7. 瘴気
森を抜けて街道に出る。
遠巻きに街の入り口を見ると、物々しい様子を醸し出す兵士の姿があった。
「東に迂回して北上しよう。しばらく歩くが大丈夫か?」
「はい。東へ行くと……ロックス伯の領地に入ることになりますね」
「そのとおりだ。エムザラは貴族の派閥については詳しいのか?」
グリムの問いに私は首肯する。
政治的な事情は、政務を通して把握していた。
領地経営を通して、他の諸侯の情報も仕入れる必要があったから。
とはいえ私に裁量権はなく、お父様の代わりに仕事を押しつけられていた……というのが正しい。
「ロックス伯といえば、あまり信用がない方ですよね」
隠れて歩く道すがら、グリムから説明を受ける。
「ああ。ロックス伯爵の二つ名は『薄情な風見鶏』……王国に属しているが、親帝国派の側面も併せ持つ。
領地が帝国に接しているからこそ、見事な政治的な手腕がなければ生き残れない。ロックス伯とは俺も親交がある。事情を話せば匿ってもらえるはずだ」
「ロックス伯と面識はありませんが、常に警戒していました。彼の領地から間者などが入り込まないように……」
「王国の貴族からしたら、いつ帝国に寝返るかわからない存在だからね。目の上のたんこぶってやつだろう」
そんな人を信じてもいいのだろうか。
たけど、私はグリムを信じている。
だからグリムの信じるロックス伯も信じようと思う。
街からはそれなりに離れて、木立の中に伸びる道に入った。
ここまで来れば安心だろう……安堵したときだった。
ふと、頬に冷たいものが触れた。
……雨だ。
ひとつ、ふたつと水滴は増えていき、やがて本格的に雨が降りだした。
「チッ……こんなときに限って。だが、追手の足も遅くなるはずだ。体が冷える前に、雨を凌げる場所を探さないとな」
雨を凌げる場所……周囲をぐるりと見渡す。
木々の葉の隙間に、黒い靄のようなものが。
あれは聖女の私にとって見慣れたものだ。
「グリム、こちらへ」
「ん」
枝に擦れないように気をつけながら、木々の間を縫って進む。
視界が開けると、そこにはぽっかりと口を空けた洞窟があった。
しかし入ることはできない。
洞窟の入り口に、紫色の霧がある。
「これは……瘴気、か?」
顔をしかめるグリム。
瘴気は大地から沸き出るもので、常人が近づけば健康に害を及ぼす。
「私が払いますね。グリムは離れていてください」
雨を打たれながら、私は瘴気に歩み寄る。
聖女は影響を受けない。
そっと紫紺の霧に触れて力を籠めると――
一気に霧が払われた。
洞窟の中もよく見通せるようになる。
どうやらそこまで深くはない、行き止まりのほら穴のようだ。
「これが聖女の力か……すごいな。もう危険はないのか?」
「問題ありません。中に入って雨風を凌ぐには充分でしょう」
私はグリムが不安にならないように率先して入る。
すると彼もすぐ後を追ってきた。
中はひんやりとしている。
しかし、雨に打たれるよりは体温の低下を防げるだろう。
「エムザラのおかげで助かった。すぐに火を起こそう。寒いだろう」
「ええ、少し」
グリムは手際よく火起こしに取りかかる。
私も手伝いたいところだが、やり方がわからなかった。
彼の髪から滴る水滴が、ぽたりと地面に落ちる。
私の髪もすっかり濡れてしまった。
パチンと大きな音が鳴って、薪が燃え上がる。
私は慎重に焚火に近づいた。
そして服の裾を持ち上げて……
「ちょっと待て。……何をしている?」
「……? えっと、服を乾かそうと」
「あのな、少しは人目を気にした方がいい。君は令嬢だろう」
恥ずかしそうにうつむきながら、グリムは呆れたように言った。
もちろん、普段は他の人の前で服を脱いだりしないけれど……今は気にしている場合ではないと思った。
「すみません……グリムなら別にいいと思ったので」
「……だから、そういうことは……」
彼が今まで見なかったような表情を見せる。
困っているようだった。
「困らせてしまってすみません……」
「別にいい。少し抜けたところもかわいいじゃないか」
「か、かわいい……ですか?」
彼を迷惑をかけてしまうのは本意ではない。
その一方で、もっと彼の新しい表情を見てみたいという思いもある。
「俺は後ろを向いてるから、濡れた服だけ脱いで外套を羽織ってくれ」
「わかりました」
言われるがまま着替える。
濡れてしまった服を脱いで、その上にぶかぶかとした大きめの外套を。
「終わりました」
「ああ。とにかく体温を下げないように。
風邪をひかれても嫌だから」
服を脱いで肩まで出したせいで、外套を羽織っていても寒い。
もっと火に近づきたいけれど、やけどしてしまうかも。
「グリム。寒いです、少しだけ」
「強がらなくていい。ほら」
正直に気持ちを伝える。
私が体調を崩してしまったりしたら、かえってグリムの迷惑になってしまう。
彼は少し迷った素振りを見せたが、大人しく私の隣に座って……私を抱きしめてくれた。
「あ、ありがとうございます……なんだか不思議な気分ですね」
「こうして君の近くにいられて……俺は幸せだ」
グリムの体温を感じる。
息づかいも近くで感じて、あたたかい。
ここまで近くで、誰かに触れてもらったことはない。
婚約者のゼパルグ殿下とも、手を組んだことすらなくて。
おそらく……これからもグリム以外の人に抱きしめてもらうことなんてないだろう。
彼はいま、幸せだと言った。
私も幸せ……なのだと思う。