いつものいちにち
朝の八時三十分。
オフィスに着くと、自分の部署の人はまだだれも出勤していなくて、電気をつける作業から一日が始まる。
いつもの光景だけれど、今日はとくに空気がキリッと研ぎ澄まされているような気がした。
本当に冷えこんでいるのか、それとも〝今日〟という日のせいか。
「おはようございます」
だれもいないけれど、挨拶するのがクセになっている。
「最初はエアコン、次がポットで……いや、逆か」
今日はなにも社内行事もないし、特別立てこんでいる仕事があるわけでもない。
ゆっくりと朝の一杯のお茶を飲めるから、先に少量のお湯を沸かしはじめれば、ほかの人たちが来るまでに気兼ねなく飲むことができる。
こんな独り言をつぶやいている私なんて、部署内の人は見たくもないだろうし、見せたくもない。
どの順番で作業したら効率がいいかと考えながら、いつもの作業をこなしていく。
いつも通りに見えて浮かれているのか、水を入れようと思っていた量より多く入れすぎたり、私物を片づけていたらほかの人のデスクにはみ出てしまったのは、私だけの秘密ということで。
いつものルーティーンが終わったところで、ちょうどお湯が沸いたようだ。紅茶を淹れる。
淹れ終わった後に、今度はフルにお水を注ぎ足して、沸かしはじめる。
「よし。これで大丈夫だな」
時計を見ると、八時四十五分。
始業時間までには、いや、次の人が来るまでには十分、間に合ったな。
私の朝における戦いは、今日も勝利だ。
「おはようございます」
次々と入ってくる同僚たちに挨拶を返していく。
たいして仲もよくない人たちだけれど、仕事をするうえでは欠かせない人たちだ。特別険悪な仲、というわけではないから、表面上だけでもうまく接していくのは、苦ではない。
「でさぁ、今日、彼氏とご飯を食べに行くんだよねぇ」
「いいじゃん、そのメイクもめっちゃ可愛いよ」
「恵理子、めっちゃほめ上手なんだからぁ」
やっぱり今日は一段と浮かれ気分な人たちが多いな、と自分のことを棚に上げて感じてしまった。
今日の私だって、ちょっといいブランドのコスメを使っているし、目元の雰囲気だっていつもとは少し変えている。服だって普段は履かないような〝女の子らしい〟スカートだ。
けれども、私にはだれもこういった話を振ってこない。
たぶん私があまりこういったイベントに縁がない、と思われているのだろう……もちろん振ってこられたとしても、返し方に困ってしまうだけなので、いいのだけれど。それでもなんとなく寂しいのは間違いない。
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いつもどおりの仕事をこなして、終業時間を迎えた私は一目散に退社した。
普段は雑談をしたり、作業が残っていれば残業したりすることが多いが、今日はダメだ、と理解していている。
ほかの人からは、どう思われているのだろうか。
気になったけれど、まあいいか。
あの人に会わなくては。
今日じゃないとダメ。
外に出ると、朝よりも冷えていて、マフラーや手袋をしていても、すごく手が冷えてしまう。
目的地までは徒歩三十分。
電車もない場所だから、ただ歩くしかない。せっかく今日のためにオシャレをしてきたのに、お店に着くころにはヨレヨレのアラサーが出来上がっているだろう。
「いらっしゃいませ」
「こんばんは。いつも通り、奥の席でもいいですか?」
「もちろん」
目的の場所に向かうと、すでにあの人がいた。
約束なんてしてはいない。だから、確実に会える、という保証はどこにもないんだけれど、今日はこっちの賭けにも勝ったようだ。
あの人の隣には私よりも若い女性がいて、楽しそうに喋っている。遅れて入ってきた私には気づいていなさそうだったので、ちょっと離れた席にかける。
たぶん、しばらくはそこから離れないだろう。
それに気づいているのか、マスターが気を利かせて、なにも注文していないのに、ゆっくり飲めるような温かいアイリッシュ・コーヒーを提供してくれた。
ウイスキーベースの、甘さと苦さが混じりあったカクテルが、体を温めてくれる。
おつまみにと、一緒に差しだされた高級そうな甘いチョコレートが、私を勇気づけてくれた。
「ごめんね。お待たせ」
ちょうど一杯、飲み終わるころにあの人がやってきた。
飲んでいるからか、体が温まってきたのだろう。ジャケットを脱いで、背もたれにかけたのだが、その一連の仕草がなんとも色っぽい。しっかり鍛えられているからだろうか。
女たらしのこの人は、今日も〝雑談〟に興じていたのだろう。
そう。
文字どおり、ただ雑談をするだけなのだ。
けれども、女心を掴むのが上手いのか、気づいたときには周囲から見たときの距離が近くなっている。自称天然がなせる技ではない。
もちろん頼れる紳士、というだけではない。前に若い女性の相談に乗ったことで、その女性の彼氏と修羅場になったらしいし、それ以外にもなにかしらあったようで、不快感を示している人も知ってる。だからからか、共通の知り合いには『これだから、あの人は独身なんだ』という評価までされている。
たしかに頷ける部分もあるからなんとも言えないが、けれども、私にとっては大恩人なのだ。
「あの男から解放されて、三年だね」
「はい」
前の職場で、私はセクハラ同僚に悩まされていた。あの男は仕事に関しては問題なかったが、それ以外の部分については、とんとダメだったのだ。
精神的に参っていたときに出会い、解決をしてもらったのが、この人だった。たまたまこのバーで出会ったのがきっかけなのだが、あちこちに顔がきくのと、かなり頭がいいから、かなり迅速に解決できたのだ。
それからというもの、さまざまな場面でこの人をたびたび頼ってしまっている。
ときには、なんでこんな提案をするのだろう、というのもあるが、意外とすんなりうまくいく。
悔しいが、これが経験値の差、というものだろう。二十近く上のこの人には敵わない。何回か相談を受けてもらってるうちに、この人から目が離せなくなってしまった。
憧れとか、感謝とか、敬愛、という部分が大きいのは違いないけれど。
それ以上の気持ちを抱いている自分がいるのに、気づいてしまっていた。
だから、さっきみたいに若い女の子が隣にいると、少なからずモヤっとしてしまう。
「いつも頼ってばかりなので、そのお礼に」
この人は、わかっているのだろう。
自分が、女性に刺されるかもしれないような付き合いかたをしている、ということを。
だから私が差し出したものに、驚きを隠していなかった。
「そんなこと、気にしなくてもいいのに。まさか……毒入ってる?」
「入れるわけない、じゃないですか」
そんな軽口を叩けるぐらいには、余裕がまだあるようだ。
もちろん毒が入ってない、というのは事実だが、私的にはすごく不満なプレゼントだ。
昨日、買いにいくために遠回りしたのに、そういう日に限って財布を忘れたのだ。電子マネーやポイントでなんとかなったけれど、それでも当初の予定よりも安くて、バレンタイン限定品でもなく、定番のチョコレート詰め合わせになってしまったのだ。
「お礼はなにがいい?」
その言葉に私は一瞬、戸惑ってしまったが、ハッキリと答えることができた。
甘い誘導尋問に、惑わされてはいけない。
「お気になさらず」
この人の口から、結婚したい、という言葉を常日頃から聞いている。けれども、その気がない、というのも、また事実だ。この人のスペックやステータスだったら、いくらでも女性を選べそうだから。
ましてや私がこの人の隣に立ちたい、なんて願うのは、烏滸がましい。
私如きでは、この人の隣に立つ資格なんてないから。
願うのは、ただ一つ。
この人と一秒でも長く、一つでも多くの話題を、他愛もない話をしたい。
今日ももう、これで終わり。
いつも通りに他愛もない話を一通りして、最後にフォーリンエンジェルを頼もうとしたら、この人もギブソンを一緒に頼むと言う。
「かなり飲んでません?」
「うん、そうだね」
飲み終わっても、目の前の人は顔色一つ変えてない。
お酒に弱い自分からしてみれば、羨ましい限りだ。
エメラルド・ミストを含めた三杯でもう、私は眠い。
「明日も早いので、もう帰ります」
「わかった。またね」
出勤が早いなんて嘘だ。たぶんきっと、これ以上話を続けたら、この人に本心をぶちまけてしまいそうな気がしていたのだ。
猫を被るつもりはない。
でも、この人にとって、私の本心はきっと迷惑だ。そんな本心は伝えるべきではない。
自分が飲んだ分を支払って、店から出ようとしたとき、カーペットに爪先が引っかかってしまった。
「おっと」
「危ないじゃないか」
後ろにいただれか……いや、あの人が支えてくれたようだ。しっかりとした男性らしい、大きな手にホッとして涙が出そうになったけれど、それを見せるわけにはいかない。
「ありがとうございます」
澄ました顔で言ったけれど、ちゃんとその顔になっている、よね?
「ここまでで大丈夫です。今度こそ、今日もありがとうございました」
そう言って、あの人の返答を聞かずに店を出た。
店に行くまではめちゃくちゃ寒いと思っていた空気も、今はちょうどいい。火照った顔を冷ましてくれる。
「また会えるといいな」
またきっと明日も会える、はず。
だから今日も、いつもとかわらない、いちにちなんだ。