第十二話
一善が転校してきてから、あっという間に十日が経過した。
荒鬼ヶ丘での一件以来、〈セフィラスフェザー〉の動向も静かなもので、日常は至極淡々と過ぎ去っていった。
ただ一人――正示を除いては。
この十日間、事あるごとに一善の襲撃を受け、昼夜を問わず西へ東へ連れ回された正示は、疲弊困憊の極みに達していた。
若い者が何を言うか、と思われる豪気な諸先輩方もおられるだろうが、物事には程度というものがある。
例えば、先週の水曜日。
前日深夜に至るまで、一善が衝動買いした三千ピースの巨大ジグソーパズルの組み立てに付き合わされて、睡魔に抗いながらも学生寮まで辿り着いたのが既に明け方である。
当番制の寮長に見つからぬようこっそり自室に潜り込み、糸の切れた操り人形の如くベッドに倒れ込むも、九十分後には目覚まし時計の情け容赦ない騒音に叩き起こされる。ゾンビの如き面相と足取りで登校、授業内容を微睡みの中で右から左に聞き流し、束の間の休息を思う存分貪る。
昼休み。昼食といえば購買部で売っている菓子パンか登校途中に買ってきたコンビニ弁当を主食としていた正示を見かねて、一善が二人分の弁当を作ってきてくれるのだが、その量が凄い。一段二段三段と、どう見てもサイコロ状の弁当箱が机の上を埋める様は、もはや壮観を通り越して異様ですらあった。
高難度アプローチである手作り弁当を目の当たりにして女生徒たちがきゃーきゃーと黄色い声を上げるのをよそに、男子生徒から正示に対して向けられる視線は漆黒の殺意を孕んだ相当に危険なものであったのだが、いかんせん当人には気に止める余裕すらない。兎にも角にも栄養摂取が最優先である。一善に付き合っていると、冗談ではなく一食抜いたら死にかねないのだ。もはや他人の目を気にしている場合ではない。血走った目で昼食をかっ込む。
ここいらでようやく目が覚めてくる。午後、男女混合の体育の授業中に事件は起こった。陸上、百メートル走のタイム計測。一善の挑発を受けた担当の体育教師が、もし記録を破るような事があればクラス全員にジュースを奢ると約束したのだ。正示を筆頭に、入学以来の部活見学と称して運動部を端から回っている彼女の身体能力を知っている何名かがニヤリとほくそ笑む。結果から言えば一善は女子の全国タイ記録という凄まじいタイムを叩き出し、体育教師にがっくりと膝を付かせた。ショックから回復し、必死に公式大会に出ようと縋り付く体育教師を「めんどい」の四文字で一蹴、ようやく迎えた待望の放課後。
一秒でも早く寮に帰り泥のように眠りたい、と切望する正示をあざ笑うかのように、一善が観光がてら遊びに行こうと誘い持ちかけてくる。ここ数日の経験から、最終的に自分に拒否権は無いのだと学んだ正示がこれを承諾するも、ここでまたも事件が起こる。
連日正示を連れ回し夜遊びに勤しむ一善に対し、ついに腹を据えかねた沙希が校門で待ち構えていたのだ。ひとたまりもなく怯える正示、うんざり顔の一善を前にがっしと腕組み仁王立ち、睡眠不足による集中力散漫及び学力低下の示唆、軽度重度問わず犯罪に巻き込まれることへの危惧、非行に走る少年少女と夜間外出の関係性などを切々と説く沙希に対し、一善は「そんなにセージが心配なら一緒に来りゃいいじゃん」とあっさり返し、結局は沙希を含めた三人で双篠杜へくりだす羽目になった。
未区の中心地、白夜城と並ぶ、東都でも一、二を争う繁華街だけあり、街は仕事を終えたサラリーマンやOL、自分たちと同じく放課後を謳歌する学生たちで賑わっていた。大型書店にファーストフード店と、高校生らしいといえば高校生らしい定番コースをハシゴした後、久しぶりにダーツがしたいと言う一善の要望に、珍しく沙希が乗り気で意見を重ね、一路ダーツバーへと向かう。
そして、その日最後にして最大級の事件が起こる。
その日、産まれて初めてダーツを行う正示に対し、一善・沙希のスパルタタッグによる厳しいレクチャーが行われている最中だった。
近くでプレイしていた外国人と思わしきビール腹の男が、何事か野次を飛ばしてきたのだ。
自己申告だけでも二十ヶ国語を解する一善が、水を得た魚の如く食って掛かる。はじめは仲裁に入っていた沙希も、意訳ながら内容を聞かされてからは一善側に付き、あとはもう売り言葉に買い言葉である。凄まじい勢いで罵倒が飛び交い、乱闘寸前の険悪な空気に正示がオロオロしているうちに、なぜかダーツで決着を付ける運びとなった。
選ばれたゲームはカウントアップ。十ラウンドのうちにどれだけ高い点が取れるか、というシンプルなルールである。騒ぎを聞き付けた周囲の客や店で働く従業員まで、この降って湧いた大勝負を観戦しようと詰め掛けていた。
勝負が始まった。いつの間にやら正示の隣に陣取っていた、自称常連の中年男性によれば、相手のビールっ腹は一昔前までプロの世界で活躍していた有名なプレイヤーであるという。なるほど確かに、その見た目に反した正確さで的の中心に位置する小さな円、高得点のブルエリアに矢を投げ入れていく。
だが、相手は誰あろう一善である。自信満々の態度通り、投げられた矢は正確に的の中心部を射貫く。ダーツマシンがひっきりなしに快音を鳴らし、見守る観客たちも一投毎に熱を上げていく。初心者の正示の目から見てもはっきり分かるほどの、おそろしくハイレベルな戦いだった。
互いにミスらしいミスも無く、勝負は接戦のまま最終ラウンドまでもつれ込む。
おお、とどよめきが上がる。先攻のビールっ腹が、三投中三本とも『ブル』エリア内に投げ入れる、通称『ハットトリック』を決めたのだ。
点差は百四十。一本でも外せば、その時点で一善の負けが決まる。
どうだ、とばかりに胸を張るビールっ腹に対し、一善は余裕綽々でウィンクを返した。
絶対に外せない第一投を、一善はしかし気軽に投擲。
真ん中。
おお、と感嘆の声が漏れる中、間を置かず第二投が放たれる。
真ん中。
一際大きな歓声が上がる。気の早い観客が指笛を吹き鳴らした。
そして、三投目。
す――と矢を構える。
ただそれだけの動作で、あれだけ沸いていた店内が水を打ったように静まりかえった。
その場にいる誰もが呼吸さえ躊躇うような凄まじい集中力を以て、一善が矢を投げ放ち、
――ド真ん中。
数瞬の間を置いて、爆発的な歓声が上がった。
勝負を決めた右腕を高々と掲げる一善に対し、ギャラリーから割れんばかりの拍手が送られる。称賛の嵐の中、一善はがっくりと項垂れるビールっ腹の肩を叩き、にっかり笑って握手を求めた。しばらくは憮然としていたビールっ腹もやがてこれに応え、まるで往年の少年マンガの如く「やるじゃねえか」「お前もな」的な友情が芽生える。そのまま雪崩式に発生した馬鹿騒ぎに巻き込まれて、結局その日も寮に戻れたのは深夜近くであった。
そんな生活をたっぷり十日間である。神様でさえ一週間に一度は休んだと云うのに。もとよりインドア派の正示である。正直、体力的にも精神的にも、だいぶ参っていた。
それでも、まったく楽しくなかったと言えば嘘になる。
一善に誘われて初めて体験した事柄、足を踏み入れた場所は、自分でも呆れてしまうほど本当に多い。多少大袈裟な表現だが、この十日という僅かな時間で正示の知る世界は大きく広がったのだ。
その実感を踏まえ、思う。
十年と云う膨大過ぎる時間を、世界を放浪することに費やした一善は、いったいどれほどの景色を見、記憶してきたのであろうか。
いや、それ以前に――
何故、彼女は世界を見て回っていたのだろうか。
たったそれだけの問いを尋ねることが出来ないまま、迎えた週末。
事件は起こった。