第17話 取引、そして帰還
崩れた空間の中。
魔王は、セラフィナを腕に抱いたまま、動かなかった。
小さな体は、まだ震えている。
涙で濡れた頬を、胸に押しつけるように。
「……もう、大丈夫だ」
低く、静かな声。
セラフィナは、ぎゅっと指を握りしめた。
「……ほんと?」
「あぁ」
「もう、ひとりじゃない」
その言葉に、ようやく呼吸が落ち着いていく。
少し離れた場所で。
ルシアス・ヴァルディオスは、膝をついたまま、顔を上げなかった。
「……行け」
魔王が、言った。
「今すぐ、娘を城へ戻す」
だが――
「待て」
ルシアスは、はっきりと声を出した。
魔王の視線が、再び彼を射抜く。
「……命は、助けると言った」
「だが、罪は消えない」
「承知の上だ」
それでも、ルシアスは言葉を続けた。
「だが、条件がある」
空気が、凍りつく。
「……ほう」
魔王は、冷たく笑った。
「交渉のつもりか」
「取引だ」
ルシアスは、真っ直ぐに言う。
「俺は、二度と彼女に近づかない」
「誘拐も、接触も、干渉もしない」
「だが」
一拍置いて。
「――見守る権利を、くれ」
その言葉に。
魔王の魔力が、わずかに揺れた。
「……見守る、だと」
「遠くからでいい」
「名も、立場も、明かさない」
「彼女が望まない限り、近づかない」
「ただ……」
ルシアスは、歯を食いしばる。
「彼女が無事に生きていることを、知ることだけは」
沈黙。
長い、長い沈黙。
腕の中で、セラフィナが小さく動いた。
「……ぱぱ」
魔王の胸元を、きゅっと掴む。
「かえる?」
「あぁ」
「おうち、かえる」
「うん……」
安心したのか、瞼がとろりと落ちる。
その姿を見て。
魔王は、深く息を吐いた。
「……いいだろう」
ルシアスの目が、わずかに見開かれる。
「ただし」
魔王は、はっきりと言った。
「一線でも越えた瞬間」
「次は、ない」
「命も、魂も、残らん」
「……理解している」
ルシアスは、深く頭を下げた。
「感謝する」
魔王は、答えなかった。
ただ、踵を返す。
「……セラフィナ」
腕の中の娘が、うっすら目を開ける。
「なあに」
「……もう、終わった」
「こわい人、いない」
「……るしあすは?」
その名が出た瞬間、空気が張りつめる。
魔王は、一瞬だけ黙り――
「……遠くに、行く」
「そっか」
セラフィナは、少し考えてから、小さく手を振った。
「ばいばい」
その一言が。
ルシアスの胸を、深く、抉った。
「……あぁ」
声が、掠れる。
「さようなら、セラフィナ」
次の瞬間。
闇が、二人を包む。
空間が、閉じた。
* * *
魔界城。
不安と怒りと焦燥が渦巻く中。
空間が歪み、
魔王が、娘を抱いて現れた。
「……セラフィナ様!!」
最初に駆け寄ったのは、リリアだった。
泣きそうな顔で、膝をつく。
「ご無事で……本当に……」
「りりあ」
セラフィナは、弱々しく笑った。
「ただいま」
その瞬間。
張りつめていた空気が、崩れる。
遅れて、クロウ・フェルゼンが駆け込んできた。
「……姫君」
剣を握る手が、震えている。
「……申し訳、ありません」
「まもれ、ませんでした」
セラフィナは、魔王の腕から身を乗り出し、
小さな手を伸ばした。
「……くろう」
「まもって、くれてた」
「しってるよ」
その一言で。
クロウの喉が、詰まった。
「……っ」
魔王は、静かに告げる。
「この件は、終わりではない」
「だが、娘は帰ってきた」
「それでいい」
セラフィナは、城の明かりを見上げる。
(……おうちだ)
(あったかい)
安心したように、目を閉じた。
だが。
遠く。
誰にも知られない場所で。
ルシアス・ヴァルディオスは、
ひとり、空を見上げていた。
(……約束だ)
(俺は、近づかない)
(だが――)
その胸の奥で。
消えることのない想いが、
静かに、燃え続けていた。
――こうして。
姫は、帰還した。
だが。
物語は、まだ半分も、終わっていない。




