∞第二話 埋もれ木の花はリンカーネーションの夢を見る-焼鯖定食-
「ごめんよ」
初老間際のゆっくり入店する男性がつまずきかける。
「あら」と思わず零香は手をさしのべた。
だが男性は上手く体勢を立て直した。
「あ、いや大丈夫。ありがとう」と掌で宙を扇ぎ、補助は不要という合図をする男性。
「如月先生、いらっしゃいませ」
「やあ、ご無沙汰だね。ようやくここに辿り着いた」と柔らかな笑顔を向ける如月。
ラシャ製ツバ付きのシャッポ帽を頭から取ると隣の椅子に置いた。地味な格子柄のジャケットにループタイの紳士は、軽く白髪を整えてからメニューを見る。そのまま鼻をクンクンと動かすと、「今日のランチメニューは焼鯖だね」という。
厨房の中にいた青砥一色は、笑顔で「相変わらず鼻が利きますね」と笑う。
「ああ、どうも身体は衰えていくけど、料理の匂いだけは嗅ぎ当てられるようだよ。昔、婚約者の好物なので何度も食べに行ったんだよ。匂いに惹かれて久しぶりに食べてみたくなったよ」
「それは健康に良いですよ、先生。人間ちゃんと食べていれば病気も衰えも防げますからね」
一色の言葉に、「じゃあ今日はその焼鯖定食をもらおうかな?」と笑う如月。
「はい、かしこまりました。青魚は血流にいいのでぜひぜひ。カルシウムも摂れますしね」
そう言って一色は調理に取りかかった。
「あらどなた?」
零香は如月の胸ポケットから少しだけ出ている女性のポートレートらしき写真に目が行き、訊ねる。
「ああ」と言って、胸ポケットからスッと写真を取り出しテーブルに置く。
「これはね。若い時分に僕が結婚しようと思っていた女性なんだ。さっき言っていた昔の焼鯖好きの婚約者。たまたま写真を整理していたらネガが出てきてね。今しがた運河写真館の拓さんに、キャビネサイズの印画紙で焼き増しをお願いしてきたんだよ。若い時分に彼女のお家にまでご挨拶に行ったが、彼女のご両親の許可が下りなかった。先方には売れない画家崩れと思われたようだね。それ以来どうも女性とは縁遠くなって、いまだに独り身なんだ」と残念な顔で言う。
「まあ、綺麗なご婦人」と零香。
「うん、生きていれば今は五十代かな」と言う。
「生きていれば?」と零香は眉をしかめる。少し寂しげだ。
「うん、風の噂で亡くなったと聞いているんだ。お線香をあげに行った知人に聞いたので本当の話だと思うよ」
「結構以前に?」
「ああ、僕と別れた五年後だったらしい。病気でね、三十代の初めだった……」
「そう」
零香はそれ以上は訊かなかった。悲しみに繋がる話を深掘りすべきではないと察したからだ。きっと如月には若き日の彼女の姿が鮮明に残り、心の中で今も彼女は生きているのだろうから。
話にひとくぎりがついたところで一色が焼鯖定食を膳に載せて如月の前に置いた。
「お待ちどおさま。空弁にも負けない焼鯖ですよ」
そう言ってから、如月が持っていた机上の写真に目をやる。
「ああ、これって神童ミキさんだ」と一色。
「知っているの?」
零香の問いに「うん、小さい頃同級生の五島星也と一緒に通った神童書道教室の先生だよ」と言う。
「そっか。一色くんは知り合いか。近所だもんな」
「はい。でもオレは星也と違って優秀じゃないので、いつもサボってばかりでミキ先生に注意されてばかりだったんです。三十歳そこそこでお亡くなりになったのは知っています」
「うん。古い話だ。僕ももうすぐ、あとわずかで還暦。過去とはさよならの年齢になった感じなので、彼女の思い出ともさよならしようかと思っている」と寂しそうに微笑んだ。
旨味、脂ののった香ばしい焼き加減と小骨まで取り除いた柔らかな肉片。一時は空港で売られる人気の空弁としても有名だったが、最近は各処で気軽に食べることが出来るようになった庶民に馴染みのある味だ。
「最近はお仕事は順調ですか?」と一色。
「うん。昔と違ってイラストの高度化が業界全体に求められてね。デジタル加工じゃない昔ながらの水彩画なんかを注文されることが多いよ。やはり水彩鉛筆の淡い色合いはアナログが好きという人が多いらしい……」と如月は笑いながら箸を割った。
「へえ、一回りしてアナログな挿絵もニーズが出てきたんですねえ」
「そうなのかな? 僕は依頼に沿って仕上げるだけなので本当のところは知らないんだ。明日に新しい編集担当者が来るので、その辺の流行事情も訊いてみるよ。僕のようなおじいさん予備群の余生の仕事でもニーズあるのかってね」
如月は自虐とも謙遜ともとれるような言葉で応える。この奥ゆかしさは昔からで、その穏やかな性格は店に来る常連の中でもピカイチだ。
「でもまあ、まだまだ先生がご活躍になれる場所は沢山あるという事ですからね」
「まあ、そう願いたいね」
そう言うと如月は黙々と頷きながら焼き鯖を笑顔で頬張り始めた。
やがてお茶を一飲みして「ふう」と一息つくと、「さあ、帰って児童書向けの水彩の風景を仕上げてしまうよ」と立ち上がる。それを零香が横で支えた。
如月はテーブルの上にある帽子をちょんと髪に載せると、伝票の上に勘定代金を置く。そして軽く右手を挙げて「じゃあ、また食べに来るね」と柔らかな笑顔を残してゆっくりと店を後にした。
「あ、いた!」
いきなり草原の中で、自分を見ながら微笑んでいるのは亡くなったはずのミキだった。その容姿は最後に会った頃の二十五歳頃の面影である。如月はこの状況が把握できていない。
「夢か?」
レースのような白いワンピースに身を包んで、ヨーロッパの神話神・アポロンの霊木である大きな月桂樹の下、その枝葉を使って草冠を編んでいる。そう月桂冠だ。
「あなたのためにずっとここで待っていたのよ。もう待たせすぎ。待ちくたびれたわよ。いつまで私を気遣っているのよ、今度の恋は成就させてくださいよ。それと三科展入選した記念でね、私からのお祝いの言葉を伝えたくてやって来たのよ。やっとあなたの実力が世間に認められたわね」
そう言って彼女は彼の頭上にその冠を載せた。如月も少し嬉しそうだ。
「うふふ、夢の中の戴冠式ね。私への優しさをありがとう。おめでとう! そしてお幸せにね」
「これは夢なの?」
「そうよ。あなたの夢の中。でも私の存在はやがて現実になるわ」
如月には彼女の言っている意味が分からない。
『夢の中が現実って?』
「記憶の消えた新しい私はあなたに会いに行きます。真っ白な記憶でね。今度はしっかりと離さないで結婚してよね」
そう言って、釘を刺しながらもどこか嬉しそうだ。
「なにそれ?」
如月の言葉に「でも新しい私は三十歳過ぎなの。人生の続きのために、その年齢まであなたには会えない宿命だったの。でももうすぐ、私の消えたあの年齢になる。0歳で生まれてきてから、ようやくあなたとの続きの人生を歩けるのよ。リンカーネーション、生まれ変わり、入れ替わりだわ。分かるでしょう? そして新しい私はあなたとは当然初対面だわ。でもきっとあなたに恋しているはず。勇気を出してあの映画に誘ってあげてね」と念を押すミキ。
そう言って彼女は、インターレスな姿になって、すっと草原から姿を消した。
その様子に彼は、「あ、ミキさん。待って!」と言ったときにはもう遅く、彼女の姿は影すら消えていた。
そして彼はベッドに横たわっている自分が、ミキの夢を見ていた事に気付く。朝の目覚めだ。
「ふぅ、夢か。歳をとると見る夢は昔のことばかりだな。前に進まないと時代に飲み込まれてしまうよ。あの時、自分ひとりで生きていく覚悟を決めたじゃないか」
少し涙ぐんでいるのが自分でも分かる。寝室を出て、洗面所の鏡で赤い目を拭って、シワの増えた目尻や白髪が黒髪を征していく自分の頭髪を見る。
するとガチャッと玄関で物音がすると女性の声がした。
「先生、お目覚めですか?」
「あ、はい。少し待って下さい。今洗顔と歯磨き中で。上がって目の前の応接室でお待ちください」
「あ、はい」
身支度を調えて応接室に向かうと如月は驚いた。
「ミキ……」と呟く。他人のそら似にしては似すぎた女性だ。ただし彼女は生きていればこんなに若くはない。パンツルックにスカーフを巻いたオシャレな編集者だ。
「あら先生。私の名前ご存じなんですね。葛飾学芸書房編集部の御酒梓紗と申します。本日から先生の担当になりました」とお辞儀をする。
如月の方は空いた口がふさがらないまま動機が収まらない。
一方の梓紗は心臓を押さえたまま蹲る如月を心配する。
「先生、いかがなさいました。心臓ですか?」
「いや違うんだ。そう言って先日自分が焼き増ししてきたキャビネ判のミキの写真を見せた」
彼女はしげしげとその写真を見て驚く。
「まあ。私そっくりですね」
彼は素直に「遠い昔の婚約者だった。三十歳そこそこで他界してしまってね。あまりに似ていたので驚いてしまった。取り乱して申し訳ないですね」と詫びる。
すると彼女はにっこりと微笑んで「いいえ、光栄ですわ」と返した。
そして「どうして今になってこんなお写真をお持ちになっていたの?」と梓紗は問う。
「先日、今日の依頼の児童書の件を思い出して、子どもに囲まれて仕事をしていた彼女を思い出したんだ。それでガサゴソとやっていたら、昔のネガが出てきたんでプリントしてみた。創作の良いモチベーションになるんじゃないかと思ってね」と彼は説明した。
「なるほど。そうでしたか。あ、ちなみにこのポートレートの後ろ、背景に写り込んでいる映画のポスター。いまリバイバルでやっていますね、銀座の名画ミニシアターで」
「そうなの? 行きたいなあ」と如月。
彼女は微笑むと「お供しますよ。先生ひとりじゃ心配ですから」と優しく頷く梓紗。頬を少し赤らめて笑う。
「こんなおじさんと一緒に行ってくれるの?」
「だって私、学生時代から先生のイラストの大ファンで、自分から希望を出してここに来たんですよ。担当にしてもらって」と打ち明けた。
「それはありがとう。嬉しく思います。じゃあ、リバイバルシネマの件、お願いしても良いですか?」
「ええ、喜んで!」
頬を赤らめた梓紗は『デジャビュー? このシーン、記憶の片隅に断片的に残っているわ。でも先生とお会いするのは初めてなのになあ。変なの』と首を傾げていた。
了




