【連載版あり】私が笑っていることが、そんなに気に入りませんか?
連載版を始めます。詳しくは後書きにて。
「婚約破棄して欲しい」
婚約者であるヴィルヘルム・ローデンからそう告げられた時、リーゼ・エルフェルトは、すぐには返事をすることができなかった。二人が婚約したのは三年前で、ヴィルヘルムがほかの令嬢へ心を移したという噂を聞いたこともなければ、リーゼ自身が婚約を終わらせられるほど大きな失敗をした覚えもない。
あと半年ほどで結婚式の日取りについて話し合う予定になっており、最近では侯爵夫人になった後に必要となる領地経営についても学び始めていた。今日だって婚約者同士でいつものように時間を過ごすものだと思っていたのに、向かいの長椅子へ腰掛けているヴィルヘルムは冗談を言っているようには見えなかった。
「……理由を聞いてもよろしいでしょうか。私に何か至らないところがあったのでしたら、きちんとお聞きしたいです」
「本当に分からないのか?僕は以前から何度も伝えてきたつもりだ。君はいつまで経っても、侯爵夫人になる女性として相応しい振る舞いを身につけようとしない」
ヴィルヘルムは困った相手を諭すように話しており、自分のほうが正しいのだと疑っている様子もない。リーゼは自分の振る舞いを思い返したものの、婚約を終わらせなければならないほどの失敗には思い至らなかった。幼い頃から伯爵令嬢として必要な礼儀作法を学び、社交界へ出るようになってからも、母や家庭教師から厳しく注意されたことはない。夜会で相手を不快にさせるような言葉を口にした覚えもなく、身分を理由に誰かを見下したこともなかった。
「先日の茶会でもそうだっただろう。僕が迎えに行った時、君は友人たちと楽しそうに笑っていた。これまで何度も注意してきたのに、僕がいないところでは以前と同じように振る舞っている」
「私の笑い方に、何か問題がありましたか?」
「笑い方そのものを問題にしているわけではない。淑女なら、面白いことがあったからといって簡単に感情を表へ出すべきではないと言っているんだ。まして君はいずれ侯爵夫人になる。誰から見られても落ち着いていて、感情に左右されない女性でなければ困る」
先日の茶会では、学院時代から親しくしている令嬢たちと久しぶりに顔を合わせていた。一人が学院へ入ったばかりの頃の失敗談を披露し、本人まで笑いながら話すものだから、リーゼもつられて笑ったのである。声を張り上げたわけでもなく、口を大きく開けたわけでもない。目元を緩めて小さく笑った程度で、同席していた令嬢たちも似たようなものだった。
ヴィルヘルムから笑い方について初めて注意されたのは、婚約して二か月ほど経った頃だった。親しい友人に招かれた茶会へ参加した帰り、迎えに来てくれたヴィルヘルムと馬車へ乗ったところで、「今日は少し笑いすぎていた」と指摘された。リーゼは自分でも気づかないうちに声が大きくなっていたのかと思い、その場では素直に謝ったものの、家へ戻って母へ尋ねても笑い方がおかしかったとは言われず、翌日には同席していた友人からも何も気にならなかったと言われた。それでも侯爵家へ嫁ぐ女性には伯爵家で育った自分が知らない作法があるのかもしれないと考え、次から気をつけるとヴィルヘルムへ約束した。
次に注意されたのは夜会だった。昔から付き合いのある令嬢に冗談を言われて笑みをこぼしたところ、帰り際に「もう少し表情を抑えたほうがいい」と言われ、その次の園遊会では、年配の婦人から若い頃の失敗談を聞いて微笑んだだけで、「人前であまり嬉しそうな顔を見せるものではない」と指摘された。理由を尋ねるたび、ヴィルヘルムは侯爵夫人になるのだからと説明し、今のうちに身につけておかなければ将来リーゼ自身が恥をかくことになるのだと繰り返した。
リーゼも、彼が意地悪をしたくて言っているのだとは思わなかった。ヴィルヘルムは真面目な性格で、酒や賭博にのめり込むこともなく、婚約者がいる身でほかの令嬢へ不用意に近づくこともない。約束を破ることも滅多になく、リーゼが体調を崩した時には見舞いの品を届けてくれたこともある。侯爵家の事情については当然ヴィルヘルムのほうが詳しいのだから、彼の妻となるために必要なことを教えてくれているのだと思い、指摘されるたびに自分なりに直そうとしてきた。
面白い話を聞いても声を出さないようになり、笑みが浮かびそうになれば口元を意識するようになった。それで注意されなくなると思っていたのに、しばらくすると今度は「笑顔が大きすぎる」と言われ、さらに時間が経つと「友人と話している時に表情が緩みすぎている」と指摘されるようになった。知人へ挨拶しながら微笑めば、誰にでも愛想よくする必要はないと諭された。どこまで変わればヴィルヘルムの求める淑女になれるのか分からないまま、それでも婚約者として認めてもらおうと努力しているうちに、彼がそばにいる時には笑う前にその顔を見る癖までついていた。
以前より落ち着いたとヴィルヘルムから褒められた時には、自分の努力がようやく実を結んだのだと嬉しくなった。それからも気をつけていたのだが、母からは反対に「ヴィルヘルム様と一緒にいる時だけ、随分静かになったわね」と心配され、親しい友人からも以前より笑わなくなったのではないかと聞かれた。リーゼ自身も彼と会った後には妙に疲れていることが増えていたものの、結婚するのなら互いに合わせなければならないこともあるのだと考え、深く気にしないようにしていた。
それを三年間続けてきた末に、ヴィルヘルムから告げられたのが婚約破棄だった。
「僕も一度や二度のことで決めたわけではない。君には何度も直す機会を与えてきたし、そのたびに君も気をつけると言っていた。それなのに、僕が見ていないところへ行けば以前と同じように笑っている。先日の茶会で君を見て、もう難しいのだと思った」
直す機会を与えてきた。その言い方が胸に残り、リーゼはこれまでの三年間を改めて思い返した。誰かを馬鹿にして笑ったことはない。失敗した人を指差して笑ったことも、悲しんでいる人の前で楽しそうに振る舞ったこともない。厳粛な式典で笑い声を上げたことはなく、夜会で周囲が振り返るほど騒いだ経験もなかった。家庭教師から笑い方を注意された記憶もなければ、母から直すよう言われたこともない。
「ヴィルヘルム様。一つだけ、お尋ねしてもよろしいですか」
「ああ。何だ?」
「私が笑っていることが、そんなに気に入りませんか?」
「そういう意味ではない。僕は君に立派な淑女になってほしいだけだ。侯爵夫人ともなれば、多くの人間から見られるようになる。嬉しいことがあったからといってすぐに顔へ出したり、面白いことを聞いたからといって笑ったりしていては、軽い女性だと思われる可能性だってある」
「では、これまで私が礼儀に反する笑い方をしたことはありますか。大声を出したり、口を大きく開けたり、誰かを馬鹿にして笑ったことがあったのでしょうか」
「そういうことをしたとは言っていない。君の所作そのものに問題があるわけではないんだ。僕が言っているのは、淑女ならもっと感情を抑えるべきだという話だよ」
「場所を弁えずに笑ったこともありませんよね」
「ああ。そこを問題にしているわけではない」
そこまで聞いて、リーゼはようやく自分が三年間かけて何を直そうとしていたのか理解した。礼儀作法を間違えていたのでも、笑い方が下品だったのでもない。ヴィルヘルムが思い描いている淑女とは、嬉しい時にも大きく表情を変えず、面白い話を聞いても静かな微笑を浮かべる程度に留め、誰の前でも感情を見せない女性なのだ。そして彼自身は、それを自分の好みだとは考えておらず、侯爵夫人になる女性なら誰もがそうあるべきなのだと信じている。
「分かりました」
「ようやく分かってくれたなら、僕も――」
「婚約破棄をお受けいたします」
続けようとしていたヴィルヘルムの言葉が止まり、彼は意味を理解できないような顔でリーゼを見つめた。
「……受ける?」
「はい。私はヴィルヘルム様がお望みになる淑女にはなれそうにありません。これからも楽しいことがあれば笑いますし、親しい人と話していれば自然に笑顔にもなるでしょう。それを直すつもりもありませんので、婚約を終わらせるのが一番よいと思います」
「待ってくれ。僕は今すぐここで結論を出せと言ったわけではない。今後は改めると約束するなら、僕だって考え直すことはできる」
「婚約破棄して欲しいと仰ったのは、ヴィルヘルム様ですよね」
「君にも、この問題を真剣に考えてもらう必要があったからだ。結婚できなくなるかもしれないと分かれば、今まで以上に気をつけると思ったんだよ」
リーゼは、その言葉を聞いてようやく彼の考えていたことまで理解した。婚約破棄を突きつければ、自分が慌てて謝り、これからはもっと努力すると約束すると思っていたのだろう。ヴィルヘルムはそれを聞いてから婚約を続けることを許し、リーゼは今まで以上に笑わないよう気をつける。彼の中では、きっとそこまで決まっていた。
「私は三年間、ヴィルヘルム様がおっしゃることが正しいのだと思っていました。私自身には分からない欠点があって、侯爵夫人になるためには直さなければならないのだと信じていたんです。でも、もうそうは思いません」
「僕は君のためを思って――」
「ええ。そうだったのでしょうね。だからこそ、難しいのだと思います」
リーゼは長椅子から立ち上がり、向かいに座ったままのヴィルヘルムを見た。いつもなら彼が不機嫌になっていないかを気にして、言葉を選んでいたはずなのに、今日はもうその必要を感じなかった。
「ヴィルヘルム様は、私を傷つけようとしていたわけではないのでしょう。自分が正しいと思っていたから、何度も教えてくださったのですよね。けれど私は、もう笑うたびに自分が間違っているのではないかと考えたくありません。私は楽しい時には笑いたいです。それをやめなければあなたと結婚できないのであれば、私はあなたと結婚しません」
ヴィルヘルムが名前を呼んだものの、リーゼは席へ戻らなかった。三年間も続いた婚約がこんな形で終わることに寂しさがないわけではなく、屋敷へ帰ればきっと色々なことを考えるのだろう。それでも、ここで謝って婚約を続ければ、これから先も笑うたびに彼の顔を見る生活が待っている。その未来を選びたいとは、もう思えなかった。
婚約の解消が正式に決まってからしばらく経った頃、リーゼは学院時代から親しくしている令嬢たちの茶会へ招かれた。事情を面白がって根掘り葉掘り聞く者はおらず、以前と変わらず最近見つけた菓子店の話や、共通の友人が結婚するという話をしているうちに、リーゼも久しぶりに気を張らずに過ごせるようになっていた。やがて一人の令嬢が、幼い弟が大人の真似をして家令へ仕事を命じ、最後には自分のおやつまで管理される羽目になった話を始めると、周囲から笑い声が上がった。
リーゼも笑いかけたところで、無意識に口元へ力を入れた。いつものように、笑いすぎてはいけないと思ったのである。隣にはヴィルヘルムがおらず、向かいに座る友人たちは何も気にせず笑っている。自分を注意する視線がどこからも向けられていないことに気づいても、一度身についてしまった癖はすぐには消えてくれなかった。
「リーゼ、どうしたの?」
「ごめんなさい。少し変な癖がついてしまったみたい。笑おうとすると、先に気をつけなければと思ってしまうの」
「笑うことに?」
「ええ。例の彼から、あまり人前で笑わないほうがいいと何度も言われていたから」
事情を聞いた友人たちは驚いた顔をしたが、すぐにヴィルヘルムへの悪口を並べるようなことはしなかった。学院へ入った頃からリーゼを知っている一人が、手にしていたカップを静かに受け皿へ戻し、困ったように笑った。
「少なくとも私は、あなたが笑っているところを見て淑女らしくないと思ったことなんて一度もないわ。昔からリーゼは、面白いことがあると本当に楽しそうに笑うでしょう?私はそのほうが好きよ」
ほかの友人たちも頷いている。その顔を眺めているうちに、リーゼの口元から自然と力が抜けた。先ほど途中で止めてしまった弟の話には続きがあったらしく、再び友人が話し始めると、今度は最後まで我慢することなく笑うことができた。笑った後に誰かの顔色を確かめる必要もなく、そのまま次の話へ加わっているうちに、胸の奥に残っていた窮屈さも少しずつ薄れていった。
その後も、リーゼは親しい人々との時間を重ねる中で、以前のように笑えるようになっていった。母と出かけた先で見つけた可愛らしい小物について話し、友人たちの茶会では面白い話を聞けば笑い、夜会でも親しい相手から声をかけられれば自然に微笑んだ。最初の頃は笑った直後に周囲を気にすることもあったが、誰かから咎められることはなく、付き合いの長い婦人から「最近は以前の明るい顔に戻ったわね」と言われた時には、リーゼ自身もようやく三年間でどれほど表情を抑えるようになっていたのかを知った。
ヴィルヘルムのほうは、婚約が解消されてから妙なことばかり目につくようになっていた。夜会へ出れば、侯爵夫人も伯爵夫人も知人との会話で普通に笑っている。年頃の令嬢たちも同じで、誰かが冗談を言えば口元を綻ばせ、親しい友人を見つければ嬉しそうな顔をする。それまでなら淑女として慎みが足りないと考えていたはずなのに、一度意識して周囲を見回せば、笑わずに過ごしている女性を探すほうが難しかった。
ある夜会では、自分の母が知人の侯爵夫人と話しながら笑っている姿を見かけた。声を張り上げているわけではなく、相手の話に目元を緩めて楽しそうに笑っている。ヴィルヘルムが幼い頃から見慣れていた母の姿であり、それを品がないと思ったことなど一度もなかった。
「ヴィルヘルム、どうかしたの?」
「いえ。何でもありません」
視線に気づいた母へそう答えたものの、その後もしばらく母の笑顔が頭から離れなかった。自分はリーゼへ、侯爵夫人になるのだから笑うなと言い続けていた。ところが実際に侯爵夫人である母は人前で笑っており、周囲の誰もそれを問題にしていない。母だけが特別なのかと考えようとしても、夜会を見渡せば同じような婦人はいくらでもいる。
自分が正しいと思っていたものは、本当に誰にとっても正しいものだったのだろうか。
その疑問を持つようになってから、三年間の記憶まで違って見えるようになった。リーゼは一度として大声で笑っていなかった。誰かを嘲ったこともなければ、場を乱したこともない。注意するたびに最初は戸惑った顔をし、それでもヴィルヘルムが侯爵夫人になるためだと言えば、次から気をつけると答えていた。最後の一年ほどは、ヴィルヘルムが近くにいるだけで以前ほど笑わなくなっていた。
あの頃の自分は、それを淑女らしくなったのだと思って喜んでいた。
数か月後、王宮で開かれた夜会へ出席したヴィルヘルムは、人々の向こうにリーゼの姿を見つけた。婚約を解消してから直接顔を合わせるのは初めてで、彼女は学院時代から親しい令嬢たちと一緒におり、その近くには何人かの青年も立っていた。以前なら真っ先に気になっていたであろう光景なのに、ヴィルヘルムの視線を引きつけたのは別のものだった。
青年の一人が何かを話すと、リーゼが笑った。口元を上品に緩め、目を細めて、小さな笑い声を漏らす。周囲の令嬢たちも一緒になって笑い、話をした青年も嬉しそうな顔をしている。誰も振り返らず、眉を顰める者もおらず、彼女たちの周囲には穏やかな空気が流れていた。
ヴィルヘルムは、その笑顔を三年間も見てきた。最初の頃のリーゼはよく笑っていた。茶会の帰りには楽しかった出来事を話し、ヴィルヘルムが少し気の利いたことを言えば嬉しそうに笑ってくれた。それがいつからか少なくなり、最後の頃には彼の前でほとんど見せなくなっていた。それを望んだのは自分だったのだと、今なら分かる。
やがてリーゼが何気なく顔を動かし、少し離れた場所に立つヴィルヘルムへ気づいた。二人の視線が重なった瞬間、彼女の口元から笑みが消えかけた。ほんの一瞬だったものの、ヴィルヘルムにはその理由が分かった。三年間、笑うたびに注意してきた自分を見たからこそ、今でも身体が先に反応してしまったのだろう。
リーゼも途中で気づいたらしい。もうヴィルヘルムの婚約者ではない。彼が何を思おうと、笑い方を直す必要もなければ、侯爵夫人に相応しくないと評価されることを恐れる必要もない。リーゼはヴィルヘルムへ社交上の礼儀として小さく会釈すると、すぐに友人たちのほうへ向き直った。
再び青年が何かを話し、リーゼの顔に笑みが戻る。今度は、ヴィルヘルムが見ていることを気にしていなかった。
彼が淑女らしくないと嫌ったその笑顔を、もう二度と自分へ向けてもらえることはなかった。
連載版を始めます。朝の9時から投稿を始めます。
タイトルはそのままになります。(代表作に設定する予定です)
【連載版】私が笑っていることが、そんなに気に入りませんか?
【https://ncode.syosetu.com/n6624ms/】
内容は主人公の新しい出会いについてです。後日談のような構成にする予定です。




