の肩が軋む音が、相対の決着を告げた。
困ったように眉根を寄せて、桜庭が口を開く。
「……“一人称”、ね?」
「ええ。これが、私の奥の手」
肯定を返し、沙希は捕獲した手を離さぬよう気を張りながら、熱の塊のような息を吐く。
通常、『ストーリーテラー』や『シナリオライター』などの文系アーティストは、主に三人称での描写を軸に能力を行使する。自身の想像を現実へと紡ぎ出すアドレス能力では有るが、あまりに現実と乖離した空想を顕現させるには、様々な制約が付きまとうからだ。
例えるならば、「剣を作り出すこと」と「自身が剣を手に戦う」とでは、意味合いがまるで違うのと同じ理屈である。あまりに現実離れした表現は、それ《・・》を見る受け手との隔絶を産むのだ。
――芸術とは、「表現者」と「鑑賞者」とが相互に影響し合うことで産まれる。
だが。
ともすれば端っから無視されてしまうであろう反撃を、沙希はあえて選択した。
先ほどの攻防で、沙希が描写したのはわずかに一行。
『私は、勝つ』
代償に支払ったのは、叫びだしてしまいそうなほどの痛みを伴う偏頭痛だ。
鼓動が一つ脈打つ度に、脳内に釘を刺されるような激痛が奔る。一刻も早く正示を追いかけなければ、と意志の力を総動員し、奥歯を砕けんばかりに噛み締める。
震える右手で万年筆を内ポケットにしまい、入れ替わりに捕縛用の手錠を取り出して、沙希は言う。
「――空現法違反及び、公務執行妨害の現行犯で、あなたを逮捕します」
手錠が掛ける、その瞬間に、
どくん――と。
心臓の鼓動に似た響きが、鼓膜を震わせた。
「――な、」
一瞬の隙。
「残念、時間切れだわん」
呟いた桜庭が、拘束された手首の先端、五指を踊らせる。
弾く動きで巧みに手錠を打ち、かしんかしん、と沙希の両手に嵌める。
「――あ、えぇっ!?」
あまりの事態に自身を苛む頭痛も忘れ、ひとたまりもなく狼狽する沙希に対し、桜庭はふう、とため息を置いて、
「はいはい、降参こうさーん、あたしの負ーけ」
言うが早いか沙希の体を抱え上げ、土嚢でも担ぐようにして肩の上に乗せる。
沙希はいともあっさりと行われた逆転激を目の当たりに、胸中の混乱をそのまま舌の乗せ、
「――い、いったいなにを!」
「細かい話はあとあと。早くここから逃げないと、巻き込まれちゃうわよん?」
人ひとりを抱えているとは思えない速度で疾走する桜庭に呼応するように、また一つ鼓動の音が鳴り響く。
▼
東都タワー塔脚の横、広大な駐車スペース。
数百人が入り乱れての大乱戦は、現在、異様な沈黙に満ちていた。
どくん、どくん――と。
鐘の音の如く鳴り響く心音が徐々に音量を上げていく中、その場にいる誰もが手を止めて、ある一点を見つめていた。
タワー北側、尖端近くの支柱から、がぎりがぎり《・・・・・・》と金属を擦り合わせるような異音を発しつつ、鋼鉄の樹枝が生え出してくる。
常軌を逸した現象は、なおも続く。
二本、四本、八本と、生え出す枝の数はいや増し、重なる金属音が耳障りな合唱を響かせる。伸びた枝からも芽を出し分かれ、ネズミ算式に増殖していく。
時間にしてわずか六十秒足らずで、東都を代表する建造物は、鋼鉄の巨木と化していた。
しかし、異常は終わらない。
「な、なんだよこれ……!」
静寂を破ったのは、とあるクリエイターの少女が発した驚愕の声だった。
傍ら、彼女の分身とも云える狼を模して描かれた『クリーチャー』の全身が、熱せられた飴細工のようにぐにゃりと歪む。半ば以上原型を留めたまま、クリーチャーは幼児が粘土で遊ぶかのようにぐにぐにとその形質を変えていく。
今や彼女の描いた作品は、生物が生物足り得る形状を放棄していた。四肢はつるりと溶け消え、頭部のあった場所から巨大な鳥類の羽根が生え出している。体毛はそれぞれが意思を持っているかの如くぬるぬると蠢き、尻尾の先端では大輪の薔薇の花が咲いていた。
それ《・・》が、助けを求めるように「産みの親」の元へと這い寄る。
少女が放つ金切り声が、混沌の幕を開けた。
あちこちで悲鳴が上がり始める。
書かれた文字は蝶の如く宙を舞い、描かれた絵はモチーフを冒涜するかのように異様な変態を遂げる。
異質、異形、異常の渦が、現実世界を書き換え、塗り潰していく。
まるで、悪夢が溢れ出したかのような惨状の中で、椎名は至極冷静に左右のマガジンを交換し、盾にした車両の陰から鋼の樹を見上げる。
「……始まったか」
背後から音もなく接近しつつあった筆舌し難い異形を、振り返りもせず四発を撃ち込んで撃退し、
「急げ、遠藤――!」
切迫した呟きが、周囲の混沌に掻き消される。