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09 自分らしさを見失わないように

 陽芽はここまで、本当によく頑張ってくれただろう。

 月影自身、陽芽の努力を近くで見守ってきただけでなく、教えるように伝えてきたからこそ、感動深いものがあるのだ。


 とはいえ、陽芽の物語はまだ完結まで終わっていないので、月影は最後の取り組みをする予定である。


 出会った日から変わらない古びたコートも、二人の行く末を見守ってくれるだろう。


(俺も、陽芽さんには沢山もらったな)


 本来は教え伝える側でこそあるが、握れなかったペンを持てるようになるほど陽芽の意志に感銘を受けている。

 見えていない、を理由に逃げていた陽芽が、自分と向き合うように文章を書いているのだから。


 過去から逃げたままだった自分が、月影は恥ずかしいものだった。


 一度の失敗や、嫌なものから逃げ出したい気持ちがあっても、本当に大切なものから目を背けていい理由はなかったのだから。


 月影が物思いに更けていると、しんみりと耳に声が優しく響く。

 光が差し込んだ、陽芽の部屋で。


「月影?」

「ああ、ごめん。少し、考えてた」

「月影、自分で少しだけ読ませて言った。なのに、感想、くれない」


 ごめん、ともう一度謝りをいれると、陽芽はぷくりと頬を膨らませている。

 現在、月影は陽芽に以前から書かせていた文章を読んでいたのだ。


 陽芽には急に十万文字の作品を書かせずに、短編の形で文章に慣れさせる練習をさせていた。


 だからこそ物語の内容を知らなかったのもあり、こうして読む機会を取ったのだ。

 知らなかったのは、月影が陽芽の形を奪わないようにするためでもある。


 一度だけ、陽芽の文章に目を通したことはあったが、月影は文章の内容までは触れていない。


 月影は書き溜まった陽芽の短編を、何度も、何度も読んだ。


「書くことには慣れた?」


 文章を読んだおかげで、彼女に確かな宝石があることを知れた。

 学びから得た経験もあるかも知れないが、それ以上に陽芽しか持てない宝石を。


「うん」


 陽芽はいつも通りに、頷いた。

 それでいてしっかりとペンを持っており、今も文章を綴る最中だ。

 マルチタスクではあるが、陽芽が飽きないのなら願ってもないことである。


「最後の勉強をしようか」

「……最後? 月影、お別れなの?」


 陽芽の声色が湖の底に沈んだように暗かった。

 瞳を閉じたまま見上げるように見てくる陽芽に、月影は首を振っておく。


「お別れはしないよ。ただ、俺が陽芽さんに教えられる、最後の伝えを伝授しようと思ってね」

「月影の、とっておき?」

「そうだよ。当たり前にあるものだけど、埋もれてはなくなってしまう、大事なものをね」


 今でも陽芽は文字を二通りで書いているから、正直ここまで陽芽がやってこられたのには驚きだ。


 考えも程々に、月影は陽芽の斜め後ろに位置取り、そっと手を伸ばした。


 陽芽のペンを持つ手に、自身の手を触れさせる。

 陽芽はぴくりと体を震わせこそしたが、その小さな手は、身をゆだねるように力を抜いている。


 ペンを持つほっそりとした手は、月影の手の中に納まっていた。


「ここまで学んでもらった書き方は、表現の方法や、描写の魅せ方だったよね」

「うん。井戸とか、外で、実践した、想像した」

「だけどね、それよりも大事なことが一つだけあるんだ」


 たとえテンプレートであろうと、自作の零地点であろうと、忘れてはならないことだ。


 その宝石は誰かが見つけるものではない、自分で見つけ、読み手が見つけられるようにするべきものである。


 ひとえに云うなら――己にしかない強み。


「……自分らしい、自分にしか書けない文章を忘れないことだよ」


 月影は正直、怖くて、自分を見られなくなってしまった。

 言えた立場でないのは承知で、不安こそあるが、ただ陽芽の導きになりたいと思ったのだ。


 言葉が積み重ねてくれると、陽芽の前なら信じられるようになったから。


「私にしか、書けない」

「そう。陽芽さんの文章は豊かな想像力から紡がれる自然な柔らかさに、想いが籠っているって感じ取れる文面で……俺は好きだよ」


 短編を読ませてもらったが、月影は改めて陽芽の文章は好きだと悟った。

 文章から逃げていたのに、陽芽の文章は一目見ると世界を伝えてくるのだ。


 読むことを意識させない、とても素直な文章だと言える。


 読むのが辛い人でも、見るだけで頭に入ってきて世界が浮かぶ……陽芽にしかない輝きだと言い切れるほどに好みなのだ。


「陽芽さん、この文章、大事にするんだよ。俺が好きだって、保証する」

「えへへ。月影に、褒められた、嬉しい」


 いつもの言葉足らず。

 なのに、なのに、照れた様子を見せる陽芽がとても眩しかった。


 世界を見ない陽芽の姿を見ると、教えてよかった、伝えられてよかった、と改めて実感するというものだ。


 月影は添えていたままの手の力を抜いて、陽芽の手にゆだねた。


「陽芽さん、今から書こうとしている文字、一緒に書いてもいいかい?」

「……うん。月影の手、温かい」


 陽芽は嬉しそうに頷いた。

 キャロルのような上品な服装は相変わらずなのに、白い手は何よりも綺麗だった。


(……綺麗な文字だ。折れそうなほどに心配なのに、芯はちゃんとあって、何よりもあったかい)


 添えた手は動いていた。

 どう書くかではなく、ただ陽芽の書きたいように動いている。


 白い紙に、流れるように優しい音色が描かれていく。


 ふと――月影は思い出した。


 幼くして、才能のある文章で小説を書き、一躍有名になったあの日。

 両親の罵声が鳴り響く中、現実から逃げるように文章を書いた日。

 テーブルに折れて転がるペン、くしゃくしゃになった原稿用紙を二度と見ないように、大好きな小説を書くことも、読むことも諦めてしまった最後の日。


 ――そして、二十歳になって両親と縁を切り、偽名を使い、壊れてしまった日常に別れを告げた日。


 そんな過去が月影はあったにも関わらず、今では陽芽の文章に触れさせてもらっている。


 陽芽が綴ってくれる文章は、震えていたはずの、文章を書くのを諦めていた手の感覚を取り戻させてくれるのだ。


「久しく、忘れていたよ」

「月影、泣いたら、駄目」

「泣かないよ。泣くのは、嬉しい時だから」

「変なの」


 他愛もない話をするが書く手は止まらない。


 寂しさを忘れるように、書き綴ることを止めない手があるから。


 その人を形作る文章があるからこそ、読み手の心を揺らし、好きを言葉にさせてくれる言霊が込められているのかもしれない。


「……陽芽さん、短編を書くのは終わりにして、ずっと書きたがっていた長編の物語を書いてみようか」

「月影、我儘、いい?」


 なに、と月影は優しく呟いた。


「この文章は、月影の手、触れたまま書きたい」


 陽芽が自分から甘えてくることはなかったので、月影は息を呑み込んだ。


「わかった、二人で書こうか。一つの物語を」

「うん。月影、ありがとう」

「感謝をするのは……俺の方だよ」


 最後の鐘が鳴るのは――近い。

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