第十四話
夕涼みにちょっと歩こうぜ、という一善の誘いに応じ、正示は動物園に隣接する天ノ原公園を散策していた。
公園の目玉である天ノ森は桜の名所として知られ、春ともなれば大勢の観光客で賑わいをみせる。敷地内には動物園の他にも博物館や美術館などの文化施設も多数存在しており、東都を代表する観光スポットの一つである。
陽も沈み、夜空は刻々と青の深度を増していく。真円に近い名月が、ビルに掛かるほど低く出ていた。
昼間の汗ばむほどの陽気とは打って変わって、風も冷たく肌寒さすら感じるほどだ。ぶるりと身震いを一つ、正示が小脇に抱えたジャケットを羽織ろうかどうか迷っていると、
「で? なんでまたアタシのアト尾行てたんだよ」
出し抜けに尋ねを向けられ、正示はひとたまりもなく石になる。
「や、ええと、その、ですね……」
必死に言い訳を探すも、じぃ、とこちらを窺う一善に対し下手なウソは通じないと判断、さりとて「あなたが裏切ろうとしているのではと疑念を抱き監視していたのですよアハハ」などとは口が裂けても言えるはずもなく、
「さ、沙希さんと『いきなり誘ってもらわなくなったけど、どうしたのかなぁ』って話題になって、ですね? 噂では一人で出歩いているそうなので、気になって、後を付けてみようかって話になりまして、それで……」
正示に出来ることといえば、要所要所をぼかす程度の手管ぐらいなものであった。
我ながらしどろもどろで怪しさ満点な回答に、一善は「ふゥん?」と小悪魔の微笑を浮かべ、
「まァ、今日のトコロはそーゆーことにしといてやろう」
なんとも楽しげにそう言って、鼻唄交じりに前方へと向き直る。
当て所なく、ぶらりぶらりと散歩は続く。右手には、こちらも観光スポットとして名高い不知火池があり、風に水の気配が交じっている。
ふと気が付けば、周囲の人通りも途絶えていた。
――なんか、ひとけのない方にない方に向かっているような……。
どうやら気のせいではないらしい。前を見ても後ろを見ても、周囲には人っ子一人見受けられない。
意識した途端、妙に緊張感が高まってきた。
傍らを歩く一善の横顔も、まともに見ることが出来ない。
そんな正示の思惑を知ってか知らずか、一善は不意に足を止め、
「そろそろ、いいか……」
意味深な呟きを置いて、いきなり腕を絡め、身を寄せてきた。
肘にあたる好ましい弾力に、成す術もなく硬直する正示に対し、一善は真っ赤になった耳元に唇を近付け、
「実はな、セージ。今日アタシを尾行てたのは、オマエラだけじゃなかったんだよ」
「……はい?」
「正確にはここ数日ずっと、だがよ。四六時中、付かず離れず覗かれるもんで、いい加減ウザくなってきたから今日で片ァ付けるつもりだったんだが……」
仕上げとばかりにぺろりと耳たぶを一舐め、一善の身体が離れる。
ひゃぁと悲鳴を上げる正示をよそに、がっしと腕組み仁王立ち、
「オラ、出てこいよ!」
大音声での呼び掛けに、進行方向、街路樹の木陰から人影が歩み出る。
見知らぬ男だった。正示の身長より頭二つ分は高い堂々たる体躯に、巨木を連想させる厚い胸板、丸太のように太い手足。藍の作務衣を着込んでおり、頭には同色の手拭を海賊風に巻いてある。彫りの深い顔は、厳しい表情で固定されていた。
「ヒトサマの逢瀬を覗き見たァ、ずいぶんと趣味が悪いな。名は?」
命令口調で告げる一善に、男が重々しく口を開いた。
「……〈セフィラスフェザー〉第二実働部・部長、〈峻厳〉の山里・隆」
見た目そのままの低く、硬い声での名乗りに、正示は息を飲む。
その名前に覚えがあった。
沙希から耳にタコが出来るほど言い聞かされてきた〈セフィラスフェザー〉、組織の中核を担う人物の名と同じものであり、
「――〈セフィラスフェザー〉の、幹部……!」
寝耳に水の邂逅に、警戒のレベルを最大限に上げる正示とは対照的に、一善はへらへらとした口調のままに、
「で? そのお偉いさんが、いったいぜんたい何の用だよ」
「神代・一善。貴様を連行せよとの命を受け、推参した」
決定事項を告げるかのような返答を受け、一善は今度こそ歯を見せ笑う。
思いがけず旧友と再会したかのような、不意打ちの驚きと純粋な喜びに満ちた晴れやかな表情で、
「ヤダっ言ったら?」
「力尽くでも」
山里が応じた直後、傍らに立っていたはずの一善の姿が、忽然とかき消えた。
弾! と凄まじい踏み切りの音を置き去りに、正示が反応した時にはもう、一善は山里の眼前で握った拳を振り上げていて、
「――うおっ!?」
打撃を放たんとするその瞬間に、つんのめるようにして体勢を崩した。
突撃の勢いもそのままに山里の脇を抜け、石畳に四つ足で着地する。
何故、と思う暇もなく、一善が再度の跳躍。空中で踊るように身を翻し、着地するや即座に三度目の跳躍を敢行、正示の隣へと舞い戻る。
「い、一善さん!?」
「あっぶねェ危ねェ。奴さん、事前に仕込んでやがった」
改めて何を、と問おうとして、正示も気付く。
「囲まれてるぜ……?」
周囲の街路樹、その枝葉の陰から、こちらに向けられる夥しい数の視線。
ぞく、と背筋に寒気を感じた直後、葉陰の中から何物かが飛び出して来た。
宵闇に紛れ、正示を狙って一直線に来襲する何かに対し、一善は紫電の如き速度で斜線に割り込んで、
「――そうりゃ!」
右の手刀を袈裟に一閃、襲撃者を切って落とした。
かつん、と音を立てて石畳に転がったものの正体を見、正示は呟く。
「木彫りの、鳥……?」
太い嘴に漆黒の翼。それは、驚くほど精巧に作られた木彫りのカラスであった。
正示の気付きに応じるように、山里が口を開く。
「――俺のアドレスは『彫刻家』。素材に宿る形質を削り出し、意志ある物体として彫り起こす」
巌の如き顔面に、ほんの僅かに笑みを浮かべて、
「総黒檀の一本彫だ。出来に関しては満足しているが、いかんせん手間がかかるのでな。予め準備させて貰った」
淡々と告げられる台詞に、正示は瞠目する。
通常、クリエイターによって産み出される『クリーチャー』は、制作段階で描写にかけた時間でもって、実存在として活動できる時間が大きく左右される。たっぷり時間を掛けられる要撃ならともかく、対クリエイター戦闘においては即時即応を要求されるため、最短で数秒、最長でも一時間程度で消失するのが関の山なのだ。
しかし、中には例外もある。デザイナーの作り出す『アーティファクト』のように、素材や構造に上乗せする形でアドレスを発揮、『クリーチャー』でありながら段違いの活動限界時間を持った、『アーティファクト・クリーチャー』である。
正示も実物を見たのは初めてだが、本部のデータベースには一カ月も活動し続けた例も記録されている。おそらくではあるが、一善の監視についていたのも多分彼ら《・・》だ。疲れを知らぬ『アーティファクト・クリーチャー』であるからこそ、昼夜を問わず監視を続けられたのだろう。
正示の足元、転がっていた木像が、叩き落としのダメージなど感じさせない軽やかな動きで飛翔、中空へと舞い戻る。
山里が数歩、後方へと退く。場の空気が戦意に満ちる。
「行け」
主人の簡潔極まりない号令に従って、周囲を取り巻く街路樹から羽撃きの音が重なった。
予想を遥かに越える羽音の塊に、正示が反射的に身を竦ませた刹那、
「――う、わぁ!」
耳のすぐ側を、風切りの音も鋭く木像が通過していった。
「伏せてろ、セージ!」
指示を叫び、一善が迎撃に動く。この宵闇の中、影に溶けて限りなく不可視の矢と化したカラスの群れを、ネズミ花火のように慌ただしく立ち回り、的確に弾き飛ばしていく。
三十羽にも及ぶカラスの群れが、引っ切りなしに襲い来るのだ。いくら一善とはいえど、正示を守っていては防戦に徹するしかなく、
「ああもおっ、数が多すぎらァ! ボサっとしてねえで手伝えセージ!」
先ほどとは正反対の指示を怒鳴る一善に、正示も慌てて腰を上げ、
「は、はい!」
「無駄だ」
応じの声を遮断するように、山里が否定の言を被せる。
「彫れるのは木材だけではないぞ」
正示の二倍はありそうな太い腕を掲げ、ばちん、と指を弾き鳴らして、
「これで、詰みだ」
宣告の直後、まるでマジシャンの行使する奇術の如く、夜空から月が消えた。
何事かと空を見上げ、気付く。
消えたのではない。覆い隠されているのだ。
月光を背に飛翔する、巨大に過ぎる翼。工事用の杭打ち機の如き嘴に、見るからに凶悪な左右の鉤爪。
それは、かの『千一夜物語』に謳われるロック鳥を連想させる、特大の鷹の彫刻であった。
翼開長七メートルにも及ぶ岩の巨躯は、どう控えめに見積もっても鳥類の飛翔限界重量を超過している。にも関わらず、ゴツゴツした双翼で風打ち滞空しているその様は、もはや圧巻の一言に尽きる。
「こいつァ凄エや……」
さすがの一善も、唖然として宙を見上げていた。
周囲には、依然としてカラスたちが旋回して風の檻を成している。空中には要塞の如き威厳を放つ大鷹が睨みを利かせている。前後左右上下に至るまで、どこにも逃げ場はない。
「これが最後の通告だ。抵抗を止め、おとなしく投降しろ」
山里の頑とした声音に、恥も外聞もかなぐり捨てて白旗を上げてしまいたくなる。
そんな正示の弱気を見透かしたかのように、山里は勧告は続けて、
「遠藤・正示。貴様に用はない。余計な邪魔立てさえしなければ、危害は加えんと約束しよう」
名指しで呼び付けられ、正示はごくりと唾を飲み込む。
カラスの檻越しに山里を見据え、
「……なぜ、一善さんを狙うんですか?」
率直な疑問に対し、山里は僅かに一言、
「答える必要はない」
すげない返答を聞き、正示はちらりと一善を見る。
任せる、とでも言いたげな挑発的な笑みを見て、今度こそ腹を括った。
乾く喉を再度唾飲み湿らせて、記憶の中から沙希の口上を引き出し一拍、
「――く、空現法違反及び、こ、公務執行妨害の現行犯で、あなたを逮捕しましゅ!」
「ならば諸共!」
山里の怒号に呼応して、待ってましたとばかりにカラスたちが旋回半径を縮める。
檻の中、正示と一善も背中合わせの迎撃態勢を取って、
「さァて、お誂え向きの土壇場だ」
「ず、ずいぶんとまた、楽しそうですね……」
あくまでもマイペースを貫く一善を背に任せているせいか、正示もヤセ我慢を返すだけの気概は保てた。
「そんじゃま確認だ。前にアタシが言ったコト、覚えてるか?」
一善の問いに、正示は頷く。
迷いはある。恐れもある。
だが、もう逃げない。自らの意志で、踏み止まると決めたのだ。
だから、
「戦います!」
革のズボンの尻ポケットから、キャップ付きのチビた鉛筆を取り出す。
肺に酸素を送り込み、限界近くで呼吸を止めて、
――描く!
イメージするのは逆巻く波濤、広く、深く、どこまでも続く大洋の蒼。
そして――“冥府の使者”の異名を持つ、海獣の覇王。
速度を至上命題として、極限まで最適化された流線形のフォルム。黒曜石にも似た光沢を放つ背に、砕ける波を思わせる腹の白。死神の鎌を連想させる左右と背のヒレに、太く逞しい尻尾。鋸のように並ぶ鋭い牙と、目許を飾る特徴的な白の隈取り。
一心不乱に鉛筆を動かしながらも、頭の隅で好調を感じる。線が走る。思った通りの軌道を描く。風刃飛び交う戦場に在りながら、まるで放課後の美術室で一人、スケッチブックに向かっているような深い集中を感じる。意識の海の奥深くまで潜っていく。朧げなイメージが加速度的に鮮明になっていく。
なにかに取り憑かれたかのように猛烈な勢いで描画を行う正示を見、脅威を感じ取った山里が動く。
腕の一振りで、自らの作品群に集合を指示して、
「――させんと言った!」
轟、と風鳴りの重奏を響かせて、カラスの群れが黒の槍と化す。
殺到する暴風を目の当たりにして、正示の集中が途切れかけるも、
「黙ってみてなあッ!!」
啖呵を切って歩み出る頼もしい背中に下駄を預け、描写を再開する。
横殴りの豪雨の如く飛来する鳥類の群れを、一善は超人的な反射神経を発揮し捕捉、化け物染みた四肢の連打で一つ残らず打ち払っていく。
「うりゃ・おりゃ・たりゃ・そりゃ・ほりゃ・ぬりゃ――!」
ズガガガガガと、機関銃を思わせる擦過の音が響き連なり重なって、ついには真っ二つに割ってのけた最後尾、最後の難関が現れる。
左右の鉤爪を突き出し、砲弾の如く突撃してくる大鷹に対し、一善は身を低く、始まりの合図を待つ短距離走の選手のように屈み込む。
スタートを切る。放たれた矢の如く全速前進、彼我の距離が一瞬で縮まり、
「――ほわっちゃあ!」
踏み切り放った飛び蹴りが、鉤爪をすり抜け胴体を捉えた。
流星の如き蹴撃に針路をずらされ、大鷹は本来の獲物である正示を仕留め損なう。
空中でトンボを切り、ひねりまで入れて着地した一善が振り向けば、大鷹を中心に、カラスの群れが再度合流、編隊を組んで突撃してくるのが見え、
「呼べよ、セージ!」
一善の号令が響くと同時、描画が完了する。己が作業をざっと見直し、確信を得る。ここ最近では、文句無しに最高の出来だ。
だからとばかりに、正示は声の限りを振り絞り、
「――来い!!」
呼び掛けに応え、顕現した巨大な逆叉が、牙を剥き出しカラスの群れへと躍りかかった。
隊列から中ほどまでを一呑みに、残りを巨躯の体当たりでもって強かに打ち据えれる。
痛烈な一撃でもって先陣を粉砕した逆叉が、描いた本人もたじろぐほどの巨体をくねらせ正示の周囲をぐるりと一泳ぎ、空中に座す大鷹を睨み付ける。
対峙する双方の戦意がぶつかり、場の空気が張り詰めていく。
示し合わせたように、両者が動く。
隕石の如く風を圧殺しながら滑空する高空の王と、月をも飲み込まんと跳躍する海の覇者とが、中空で交差する。
重く、激しい衝撃の波が、大気を震わせる。
大鷹の鉤爪は逆叉の腹部に深々と突き刺さっており、逆叉の牙は大鷹の首筋に食らい付いていた。
二匹の巨獣が、互いに止めを刺さんと荒れ狂う。
大鷹の岩の身体に、びしりと亀裂が広がっていく。
腹を裂かれた逆叉が、傷口から黒鉛の血煙を上げる。
死闘はしかし、長くは続かなかった。逆叉の顎門から力が抜け落ち、黒の粒子と化して霧散したのだ。
決着を見届け、正示は呆然と立ち尽くす。
負けた。自身の精一杯すらも届かなかった。
だが、
「見事!」
思いがけず放たれた山里の称賛に、挫けかかっていた意志の炎が再燃する。
――まだだ……!
弱音を振り切り鉛筆を構える正示を傍らに、一善もペキパキと指を鳴らしつつ、
「さて、まだ戦るかい?」
尋ねに、山里はかすかに口角を上げて、
「一度退く。この戦力では、貴様を捕らえきれん」
予想外の撤退を告げるやいなや、大鷹が主のもとへと舞い戻る。
鉤爪が触れぬよう主の肩を掴み上げ、今にも砕け散ってしまいそうな双翼を広げて風を打つ。
中空に浮かんだ山里が、口を開く。
「遠藤・正示。先の一点に敬意を表し、貴様の問いに答えよう」
意志に満ちた、確然とした声で、
「全ては我らが大願成就のため――貴様の兄、誠一郎が望む新しい世界を創り出すために、神代・一善の力が必要不可欠なのだ」
告げられた台詞に、正示は殴りつけられたような衝撃を受ける。
急激に鼓動が早まる。視界が狭まり、膝が笑う。それでもなお、今を逃してはならないと恐慌に駆られて叫ぶ。
「――兄さんを知っているんですか!?」
山里は答えず、大鷹が風を打つ。
「待って下さい!」
制止の声は、夜空に吸い込まれ虚しく響くばかりであった。