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第五部 第七話 悠馬、噂が“仕事”ではなくなる瞬間

ゆうまはこんらんしている

最初は、雑音だった。


廊下のすれ違いざまに落ちる声。

コピー機の前で交わされる、軽い冗談。

会議室の扉が閉まる直前に、笑いと一緒に流れる一言。


「佐伯さんって、ドライだよね」

「ついて来れない方が悪い、みたいな」

「現場、見てないから平気で切れるんだよ」


全部、仕事の範囲だと思った。

誤解なら解ける。評価なら修正できる。

成果を積めば、静かに消える。


ーーそう思っていた。


朝、オフィスに着いた時点で、気配が違った。

誰かが話すのをやめる。

目が合うと笑うが、笑いが薄い。

それが不快というより、妙に“軽い”。


軽いのに、背中だけが冷える。


端末を開く。

定型の報告、数字、稼働、進捗。

それらはいつも通り整っていて、僕の判断も間違っていない。


それでも、メールの件名が一つだけ、違う。


『社内コミュニケーションの風評について(匿名)』


添付はない。文面も短い。


ーーー最近、現場に“佐伯悠馬”に関する噂が回っています。

ーーー内容は業務評価を越え、人格への攻撃に移行しています。

ーーー対策を検討してください。


僕は、しばらく画面を見つめた。


人格攻撃、という単語が、どこか他人事に見えた。

仕事の中で、人格は評価対象ではない。

それを切り分けるのが、組織というものだ。


……のはずだ。


午前の会議を終えて、廊下に出た時。

角を曲がった先で、二人の若い社員が話しているのが聞こえた。


「いや、あの人、無慈悲じゃない?」

「え、佐伯さん?」

「だって、説明しないじゃん。分からない人間に興味ないって感じ」

「それ、上の人も言ってた。あの人は“人間”じゃないって」

「……人間じゃない?」

「うん。感情ない。機械みたい。アンドロイドじゃね?って」


笑い声。

冗談のトーン。

本人のいない場所で、責任のない笑い。


僕は足を止めた。

彼らは僕に気づかず、話を続ける。


「オックスフォードのPPEってさ、結局そういうやつ量産するんじゃない?」

「エリートの完成品」

「しかも若いのに偉い。怖いって」

「怖いわー。あれ、ハミルトン家の犬だろ?」

「犬っていうか、制御装置。ノア様の」

「ノア様いない今、佐伯さんが全部だもんな」


“全部”。


その単語が、急に重くなった。


僕はその場を離れた。

背中に視線は刺さらない。

刺さらないのに、胃の奥がじわじわ痛む。


自席に戻る。

指先は冷えている。

息は整っている。

頭は回る。


ーーー整理しよう。


僕がしていることは、正しい。

合理的で、再現性があり、誰でも追えば理解できる。

必要な情報は提示している。

議事録も残している。

指示も明文化している。


なのに、なぜ“説明しない”になる?

なぜ“切り捨てる”になる?

なぜ“人間じゃない”になる?


僕は、噂の構造を考える。


出所不明。

責任者不在。

事実の混入。

誇張。

そこに、感情が乗る。


感情。


……感情が、乗る。


僕は、初めてそこで手が止まった。


噂は、仕事の問題ではない。

噂は、人の“安心”の問題だ。

理解できないものへの恐怖の逃げ道だ。


そして僕はーーー

恐怖そのものを、処理の対象にしてしまっていた。


午後、拓海父さんから連絡が入った。

短い通話。


「悠馬、現場、ちょっと荒れてる」

「数字は?」

「数字は動いてる。だから余計に厄介だ」

「……噂の件ですか」

「うん。言い方が悪くなってきた。『あいつは現場を人間と思ってない』って」


僕は、机の端を指でなぞった。

木目が滑る。現実感が薄い。


「僕は、否定していません」

「分かってる」

「なら、なぜ」

「なぜ、か……」


拓海父さんが、少し沈黙した。

その沈黙が、答えだった。


「……悠馬」

「はい」

「お前、“分からない側”の怖さ、想像できるか」


喉が詰まった。


分からない側。

追いつけない側。

置いていかれる側。


僕は、理解できると思っていた。

必要なら説明する。

資料はある。

質問は受ける。

時間も取る。


それでもーーー“怖い”が残るのなら。


それは、正しさでは埋まらない。


「……」

「ノアが前にいた時さ」

「……はい」

「声、拾ってたろ。お前が見落とすやつ」


胸の奥が、静かに痛んだ。


ノアが言った言葉が、薄く蘇る。

ーーーみんなが同じように見れてるわけじゃない。少なくとも俺は見れない。

あの時、僕は“分かったつもり”で流した。


流して、進めた。

正しさの速度で。


「悠馬」

拓海父さんの声が、少し低くなる。

「今の噂は、仕事じゃねえ。お前の人格を刺しに来てる」

「……対策は」

「対策なんて、綺麗にできねえんだよ。刺す理由は“仕事”じゃないからな」


通話が切れた。


僕はしばらく、画面の中の数字を見ていた。

増減。推移。達成率。

いつもなら、そこに安心があった。


今日は、ない。


数字は正しい。

結果も出ている。

でも、噂は止まらない。


止められない。


ーーー仕事として処理できない。


その事実が、胸の底に落ちた。


僕は、引き出しを開け、胃薬に指を伸ばした。

箱が減っている。

減っているのに、どこか他人事だった。


薬を飲んで、息を吐く。


「……僕は」


言葉が、喉の奥で止まる。


僕は間違っていない。

でも、正しいだけでは、人はついてこない。

ついてこない人を、僕は責めていない。

責めていないのに、責められる。


その仕組みが、怖い。


端末のメッセージ欄を開く。

ノアの名前が、そこにある。


送ろうとして、止めた。


今、彼に聞くのは違う。

彼はまだ“戻る前”だ。

ーーーいや。


違う。


聞くのが怖いのは、彼が答えを持っている気がするからだ。

僕が見ていないものを、彼は見ている。

僕が理解できない温度を、彼は拾える。


そして、その温度が必要だと認めた瞬間、

僕は“全部一人でできる”という前提を失う。


失うべき前提だ。

分かっている。


分かっているのに、胸がきしむ。


机の上に、付箋が一枚増えた。

誰かが置いていったのだろう。


『現場、ちょっと怖がってます』


短い。

具体性はない。

でも、これがいちばん重い。


僕は付箋を指で押さえた。


怖がっている。

相手は僕を。

僕は相手を、ではない。


……なのに、僕の胃が痛い。


その矛盾に、ようやく気づいた時。


僕は、今日初めて、はっきり理解した。


この噂は、仕事の問題ではない。

噂は、僕が人の上に立つ時に背負う“影”だ。

成果では消せない。

正しさでは折れない。


だからーーー

僕はこの先、別のやり方を覚えなければいけない。


「トップ」としてではなく。

人として。


それができなければ、

僕は正しいまま、孤立していく。


端末に、次の会議通知が出る。

予定は、詰まっている。

僕がいないと止まる。


僕は立ち上がった。


……止まるのが怖い。

でも、止まらないまま壊れる方が、もっと怖い。


会議室へ向かう廊下で、誰かがまた笑っている。

その笑いが、さっきより少しだけ乾いて聞こえた。


僕は、心の中で小さく呟いた。

「……どういうことだってばよ」


けれど、その言葉は、怒りじゃなかった。


初めて“分からない”を分かった人間の、

静かな恐怖だった。


感想をいただけると嬉しいです。

※一応完結分までは完了してますので都度載せる予定です。

よろしければ見てください。


AIアシスト作品です。


僕はまだ、ただの学生だったはずなのに。

気づいたら、伯爵家と組織と、大人たちの胃を一手に引き受けていた。

これは「有能すぎたせいで詰んだ男」の話。

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