10 蒔いた種から花が咲く
今日という日、月影は陽芽の部屋に来ている。
陽芽はそわそわした様子で、どこか気が気ではないようだ。
(……同じ気持ち、なのかな)
初めて陽芽を見た椅子の前に、白い小さな丸テーブルが用意されている。
あの日と同じく、正面の窓から差し込んだ光が白い輪郭を強調し、探しているものを見つけてくれていた。
キャロルのような上品な服装から見える小さな白い手は、紙が束ねられた表紙に添えられている。
「預かってもいいんだよね?」
「うん」
「こんなことは聞くのは野暮かもしれないけど……陽芽さんは、この出来上がった初めての小説を、誰に読んでもらいたかったの?」
表紙は小さな手で隠されているが、時間をかけて完結したのだ。
陽芽が思い描いた物語が詰まった、陽芽だけの書ける小説が。
月影は添削や校正に携わっていないので、陽芽の小説の完成は待ち遠しかった。
またイオは陽芽の為に、と誤字脱字を探しこそしてくれたらしいが、月影と同じく『修正』まではしなかった。
修正をしなかったのは間違いではないだろう。
月影が思い返していると、陽芽は手をよけていた。
表紙に光が差し込み、その全貌をあらわにしていく。
「私……月影に、一番読んでもらいたかった」
タイトルに英名で『ARCADIA』と書かれていた
「これを、俺に……」
月影は思わず声が震えた。
タイトルを読んで理解した。
これは誰かが読むものではなく、月影やイオ……陽芽の創作に携わったものが触れるべきものだと。
タイトルだけで、今までの時間と絆、陽芽と築き上げたそれが全て詰め込まれているのだと理解できるものだから。
「うん。月影に、最初は読んでほしい」
「……陽芽さん」
「今の月影を、私は、見れるから」
「えっ――」
はっ、と月影は息を呑み込んだ。
開かれることのないと思っていた、閉じたままだったカーテンがゆっくりと上がっていく。
ぼんやりと、隙間から揺れる雫。
うっすらと光沢のある透きとおった黒い瞳が、今目の前で姿を見せたのだ。
月影は自然と口元を手で覆い隠し、目尻がとても熱くなった。
とどまらない熱は自然と、水をこぼれさせていく。
喉から、出るはずのないと思っていた声も溢れている。
後ろで編み込まれた茶髪のロングヘアーで……光沢のある透きとおった黒い瞳を持つ少女、それが陽芽本来の味だったのだろう。
自然と込み上げてくる嬉しさに、泣き声混じりの安堵の息があふれた。
「久しぶりに見たよ。形に答えのある世界。眩しいね」
「そうだよ。眩しいんだよ、世界は」
泣く理由がなかったのに、月影は自然と泣いていた。
辛い涙は全て呑み込んでも、嬉しい涙まではこらえられないものだ。
陽芽は椅子に腰を掛けたまま、久しぶりの世界の姿を眩しそうに見ながらも、瞳の中に目の前にいる彼の姿を反射している。
「月影、私」
「……うん」
陽芽は確かにその手で小説の表紙に触れながら、言葉を口にしていく。
「怖かった。幼い頃……廃れた、両親を見たから」
「両親を……」
「うん。だから、生きる意味を無くして、何も見たくないって思っていたの」
彼女……飛び級の天才少女と呼ばれた陽芽は、霹靂のように噂からも、世間からも視認されなくなっていた。
両親が関係していたとなれば、月影にも共感できるものがある。
今はただ陽芽の言葉に耳を傾け、寄り添うように聞くだけだ。
小説の話はいつでもできるが、人との会話、大切な人との会話はその時にしかできないと……月影は誰よりも経験しているから。
「でも、でも……」
「大丈夫だよ。陽芽さんの声は、聞こえてるから」
「うん。月影が教えてくれたから、また、見たいって、月影を見たいって思った」
陽芽は言葉足らずだ。
言葉足らずなのに、一つの言葉にしては大きすぎて、とても痛かった。
月影は陽芽と居たから、その言葉の持つ大きさを知っている。
「ありがとう、陽芽さん。俺を見たいって思ってくれて」
「月影、かっこういい」
「……陽芽さんは自分の可愛さを自覚しときな」
「暗に、かわいいって、月影、教えてくれてる」
陽芽を可愛くない、と月影は思ったことがない。ただ、口にしなかっただけで。
感動ばかりしていると目的すらも忘れそうなので、月影はそっと首を振った。
「そうだ。陽芽さんから小説をもらう前に、俺も渡すものがあったんだ」
古びたコートの内側にあるポケットから、文庫サイズの小説を月影は取り出した。
タイトルは書かれていない。ただし、小説の筆者名に『月村永翔』と記載されている。
「つきむら、えいと?」
「俺は陽芽さんと、イオさんに嘘をついていたんだ」
イオはきっと、月影が偽名だと知っていただろう。
それでも月影は本名を明かさずに、陽芽と接触し続けた。
陽芽の前で偽名を使い続けるうちに月影は、自分が犯している罪の重さを実感している。
親しくなった人に嘘をつき続ける……重たい心の鈍器にくくられて。
ついた嘘を払拭する気は月影に存在しない。ないとしても、月影はこれからを見据えて、ただ進みたいと思ったのだ。
「でも、それは今日で終わりにしようと思う。この小説は、月影……俺が陽芽さんの為に書いた、卒業の証だよ」
証。それは、その人が生きたことを示す意味すらもあるだろう。
月影は陽芽が見てこなかった世界を、その時間を書き記した全てを文字にして、卒業の証としてまとめたのだ。
一冊にしては随分と多くの要素を含んでいるが、陽芽が読む分なら問題ないだろう。
卒業、という月影の言葉に、陽芽は目を丸くしていた。
今までは理解できなかった、感情から陽芽の様子をうかがえる。
「卒業……いやだ。私、まだ、月影と……っ……!」
「綾野陽芽さん」
彼女のフルネームを口にした。
圧をかけているわけではなく、その名前を口にして、月影は陽芽の頭を優しくなでた。
男ながらの大きな手で、陽芽の髪がボサボサにならないように、そっと。
月影を見上げる陽芽は瞳を揺らし、今にでも泣きそうだ。
「卒業って言っても、俺から教えることが無くなっただけだよ」
「教えること、ないの?」
月影は頷くしかなかった。
教えようとすれば、文章の書き方、景色の捉え方……瞳を開いてくれた彼女に、今の見え方だって伝えることができるだろう。
それらをしないのは、月影自身が一番よく理解している。
月影は陽芽の視線まで腰を下ろし、少し濡れてしまった手で陽芽の両手を包み込んだ。
「……これからは、次からは、二人で進んでいこうか」
「二人で?」
「そうだよ。その瞳から見える、新しい答えを重ねながら……自分らしい作品を、生きたいと思える理由を作れるようにね」
彼女は生きる意味を月影で持ってくれた。
とはいえ、月影は陽芽よりも年を取っており、命尽きる最後まで傍にいられるとは限らない。
失ってしまう悲しみをお互いに知っているからこそ、生きる糧は必ずあると……人間らしい年月をかければ掴めるはずだと理解できるように。
「……月影、いなくならない?」
「陽芽さんが望めば、俺はいなくならないよ」
たとえ命尽きても、忘れられたとしても、覚えてくれる人がいる限りは存在した証明となる。
「なら月影、小説、読みたい」
「ああ、読もうか。渡しあった小説を、二人で」
正面の窓の光を頼りに、テーブルの前にクッションを二つ置き、二人で背を合わせるように座った。
お互いに向き合うことをしないのは、確かに気持ちを分かち合えると知っているから。
陽芽の背丈は月影よりも低いのに、じんわりと服越しに温かさを伝えてくる。
空間には、本を捲る音だけが響いていた。
お互いがお互いに思う、伝えたい想いを詰めた文章だったのもあってか、白い光はオレンジ色を帯びていた。
章を読むごとに、感想を伝え合ったりした時間は、実に有意義な時間だったと言い切れる。
「もう、こんな時間だね」
「夕方……夕日……すごく、久しぶりに見た」
「見れてよかったね」
軽く微笑めば、背中からも振動が伝わってくる。
月影は読んでいたページに栞を挟んで、ゆっくりと閉じた。
「……陽芽さん、最後に一番大事なことを伝えておくよ」
「うん」
陽芽は月影の声色を理解してか、静かに小説を閉じている。
花の栞を挟んで。
「今までを、陽芽さんがこれから綴るかも知れない小説に対しても言えることだよ」
「しっかり、聞く」
「うん。……支えてくれている人がいるから、こうして生まれる物語もある。それは、支えてくれている人が居なければ成り立たない、大切なことなんだよ」
自己満足のためなら、気負う必要はないだろう。
それでも見てくれる人が、読んでくれる人がいる……支えられているのを忘れてしまえば、横暴で、誰にも信用されなくなってしまう。
陽芽には辛い思いをしてほしくないからこそ、先走って口にしてしまう、月影が持つエゴなのかもしれない。
とはいえ、陽芽なら言わなくても理解しているだろう。
ふと気づけば、陽芽は手を後ろに伸ばして、月影の服の裾を引っ張っていた。
「月影、私。もう、見ないのをやめる。お母さん、お父さんと向き合って、私が道を決められるように……宝石、磨く」
陽芽はさり気なく、渡した小説に書いておいた……月影が見ていた陽芽の形を、言葉にしてきた。
「頑張れ。陽芽さんならできるって応援してるし、俺が支えているよ」
多くの言葉は必要ないだろう。
これは月影が決めることではなく、陽芽自身が選ぶ道なのだから。
心配されることは確かにあるが、それを覆せるほど宝石の光を見せて納得させられると……陽芽ならできると信じ切れるのだから。
(……俺も逃げてばかりじゃいられないな)
作家だった頃の自分と向き合うには、もう少し時間は要るだろう。
それでも進む道が、陽芽との関わりを必要とするなら、不思議な関係でもいいのかもしれない。
「……イオさんが夜ご飯を作ってくれているだろうし、手伝いに行こうか」
「うん。イオを、ちゃんと、見たい」
「はは、イオさんは泣いて喜ぶだろうね」
「えへへ」
二人で立ち上がり、テーブルの真ん中に小説を傾けるようにしておいた。
月影と陽芽がゆっくりと部屋から出ようとした時、三角の形になるように置かれた小説に夕日が差し込んだ。
覗き込んだ窓から差し込む光は、二つの背を……二人が進む未来を照らしている。




