01
……黒に染まりきらない空の裡に、月が煌々と輝いている。他に天体は見えず、人工衛星も航空灯もないさびしげな夜であり、それだけに月の存在がいや増すようであった。時を経るごとに光沢を湛えながら変質していく黒の中心には、そのさびしさに共鳴するかのようにまだ何色にも染まっていない月が、まさに浮かぶようにして存在している。その現象があまりにも巨大なせいで人には感知できないのか、それとも宙に舞う雪の運動のために雑音が遮られているためなのかは分からないが、白と黒とが互いの領域を侵しながらも静謐であるとしか言いようのない夜だった。そうした中に身を置いていると冷たく澄んだ空気に指先がかじかむ。短くはない距離を歩いてきたためにコートの中には少なからず熱気がこもっている。けれどその熱気は内側に閉じ込めたままで外に出してはならない。何故かしらそう感じられるのだった。それくらいにぴんと張り詰めた静かな夜なのだった。
雪道には四つの足跡が刻まれている。彼女と、その先を行く彼のものだ。それは二人が今こうして連れ添って歩いていることの証明になるけれども、降り続ける雪はそれを消していく。彼女は永遠を望みはしない。その不可能を一応は知っているから。それでも、と理性に反して己の心に浮かんでくる欲望に気付いたそのとき、意図せずして脳裏に浮かび上がってきたものは母の名であった。足を止め、たおやかに降る雪の果てを見上げる。その姿をいつの間にやら足を止めて振り向いていた彼が見つめている。まるで夢から醒めたばかりのような表情をして。……
自身へ向けられた視線のために我に返った女の気配を察して、男は再び前を向いて歩き始めた。見てはならぬものを見ただろうかと、少しばかり気にかかる。そのためもあって胸に高鳴るものがあった。女の態度は不可解である。言葉というものを店の卓上にでも置いてきたかのように口を噤んで、そして俯いている。どこかで道を間違えただろうか。いや、そもそも自分はどこへ向かって歩いているのだろうか? 男は答えの出てこない疑問を路傍に打ち捨てて、女の容姿を頭の中に思い描いた。白い肌と黒い長髪はまるで今夜の景色を反映しているかのようでもある。男はそこに調和を見たが、コートの鮮やかな赤は女がひた隠しにする内面の奔放さを顕しているようにも思われた。赤い花弁の萌し、そうしたものがコートの中に押し込められている。果たして女は真に実在している人間なのだろうか。冗談半分の疑念は、あまりにも女が好ましく感じられたためであった。そして男は自信を持たない。
男はこれまでの経緯を思い返していた。あのナイトホークス――彼が勝手にそう呼んでいる食堂である――で彼女を初めて見かけたのはいつのことだったろう。あれはたしか、雨季を経て本格的な夏の訪れを迎えた頃のことだったはずだ。記憶の中の彼女は、今と違ってもう少し短めの黒髪であった。誰かと隣り合っていたような気もするが、よく覚えてはいない。彼女のことばかりを見ていたから。
二度目は、中秋の名月の下であった。今度は現在よりも少し長く伸びていた髪を煩わしそうに耳にかけながら、食事を愉しんでいたのを覚えている。このときの彼女は間違いなく一人きりで、男は初めてのときよりも余裕を持って彼女を眺めることができた。何度か目が合いそうになって、男はその度に視線を外した。その先にはサルバトール・ダリの《記憶の固執》の複製画が壁に掛けられていて、柔らかい時計というモチーフを眺めていると、自分の決意の鈍さを責められているような気がした。やがて決意を固めて女を見つめると、三日月のイヤリングの反射が男の目を眩ませた。結局、そのときも何かしらの会話が生まれることはなく、男は彼女が店を出ていくのを浮ついた気持ちで眺めたものだった。
三度目、それが今日のことだ。二度も機会がありながらそれを掴むことができなかった男は、名前すら知らない女と連れ立って歩いている今現在のことを、未だに信じられずにいる。どんな会話を経てこういう状況になったものか、実ははっきりとは覚えていない。その曖昧さは興奮やアルコールによるものとは言い切れず、少なからず男自身の性質に由来している。
断続的に進む時間の中で、しかし進む道だけはしっかりと繋がっている。であればこそ、男は何も分からないままに歩みを続けることができた。いや、そうしなければならなかった。女は同意をした上で男の後を付いて来ているのだろうが、三歩先を行く男には目指すべき場所がない。企図もなければ計画もないのだから、ただ歩いていくことしかできない。歩けば歩くほど追い詰められていくようなものであったが、男にはそれ以外に為す術もないのだった。
それにしても……と、周囲のことを考え始められたのは、自然に余裕が生まれてきたというよりも意図的にそうした結果であった。それにしても、この世界には人の気配が感じられない。たとえ姿が見えなくとも、そこに人がいれば気配が生まれるはずだ。家に明かりが灯り、食卓を囲む家族の笑い声が漏れてきたりする。あるいはスポーツ中継を応援しながら一喜一憂する様が窺えたりする。今日はそれがまるで感じられないのだ。エアコンの室外機が動く気配もなければ、自動車の走る気配すらもない。虚空を貫く救急車のサイレン、甲高い鐘の音を撒き散らす消防車、それらの否応なしに死の在ることを想起させる音を今日は聞くこともないだろう。そうとなれば、死というものはどこへ行ってしまったのだろう。都会からは死の臭いが消え、その代償として生の臭いも希薄になっていくようだった。
生と死が忘れ去られるのと同じように、果てしなく静かな時間の只中に漂うことでこれまでの行きがかりを忘れ去ることができるだろうか。そう空想した次の瞬間には、男は今この場所に生きていることを歪んだ形でありながらも認めざるを得なかった。その証として男の心理は刻々と変化している。気紛れに何かをすることも、明確な理由もなく不機嫌になることも、生きていればこそ起こり得ることである。少なくとも死者には起こり得ないことのはずだ。
では、男は本当に生きているのだろうか。男は、回答を保留した。
目下のところ、男を苛む不安の一つは、この道がどこまで続いているのかということである。どこまでもこの道が続いているのだとすれば、果てのない道を歩いているのだとすれば、男はいつどこで歩みを止めれば良いのだろう。帰宅しようと思えばどこからであっても帰れそうではあるが、身元の知れない女を連れて帰るわけにもいかない。それは彼なりの道義であるのだが、しかし何の解決策も生み出さない道義である。そうした煩悶を続けるうちにも自然と足は動き、一歩ずつ前へと進んでいく。試みに振り返ってみれば四つの足跡が雪道に残っている。間違いなくそこを歩いてきたはずだ。しかし、その足跡もいずれは埋もれてしまうだろう。
男の苦悩を顧みることなく進むものがもう一つある。時間だ。大海の静かな底流のように、終着のある一点へ向けて時間は進行しているのだが、それがどこなのか、またいつなのか、男が知る由もない。時間はどこにあるものか感じることができないし、その最も鮮やかな顕れであろう今この瞬間ですら掴めない。試みに降りしきる雪を掴み取ってもそこには何も残らないのだ。そんな得体の知れない運動の中を生きていることの不安、いや恐怖を、男は抱えているのだった。
時間といえば、愛用の時計をどこかへやってしまったらしく、男は体感で時間を計らなければならなかった。見知らぬ土地ではないからまだ良いとしても、時間を見失ってしまうことの恐ろしさがある。得体の知れない運動であると感じながらも、しかしそれを前提として成り立っているのが彼の生活であり、社会であり、人生であった。
男は煩悶しながらもやはり歩き続け、女もまた口を噤んでその後を付いて来る。そんな二人を待ち受けていたのは、一つの小川だった。煌々と輝いているとは言い難い外灯の下ではその水面を捉えることすらままならないが、せせらぎのような音だけが聞こえてくる。川辺には遊具のない広々とした公園があった。ようやく道を外れることができると安堵した男は、川のそばに建てられた四阿のベンチに座った。男が身振りで促すと、女もまた腰を落ち着かせた。
「雪はいつまで続くんだろう」
それは、男が初めて語りかけた言葉だった。
「さあ、いつまでかは分からないけど、いつかは止んでしまうでしょうね」
女もまた口を開いた。特に意味を成さないその返答に男は快いものを感じ、二人の白い吐息が混じり合ったかと思うとすぐさま中空に四散していくのを眺めていると、さらに心をくすぐられるものがあった。
「どうして二人で歩いてきたんだろう」
「さあ」
「君も覚えていないのか。どうしてだろう」
「……さっきから疑問ばかりなのね」
女の笑い方にからかうような調子がなかったので、男は気を悪くはしなかった。
「僕には分からないことだらけだ」
「私もそう。多分、そうだと思う」
女はしみじみとそう言った。
「この雪が止んでほしいのか、そうじゃないのか、それすらも分からないから」
「僕は、こういう静かな雪なら悪くないと思う。……寒くはないか」
「いいえ。でも、何も感じられないような気もする。不思議とそんなふうに思えて」
男は初めて女の姿を見据えた。屋根の下で月の光が遮られているとは思えないほどに白い。細雪のような白くきめ細かい肌と憂いを湛えた切れ長の鋭い眼差しに、唇の強い紅がよく映えている。女が目を伏せている機を捉えて、豊饒な和音によって構成された顔立ちに男はつい見惚れていたが、女の言葉には聞き逃がせないものがあった。男はそのおかげで時間に取り残されることを避けられた。
「どうしてそんなふうに感じるんだ」
「このベンチ、もっと冷たくてよそよそしくても良いはずなのに、何だか居心地の悪さだけがあるの」
「実感がないんだね」
「そう。……あなたもそうなのね」
そこで初めて男と女は目を合わせた。同じ高さで視線のぶつかることが、男には妙に嬉しく感じられた。一吹きの風が運んでくる乾燥した匂いも快い。
「どうして分かるんだ」
「さあ、どうしてかな」
「……不思議な夜だ」
女はその言葉に頷きながら瞳を閉じていく。男は今度は女の口元を注視した。僅かに言葉を交わしたに過ぎないが、整った表情の調和が崩れると唇の紅が勝ち過ぎる印象がある。しかしそれが不協和音をもたらさず、却って容貌の妖しさを引き立てているように感じられるのは何故だろうか。さらに視線を転じ、女の黒髪に小さな雪の破片がまとわり付いているのを発見した。男はそのことに言いようのない嫉心をかき立てられた。
閉じられていた女の瞳が不意に開かれた。女は見られていることを察し、男もまたそのことを察する。不思議な共犯関係のようなものが二人の間に出来上がりつつあった。
「まだ名前を訊いていないような気がする」
「私も。あなたの名前は?」
「環だ。ただ、環と覚えてくれれば良い」
「そう、環というの。私は彼子、ただの彼子」
彼子という名を知ると、環は無意識のうちに抱いていた警戒心が弛緩していくのを感じた。まるで得体の知れぬ病の名を、治らぬと悟りながらも認識したときの安堵に似て。
ぽつりぽつりと、言葉が交わされた。この世界の時間の流れのように、迂回をしたり袋小路に迷い込んだりしながら、二人がお互いを知っていった。それでもあちらの核心は見えてこない、こちらも簡単に晒そうとはしない。環はどこかしら疑念を抱きながら、彼子はおそらくはぐらかしながら。環がどんな疑念を抱いているかは自分自身でもはっきりとはせず、また当然のように彼子が何を隠そうとしているのかも分からなかった。しかし、それはそれで良いのかもしれないと環は思い始めていた。もし尋常な形で二人の関係が進展したとして、待ち受けているものは尋常な関係に過ぎない。そこに快楽を空想することは短絡的に見えて、しかし常識的でもあった。あるいはもっと先を見据えて、数十年後、共に寄り添いながら日向に佇む場面を空想することもできたが、こちらは穏当なようでいて極端であるといえた。もしこれを恋と呼ぶならば、弾けんばかりに成熟させながらもそれを収穫せず、腐敗するのを待つのが自分に相応しいと環は思う。ここで終わりにするのが最も綺麗な思い出になるのだろうと諦めかけた。その心の扉を叩くようにして突風が吹いたのは、果たして偶然だっただろうか。
「さすがに少し冷え込んできたみたい」
「そうだな。それにそろそろ時間も遅い……」
一瞬の沈黙の後に彼子の口から漏れたのは、環にとっては意想外の言葉だった。
「ねえ、もう少しこちらに来て。ここは何だか寒く感じられるの」
環は口を噤んだまま、あえて空けておいた間を詰めて、彼子と肩が触れ合うところまで近付いた。躊躇しながらも震える手を伸ばして、それまで彼子の太ももに挟まれて寒さを凌いでいた彼女の手に触れた。感触であるとか大きさであるとかいったことよりも、この瞬間に水面から引き上げてきたのではないかというくらいに鋭い冷たさに面食らい、そしてその冷たさに反して震えの穏やかなことが不可思議に思われた。緊張を隠せない己の手の震えを恥じずにはいられなかった。
「冷たい」
「ええ。でも、だからこそあなたの温もりを感じられる……」
冷たいながらも少し探るようにして指を動かすと、奇妙な違和感が浮かび上がってきた。か細い手のとある指に、指環の痕が感じられたのだ。
「ひとり、というわけじゃないんだな……」
「えっ?」
環が判じたことを、彼子は理解していないらしかった。環は先ほどと同じように、口を噤んだまま一度触れ合った手を引っ込めた。今度は彼子が疑惑の目を向ける番だった。
「どうして……」
「特定の相手がいるとしても、結局は君の身体は君のものだ。でも、簡単に他人に触れさせて良いものとも僕には思えない。それが道理のはずだ」
環はあえて怒気を隠さず、言葉として発した。そうすることで発散されるものがあるような気がした。
「そろそろ行こう。このままだと本当に凍えてしまう」
環は再び先に立って歩いていく。それを彼子は、やはり先ほどのように距離を置いて付いていった。




