03 見ること、感じることはリアリティの追求
イオに相談を終えてから、月影は陽芽と庭に出ていた。
その小さな手にしっかりと触れて、ゆっくりと歩き、離れないようにしながら。
この屋敷の外に出ることはせず、中庭という名の先が見えない四方が木々に囲まれた空間に出ている。
庭はとても広く、一日で周りきることは不可能なほどだ。
「寒くない?」
「うん。寒くない」
「よかった。庭は日向がよく差し込んで、植えられているふさふさな庭木が嬉しそうだよ」
正直なところ、この中庭は外の世界とそこまで変わらないだろう。
手入れが施された並木道。
ところどころの庭木に咲く、赤やピンク、オレンジの花々。
庭園とはまさにこの庭、と言えるほどに研ぎ済まされた場所だ。
隣で歩く陽芽にとっては普通なのかもしれないが、その足はどこか楽しそうに見える。
陽芽がゆっくりとした足取りで歩くのもあり、普段は意識することのない日向の温かさや、肌にあたる風の感触を感じ取れる。
また陽芽に説明……伝えるように話すのは、彼女の瞳の奥底に、この世界の風景が届いてほしいと願っているからだ。
「月影、優しい」
「そ、そうかな?」
「うん。……気を、使わなくても、いいよ」
「気は使ってないよ。俺は、陽芽さんと歩く今を楽しみたいだけだから」
楽しみたい、という言葉はただの偽装にすぎないだろう。
この庭を一緒に歩くことで、陽芽のことを少しでも知って、陽芽が持つ想像する好きを形にしたいと思ったからだ。
月影が軽く微笑めば、小さな手はぎゅっと握ってくる。
未だに警戒している可能性はあるだろう。
だが、陽芽は外を歩いているから月影を頼りにしているのかもしれない。
頼りにされたとしても、何か起これば庭師を装ってこちらを見ている、イオの方が先に動くのは確実なのだが。
「歩くの、怖いけど、楽しい」
「……見てないから?」
「……うん」
聞かない方がいいと、月影自身理解していた。
理解していたけれども、陽芽の声に耳を傾けたいと行動が先走っていたのだ。
自然を感じるだけが全てではなく、生きる心を感じることだって、物事に落とし込める一つになるのだから。
「あと少し歩けば、小道を抜けそうだね。今は揺れる木々が光を遮ってくれているけど、白い光が斜めから差し込みそうだよ」
「木々の間から差し込んでいる光は?」
「そうだなー。ちらつく影が蝶のようで、反射して輝く川のようだよ」
陽芽には小道と表現したが、一般的には並木道が正しいだろう。
とはいえ全体的に見れば細い道に変わりないのと、陽芽の散歩道だと聞いていたので月影はそう表現したに過ぎない。
「小川なら、この先」
「たとえが先にあるのは予想外かな」
「えへへ、私の勝ち」
「何を競っていたんだい?」
陽芽は緊張や警戒がほぐれたのか、無邪気に笑みを浮かべた。
その瞬間、木々の間を抜けたのもあり、視界に柔く光が差し込んでくる。
広い庭に対して木の傘は相性が良かったのか、思わず視界に影を作りたくなるほどだ。
そんな影を作る暇もないほどに、ふと横を見た月影は息を飲み込んでいた。
キャロルのような上品な服装で隣を歩く陽芽は、小柄なのもあって小さな天使のように思えただけでなく、艶のある茶髪に光を反射して天使の輪が浮かんでいるように見えたのだから。
「……月影、どうかした?」
「いや、何もないよ。光が眩しくて、立ち眩みした感じだよ」
「無理、しないで」
「大丈夫だよ」
不安な顔色を浮かべる陽芽は、相手を気遣える優しさがあるのだろう。
自分のせいで負荷をかけている、と陽芽が思い詰めていなければいいが。
「……おや、風が水分を帯びてきたね。聞こえる水のせせらぎ、いいものが見られそうだ」
「月影、負担じゃない?」
「陽芽さんが心配することじゃないよ。俺がやりたい、って思ったから、こうして一緒に散歩しているんだよ」
「……やりたい……」
陽芽はどこか思うことがあったのか、小さく呟いた。
その言霊にあるやりたいが、未来の後押しになればいいな、と月影は微笑みながらも思ってしまう。
木々の間を抜けてからも、月影は陽芽に自然の様子を伝えながら歩いた。
広がる空の見守る下、小さな宝石のように光が乱反射する流れゆく小川。
耳を澄ませば、踏みしめる地の音に、歌うように小川と木々の音が共演する。
どこに続いているか不明な小川がある庭園を自宅に持っているのは相当だが、陽芽は周りに恵まれているのだろう。
恵まれているにも関わらず、謙虚で、閉ざした世界に身を置いてしまう彼女に、夢を持ってもらいたい……そんな欲を、隣で歩く月影はしみじみと感じていた。
そんな気持ちを心の隙間に置きつつ、世界に映るものを月影は陽芽に伝えながら歩いた。
説明ではなく――伝える意味の大事さを諭すように。
程よく会話を混ぜながら歩いていると、視界にあるものが映った。
「あれは」
「月影、どうしたの?」
「ちょっと気になるものがあってね。休憩がてら、行ってみようか」
「うん。月影の気になるもの」
陽芽の言い方は少し独特だが、自分らしさがあって愛らしいものだろう。
陽芽の体に負担がかからないようにエスコートしつつ、月影は気になったものの前まで来た。
「これは、石造りの井戸? しかも昔じみた石積み?」
「……座りたい」
「ああ、ごめんね。近くに椅子もあるみたいだし、そこに座ろうか」
どうやら陽芽は井戸に興味がないようで不服そうだ。
近くにあった木製の椅子に、汚れないようにして陽芽を座らせてから、月影はもう一度井戸を覗いた。
井戸には屋根と、ロープのついた木製バケツがついており、井戸の奥には水が見える。
近くまで移動してきたイオに視線を送ると、指先で下を示して丸を作るので、井戸の水は使えるらしい。
バケツの様子を確認してから、月影は陽芽の方を向いた。
「陽芽さん、疲れているところ申し訳ないけど、手を伸ばすように出してみてもらってもいいかな?」
「……うん」
陽芽が渋々といった様子で左手を伸ばしてくれたのもあり、内心ほっとした。
陽芽の機嫌が変わらないうちに、月影はバケツを井戸の中に放り込んだ。
重くなったロープを力いっぱい引き、水の入ったバケツを手繰り寄せる。
暗闇から地上に出たバケツは、中に入った水を輝かせていた。
月影は両手でバケツを持ち、陽芽の近くに水の音を寄せる。
陽芽が小首をかしげるのを見るに、不安な気持ちがあるのかもしれない。
迷わず、月影は自身の指先を水に軽く触れさせた。
「陽芽さん、少しだけ冷たいかもしれないんだけど、かけるね」
「かける……!?」
月影は陽芽の返事を待たずに、バケツから両手で掬った少量の水を陽芽の手にかけた。
その瞬間、陽芽はピクリと体を震わせ、驚いたように左手を閉じたり開いたりしている。
「冷たい。もう一度」
「え、うん」
もう一度、同じ要領で月影は陽芽の手に水をかける。
陽芽の手に当たって弾ける水は、光を反射して水粒を輝かせた。
「もう一度。もう一度、やって」
陽芽は両手を出して、物欲しそうにせがんでくる。
小さな願い、叶えることができる願いなのは幸せだろう。
「わかったよ」
「月影、優しい」
陽芽は水の冷たさに新鮮さを感じているのか、嬉しそうな笑みを絶やさない。
月影が水をかければ、陽芽は微かに震えこそするが楽しそうだ。
バケツに入れた水が無くなっても、井戸にバケツを放り込んではロープを引く。
バケツの周りを水のベールが包むように囲み、溢れんばかりの水を地上へと運んでくる。
そして水が終っても陽芽は飽きずに、何度も何度も水を求めてくる。
陽芽が感じたことを尊重したい、この感覚のうちに夢を見せたい、と月影は思えるから何度も繰り返せるのだ。
目的の為だけに物事をやるよりも、少しでも自分の心にある迷いが晴れれば、楽しさや好奇心は揺らぐのだから。狭まっていた世界が、また光を取り戻すように。
陽芽が満足したのは、バケツの水を五回ほど入れ替えた時だった。
せがまれていたとはいえ、陽芽の手が冷えすぎることを心配して月影は小さな手を柔く包み込んだ。
「うっ、冷たい。陽芽さん、手の感覚は大丈夫?」
「うん。冷たいけど、楽しかった。初めてだった」
「……初めて?」
「うん。今まで、触れたこと、なかった」
お互いの冷えている手を温めている中、月影は疑問に首をかしげた。
自宅の庭とはいえ、ぽつりとある井戸の水を手にかけられたことがなかったからこそ、陽芽は興味を示してくれたのだろう。
そんな興味を、重ねた夢で後押ししてみたいと、どうしても月影はその気持ちが勝ってしまった。
身勝手だと、我儘だと、理解しておきながら。
「そっか。その知った世界、見えない世界でどう映ったのか俺は知ってみたいな」
「……どうやって?」
「俺が手伝えるなら……その感じることを共有できるように、見えない世界にある答えを外に出してみないか?」
「月影は、目をつむっている私をどうして否定しないの?」
陽芽は好きで目を瞑っている、目を背けたいものがあるから見ないようにしているのかもしれない。でもそれを頑なに否定するのは間違いであり、その人自身を否定しかねないのだ。
「……陽芽さんは陽芽さんだからだよ。目を開きたくなったら開けばいいし、見たくないなら閉じている。無理に直視すれば、自分が壊れかねないから……」
「……月影は、壊れてるの?」
「……今はそうかもしれないね」
宙に舞って壁に刺さるペン、折り捨てられたペン。
机からポタポタと零れ落ちるインクに、黒く染まっていく白紙のノート。
日々、飛び交う罵詈雑言。
ズタボロになった壁を見て、息を吐きだした毎日。
ふと思い浮かべた月影は、壊れていた過去に蓋をしているのは自分だ、と言い聞かせた。
「話を戻そうか。俺はさ、陽芽さんに夢をもってほしいんだ。だから、小説を書いてみないか? 本に囲まれて、自分で数多の想像をできる陽芽さんなら挑戦してみるのも悪い話ではないと思うんだ」
陽芽からすれば、出会って半日の存在が何を言っているのだろう、となっているのかもしれない。
それでも月影は本気だ。
イオとの話であった、夢をもたせてほしい。その話の影響も少なからずあるが、月影は自分のできることで精いっぱい、陽芽に夢を見てもらいたいと思ったのだ。
陽芽は、触れること、感じることについて言えば、目を閉じていることで想像の可能性を秘めた宝石と断言できる。
ふと気づけば、包み込んでいた小さな手に柔く力がこもった。
「月影は、私にできると、思う?」
「できるよ。俺が保証する」
即答する。それは、やらずに後悔の選択よりも、やって馴染む道の可能性を選ぶことが月影の性に合っているからではあるが。
(本を、小説を自分の手でまた書きたい、なんて思う日がまた来るなんて……)
生きる意味、それを早いうちに知っていたおかげと言えるだろう。
月影の方を見てくる陽芽は、少し悩みこそしたが、その表情には花が咲いた。
「うん。やってみる。やりたい」
「わかった。それじゃあ、明日からやってみようか」
陽芽は眩しかった。
自分は捨ててしまった、そんな希望を夢として持ったかは不明でも、月影にとっては眩しかったのだ。
「そうだ陽芽さん、俺は時間に忘れ去られた作家でもあるんだ。だから、多少なりとも詳しくは手助けできるよ」
「……月影は、私に似てるね」
「そっか。それじゃあ、この手は離さないようにしておくよ」
「成功したら……本を書きたい、私の夢になるかも」
「イオさんも喜びそうだね」
「うん」
離れていた。それでも、夢を見てくれる陽芽の為に、月影は嘆くのをやめて、決意を固めたのだ。
この手でペンはまだ持てないかもしれない。
ペンが持てなくても、伝えることはできると証明するために。
「陽芽さんの作品、完成が今から楽しみだよ」
「ハードル、高い」
「それじゃあ、一緒にくぐろうか」
「うん、一緒」
出会ったこの日から、時間に忘れ去られた作家の月影と、瞳を閉ざした少女の陽芽――創作という名の二人の日常は幕が開けたのだった。




