∞第三話 花菱の効力-恵方巻き-
大きな渦が今、彼女を巻き込んでいる。それはつむじ風のようでもあり、銀河系のようでもある。それがゆっくりと回転しながら彼女に近づいている。
その渦の中心から声が聞こえる。寝室は彼女ひとり。家族は皆眠っている。
「陽菜聞こえるかい?」
「あらその声はおばあちゃん?」
声の主は、もう、亡き人である彼女の祖母のようだ。
「そうだよ。弥生鈴子だよ」
「どうしたの? 私の夢の中にゲスト出演して」
「さっきね、一色くんのお店のお弁当を買ってきたようだね」
「ああ、潮風食堂の」
「うん。おばあちゃんもね、あそこのお料理が大好きだったんだよ。その匂いに惹かれてやって来たんだ」
「え? 潮風食堂の料理の香りに?」
「うん」
「へんなおばあちゃん」
「近々、お前は会社の同僚に相談事を受ける。その時はこのキーホルダーを彼女のバッグに付けておあげ。このキーホルダーは護符の役割をしているんだ。アミュレットだねえ。そしてその相談相手の女性は、二者択一の人生の分岐点に迷うことなく最善の道を選べるのさ、この護符のおかげでね。いいね、この護符を必ず持ち物につけさせるんだ」
「うん、分かった」
そういうと陽菜の祖母の声は消え、大きな渦巻きはどんどん遠ざかっていった。そしてそこで陽菜は目が覚めた。すると何故か、昨晩に食べた弁当の器。残しておいたはずのきんぴらゴボウがなくなっていた。
「食いしん坊かよ!」と陽菜。ポンと枕を軽く叩く。
無くなったきんぴらゴボウの代わりなのだろうか、弁当の折詰めの横に『潮風御厨神明社』と書かれた花菱型のキーホルダーが置いてあった。言っていたアミュレットなのだろう。
「この神社、近所の神社のモノだわ。いつからここにあったのかしら? 本当に夢の中のおばあちゃんが持ってきた? まさかね」とひとりごちて笑う彼女。
弥生陽菜はとびきりの美人だ。彼女の勤務する会社、音快社でも一二を争うほどの器量持ちだ。彼女がどんな美人かというと、すれ違う人が皆振り返るほどの美貌である。洗練されたシンプルでしなやかなファッション。薄いながらも目元、口元を艶やかにするメイキャップ。かといって、日常オシャレの域を出ていないので、変に街角で浮いた感じにもならない。そんな装いに、サラサラの黒髪ロング、鼻筋の通った目元も柔らかな人のよさげな印象を与える美人なのだ。
そんな彼女はデートの誘いや求婚されることも日常茶飯事。いったい誰がそんな彼女のハートを射止めるのかと町中、会社中で持ちきり。まさに現代のかぐや姫である。
その彼女が葛西臨海公園の売店で買ったソフトクリームを食べながら、同僚の三河穂乃香を待っていた。
穂乃香はお世辞にも美人とは言えない。どちかといえば、可も無く不可も無くという際だった美しさとか、華のある装いとは無縁の女性である。
「ごめん。遅れちゃったね」と穂乃香は笑顔で現れた。地味目のロングスカートにワイシャツとカーディガンを充てた一般的な装い。ダメなわけではないが、隣に陽菜がいるとやはり埋もれてしまう感じだ。淡い水色のワンピースと白のニット帽、白のニットの上着を羽織った陽菜が横にいるとやはりすれ違う男性は陽菜に一目置いてしまう。
「いいよ。ソフトクリーム食べていたしね。で、相談ってなに?」
陽菜は珍しく同僚に相談事を託されたのに少々不安を隠せない。それほど自分は社会生活や世間に精通しているとは思っていないからだ。ましてや今朝方見た夢の通りに事が運んでいるのが少々気にかかる。
北風の吹く中での談義はどうかと考えた穂乃香は、
「あの売店の食堂に入ろうか」と切り出す。
「うん」
陽菜は最後のコーンを口に放り込んで、持ち手のロール紙をゴミ箱に入れた。
サッシの引き戸をスライドさせて、中に入ると昭和の大学や学校にあった学食とうり二つの食堂がある。フードコートと呼ぶには少々小さめだ。鯛焼きやたこ焼き、立ち食いそばのような即席メニューがおもな献立だ。その一画の席に陣取る。
ふたり分の自販機の紙カップコーヒーを手にして穂乃香は陽菜の向かいに座る。陽菜は、髪をかき上げて頬杖をつく。
「どしたの?」
「うん。唐突でゴメンね。営業二課の豊川さんって知っている?」
少し考えて、顔を思い浮かべる。会社のロビーで週一回程度、秘書課の千種雪菜と待ちあわせをしていた男だ。決して良い印象など持っていない。脳裏にプレイボーイという言葉が浮かぶ。大してイケメンというわけでもないが、持ち物や身なりに高価そうなものを付けて、強めのコロンをにおわせる自意識過剰なタイプだ。
陽菜も穂乃香も会社のエントランスで仕事をする受付嬢である。来客応対時以外は、すました顔をして、正面を向いているが、待ちあわせや出退勤時間の人間関係は嫌でも見えている。
「まあ、何度か応対したことはあるわ」と陽菜が言う。
「私ね、告られちゃって、お付き合いしないかって」と穂乃香はいきなり本題を切り出した。
高揚して赤くなっている彼女の顔はまんざらでもないという顔だ。
『千種とはどうなっているのよ。あの男』
確かに顔はそこそこと言えるけど、陽菜にとって『女癖の悪い男』というイメージは拭えない。彼本人に千種との関係を訊ねたわけでもないので断定は出来ないが、今の彼女が持つ情報のなかで、彼の人物評価は黄色信号である。
陽菜はマドラーで意味も無く紙カップコーヒーをグルグルとかき回し続けている。考えている時間なのだが、ほぼその所作は手わすらと言える。
「素直に言った方が良い?」
少々渋い顔の陽菜に、穂乃香も「うん、はっきり言ってくれた方が良い」と言う。
「あの人、先日秘書課の千種さんとデートしてた。会社のロビーで待ちあわせしていたの」
残念そうな顔で「そう」と穂乃香。
「やっぱり私なんか、そういう対象よね」
日頃から穂乃香は二番手のキープ女ぐらいにしかならないと口癖で言う。少々自虐的発想である。
「穂乃香って、好きな人いないの?」
陽菜の質問に「会計課の金山さんかな?」という穂乃香。
会計課の金山明哲は陽菜にもよく話しかける気さくな人だ。決してイケメンとして話題に挙がる人ではないが、引く手あまたでいろいろな課からお誘いがあることで有名だ。もとは営業畑で法人営業専門の一課で大口取引を引き出し、総務では備品倹約とデジタルシステム新規導入というプラスマイナスの両方を同時やってのけ、会社の事務作業を合理的簡素化をさせ、部門間の共有ツールを盤石化させてスムーズにしたことでも知られている。いまや会社では出世頭のひとりである。そしてなにより会社の近く、潮風御厨神明社に毎朝お参りしてから出社している信心深い姿も度々見かける。真面目さにかけては穂乃香と良い勝負だ。
彼に浮いた話はないが秘書課の熱田さんとは仲が良いというのも有名だ。
「金山さんは秘書課の熱田さんとは仲が良いわね」
「うん。知ってる。熱田さんが相手じゃ、私に勝目無いわ」とため息の穂乃香。
一理あると思いながらも、内心は『どうかしら?』とちょっとの望みを捨てるのも違うと思う陽菜。
陽菜は穂乃香のトートバッグを見て、
「ねえ、このお守りあげるからトートに付けて良いかしら?」と言う。
穂乃香は勝手に恋愛成就のお守りと思い込み、「うん、ありがとう」と言ってトートを差し出す。
持ち手の付け根に輪を引っかけて留め具をはめる。
「よし」
次の日、陽菜は穂乃香を誘ってランチに出た。
「何処に行くの?」
「ウチの祖母が行きつけだった定食屋さん」
「へえ、会社の近く?」
「うん、商店街の中」
そういうと陽菜は潮風食堂の扉をスライドさせていた。
「いらっしゃませ」
零香は陽菜の顔を見て、
「あら、鈴子さんのお孫さん、陽菜ちゃんね」と笑いかける。
「零香さん、こんにちは。先日は無理言ってお弁当作ってもらってありがとうございました」
「いいのよ。うちも商売だもの」と零香は微笑む。
そして「こちらは同僚の三河穂乃香さんなんです」と陽菜が紹介すると、衝立の向こうの小上がりから顔を出した男性がいる。聞き覚えのある声に反応したようだ。
「やあ弥生さん、三河さん! こっちおいでよ」と、なんと金山が手招きしている。
「あら金山さんもランチでここに?」
「うん、週に一二回は来るよ」
その言葉に「私もたまに来ます」と陽菜。
「三河さんは自己紹介していたので、このお店は初めてみたいだね」
金山は銀縁のメガネをそっと直してから味噌汁を平らげた。
ふたりは小上がりで金山の前に座る。
「何を召し上がっていたの?」と陽菜。
「恵方巻きと助六のランチセット。きんぴらゴボウの小鉢と蟹汁付き」
「そんなのあるんだ」
「今週だけ特別」と零香。
「いいわね。季節モノだ」と穂乃香。
穂乃香と陽菜は互いに肯くと、「私たちもそれで」と注文する。
「コーヒーか、紅茶が付くけどどうする?」
零香の言葉にふたりは「コーヒー」と声を揃えた。
金山はすぐに穂乃香が持っているトートに付いたアミュレットに気付く。
「三河さん、あの神社の隠れアイテムを受けているんだね」と嬉しそうだ。
「えっと……」
陽菜にもらったたため口ごもる穂乃香。
「ああ、これはうちの祖母に教えてもらって手にしたモノなんですよ」と助け船を出す陽菜。
「これって特定の日に昇殿祈祷しないともらえない護符なんだよね。僕も同じものを持っているんだ、ほら」
そう言って金山は自分の家の鍵をポケットから出すと色違いのあのアミュレットを見せる。
「本当」と穂乃香は嬉しそうである。
「お揃いのアイテムを持っているし、今度映画にでも行かないかい?」と金山からの意外な展開。
「いいんですか、金山さん。熱田さんと仲良しなのに大丈夫」と一応心配の振りをする穂乃香。
「え、あれ? アレは姉の娘。姪っ子だよ」と笑う金山。
ズッコけるというのはこういうことを言うのだろう。陽菜と穂乃香は肩からひっくり返る。
「姪っ子?」
「うん、姪っ子。親戚」
「それであんなに物怖じしない間柄なんですね。すっごい仲良しに見えるもん」
「彼女は君たちより遙かに若いじゃないか。僕の年齢の人が恋人にするにはまだ幼いよ。二十歳に成り立てだもん。そもそも親戚だからその図式はハナから当てはまらないけど」
「はあ」
陽菜と穂乃香の心配は杞憂に終わった。
「そういうことなら映画ご一緒します」と穂乃香。
「よかった。前から一度、三河さんとはゆっくり話をしてみたかったんだよね」
「本当ですか」
「うん」
そう言って、約束を取り付けると金山は「先に僕は出るけど、また後で」と言って裏面に電話番号を書いた名刺を穂乃香に握らせた。しかも後で知るが陽菜と穂乃香の分も会計を済ませてくれていた。
ふたりはあまりの運気の好転に状況整理が追いついていない。
「どうなっているの」と穂乃香。
「さあ」と肩をすくめる陽菜。
ただ言えるのはふたりとも、あのアミュレットの御利益と思っているのも事実だ。
『おばあちゃん、ありがとう』と陽菜は心中で囁いた。
そして「今晩の夕食用に、きんぴらゴボウをパックで買っていきたいんだけど、用意して取り置いてもらっていいかな? 仕事帰りにもらっていくから」と陽菜。どうやら鈴子にお供えをするようである。
「いいよ。ついでに鈴子さんの大好物だった西京焼きをおまけで付けておくよ」と一色。
「えっ? そっちの方が高くない?」と陽菜がいうと、「いいや、店では出せない小さいヤツを、おまけでいつもきんぴらに載せていたんだよ。それがある日は鈴子さん最高にご機嫌でね」と懐かしそうに一色が頷く。
「そうなんだ。ありがとう一色さん」
「どういたしまして。ちなみに今日の午後六時頃なら十二階君も来るみたいだよ。さっき電話あった。その時間に合わせると逢えるよ。来週から舞台稽古に入るらしくて、それを逃すと暫く逢えないよ」と意味深な笑顔の一色。
「もう。彼はこのお店のただの呑み友達なだけなのに」と陽菜は嬉しげにしながら、「ダース君にも会いたいしなあ。わかった六時にくるわ」と返事した。それと同時にふたりの前にも零香の運んできた恵方巻きが届いた。
穂乃香はどうして陽菜があんなに男性社員に人気があるのに靡かないのかが今分かった。演劇に青春をかける愛しの君がいれば、社内の恋愛狂の出来レースには入らないと言うことである。
「恵方巻きはさ。諸説あるからわからないけど、関西が発祥は本当らしいね。でも縁起物でもあるのは確かさ」
一色の説明に「そう言えば今年は南南東を向いて丸かじりらしいわね。こんな太巻きかじれるかしら? 具だくさんでこぼれそう」と零香が加えた。
「かんぴょうは細く長い形から長寿を願い。しいたけの甘煮は、傘、陣笠なので護身の楯の役割。伊達巻や卵焼きは、黄金をイメージして財運。ウナギとあなごは出世。桜でんぶは材料が鯛なので『めでたい』の語呂から縁起物だし、ピンク色が良縁や幸福を現している。えびは、紅白の色でおめでたいことや曲がった腰とひげを持つため健康長寿の願い。キュウリは名称から『九つの利益』をもたらしてくれる、っていうね。まあ彩りの効果も大きい。その意味合いは地域や家でも違うかも知れないけど。でもおせち料理と近い意味がここには隠れているんだ。だからおせちに手が出せない人も恵方巻きで挽回すれば、遅ればせながら縁起物にあやかれるよ。そして夜に豆まきで年の数だけ節分豆を頬張って無病息災を願う。良い行事だね」と一色。なかなか結構な蘊蓄だ。
「あらあら。一色さんったら、珍しく食材の事なんて教えてくれるのね」と零香は穏やかに微笑む。
「そりゃ料理人だもん。ちょっとぐらいは豆知識でも披露しておかないとねえ」と照れ隠しの表情だ。
ふたりともに節分の節目を越えた新しい潮目と、新しい恋の動きに少し希望を持っている。そして見事、友人の選択肢を良縁に導いたあのアミュレットもあっぱれだった。陽菜は帰宅後に祖母の元にあのきんぴらゴボウをお供えしてあげるのが楽しみになった。
了




