05 想像に五感を重ねて
伝えるべき相手がいることを陽芽に軽く教えてから、数日が過ぎていた。
日が差し込み始めた現在、月影は陽芽と一緒にバルコニーに出ている。
広大な庭は、創作の想像や考えを膨らませるには最適な場所と言える。だからこそ、使わない理由はないに等しい。
バルコニーで掃除しているイオに頭を下げてから、用意してくれていたテーブルと椅子に二人で腰をかける。
キャロルのような上品な服装をしている陽芽は、座るだけでも一人のキャラクターとして認識できてしまうほどの美しさがある。
「書きたい物語は決まったんだよね?」
「うん」
「よかった」
「でも、内緒」
「それは気になるな。でも、圧釜理論もあるし間違いではないかな」
テーブルの真ん中にそびえたつパラソルが、二人を日差しから守ってくれている。
陽芽に気になるような仕草をされているのに、我慢できるのは期待する気持ちが勝っているからだろう。
月影はさり気なく、用意されていた飲み物をプラスチックのコップに注いで、ストローを付けてから陽芽の前に差し出した。
「それじゃあ、前に約束していた想像力の話をしようか」
「月影、優しい」
「気づいていたんだね」
「うん」
陽芽はコップを掴むように寄せて、小さく微笑んだ。
想像の中で、そのコップがどのように映っているのか気になるが、話を進ませてからでも悪くないだろう。
「……こっほん。話を進ませようか」
「はい」
「先に言っておくとね、陽芽さんの今はデメリットとして……瞳を瞑っているのがもったいないことになっているんだよ」
言わなくても良いことだってあるが、敢えて先に開示したのは理由があるからだ。
どの道、想像の話をすれば嫌でも触れざるを得ないのだから。
うつむく、とばかり思っていたのだが、月影の予想は大きく外れていた。
陽芽はただ、月影の方を見ている。瞳を閉じていたとしても、その視線を逸らさないようにして。
「……悲しまないのかい?」
「うん。月影、言っていた。あの言葉、信じる」
「よかったよ」
陽芽はきっと、晴れた時にでも外の世界を見てくれるのだろう。
「デメリット、って言ったわけだけど、何も悪いことだけじゃないんだ。瞳を瞑っている今は、五感の中でも他の感覚に意識を避けているはずだよ」
五感。それは『肌、口、鼻、耳、目』で感じるものだ。
想像の中だけ……いわば文章に落とす時にリアリティを持たせる修飾に取っては不可欠な存在と言える。
短い文章や、簡単な文章を好む者に対しては向いていない。だが、心地よいリズムを奏でる文章、筆者の思う情景描写を文章として書くのならば、蕾とすら言えるだろう。
陽芽は月影にとっては完璧にできない、目以外の感覚を研ぎすませるはずだ。
だからこそ、文章を書く陽芽の想像に対する、力の裏付けにもなると言えるだろう。
「陽芽さん、このバルコニーに出てから、君はどのように感じているかな? 何を感じたかな?」
「感じ、る」
月影はしっかりと頷いた。
頷いた瞬間だけでも、一つ触れるものはある。
些細なことから、日常でありふれたこと、感じるものは何でもいいのだから。
そっと揺れる茶髪の前髪は、バルコニーに出ているのだと間接的に伝えてきているようだ。
「肌に、風、当たってる」
「そうだね」
当たったのが嬉しいようで、陽芽は花咲くように笑みを携えている。
誘われるように月影も笑みをこぼしたのもあり、そっと首を振って微笑みに変えた。
なびかせたコートに隠して、月影は息を吐く。
「さっきも言った通り、人には五感が存在するんだよ。その一つ、陽芽さんが先ほど感じたように、肌に当たるものを感じることも五感の一つだ」
「肌に、当たる」
「そうだよ。以前、手で受けた水の冷たさも、当たる風の温度や力を感じるのだって、人の肌が持つ魔法だよ」
「魔法。私、魔法を使えている?」
「人は生まれた時から特別さ」
魔法なんて、心地よい言葉を送るつもりはなかった。それでも、生まれたことで、人は支えあうことの大切さに気付かされて、力強く生きようとできるのだ。
ふと気づけば、陽芽はストローに口をつけて、コップに入った飲み物で喉を潤していた。
そんな陽芽の自由さは、時に辻褄の合う勉強に変えられるだろう。
「五感はね、口だって含まれるんだよ」
「……飲んでるから?」
「唾液や食感……言ってしまえば、味覚音痴じゃない限りは、人並みの感覚を共有できる文章に昇華できるんだよ」
「月影、物知り」
「あ、ありがとう……でいいのかな」
「うん」
物知りと言うよりも、必要だったから意識をしていたのだが……月影は陽芽に褒められたのもあり、どこかむず痒さがあった。
静かに鼻を鳴らしてから、ふと息を吐いた。
「そして、鼻も五感で使える一つだね。花壇に植えられた花の匂いや、新築の木の匂いで新しい出会い、を間接的に書いたりするのには持ってこいだからね」
「一理ありそう」
「うん、まあ。覚えておいて損はないってやつだよ」
「えへへ」
陽芽の地頭が良いのは、イオの教育のおかげだろうか。
もしくは天才少女と呼ばれていただけある素質が、この瞬間に目覚めつつあるのか。
とはいえ、月影は陽芽のことをまだ何も知らないに近いので、深入りする勇気はないのだが。
「最後に、耳だよ。聞こえていないけどセリフ文に文字として書けるおかげで、物語のキャラは聞き取れてないけど、隠れた駆け引きが生まれていることを伝えるのにも使えるんだ。どちらかと言えば、自然の音を聞いて、その世界に引き込む表現が俺は好きだけどね」
「月影は、自然の音、好きなの……?」
「そうだけど」
「……いいこと、聞いた」
「なんて?」
「なんでもない」
吹いた風が木々を揺らした時、陽芽が小さく呟くものだから、月影は聞こえなかったのもあって首をかしげるしかなかった。
瞳を瞑っていながらも、微笑みを浮かべる陽芽を思えば、そんな些細なことは空に消えると言える。
月影もコップに飲み物を入れて、喉を潤した。
熱を持ち始めた体に優しく染みわたり、自然と息を吐き出してしまう。
(……肌、口、鼻、耳……これで四つか)
月影は最後と言ったものの、正直悩んでいた。
いくら陽芽が向き合ってくれているとはいえ、五感においても触れづらいものだってあるのだ。
月影はできるだけ陽芽の目線に合わせつつ、ゆっくりと口を開いた。
「まずは嘘をついたことを謝るよ。……陽芽さん、五感にはもう一つあってね、目、になるんだよ」
やはりと言うべきか、陽芽は少しだけ顔色を曇らせた。
楽しそうに持たれていたコップから、自然と手が離れ、ゆっくりと太ももに居場所を見つけている。
「……見えていないと、やっぱり、駄目なの……」
心配の様子は見えないが、不安は募っているようだ。
居場所を見つけたその小さな手は、隠すように指を混じり合わせている。
心配として浮かべこそしないが、陽芽も思うところはあるのだろう。
月影はそっと息を吐いて、ただ、陽芽を見た。そして、諭すように口を開く。
「陽芽さん、人の話は最後まで聞くものだよ」
「……うん」
陽芽はきっと、多くの世界を見てこなかったのだろう。
だから人との関係……月影が言えたものではないが、少しだけ自分を守るように動こうとするのかもしれない。
誰だって自分がかわいくて、自分の守りたい意志は存在するだろう。それでも、守りたいばかりに、見えなくなるものがあるのはデメリットになってしまうのだ。
「……最後まで読むことで理解できるもの、を陽芽さんは知っているはずだよ」
「あっ」
喉を鳴らすように、うつむいていた顔を陽芽は上げた。
瞳を瞑っていても感じ取れるほどに、自然な動作で月影の方を見ている。
伝わるはずのものでも、途中しか見ない者には伝わらない。
数字を何も知らない人に、一と百だけを教えれば、間が存在するのを知らないのと同じだ。
だから月影は、陽芽が迷わないように手を伸ばした。
ゆっくりと、月影は自身の指先を、自分の目へと向けた。
「目。生まれつき、いや、世界を見るためにあるんだ」
「……見るため」
「うん。生きる自然、同じく生きる人、地球や宇宙に存在する全てを見るためのもの、って言ってもいいだろうね」
見えないのが悪いわけではなく、なぜそれを見るのか、が大事だと月影は伝えたかった。
そのために最後を教えるのではなく、一から順に伝えようとしているのだ。
それでも陽芽が不安そうな様子を見せたから、決めていた言葉を口から吐き出した。
「だけど――見ているから、それもまた正しいわけでもないんだよ」
「正しくない?」
「陽芽さんは持っているはずだよ。見えていない世界に答えはないけど……そこには聞いてきた経験からある、世界を想像する答えが」
陽芽は確かに、瞳を閉じてしまったのが早かったのだろう。
早かったからこそ、その聞いた世界での想像は誰よりも未知数で、縛られないワクワクが詰め込まれているだろう。
誰かが赤だと言えば、また誰かは青だと言うように、見方次第では大きな希望となる。
その赤が気に入らなくても、青に見立てたものになれば気に入るように、枝状に分かれた演出の考え方に直結するだろう。
「この際だから言っておくよ」
「うん」
「陽芽さんがもし、瞳を開く時が来たのなら、今の想像により鮮明な色を重ねることができて、閉ざした人だからこそ持つ答えの温かさも重ねられる……人に寄り添う文章にできると思うんだ」
目、耳や鼻、それらの役割を含めても絶対的な答えは存在しないだろう。
たとえ目を持っていた、耳を持っていたとしても、生きている人と『全て』同じ世界を共有できている理由にはならないはずだ。
「ここまで言っておいてあれだけどさ……五感は神様がくれた、人間として生まれた面白さ、幸せにくれた些細なご褒美だと思っておくのが丁度いいのかもね」
「些細なご褒美。月影は、否定をしない、優しい」
「人が持つもの、過去を、他人が否定する権利も、蔑む権利もないよ」
生きていくうえで過ちとなれば、正されることはあるだろう。ただそれは、共に生きていくうえで重要な人としての行動だ。
月影は喉を潤すように、コップの中身を揺らしながら、そっと口に運んだ。
乾いた喉には幸せを呼んでいるようで、ついつい微笑みをこぼしてしまう。
そんな月影を察してか、陽芽も口にストローを含んで、同じく笑みをこぼしている。
「想像力に、五感で感じてきたものを文章に落とせば、より共感性の高いものにはなるよ。でもね、想像だから『こそ』書ける文章もあるから、その人にあったその時次第の答えを選ぶのが理想にはなるだろうね」
その時次第、その人次第。なんて言葉は傍からすれば、都合の良い言葉だろう。
それでも月影が口にするのは、最後まで聞くように、と陽芽を諭したのと同じく、全てに意味を持たせているからに過ぎない。
ふと気づけば、陽芽がそっと手をあげていた。
「月影、先生。……私でも、書けますか?」
陽芽は本当に優しさに、謙虚さに溢れた子だろう。
「俺は何度でも、陽芽さんなら書けるって答えるよ。口だけでなく、行動で示せば求めた答えがそこになくても、求める形はできるからね」
「私、月影に見てもらいたいから、頑張る」
「うん。その意気だよ。陽芽さんならできるし、俺が見てる」
俺が、という言葉を月影は簡単に使っているわけではない。
月影自身、今でもペンを持って文字を書こうとするだけで、震える手は止まらないのだ。視界はぼやけてままならない、文字はくっきりと書けない。
迷いはあるかも知れないが……目の前で、陽芽が頑張ろうとしてくれているからこそ、月影も目を背けていた今と向き合おうとできるのだ。
キッカケはなんだっていい。
病気の子どもが医者に救われてお医者さんを目指すように。
勉強嫌いだった子どもが、先生に寄り添われた影響で教員を目指すようになるなど。
月影は陽芽に教えこそ説いている。そして、もう一度ペンを持ち、自身の文章と向き合う勇気をもらったのだ。
陽芽を見ていて――月影は、昔大好きだった自分の面影を思い出せたから。
日差しに紛れて柔く吹く風が、目の前の少女の髪を柔くなびかせている。
陽芽が微笑みを浮かばせているから、思わず月影は息を呑み込んだ。
「……陽芽さんが感覚で感じたことを、文章で表現するのも大事ってことだからね」
「感じたこと」
「どうやら、俺が心配する必要はないようだね」
「月影、ずるい」
陽芽が頬を膨らませているが、月影はただ微笑んでごまかした。




