パープル・ヘイズ
頭痛と吐き気がすさまじい。まっすぐに歩けない。音が聞こえない。聾唖というのはこういものなのか。今朝吸ったクスリがまだ躰の中を回っているのだろう。たしかLSDだったろうか。ペーパー・アシッドというらしいが、あれは面倒くさい。症状は和らいできた。帰ったら、薬局から盗んだメチルフェニデートの錠剤を飲もう。このクスリは気分こそ落ち着くが眠れなくなる。副作用だろう。他にも、たしか、食欲が減るんだったと思う。そんなに頻繁には服用しない。
『前から誰か来る。』避けられない。当たってしまう。僕も向こうも倒れてしまう。
「ヤクか。気をしっかり持て。倒れちまったら終わりだ。」
無理やり僕の左肩に手を回し、路地裏に隠す。吐き気がこみ上げる。咽まで来ると押し返せない。
『うぅっ。』唸った。倒れそうだが、躰は男に支えられている。フラついて、地面に屈む。ポケットからメチルフェニデート錠の箱が落ちる。持っていたことに自分でも気付かなかったらしい。
「こんな物まで持ってやがるか。若けぇのに、やっちまったな。」
『警察か。』そう思った。対応が冷静すぎる。ドラマでも〈私服警官〉というのをみたことがある。この東京という、ギラギラした人工の太陽がいくつも連なる街には、警官があふれる。日本の治安が悪くないのも、このせいだろう。
目が覚めた。メチルフェニデートを飲んだらしい。頭痛はまだ残っていて、咽が矢鱈と渇く。覚えのないベッドの上には僕以外なにもない。ここは二階らしく、床のしたから女の快楽の悲鳴が聞こえる。ベッドから起きると、あのときほど、フラつきはしない。歩ける。階段は急であるが、一段一段は高くない。悲鳴は近くなり、そして、もう一つ、男の声がする。遊んでいる。自分も経験があった。音立てぬように降りてきたが、声のする部屋のドアの手前で、がっ、と言う音を立ててしまった。ドア越しに
「起きたか。入れよ。遠慮すんな。」
という聞き覚えのあるような無いような声がする。女の声は止まった。
「あれから何時間経った?」
自分でも、この問いはいきなりすぎた、と思ったが余裕などない。しかし、これで、この男が警察でないことはわかった。警察なら、古くさいマンションで、娼婦を犯したりはしないだろう。
「8時間くらいだな。紅茶を出そう。おい、キャシー、紅茶だ。」
下半身にはタオルが巻いてある。
「暖かくないよ。」
とキャシーは返事をする。ついさっきまで貫かれていたというのに、切り替えの早さに圧倒される。
「椅子に座って待ってろ。シャワーを浴びる。」
言われるがままに、木でできた椅子に腰を預け、紅茶を待った。キャシーという女は、金髪の細く、白い肌をしている。キャシーの持ってきた紅茶は暖かく、微糖であった。
「あんた名前は?どこから来たの?」
左手で紅茶を飲み、右手で乱れた髪をとく。
「名前はユウジ。東京だ。あんたらは一体?」
「あたしはトレバーの取引についてきただけよ。あんたもドラッグに溺れてるの?」
キャシーは口角をひきつらせ喋る。
「そんなにさ。強くはないと思う。メチルフェニデートなんかは大したことない。」
そういえば、ポケットから落ちたメチルフェニデート錠はどうしたのだろう。
「そのクスリは良くないわよ。ハイになれない。滅入っちゃうくらいよ。」
たしかにメチルフェニデートは、披露を増やす。眠らなくさせられる。食欲不振にもなる。中毒性があるわけでもない。
「あの日はLSDだった。」
「ペーパー・アシッドやったの? カプセルって言うのもありよ。それとも、ゼラチンかしら?」
薬について詳しいようだ。おそらく、中毒者だろう。
「ペーパー・アシッドだ。それ以外は知らない。あんたもヤってんのか?」
「あたしはトレバーのおこぼれよ。ヘロインばっかりで嫌になるわ。」
このキャシーという女といい、あの男といい、アメリカ人なのだろうが日本で取引とはただ事ではない。厄介なことに巻き込まれなければいいが、そう思いつつポケットからメチルフェニデート錠の残りを出し、口内で粉砕した。
「ウィスキーは無かったか。あれはジャパニーズにはキツいかもな。ヤるかい?」
バスローブを纏い、大股に部屋には行ってくる。手に持っているのは、注射器だ。
「モルフィンだ。わかるか? ヘロイン。」
聞いたことがある。確か、劇薬ではなかったか。
「やめておくよ。あんたらの取引ってのはなんだ?」
「首を突っ込むか? 敵対する気か? やめておけ。」
目の威圧感は凄みを感じるが、慣れてしまっているため恐怖はない。
「あぁ。 なぁに聞くだけさ。」
「・・・まぁ。いいだろう。アヘンの取引だ。あれは、一部の裏業者がベンツが買えるほどの金で買ってくれるんだ。」
日本でも、麻薬の取引はあるらしい。
「どこでやるんだ? アヘンが日本にあるってのか?」
「日本であるというだけさ。取引の相手はチャイニーズだ。短気な連中さ。すぐに、ピストルを抜きやがる。」
予想通り、という感じだった。話の流れから察するに、取引場所は恐らく、港。
「裏業者の買い取り手はどこの人間だ?」
相手よりも問題となる、買い手。これは大事である。
「イタリアのなんとかっていうマフィアさ。やつら霊柩車のようなベンツに乗りやがる。」
僕は、昔のことを思い出した。イタリア貧民街にいたころ、宝石強盗をしたことがあった。




