20. 放牧地の浄化
帝都から半刻ほど馬車を走らせると、広い放牧地に着く。
馬車を降りると……少し重い風が肌を撫でた。
普段は清らかな風が吹いているのだろう。
「……風が淀んでいますね」
「風、ですか? わたしには普段と変わらないように思いますが……」
一緒に馬車を降りたリアナが小首を傾げる。
目には見えないし、変な匂いがするわけでもない。
しかし、聖女である私には違和が感じ取れたのだ。
おそらく瘴気は北方に発生している。
まだ人間に深刻な影響は出ないだろうが……この牧場で飼育されている動物には堪えるだろう。
「おお、ようこそお越しくださいました! あなたがたが……この牧場を救ってくださるのですね?」
私たちのもとに一人の男性が駆け寄ってくる。
グリムが警戒を露にして男性の前に立つ。
「……あなたは?」
「申し遅れました、私はメール放牧地の地主です。広がる瘴気を払ってくださるとお聞きしてから、心待ちにしておりました」
地主は表情に不安を湛え、縋るような目線で私たちを見ていた。
どんなに高名な学者でも瘴気は払えない。
もはや何にでも縋りたい気分なのだろう。
「グリム、リアナさん。私は一人で瘴気を払いに行きます。あなたたちはここで待機していてください」
「一人で……? それは危険だろう。俺もついて行った方がいい」
「瘴気を通過できるのは私だけです。心配なのはわかりますが、私単独でなければならないのです」
私が説明しても、グリムは納得できない様子だった。
しかし彼の安全のためでもある。
どうにか受け入れてほしいけれど……
「……いや、わかったよ。俺は地主と被害状況について話をしている。けがしないように気をつけてくれ」
私がグリムの説得に迷っていると、察したように彼は首肯してくれた。
あくまで今回は私の仕事。
グリムには警護をしてもらうのが役目だ。
瘴気の中に人がいるわけないし、誰かに襲われる心配もない。
「では、行って参ります」
私は淀みの風が吹く方角へ歩きだした。
***
放牧地に広がる瘴気は薄いものだった。
これでも動物が暮らせなくなるのだから恐ろしさが窺える。
今回はとりあえず帝都から近い場所で、聖女の力を示すことが目的。
手慣れたもので、瘴気は簡単に払うことができた。
聖女の力……自分でも原理は理解しきれていない。
だが、体の器官のひとつのように自然と扱える。
淀んでいた風もやがて清浄を取り戻すだろう。
私は若葉色を取り戻した草原を見渡して頷いた。
さて、帰らないと。
グリムとリアナがきっと心配している。
入口に戻ると、グリムがすぐに駆け寄ってくる。
「もう終わったのか?」
「はい。これで瘴気が発生することはないはずです。一度抑えた場所は、百年程度は瘴気が生まれませんから」
「おお……さすがは聖女様! 聖女様が牧場の瘴気を払ってくれる、と噂にお聞きしたときは半信半疑でしたが……そのお力、まさしく本物ですな!」
その言葉を聞いていた地主は、諸手を挙げて喜んだ。
この反応も王国で慣れている。
民に喜ばれるのは嫌いではない。
だけど、聖女が民を救うのは当然のことだ。
それが生まれた役目なのだから。
「まったく、調子のいいことだな……」
「グリム殿下に聖女様、ぜひ歓待させてください! 今日はメール放牧地の記念日といたしましょう!」
「お、おい……俺は何もしてないって」
グリムが珍しく困惑している。
このまま聖女の仕事を進め、帝国内で名声を高めていけば……グリムを救うこともできるかもしれない。
だが、彼は宮廷そのものから離れたがっているようにも感じる。
名声を高めることだけではなく、他の手段も……
「エムザラ、どうした?」
「……あ、いえ。なんでもありません。少し考え事をしていただけです」
「そうか。疲れてるなら遠慮せず言ってくれよ」
地主に案内され、牧場の片隅にある邸に入る。
中ではリアナがお茶の準備をして待っていた。
「あ、エムザラ様! お疲れさまでした! お茶を淹れましたのでお休みください!」
「ありがとうございます。これは……帝国の名産の花茶ですね。こんなに高価な茶、よろしいのですか?」
席に座って紅茶を確かめる。
地主が用意してくれたのだろうか。
だとしたら、かなり高価な茶葉を使わせてしまって申し訳ない。
しかし地主は満面の笑みを湛えて私に言った。
「日ごろから国を守ってくださる皇子様に、これから国を救ってくださる聖女様にもてなすのです。どうぞ、ご遠慮はなさらず!」
「……だそうだ。これから瘴気を払うまで、忙しい日々が続くだろう。今のうちに遠慮せず休んでおいた方がいい」
「わかりました。では、お言葉に甘えることにします」
王国で馬車馬のように働かされた過去を思い出すが、さすがにそこまでの激務ではないだろう。
あの日々に比べたら軽いものだ。
お父様であれば、休息も挟まずに私を次の仕事場に向かわせていたはずだから。
紅茶を飲むと、花のような爽やかさと甘味が広がった。
グリムはというと……目の前に置かれたクッキーを入念に凝視している。
『例の癖』が抜けていないのだろう……
「グリム」
私は彼の名を呼ぶと、迷わずにクッキーを口にした。
……とてもおいしい。
この牧場で作られたのだろう、バターの風味が広がって。
思わず少しだけ口元が緩ぶ。
私が満足そうに食べているのを見ると、グリムは自嘲するように笑った。
「……悪いな。いつもこうしてきたから。人が親切で用意してくれた食べ物なのに、つい疑ってしまう」
「いえ、あなたが毒の類を気にしてしまうのは仕方ないことでしょう。でも……聖女は解毒ができますから。私のそばにいるときくらい、警戒しなくてもいいのですよ」
「ああ……そうするよ。ありがとう」
グリムは躊躇を捨ててクッキーを口にした。
こうして彼と同じ食事を囲むことが、きっと私にとっての幸せだ。
だから、そういう未来を目指していこう。
グリムと安心して過ごせる未来を。




