第十一話
一善が台所に消え、ひとり室内に取り残された正示は、勧めに従い壁際に設置されている本棚へ向かう。
まるで書店か図書館の如く、右から左までずらりと並んだ蔵書は壮観の一言である。家具らしい家具もない室内にあって、このコーナーだけ異彩を放っていた。
十全博士の趣味なのか、ざっと見ただけで小説やエッセイ、専門書にマンガ、児童向けの絵本に海外の写真集、図鑑に辞典、聞いたこともない作曲家の楽譜などなど、およそ統一性とは無縁の内容であった。
三度の飯より読書好きな沙希が見たら喜ぶだろうなぁ、などと思いつつ、画集を抜き出し眺めていると、
「うぉーい、出来たぞー! 運ぶの手伝えー!」
「――あ、はい!」
台所からの声に、慌てて腰を上げつつ腕時計を確認すれば、なんと一時間近くも経過していた。ちょっとした時間潰しのつもりが、どうやらすっかり見入ってしまっていたようだ。
画集を元の場所に仕舞い、なにやら良い匂いが漂ってくるキッチンへと向かえば、
「あー、まずは手ぇ洗ってけ」
指示通り丁寧に両手を洗い、改めて平台に置かれた完成品と対面する。
「おお……?」
正示の顔ほどもありそうな銀盆に乗っているのは、中身の違う四つのお椀であった。それぞれ赤、白、橙、緑と彩りが違う。中央には炊きたてほくほくの白米が、「どかん!」という感じで鎮座している。
湯気と共に立ち昇ってくる香辛料の匂いに刺激され、腹の虫が悲鳴を上げる。
「インドで寺院見て回ってた時に、飯屋やってるおばちゃんから教えて貰ってな。ミールスっつって、まぁ向こうの定食みたいなもんだ。ほんとは下にバナナの葉っぱ敷くんだけれども」
「カレー、ですか?」
見た目そのままに問う正示に、一善は「んー」と片眉を上げて、
「正確には違うんだけどな? そもそも、カレーの語源であるところの『カリ』ってのは単純に『おかず』って意味なんだよ。料理単品の名前じゃねえんだ」
説明に相槌を打っている間にリビングに到着。銀盆をテーブルに置き、対面するように腰を下ろす。
「まぁ、うんちくはどうでも良いやな。今日は鶏肉と黒胡椒のと野菜とヨーグルトの、二種類作ってみた。ほれ、冷めねぇうちに食え食え」
食え食えと言われても、正示の見る限り、スプーンもフォークも見当たらない。
盛大に困惑しつつも、勇気を出して尋ねてみる。
「え、ええと、どうすれば……?」
案の定、一善は「あぁ?」と片眉を上げた呆れ顔になり、
「ったく、見てろよ?」
言うなり、見るからに辛そうな赤銅色のお椀を手に取った。
「まず、好きな方を好きな分だけ飯にぶっかける」
言葉通り、うりゃっと無造作にぶっかける。
「次に、右手でもって適当に混ぜる。多少熱くても我慢だ我慢。あー、左手使うなよ? 郷に入っては郷に従え、だ」
ぐにぐにと乱暴にかき混ぜながらも解説を続け、
「そんでもって、右手の人差指、中指、薬指ですくって、」
一口サイズにまとめて口元へ運び、
「最後に、親指で押し出すようにして口に放り込む。……んむ、我ながら美味え!」
うんうんと自画自賛する一善に習い、正示も見様見真似で椀を傾ける。
素手でご飯かき混ぜるというシチュエーションに盛大に違和感を覚えつつも、一口分をすくいあげ、おそるおそる口に運んで、
「――うま。」
思わずそう呟いていた。
胡椒のきいた鳥肉と、甘辛いルゥがまず抜群に美味い。これ単体でも十分に美味しいのだが、ほのかにジャスミンの香りがする白米と一緒に味わうことによって、美味みが何倍にも増幅されているような気がする。あまり食事には気を使わないたちである正示にでも、一口だけで分かるほどの絶品であった。
率直すぎる感想に、一善は何とも嬉しそうに顔全体に笑みを広げて、
「だろぉ? スプーンでお行儀良くってのも良いが、やっぱ素手でガツガツいくのが一番だな。ほれ、白い方も試してみ。紅白混ぜて食っても美味いぞ?」
促されるがままに、忙しく手と口を動かす。
白の椀を引っ掴み、掻き混ぜて一口。こちらは多種多様な野菜の旨みが複雑に絡み合い、飲み込んでしまうのが勿体ないほどである。その涼しげな見た目通り、喉越しは至極サッパリとしたもので、食べれば食べるほど空腹が増すような錯覚さえ覚えた。
右手は既に赤と白の斑模様に染まっているが、構わず残ったお椀を手に取って、
「こっちは?」
「サンバルっつって、季節の野菜と豆のスープだな。この国で云う味噌汁みたいなもんだ。隣のがラッサム。トマトだとかニンニクなんかが入ってる少し辛めのスープ。タマリンドは入れときたかったんだが、やっぱこっちじゃ売ってねえのな」
喜々として解説しつつ、一善も本腰を入れて食事に取り掛かる。
そこからは早かった。互いに言葉も交わすことなく、十分とかからずきれいサッパリ平らげて、
「……ご馳走様でした」
「あいよ、お粗末様」
二人揃って腰を上げ、食器を片付ける。多少熱の残った右手を洗い、食後のチャイ――インド式の紅茶らしい――を片手にリビングに戻ってから、正示は改めて感想を口にする。
「すっごく美味しかったです……。お世辞じゃ無しに、こんなに美味しいカレー、産まれて初めて食べました」
心からの賞賛に、一善は照れくさそうな顔で、
「――好きなんだよ、料理」
出し抜けに、そう切り出した。
「どんだけ遠い国に行っても、そこで生活してんのはおんなじ人間なんだからよ。目もありゃ鼻もあるし、当然舌も生えてらぁな。だったら、たとえ言葉が違かろうが文化が違かろうが、美味いって思う気持ちは皆おんなじはずだろ?」
はい、と正示は心からの賛同を示す。
「そいで、こっちもこっちで美味いモン作んぞってぇ気合入れて作るワケだから、やっぱ美味しいって言われた時にゃあ、そりゃあ嬉しいのよ。『ああ、伝わったんだ』ってな」
そう言って気恥ずかしげに笑う一善に、正示も頷く。
「きっとさ、絵も同じだよ。もっと言やァ音楽も写真も文学も、古今東西ありとあらゆる創作活動は、誰かに何かを伝えたいってぇ気持ちから始まるんだ。もちろん、テメェが納得するため、満足するためだけに創るってのが悪いたァ言わねえ。アタシ個人としちゃあ、もったいねぇとは思うがな?」
さて、と一拍を置いて、一善は伸ばした足をあぐらに組んだ。
微妙な雰囲気の変化を感じ、正示も背筋を伸ばす。
「んじゃまぁ本題だ――」
そう言うやいなや、ほくほくの恵比須顔だった一善の表情が、突如として悪鬼羅刹の如くに豹変した。
ぎろり、という擬音が聞こえそうなほど鋭く正示を睨み付け、一善は口を開く。
「……テメェ、なんで戦いたくもねえのに戦っていやがる?」
いきなりの問いかけに、正示は冷や水を浴びせられたかの如く凍り付く。
なんの前触れもなしに図星を指され、ひとたまりもなくパニックに陥る正示に対し、一善はなおも容赦なくガンをつけながら、
「西へ東へあっちこっち飛び回ってりゃーよ、それなりにドンパチやらかす場面にも出くわすもんだ。おかげでイヤでも目端も利いてくる。それを踏まえた上で言わせてもらえりゃ、昨日のありゃあヒドいもんだぜ」
眉根を寄せた険の表情で言葉を続け、
「サキはまだいい。なにがあったかは知らねーが、アイツの目にゃあ、たとえ相手を傷付けようともってェ覚悟の色がある。あのガスマスク共もだ。大袈裟な物言いに隠れちゃいるが、一端の気概をもって相対に望んでいやがった」
だが、と強い語調で前置いて、一善は言う。
「セージ、テメェにはそれがない。あるのは敵も味方も傷付けまいとする、漠然とした理想だけだ。お優しいの結構だがな、そんなハンパな気持ちでノコノコ鉄火場出てきてどーすんだよ。そんなんじゃあオマエ、いつかマジにおっ死ぬぞ?」
荒々しい声音には、しかし色濃く心配の響きが滲んでいた。
フン、と一息を挟み、ほんの少し語調を緩めて、
「争いを厭いながらもなぜ戦うのか、何故かと理由は問わねェよ。アタシはオマエのママじゃねえし、あいにくとまだコイビトってほど深い仲でもねえしな」
ニヤリとからかうような笑みを見せ、すぐに真面目な顔に戻して、
「だがよ、ダチの気に食わねえトコぐらいはハッキリ指摘しておきたい。いざって時に、後悔だきゃあしたくねェかんな。だからこそ、今日だって無理言ってメシに誘ったんだ」
夕食の誘いに込められた真意に、正示は改めて驚き入る。
捻くれた見方をすれば、単なるお節介である。昨日出会ったばかりの人間に対し、無理矢理忠告を押し付ける非常識極まりない言動である。
だが、しかし。
どこまでも真摯な一善の言葉が、苦悩に縛られた心の奥深くまで、真っ直ぐに突き刺さる。
「こっから先も戦いの場に立つつもりなら、これだけは覚えときな」
正示が頷くのを待って、一善は言う。
「なぜ戦うのか迷っていても良い。適当に理由付けてごまかすよりゃあよっぽどマシだ。誰か傷付けることを恐れていても良い。その優しさが、いつか誰かの助けになる時が来る」
一拍を置いて、
「ただ、迷いや恐れを言い訳にして、相手の意志から逃げたりすんな。真っ向から受け止めて、その上でしっかり自分の思いを伝えやがれ。それが――戦う者の流儀ってモンだ」
一善の一言一句を心に刻み付け、正示はありったけの感謝の念を込めて、もう一度深く頷く。
それを見て、一善は秋晴れのようにさっぱりとした笑みを浮かべて、
「うし! 説教終わり!」
ぱん、と両手で左右の膝を打ち、満足げにあぐらを解いた。
ほどよく温くなったチャイを一息で飲み干し、「ぶはー」と親父くさいため息をつく。
空気が弛緩し、正示も喉元までせり上がってきたいた感慨を飲み干さんとチャイティーを手に取って、
「そういや、話は変わるけどよお……」
あくまでも気軽に、明日の天気を尋ねるかのように何げなく、
「〈セフィラスフェザー〉だかって連中には、何処に行きゃ会える?」
直球の問いに、正示は反射的にえーと、と思考を巡らす。
一秒、二秒、三秒が経過して、
「――って危なぁー! 思わずさらっと答えちゃう所でしたよ!?」
ちぃ、と指を鳴らす一善に、正示は緩みきっていた緊張感を大慌てで高めつつ、
「き、基本的に、〈セフィラスフェザー〉に関してもアドレス能力に関しても、一般の方には話しちゃいけない決まりなんですよ……」
「ンだよ、ケチくせえな。いーじゃねえか、オマエから聞いたってコトは内緒にしとくからさ」
「ダ、ダメですって……。もし沙希さんや椎名さんにバレたら、肉体的にも精神的にも、ついでに社会的にも抹殺されちゃいますよ……」
なおも必死に抵抗する正示を前に、一善は獲物に忍び寄る猫科の猛獣の如き四つ足で、こちらに身を乗り出してくる。おお、その顔に貼り付いた笑みのなんと邪悪なことか。
「おいおい、タダ飯喰らって逃げようってのか?」
「い、一善さんから誘ってきたんじゃないですか!」
視線は外さず、床に尻をこすりながら後退するのだが、すぐに壁際にまで追い詰められてしまい、
「別にカラダに聞いたって良いンだぜぇ……?」
「ひ、ひぃっ! それ以上近付かないでぇっ!」
不穏な会話を交わしつつ、じりじりと距離を詰めてくる一善に対し、正示がもはや如何なる抵抗も無駄だと悟る。
思えば短い人生だった、とギュっと目を閉じ覚悟を決めた、その瞬間であった。
――ぴんぽん、と。
間の抜けたインターホンの音に、一善は獲物から視線を逸らし、チッ、と舌を鳴らす。
「どうやら、着いたみてぇだな」
「お、お客さんですか? お邪魔ならすぐに帰りますが……」
反射的に腰を浮かしかける正示を、一善は「いんや?」と首を横に振って制し、
「多分サキだよ。アタシが呼んだんだ」
時間が止まる。
「……は? ……え?」
呆然とする正示に、一善は擦り切れたジーンズのポケットをごそごそまさぐって、
「これ、なーんだ?」
その手にぶら下がっているのは、見紛う事なき正示の携帯電話であった。
なぜ、と半ば思考停止に陥った正示に追い討ちをかけるように、一善はとびっきりのイタズラを成功させた悪ガキのような上機嫌な顔で、
「さっき裸絞めかけた時に、ちょちょいっとな。適当にいじってたらサキに繋がったから、メシ喰おうぜーって連絡したんだが……」
目の高さに掲げた携帯を、片眉を上げた怪訝そうな顔で睨み付け、
「それにしても、ずいぶんとお早い到着だな。正確な場所教えたワケでもねぇのに」
「え、ええと、その携帯、〈クリフォトスフィア〉からの支給品で、持ってる人の現在地を捕捉できるんですよ」
ほーへーと携帯を眺める一善の姿を見、正示はよろよろと壁に背を預ける。
何だか、ものの数分でどっと疲れたような気がする。
そんな正示を横目に、来客を迎えに腰を上げた一善は、不意にぴたりと足を停めて、
「んじゃま――この続きはまた今度、な?」
振り返り様に、駄目押しの台詞を言い放つのであった。