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『浮気くらいで婚約破棄とは大げさだ』 と言われたので

『浮気くらいで婚約破棄とは大げさだ』と言われたので、婚約者の一族を三日で没落させました

作者: みやこ
掲載日:2026/10/31

舐められたら絶対殺すウーマンを書きました。

1.私の婚約者は、踏んではいけないものを踏んだ

 




「浮気くらいで婚約破棄とは大げさだ!」


エドガー・ベルモント伯爵令息は、たいそう立派な声でそう言った。


私は紅茶を飲んだ。


うまい。


この屋敷の茶葉は私が取り寄せたものだ。茶器も私が贈った。ついでに言えば、エドガーが座っている椅子も私の金で購入した。


「そうか」


「そうか、じゃない! お前はいつもそうだ! 何を考えているのかわからない!」


「今日は天気がいいな、と」


「馬鹿にしているのか!」


「いや。窓を開けたら気持ちがよさそうだと思っただけだ」


エドガーの顔が真っ赤になった。


私の名はヴァレリア・クロウフォード。


三十一歳。元王国軍第一騎兵連隊長。退役時の階級は大佐。


今は戦争で得た恩賞と、退役後に興した事業の収益で暮らしている。


顔の左半分には、額から頬にかけて大きな傷がある。右手の小指もない。


女としては、あまり出来のいい商品ではないだろう。


だから婚約者には、それほど多くを求めていなかった。


多少の浮気は構わない。


散財も、私の財布を破産させない範囲なら目をつぶる。


愛情などという不確かなものを要求するつもりもなかった。


ただし、私の部下を粗末に扱わないこと。


それだけは婚約するとき、はっきり伝えてあった。


「ヴァレリア様」


エドガーの隣で、金髪の令嬢が口を開いた。


「どうかエドガー様を責めないでください。私たち、本当に愛し合っているんです」


「そうか。おめでとう」


「……え?」


「幸せになれ」


令嬢が困惑している。


祝福してほしかったのではないのか。


「だから!」


エドガーが机を叩いた。


「俺が言いたいのは、婚約を解消するほどのことではないという話だ!」


「ふむ」


「お前だって、その顔で俺以外に結婚してくれる男がいると思うのか?」


令嬢がくすりと笑った。


なるほど。


「つまり、君は愛人を持つが、私には妻としての立場を守れと」


「やっと理解したか」


「わかった」


私は頷いた。


「では、婚約は解消する」


「…………は?」


「君は好きな女と結婚すればいい。私も好きに生きる」


立ち上がる。


「待て!」


エドガーが私の腕をつかんだ。


「そもそも、こんな騒ぎになったのはお前のせいだろう!」


「何がだ?」


「あの薄気味悪い連中だ!」


私は動きを止めた。


「……誰の話をしている?」


「お前が屋敷に置いている、役立たずの兵隊どもだ!」


窓の外で鳥が鳴いた。


私はゆっくり椅子に座り直した。


「続けろ」


「片腕のない男に、足を引きずる女! 顔に火傷を負った老人! お前はあんな連中を雇って、伯爵家の品位を落としているんだ!」


私は黙って聞いた。


「だから全員解雇してやった!」


エドガーは得意げだった。


「今朝、荷物をまとめて出ていくよう命じた。お前が甘やかすから、いつまでも自立できないんだ!」


「……ほう」


「特にあの片腕の男! 言い返してきたから、使用人たちの前で平手打ちしてやった!」


その瞬間。


私の中で、何かが静かに切れた。


「名前は?」


「は?」


「その男の名前を言ってみろ」


「知るか! 使用人の名前など!」


私は立ち上がった。


エドガーが反射的に一歩下がる。


私は笑った。


昔から、笑うと怖いと言われる。


「エドガー」


「な、なんだ」


「君は、ずいぶん運がいい」


「……は?」


「私が退役していてよかったな」


私は右手を差し出した。


「婚約指輪を返せ」


「なぜだ!」


「返せ」


少し声を低くした。


エドガーは慌てて指輪を外した。


「これで満足か!」


「ああ」


指輪を受け取る。


「最後にひとつ教えておこう」


私は彼の肩に手を置いた。


「君が殴った男の名は、マーカス・グレイだ」


「だからなんだ!」


「私が敵の包囲を突破するとき、左腕を失いながら軍旗を守った男だ」


「昔の武勇伝など知らん!」


「そうだろうな」


私は彼の肩を軽く叩いた。


「三日だ」


「何が?」


「三日あれば十分だろう」


微笑む。


「君の家を片づけるには」


エドガーは笑い出した。


「ははは! 脅しか! 所詮お前は女だぞ!」


「そうだな」


私は扉へ向かった。


背後で、彼の笑い声が響いている。


実に愉快そうだった。


虎の尾を踏んだ男が、その上でタップダンスを踊っている。


止めてやる義理はない。


私は屋敷を出た。


よく晴れた午後だった。


ああ。


いい天気だ。


戦争を始めるには、申し分ない。









2.初日――伯爵家の金を止める


「大佐!」


屋敷に戻ると、マーカスが玄関で待っていた。


五十を過ぎた片腕の男だ。


頬が赤く腫れている。


「痛むか」


「いえ。大したことはありません」


「医者を呼べ」


「この程度で医者など――」


「マーカス」


「……はい」


「私は今、非常に機嫌が悪い」


「存じております」


「だから逆らうな」


「了解であります!」


マーカスが背筋を伸ばした。


私は彼の肩を叩いた。


「悪かったな」


「大佐?」


「私の男を見る目がなかったせいで、嫌な思いをさせた」


マーカスは目を見開いた。


「とんでもありません! 大佐が謝ることでは――」


「私が選んだ男だ。私の責任だ」


私は執事に命じた。


「全員を呼べ」


「全員、ですか?」


「ああ。戦争だ」


十分後。


私の執務室には、十七人の男女が集まった。


元兵士、商人、会計士、情報屋。


いずれも、私が信用している人間だ。


「ベルモント伯爵家を潰す」


全員が頷いた。


驚く者はいなかった。


長年の付き合いとは、そういうものだ。


「期限は三日。法に触れることはするな。だが、手加減もいらん」


会計責任者のエレナが眼鏡を押し上げた。


「財務から始めましょう」


机に大量の書類が積まれた。


ベルモント伯爵家。


歴史だけは長いが、財政はひどい。


領地経営は赤字。


屋敷は抵当に入っている。


事業資金は借金。


そして、ほぼすべての借入先が、私の傘下だった。


「……改めて見ると、ひどいな」


「大佐が婚約してから、毎年支援しておられましたからね」


「昨年だけで金貨八万枚です」


「そんなに使ったか?」


「お使いになりました」


「ふむ」


私は少し考えた。


「私は男に貢ぐ才能があるのかもしれん」


「今回限りで廃業してください」


「善処しよう」


「絶対ですよ」


エレナは書類をめくった。


「まず、今月末に返済期限が来る短期融資が四件。合計金貨一万二千枚です。従来は大佐の個人保証を前提に、期限を延長していました」


「保証を外せ」


「新たな保証人が見つからなければ、銀行は延長を拒むでしょう」


「それでいい」


「商会の倉庫契約も、明日で期限切れです」


「更新する義務は?」


「ありません」


「ならば更新しない」


エレナのペンが走る。


「なお、ベルモント商会は王都の食料品輸送を一部担っています」


「市民に迷惑はかけるな。代替業者を手配しろ」


「すでに三社確保しています」


「仕事が早いな」


「大佐の婚約者が馬鹿だと判明した時点で、万一に備えていました」


「……いつからだ」


「二年前です」


私は頭を抱えた。


「なぜ教えなかった」


「十七回ほど申し上げました」


「すまん」


エレナは深いため息をついた。


「大佐は戦場では天才なのに、恋愛になると敵軍に自分から補給物資を届けるんですよね」


「反論できん」


そのとき。


窓の外から、馬のいななきが聞こえた。


「おや」


マーカスが顔を上げる。


「珍しい客ですな」


庭に入ってきたのは、巨大な黒馬だった。


その背に、ひとりの男が乗っている。


日に焼けた肌。


黒い髪。


広い肩。


背中には大剣。


そして、腹が立つほど整った顔。


「……レオン?」


私は思わず立ち上がった。


レオンハルト・ヴァイス。


三十四歳。


王国軍北方方面軍の将軍。


私が軍人だった頃、何度も死地をともにした男だ。


彼は馬から降りると、私を見て笑った。


「久しぶりだな、ヴァレリア!」


「お前、北方にいたのでは?」


「昨日帰った」


「なぜここに?」


「お前が婚約破棄したと聞いてな!」


私は眉をひそめた。


「耳が早いな」


「喜びのあまり馬を飛ばしてきた!」


「…………喜び?」


「ああ!」


レオンは満面の笑みを浮かべた。


「ようやく俺にも勝ち目が出た!」


私は黙った。


マーカスが咳払いした。


エレナは書類で顔を隠した。


「……何の勝負だ?」


私が尋ねると。


レオンは真顔になった。


「お前を嫁にする勝負だが?」


沈黙。


私はゆっくり椅子に座った。


「……誰か、酒を持ってこい」


「大佐、まだ昼です」


「知っている」


「将軍のお話は素面で聞いてください」


「無理だ」


レオンが豪快に笑った。


「相変わらず面白い女だ!」


私は思った。


こいつは昔から、戦場で敵陣に突っ込むときより、女を口説くときのほうが無茶苦茶だ。






3.求婚者は、戦場より手ごわい


「断る」


「まだ何も言っていないぞ」


「顔を見ればわかる」


「では、改めて言おう」


「言わんでいい」


レオンは私の前に立った。


そして、片膝をついた。


……おい。


「ヴァレリア・クロウフォード」


「立て」


「俺と結婚してくれ」


「立てと言っている」


「俺はお前が好きだ」


「聞け!」


執務室の全員が、息を殺している。


エレナなど、いつの間にか菓子を食べ始めていた。


見世物ではないぞ。


「お前の剣も、頭も、部下を守るところも好きだ」


レオンは私を見上げた。


「お前が笑うと、俺は嬉しい」


……。


「お前が泣くなら、俺がそばにいる」


…………。


「俺が先に死ぬことになったら、最後に見たいのはお前の顔だ」


「……馬鹿者」


私は片手で顔を覆った。


何を言っているんだ、こいつは。


そんなことを真正面から言われたら。


困るだろうが。


「……お前は昔から、女の口説き方を知らんな」


「そうか?」


「ああ」


「では教えてくれ」


「なぜ私が!」


「お前にしか使わんからだ」


エレナが菓子を噴いた。


「将軍、強い……!」


私はエレナを睨んだ。


「仕事をしろ」


「しております!」


「菓子を食べながらか」


「糖分は脳の燃料です!」


レオンが立ち上がった。


「まあ、返事は急がん」


「そうしてくれ」


「まずはデートだな」


「話を聞いていたか?」


「聞いていた。返事は急がん」


「ならば――」


「だから、まずデートだ」


私は額を押さえた。


頭が痛い。


戦場で三千の騎兵を相手にしたときより、面倒な男だ。


しかも、この男の厄介なところは、決して馬鹿ではないことだ。


レオンの母親は、異国から連れてこられた奴隷だった。


父親は先代国王。


王族の血を引きながら、王族とは認められなかった男。


美しい顔は父親譲りだと噂されたが、本人はそんなことを気にしなかった。


十五歳で軍に入り、最前線で剣を振るい、二十年かけて将軍にまで上り詰めた。


王族の庶子と呼ばれれば、


『そうだ。だからどうした』


と笑う。


奴隷の息子と侮られれば、


『母は立派な女だった。俺の自慢だ』


と胸を張る。


誰にも媚びない。


誰も見下さない。


ただ己の剣と信念で、生きている。


私は、そういう男が好きだった。


……いや。


今のは、違う。


人間として評価しているという意味だ。


決して、男としてではない。


「ヴァレリア」


「なんだ」


「顔が赤いぞ」


「暑い」


「窓を開けようか」


「やめろ」


「では水を」


「いらん」


「抱きしめたほうがいいか?」


「なぜそうなる!」


マーカスが腹を抱えて笑い始めた。


こら。


お前のために戦争を始めるところなんだぞ。


少しは緊張しろ。


その日の夕方。


ベルモント伯爵家に、最初の通知が届いた。


融資延長の拒否。


個人保証の解除。


そして、翌日で終了する倉庫契約の更新拒絶。


まだ誰も、事態の深刻さを理解していなかった。


エドガーは恋人を連れて劇場へ行ったらしい。


実に結構。


最後の夜を楽しんでくれ。











4.二日目――伯爵家の看板を叩き割る


「ヴァレリア! どういうことだ!」


翌朝。


エドガーが私の屋敷に押しかけてきた。


私は朝食中だった。


焼きたてのパン。


目玉焼き。


厚切りのベーコン。


それから、なぜか正面にはレオンが座っている。


「……お前、なぜいる」


「朝食に誘われた」


「誰に?」


「マーカスに」


マーカス。


あとで話がある。


「ヴァレリア!」


エドガーが怒鳴った。


「銀行が金を貸さないと言ってきた! 倉庫も使わせないと!」


「そうか」


「そうか、じゃない!」


私はパンにバターを塗った。


「君の家の商売だろう。君の父上と相談したまえ」


「お前が手を回したんだろう!」


「私が何をしたと?」


「融資を止めさせた!」


「違うな。私は保証人を辞めただけだ」


「同じことだ!」


「違うぞ」


私はナイフを置いた。


「君の家が自分の信用で借りられる金なら、私は何もできない」


エドガーは口を開閉した。


「……お前は、婚約者だろう!」


「昨日、解消した」


「まだ正式な手続きが――」


「両家の署名は済んでいる。君の父上が今朝、了承した」


「父上が!?」


「そうだ」


私は紅茶を飲んだ。


「今頃、君に話していると思ったが」


エドガーの顔が青ざめた。


「お、お前……本気なのか?」


「何がだ?」


「俺を捨てるつもりなのか!」


私は首を傾げた。


「君は浮気相手と愛し合っているのだろう?」


「そ、それとこれとは話が別だ!」


「そうか」


「俺はお前を妻にしてやると言っているんだぞ!」


そのとき。


レオンが口を開いた。


「なあ、お前」


「なんだ! 部外者は黙っていろ!」


「そいつを妻にするのが、そんなに嫌なのか?」


「は?」


「俺は十年待ってもいいと思っているが」


エドガーが固まった。


「……誰だ、貴様」


「レオンハルト・ヴァイス」


「…………え?」


「北方方面軍のレオンハルトだ」


エドガーの口が開いた。


閉じない。


北方の獅子。


王国最強の将軍。


敵国の精鋭部隊を三度撃破し、一騎討ちで敵将を討った男。


貴族の子弟なら、名前くらいは知っている。


「しょ、将軍……?」


「ああ」


「な、なぜ、こんなところに……」


「求婚に来た」


「……誰に?」


「ヴァレリアに」


レオンは当然のように言った。


「今、口説いているところだ」


エドガーの顔が、なんとも愉快な形に歪んだ。


「そ、そんな馬鹿な……」


「何が馬鹿なんだ?」


「そ、その女は、顔に傷が……!」


レオンの笑顔が消えた。


空気が変わった。


「……それが?」


低い声だった。


私は知っている。


この声を出したレオンは、相当怒っている。


エドガーも何かを感じ取ったらしい。


「い、いや、その……」


「その傷を負った戦いで、俺はこいつに命を救われた」


レオンが立ち上がった。


「傷がついたとき、俺はすぐ隣にいた」


エドガーが後ずさる。


「こいつが顔を焼かれながら敵を引きつけたおかげで、俺は生きている」


「……」


「だから俺は、この傷を見るたびに思う」


レオンは私を見た。


「生きていてくれて、よかったとな」


…………。


やめろ。


そんな顔で見るな。


私は視線を逸らした。


「……レオン。大げさだ」


「事実だ」


「朝食中だぞ」


「そうだな。ベーコンが冷める」


レオンは座った。


そして普通に食事を再開した。


切り替えが早い。


私だけが、どうしていいかわからなくなっている。


「……で?」


私はエドガーを見た。


「まだ用があるか?」


エドガーは唇を震わせた。


「お、お前……こんな男と……!」


「まだ何もしていない」


「そうなのか?」


レオンが嬉しそうにこちらを見た。


「では、これから何かするか?」


「黙って食え!」


エドガーは悲鳴のような声を上げて帰っていった。


私はため息をついた。


「朝から騒がしいな」


「そうだな」


レオンはベーコンを頬張った。


「ところでヴァレリア」


「なんだ」


「今夜、暇か?」


「……何を企んでいる」


「デートだ」


「またそれか!」


「駄目か?」


私は返事に詰まった。


レオンは私を見ている。


真っ直ぐに。


妙な駆け引きも、計算もない。


……困る。


こういう男には、弱い。


「……夕食だけだ」


「よし!」


レオンが立ち上がった。


「馬車を用意する!」


「まだ朝だ!」


「服も買わねば!」


「お前は将軍だろう!」


「今日は休暇だ!」


彼は颯爽と部屋を出ていった。


私は頭を抱えた。


エレナが静かに言った。


「大佐」


「なんだ」


「おめでとうございます」


「まだ何も決まっていない」


「将軍は決めておられるようですが」


「私は決めていない!」


マーカスがにやりと笑った。


「大佐、口元が緩んでおります」


「……マーカス」


「はい」


「今日の訓練、倍にするぞ」


「片腕の老人にご無体な!」


「元気そうで何よりだ」


私は紅茶を飲んだ。


……どうにも、落ち着かない。


戦場では、一度もこんな気分になったことがないのに。


  



 


5.伯爵家、笑えなくなる




同じ日の午後。


ベルモント伯爵家では、地獄のような会議が開かれていた。


「どういうことだ、エドガー!」


伯爵が息子を怒鳴りつけた。


「ヴァレリア嬢と婚約を解消しただと!?」


「ち、父上! あの女が勝手に!」


「馬鹿者!」


伯爵は机を叩いた。


「我が家の財政を誰が支えていたと思っている!」


「そんなもの、銀行から――」


「その銀行が貸さないと言ってきているのだ!」


伯爵の顔は真っ赤だった。


実は、ベルモント家の危機は昨日始まったわけではない。


五年前から、家計は破綻寸前だった。


領地の収入は減り続け、借金は膨れ上がる一方。


それでも貴族としての体裁を保てていたのは、ヴァレリアが資金を提供し、彼女の信用で融資を受けられていたからだ。


エドガーはそれを理解していなかった。


「だ、だったら別の銀行に借りればいい!」


「どこも貸さん!」


「なぜだ!」


「我が家には担保にできるものが残っておらんのだ!」


伯爵は頭を抱えた。


そこへ執事が駆け込んできた。


「旦那様! 大変です!」


「今度はなんだ!」


「ベルモント商会の取引先から、契約解除の通知が!」


「なぜだ!」


「商品の納期を保証できないため、今後の発注を見合わせると!」


輸送網を失った商会は、注文を履行できなくなっていた。


契約書に定められた納期を守れない。


当然、取引先は離れる。


しかも代替業者は、すでにヴァレリアが押さえていた。


市場は止まらない。


ベルモント商会だけが、取り残されたのだ。


「お、おのれ……!」


伯爵が震えた。


「ヴァレリアめ……!」


エドガーはそこで、ようやく気づき始めた。


自分が何を失ったのか。


しかし、まだ事態を甘く見ていた。


「父上! あの女に謝らせましょう!」


「……何?」


「我が家にこんな仕打ちをして! 貴族社会で生きていけなくしてやる!」


伯爵は息子を見た。


長い沈黙。


そして。


「……お前は」


伯爵の声が震えた。


「本当に、何もわかっておらんのだな」


エドガーは眉をひそめた。


「何がです?」


「ヴァレリア・クロウフォードを、ただの金持ちの女だと思っていたのか?」


「違うのですか?」


伯爵は椅子に崩れ落ちた。


「……終わった」


窓の外では、教会の鐘が鳴っていた。






6.デートは、奇襲より難しい


その夜。


私は鏡の前に立っていた。


黒いドレス。


胸元には小さな真珠。


髪はいつもより丁寧に結い上げた。


……似合わん。


私はため息をついた。


軍服なら、どう着れば美しく見えるかわかる。


剣を持って立つ姿勢にも自信がある。


だが、ドレスとなると話は別だ。


鏡には、傷だらけの女が映っていた。


左頬の傷が、白い肌にくっきりと浮かんでいる。


私は化粧箱を開いた。


傷を隠すための化粧品。


昔、一度だけ買ったものだ。


試してみたが、かえって目立つような気がして、使わなくなった。


「……今さら、何をしている」


私は箱を閉じた。


この顔は、私が生き延びた証だ。


恥じるものではない。


そう思っている。


思っている、はずなのだが。


好きな男に、美しいと思われたい。


そんな気持ちが残っているとは思わなかった。


「……馬鹿馬鹿しい」


私は鏡に背を向けた。


階段を下りると、玄関にはレオンが待っていた。


黒い礼服。


整えられた髪。


いつもより少しだけ上品な姿だ。


……くそ。


似合うな。


「待たせた」


私が声をかけると、レオンは振り向いた。


そして、固まった。


「……レオン?」


「…………」


「おい」


「…………参った」


「何がだ」


「想像以上だ」


「何の話をしている」


「美しい」


私は固まった。


「…………は?」


「ヴァレリア。お前は美しいな」


「……」


「知っていたつもりだったが、俺の見積もりが甘かった」


私は目を逸らした。


「……世辞はよせ」


「世辞ではない」


「傷がある」


「知っている」


「小指もない」


「知っている」


「三十一だ」


「俺は三十四だ」


「……そういう話では」


レオンは私に近づいた。


そして、そっと手を取った。


「俺の目には、お前が一番美しい」


…………。


どうしよう。


敵軍三千騎が突っ込んできたときより、心臓がうるさい。


「……お前は」


「うん?」


「昔から、こういうことを平気で言うな」


「平気ではないぞ」


「嘘をつけ」


「手が震えている」


私は彼の手を見た。


本当だった。


わずかに、震えている。


「……緊張しているのか?」


「当たり前だ」


レオンは笑った。


「好きな女を口説いているんだからな」


私は、とうとう何も言えなくなった。


この男はずるい。


卑怯だ。


真正面から来るくせに、私の守りを全部抜いてくる。


その夜、私たちは王都の小さな料理店に行った。


高級店ではない。


庶民が利用する、賑やかな店だ。


「ここでいいのか?」


私が尋ねると、レオンは頷いた。


「ここの肉料理がうまい」


「なるほど」


「お前、昔から肉が好きだっただろう」


「覚えていたのか」


「当然だ」


レオンは席に座ると、迷わず料理を注文した。


香草焼きの鶏。


牛肉の煮込み。


焼きたてのパン。


山盛りの温野菜。


「……頼みすぎでは?」


「お前は食うだろう」


「食うが」


「俺も食う」


「そうか」


私は笑ってしまった。


この男といると、妙に気楽だ。


高価な宝石も、甘い言葉を並べた手紙もない。


ただ、うまい飯がある。


それで十分なのかもしれない。


「ヴァレリア」


「なんだ」


「ベルモント家の件、手伝おうか」


「不要だ」


「そうか」


レオンはあっさり引き下がった。


「止めないのか?」


「なぜ止める?」


「……婚約者の一族を潰そうとしている女だぞ」


「知っている」


「怖くないのか」


「怖い?」


レオンは少し考えた。


「お前を怒らせたら怖いとは思う」


「だろうな」


「だから怒らせないようにする」


「……ふむ」


「それに、俺がマーカスの立場なら、同じことをされたら腹が立つ」


レオンは肉を切った。


「お前の部下は、お前を信じて戦ったんだろう」


「ああ」


「なら、お前が守ってやれ」


私は彼を見た。


胸の奥が、妙に温かくなる。


……ああ。


そうか。


私は、こういう言葉が欲しかったのか。


軍を退いてから、私はよく言われた。


もう戦争は終わった。


いつまで昔の部下の面倒を見るつもりだ。


負傷兵など、国に任せればいい。


そんな言葉ばかりだった。


だが、レオンは違う。


私が何を守ろうとしているのか、最初から理解している。


「……ありがとう」


「何がだ?」


「いや」


私は肉を口に運んだ。


「うまいな」


「だろう!」


レオンが嬉しそうに笑った。


その顔を見て、私は思ってしまった。


……この男と食べる飯なら。


毎日でも、悪くない。


いや。


待て。


何を考えている。


私はまだ、婚約破棄したばかりだぞ。


「ヴァレリア」


「な、なんだ!」


「口元にソースが」


「……!」


レオンが布巾を差し出した。


私は慌てて受け取った。


彼は笑っている。


「かわいいな」


「……殺すぞ」


「それは困る」


「なら黙れ」


「難しい注文だ」


私は赤くなった顔を隠すため、ワインを飲んだ。


……まったく。


恋愛とは、なんと恐ろしいものだ。











7.三日目――伯爵家の最期


三日目の朝。


ベルモント伯爵家に、裁判所の執行官が訪れた。


返済期限を過ぎた借入金。


担保権の実行。


商会の資産差押え。


伯爵が泣きついても、契約書の内容は変わらなかった。


「私は伯爵だぞ! 貴様ら、ただで済むと思うな!」


怒鳴る伯爵の目の前で、先祖代々の絵画が運び出される。


夫人は宝石箱を抱えて逃げようとしたが、それも差押えの対象だった。


「いやあああ! 私の宝石が!」


夫人が床に転がって泣き叫ぶ。


エドガーは、愛人の令嬢にすがりついていた。


「君だけは、俺のそばにいてくれるだろう?」


「……財産がなくなったって、本当ですの?」


「あ、ああ。だが、必ず取り戻す!」


「どうやって?」


「それは……」


「私、貧乏な暮らしなんて嫌ですわ」


令嬢は彼の手を振り払った。


「さようなら、エドガー様」


「ま、待ってくれ!」


彼女は振り返らなかった。


エドガーは玄関まで追いかけ、雨で濡れた石段に足を滑らせた。


派手に転び、鼻から血を流す。


「……誰か!」


彼は叫んだ。


「誰か助けろ!」


使用人たちは顔を見合わせた。


そして、誰も動かなかった。


すでに全員、退職を申し出ていたからだ。


午後には、さらに悪い知らせが届いた。


ベルモント伯爵が長年にわたり、領民の災害復興税と戦死者遺族への補償金を着服していた証拠が、王立監査院に提出されたのである。


調査の結果、伯爵の領地行政権は停止された。


刑事裁判も始まる。


家名を守る望みが絶たれ、伯爵は爵位返上を申し出た。


ベルモント伯爵家は、三日で終わった。


もっとも、私は少しも驚かなかった。


もともと腐っていた柱から、私が支えを外しただけだ。


倒れるのは当然だった。


その日の夕方。


私の屋敷の門前に、エドガーが現れた。


「ヴァレリアああああ!」


雨の中、彼は泥だらけになっていた。


高価な上着は破れ、片方の靴はなくなっている。


「頼む! 助けてくれ!」


私は門を開けさせた。


エドガーは這うように近づいてきた。


「俺が悪かった! 何でもする! だから、もう一度婚約を――!」


「断る」


「頼むよおおお!」


彼は私の足にすがりついた。


「愛してるんだ! ヴァレリア! 本当なんだ!」


「そうか」


「だったら!」


「私には関係ない」


私は彼の手を外した。


「君は、マーカスを役立たずと呼んだな」


「……!」


「腕を失ってまで私を守ってくれた男だ。私は、あいつが生きていてくれるだけで十分だと思っている」


「だから謝る! 謝るから!」


「謝罪なら本人にしろ。もっとも、許すかどうかはマーカスが決める」


「じゃあ、許してくれたら……!」


「君の家には戻らんよ」


エドガーの顔がくしゃくしゃに歪んだ。


「そんな……そんなの、あんまりだろう!」


突然、彼は拳で地面を叩き始めた。


「俺は伯爵家の跡取りだったんだぞ! こんなの間違ってる! 何で俺が、こんな目に!」


泥が跳ねる。


涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃになる。


「お前さえ! お前さえ怒らなければ!」


私は彼を見下ろした。


「エドガー」


「……っ!」


「君の父親が盗んだ金は、私が盗ませたのか?」


「……」


「借金を重ねたのも、君たちだ」


「で、でも!」


「私の金を自分のものだと勘違いした。それだけの話だ」


私は踵を返した。


「待ってくれ! 待って! ヴァレリア!」


エドガーが叫ぶ。


「俺を置いていくなあああ!」


私は振り返らなかった。


門が閉まる。


あの男の泣き声が、雨にかき消された。


それで終わりだった。








8.女大佐、最大の敗北


「終わったか?」


玄関に戻ると、レオンが待っていた。


「ああ」


「ご苦労だった」


「……まったく。三日も無駄にした」


「三日で済んだなら上出来だろう」


レオンは笑った。


私は濡れた外套を脱ぐ。


「ところで、お前はなぜ毎日いるんだ」


「求婚中だからな」


「……まだ諦めていなかったのか」


「諦める理由がない」


レオンは私の手を取った。


「ヴァレリア」


「なんだ」


「俺と結婚してくれ」


「またか!」


「今度はちゃんと返事を聞きたい」


彼は片膝をついた。


戦場では一度も膝を折ったことのない男が、私の前で跪いている。


「俺はお前と生きたい」


真っ直ぐな目だった。


「一緒に飯を食って、喧嘩して、年を取って。それが俺の望みだ」


……。


私は息を吐いた。


なんて、欲のない男だろう。


王族の血を引く将軍が望むものが、私との食事と喧嘩だという。


「……レオン」


「なんだ」


「私は、いい妻にはなれんぞ」


「そうか?」


「料理は苦手だ」


「俺が作る」


「刺繍もできん」


「俺もできん」


「愛想もよくない」


「知っている」


「怒ると怖いぞ」


「それも知っている」


私は笑った。


「……それでもいいのか」


レオンは豪快に笑った。


「俺はお前に惚れたんだ。今さら別人になられても困る!」


……ああ。


負けた。


この男には、一生勝てないかもしれん。


「……いいだろう」


私は彼の手を取った。


「結婚してやる」


レオンが目を見開いた。


「本当か!」


「二度は言わん」


「ヴァレリア!」


次の瞬間。


私は抱き上げられていた。


「おい!」


「嬉しくてな!」


「下ろせ!」


「嫌だ!」


「将軍ともあろう者が、何をしている!」


「嫁を抱いている!」


「まだ嫁ではない!」


「では、いつならいい!」


「結婚式のあとだ!」


「わかった!」


レオンは私を下ろした。


そして真顔で言った。


「明日、式を挙げよう」


「早い!」


「では明後日!」


「軍の作戦じゃないんだぞ!」


レオンは笑った。


私も、つられて笑った。


まったく。


この男といると、調子が狂う。


「……ヴァレリア」


「なんだ」


「口づけてもいいか?」


私は彼を見上げた。


大きな男だ。


強い男だ。


そして、私を誰よりも大切にしてくれる男。


……悪くない。


「……一度だけだ」


そう言うと、レオンは嬉しそうに顔を近づけた。


唇が重なる。


短い口づけだった。


離れると、彼は私を見つめた。


「もう一度」


「一度だけと言っただろう!」


「では明日」


「明日の予約を取るな!」


私は思わず笑った。


レオンも笑っている。


その顔を見て、私はふと思った。


……もう少し、生きたいな。


この男と、うまい飯を食べて。


くだらないことで喧嘩して。


朝になったら、隣で寝ている顔を見て。


年を取って、白髪になって。


それでも、笑っていたい。


「……レオン」


「なんだ?」


「今夜も飯を食っていくか」


「ああ!」


「何が食べたい」


「肉だ!」


「昨日も肉だったぞ」


「お前と食うなら何でもうまい!」


「……馬鹿者」


私は笑った。


顔の傷が引きつる。


昔は、それが嫌だった。


だが今は、少しも気にならない。


レオンが私を見て、嬉しそうに笑っているからだ。


それから三か月後。


私はこの男と結婚した。


結婚式では、軍人たちが一斉に剣を掲げて祝福してくれた。


そして、私の夫となったレオンハルト・ヴァイスは、誓いの口づけを終えた直後、私を抱き上げた。


「おい! 人前だぞ!」


「俺の妻だからな!」


「まだ式の途中だ!」


「なら早く終わらせよう!」


参列者たちが爆笑した。


私は顔を覆った。


……ああ。


しまった。


とんでもない男と結婚してしまった。


だが、後悔はしていない。


私は戦争には強い。


敵を叩き潰すことなら、誰にも負けるつもりはない。


けれど。


どうやら、恋愛には弱いらしい。


そして、その弱点を知った夫は、一生かけて私を甘やかすつもりのようだった。


……まったく。


恐ろしい男に捕まったものだ。


私は笑った。


今度こそ、心から。


〈完〉



すこしでもおもしろければ評価おねがいします。

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