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02

 ……それにしても、この夜空は一体何によって染め上げられようとしているのだろうかと、彼女は考えた。誰が、何のために。その起源を繙くようにして探っていったなら、そこには他でもない自分自身がいるような気がした。つまり、この宇宙が自分の意志に因って創造されたのではないかと思われたのだ。もしもそんな、根拠のない子供じみた妄想を口にしたなら、彼はいよいよ失望してしまうだろう。それでも、もし心のうちの全てを開陳したとして彼が抱いた何らかの誤解を解けるのであれば、きっとそうする。身体を委ねるよりもずっと本質的なことを、少しも躊躇わずに実行するに違いない。その上で一つだけ、彼に求めることができるとすれば、彼のことをもっと知りたかった。知りたいと思うことの暴力的な側面を本能で察知する彼女は、その欲望が最後には二人の身を滅ぼしてしまうのではないかと恐れずにはいられない。しかし、今となってはもう同じ場所に留まり続けることはできないのだった。

 仮にもしも何事かをできるとすれば。そんな、仮定の上に仮定を重ねたところに、さらに仮定を重ねてみる。彼女が信じる自身の出自が正しいとするなら、つまり本当にこの世界を創造したのが彼女であるのなら、創造主の理解の埒外にある彼は一体何者なのだろうか。

 彼女はその問題に気付くことなく、四阿を出た。月光の照らすところへ戻ってくると、失われていた活力が戻ってくるようだった。月が出ているといつも心が若やいでいくような思いがする。だからあの食堂に出かけるときは満月の日と決めていた。そんな特別な日に出会った彼と喧嘩別れのようにして疎遠になることは何としても避けたい。それが、彼女の真心なのだった。……


 雪道を行く環は、彼子が再び口を噤んでしまったことに気を病んだ。指環のことについて、彼子は何も語らなかった。しかし、彼子が嘘を吐いたというわけでもないのだ。環は怒りを包み隠すことなく曝け出してしまったことを後悔していた。それでも彼子に詫びずにいるのは、やはり体面のためであったのだろう。さらに言えば、もうこれ以上に発展することのあり得ない関係だから、それを修復する気も失せていた。ただ一つ問題があるとすれば、それはやはりどこまで歩いていけば良いのだろうかということである。まるで堂々巡りだった。彼子を送り届けるにしても、その暮らしている住まいを知らない。訊けば済む話ではあるが、彼子の内面に踏み込むような問いかけはしたくはなかった。だからといってここで別れるというのは論外である。

 二人は積もるでもなくただ募る雪のためにゆっくりと歩いていく。そのうちに忘れ去られていく何かがあるような気がして、環は必死に意識を保とうとしていた。今、この場所に生きているという意識を。しかし、代わり映えのしない風景の中を歩いていくうちに、意識が茫漠としていくのを避けられない。十分前、四阿で彼子と寄り添っていたことを覚えている。二十分前、やはり同じように雪道を歩いていた。ナイトホークスを出てから三十分は経っているだろう。このように記憶はある。しかし、そこに生きていたという確証が、環にはないのだった。それはこの時空においてのみそうなのだろうか。いや、そうではないだろう。

 別の人格があるというわけではないし、なにか恐ろしい空想の中に生きているというのでもない。現実を生きながら現実に馴染むことができず、それでいて空想の中に逃げ込むこともできないというだけなのだ。環はそんな己の性を曝け出してしまいたかった。何もかもを投げ捨てて、この小路を駆け抜けてしまいたかった。しかしそれは一種の夢想である。そして、そんな夢想に浸ることのできない環なのであった。

 空を見上げる。夜が深まっていくのを感じる。月の見え方はどこまで歩いてきても変わらないように思われた。月から降り注いでくるかのような雪に、ふと見惚れてしまいそうになった。その一瞬の空白を、彼子は見逃さなかった。

「綺麗ね」

 環はその言葉を素直に受け取ることが未だできずにいる。綺麗だというその言葉を発する己の美しさにどこまでも自覚的であるように思われて。そうして実際に彼子の表情を見れば、そこには間違いなく美しさがあり、綺麗だと感じさせられた。

「君はどうしてそんなに美しいんだ」

 思わず発してしまった言葉には相変わらず棘があった。彼子はその棘を真正面から受け止めながらこう述べた。

「今この瞬間ほど、自分の生まれを呪ったことはなかったと思う。女に生まれてこなければ、あなたとこんなに苦しみ合うこともなかったかもしれないのに」

 環は思わず息を呑んだ。彼子にそこまでの憂いを感じさせることの不明を恥じて。

「悪かった。さっきのことは、もう忘れることはできないだろうけど、本当に悪いと思っている。君がそこまで思い悩む必要はないんだ」

「私の方こそ、少し極端なことを言い過ぎたかもしれない。……ねえ、どうして突然気を悪くしたの」

 そこまで率直に尋ねられてしまうと、環も全てを明け透けにして述べるしかなかった。

「君が外した指環の痕に、僕は嫉妬してしまったんだ」

「指環……。そう、そういうことだったの」

 彼子はそう呟くと、静かに笑い始めた。

「たしかに変な誤解をされないように指環は外したの。でも、それが良くなかったのね」

「それはどういう……?」

「指環は母から授かったものだったの。私の指が大きくなりすぎたから、はっきりとした痕が残ってしまったみたい」

「するとそれは、特定の相手がいるという意味ではないんだね」

 彼子がこくりと頷いた瞬間、環は思わずその身を抱き寄せていた。その手の震えに対応するかのように、環の背中に回された手は歓喜に震えていた。

 降り方が大人しくなってきたとはいえ、二人の身体には雪が付着していく。やがて身体を離したとき、彼子は前髪を整え、環は肩を払った。先ほどの誤解を払い除けるようにして。

「ねえ、歩きながらでも良いから教えてほしいことがあるの」

「ああ、歩きながら話そう」

 二人は初めて横に並んで、歩きながら会話を進めた。

「幼い頃に好きだった歌は何?」

「歌か。どうしてだか分からないけど、どこかで耳にして不思議と覚えた古い歌がある」

「どんな歌なの?」

 しばらく見つめ合った後、環はようやく照れを脱して歌を口ずさみ始めた。


 待てど暮らせど来ぬ人を――宵待草のやるせなさ――今宵は月も出ぬそうな


「素敵ね」

 払い除けた照れが追いすがってくるかのようだったが、その言葉の余韻があまりにも誠実に感じられたので、環も清しい気分になった。

「今日という日には少し似合わない歌かもしれない。君の方はどう?」

「幼い頃のことは覚えてないの。でも、一つだけはっきりと覚えていることはある」

「というと?」

「私ね、この世に産まれ落ちた瞬間のことを明確に覚えているの。きっと笑ったりしないでくれると嬉しいな」

 環は頷いた。彼子が置いた間の分だけ、彼女が不思議に緊張していることが知れた。

「私、あの月から産み落とされたの」

 耳を疑うような言葉の意味は、一瞬の後に理解できた。しかしそれが冗談ではなく、本当にそう信じているらしいということが分かるにつれて、理解というところからはまるで遠ざかってしまった。

「つまり君は、月世界の人間ということなのか。まるでかぐや姫のように」

「さあ、どうなのかな。産み落とされたといっても、別にあちらへ帰っていく必要もないようだし」

「じゃあ君はこの世界に骨を埋めるのか」

「そうなると思うけど……」

 潮が引いていくようにして二人の会話の熱気は冷めてしまった。環は彼子を信じないわけではないが、しかし信じるに足る証拠があるわけでもなかった。

「もしあの月から産み落とされたのなら、どうして今夜の月は満月のままでいられるんだろう」

「私一人が欠けた程度で目に見える変化が起こるはずはないと思う。それにもし欠けることがあるとすれば、それは私たちが満ち足りてしまって、そのために天変地異が起こったとき以外にはあり得ないはず」

「……僕らこそ欠けたところがあると、そう言いたいんだな」

「それが現実だと思う」

 環は口を噤んだ。自分自身については身に覚えがある。しかし、彼子に関してはどうだろう。

「あなたはどこまでも現実から離れることができず、一方の私は何かとてつもないものに取り憑かれている。それを欠けていると言わずに、何と言えば良いの」

「過ぎたるは及ばざるが如し、か……」

 環は急に自分の足元が覚束なくなったように感じられた。それでも何とか平衡感覚を保ちつつ、彼子と隣り合って歩き続ける。

「月に帰りたいと考えたことはないのか?」

 彼子の主張を前提とした問いかけに、彼女は不気味とも言えるほどの気色を浮かべながら否定した。

「お母さんのお腹の中に帰ることなんてできない。だってこんなに大きくなってしまったんだから」

 二人の視線が交錯する。先ほどは同じくらいの高さだったはずが、今では環が見上げるような形になっているように感じられた。

「ねえ、言葉って不思議。ずっと胸の中に秘めておいたことを打ち明けただけで、世界がまるで違って感じられてきたの」

「……そうか」

 彼子がいつまでも喜色を保ち続けているのを眺めながら、環はある決意をした。

「一つ、僕も告白したいことがある」

「どんな告白?」

「うん……」

 しばらくの沈黙の後、環は語り始めた。

「君と語らっているこの時空が本当に実在するものなのか、僕には分からないんだ。からかっているわけでも意識が混濁しているのでもなくて、それが僕にとっての現実なんだ。まるで薄い膜に覆われた卵の中から世界を眺めているような、そんな感覚がする。この話を君に理解してもらおうとも共感してもらおうとも思わないが、これ以外の現実はあり得ないんだ」

「あのベンチで感じたことは、そういうことだったの。でもごめんなさい、今の私には理解はできないと思う」

「……それで構わない。君が隣にいてくれるだけで、今は心強い。それでも……君を本当に感じることができないのは、情けないくらいに悲しい」

 決して涙は出ない。ただただ、どうしようもない胸の痛みがあるだけだ。その幻の痛みが生きていることの片鱗を強く感じさせてくれることは、皮肉という他ない。

「ねえ、一つ実験をしてみない?」

「実験?」

「そう、目を瞑ってみて」

 立ち止まって、素直に瞳を閉じてみる。そうして近付いてきたものは、彼子の手だった。

「これは?」

 彼子に促されて目を開くと、二人は手を取り合って輪を作る形で立っているのだった。

「二人で国を作るの。この輪っかの中の空間がその領域」

「随分と狭いな」

「ええ、狭い。でも、ここに一人加わるごとに輪っかは広がる。二人、三人と増えていけば――」

「この世界全てが僕らのもの、か」

 彼子は少女のような声で笑った。環はそれを聞きながら、随分と遠いところまで来てしまったような気分になった。

 環は不思議に今まで思いもしなかった提案をした。

「……なあ、いつまでも歩き続けるわけにもいかないだろう。もし良かったら、僕の家に来ないか」

 すると彼子はこう応えた。

「ぜひ」


 それは、二つの天体が衝突した瞬間であった。あたかも原始惑星と他天体との衝突が衛星を生み出すようにして、世界の崩壊と再生とが行われようとしているまさにそのとき、彼の肉体は浮遊したのだった。互いの天体には時間があり、即ち歴史があり、それに相応しい文明が存在した。その交差地点にて、世界の崩壊する音を聴きながら、彼は無上の快楽を得たのである。しかしその快楽を感じるはずの肉体もまたどこかへ遠ざかっていくようであり、落ちていくのか浮かび上がっていくのか分からない感覚だけが限りなく続くようであった。肉体が去り、ここに残されたものを仮に精神と呼ぶにしても、肉体との結びつきのない精神なるものがどのように移ろっていくものなのか、全く冥々としている。言葉というものが表し得ない新事態の出来を体験しながら、音もなければ光もない時空へと彼は入り込んでいくのだった。

 感じるもの全てを失った無限の虚無は、即ち無限の可能性を意味する。ここには何もない。だが、同時に何もかもがあり得た。その倒錯を快く感じるだけの感性は未だ残っており、それだけが唯一の命綱といえた。精神は、やがて水を連想した。すると、そこには深海が現出した。天地がどちらにあるのかすら定かではないほど深く、あらゆるものを湛えることとなった海の中を、ぼんぼりのように薄すらとしたものが漂い始めた。それはまさしく二人を結びつけた雪であった。まるで、精神と肉体が一致していた頃の記憶の中から溢れ出してきているかのようであった。

 雪の出現を契機としてそれ以前の記憶もまた蘇ってきた。最初はそれも混濁して、ちらりと窓外を眺めたときの夜空へと縫い付けられたかのようなあの月輪に、彼女の顔が重なって想起された。それらが分離していくのを、いや、彼女が産み落とされるのを、彼ははっきりと感知した。彼女の述べたことは嘘偽りではなかった。その安堵が、今度は彼自身の出生を辿っていく契機となった。

 今、人気のない幼稚園の園庭に通じる重い通用門を、三歳くらいの男の子が必死に押し開けようとしている。保護者の姿はなく、どうしてこんな小さな子を一人きりにしているのだろうと訝しげに感じながら、男の子には荷が重すぎるその仕事を彼は後ろから手助けしてやる。見上げてくる男の子の目の色は黄色い帽子のつばに隠れて判然とせず、男の子もまた見上げる先にある相貌に太陽の光が重なって彼のことを判別できないようだった。男の子は通用門が押し開けられたことでそちらに注意が向き、遅刻をしていたので一目散に駆けていった。それでいて背後の人物がいつまでも見守ってくれていることを、本能で察知していた。そして巡り巡って今というこの瞬間、彼は幼少期の最初の記憶が目の前に現出したことに胸を打たれていた。

 そのような無償の行為を、また愛情というものを、彼は満足に抱きかかえてはこなかった。愛されないことの代わりに愛することをするしかなかった。彼は特に芸術を愛した。それが美術品であろうが音楽であろうが映画であろうが文学であろうが、本質的な理解をできた試しはない。透明なヴェールの中から世界を見ることしかできなかったからだ。そのヴェールの存在が一般的なものではないことを悟るのに時間はかからなかったが、彼の場合はそれが透明な膜のように感じられて、己が手で突き破ろうと試みたことさえなかった。そうするうちにも肉体は成長し、ヴェールと肉体とは最早不可分のものとなってしまった。それでも彼がこれまで歩んでこられたのは、彼自身の努力のためであり、またあらゆる人々から手渡された希望という名のバトンのおかげであった。

 無数のバトンを受け継ぎながら行き着いたのが、彼女だった。元より芯から他人を愛するのことのできない彼が好む相手は、ただ美しければそれで良かったのかもしれない。たしかに彼女は美しかった。彼はその容姿を好いたけれども、それ以上に出会えたのが他ならぬ彼女で良かったと思える何かがあった。その何かを知りたい、あるいは彼女自体をもっと知りたい、そう思えるだけの相手と出会えたことが彼にとっては幸福だったのだ。

「幸福は、日輪のようなものだ。見つめていると苦しくてたまらない。だから僕は寂しくとも、あの月輪のような不幸を愛してきたんだ」

 いつの間にやら発していた自分の呟きを、環は自分事として聞いていた。彼子の膝の上に置いた頭で感じる体温もまた生々しい。それが一糸まとわぬ心からの言葉であったとするなら、彼子の場合はこうであった。

「あんなに綺麗な月輪も、いつかは欠けてしまうのかな」

「……きっとそうだろうな。父殺しならぬ、母殺しか……」

 彼子の目尻に光るものがあるのを察して、環は指でそれを拭い去ってやった。その温かさが衝動的に涙を口元へ運ばせた。その塩っぽい味わいが口中に広がるにつれて、彼子への愛おしさが増していくようであった。

 次の瞬間、口の中に違和感が生じた。冷たい何かがそこにある。けれど、髪の毛を間違って含んでしまったときの不快な感覚がなかったのは、突き刺すような冷たさではなくじんわりと冷やしてくれるような柔らかさがあったためだった。指で摘んで取り出してみると、それは銀色に光る小さな指環であった。

「これは、君の……」

「私の隠していたもの。でも、もう隠す必要もないのね。これからは二人で大切にしていくものだから」

 熱っぽく絡み合っていた二つの視線が、揃って天上の月へ向けられた。いつまでも降り続くかのような雪も、いずれは降り止むのだろう。それは虚空に輝く月の身動ぎによって生じている、一つの運動であるのだから。

「さようなら、お母さん」

 虚空に立ち昇っていく言葉を遮るものは何もない。真冬の空に輝くものは、月輪ばかりである。

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