13. いつかきっと
ロックス家を発つまで残り三日を切った。
それなりに長く過ごしたこの場所とも、もうすぐお別れだ。
グリムと一緒に王都から逃げたときは何も感じなかったのに、この家を離れるとなると得体の知れぬ寂しさが襲ってくる。
庭園の隅で揺れる花々を眺めた。
花か……聖女の力を注ぐと、植物も元気にすることができる。
けれど、目前の花々はその必要がないほど健やかに育っているようだ。
「ああ、いた。リアナから居場所を聞いて正解だったな」
ぼーっとしていると、グリムがやってきた。
今日の彼は暗殺者らしい黒いコートではなく、普通の白地のシャツを着ている。
グリムの顔を見るのは……すごく久しぶりな気がする。
彼が帝国に交渉に行っている期間は二週間で、あまり長い間会っていなかったわけではないのに。
「こんにちは、グリム。しばらくあなたの顔を見なかった気がします」
「俺も久しい気がするな。はぁ……疲れた。
けど、エムザラの顔を見たらここ最近の疲れも吹っ飛んだよ」
私がのんびりとロックス伯家で過ごしている間、グリムは奔走して交渉に回っていたという。
本当に苦労をかける。
私が彼の疲れを癒してあげられれば……
「グリム」
「ん?」
私はぎこちない動作で足を伸ばす。
そして、ぽん……と足の上を叩く。
「足が痛むのか? 医者に診てもらおう」
「膝枕」
「……?」
「疲れたのなら、ここに寝て休んでください」
よく令嬢たちが『疲れた殿方には膝枕してあげるといい』と言っていた。
今まで誰にもしたことないけれど、やってみようと思う。
「い、いや……」
「嫌ですか? そうですか……そうですよね……」
「そ、そうじゃなくて……お、お言葉に甘えさせてもらうよ」
グリムは何か言いたそうにしていたが、最終的に頭を私の方へ向けて寝た。
私の足に少しくすぐったい感触が走る。
見下ろすとグリムと目が合って……すぐに視線を逸らされてしまった。
「こういうの……慣れてないんだよな……」
「私も初めてしてみました。疲れは取れそうですか?」
「いや、緊張して余計に……何でもない。うん、気持ちいいよ」
「それはよかったです。私にために色々と……ありがとうございます。ここまで無事に過ごせているのも、グリムのおかげですよ。こうしてあなたと一緒に過ごせて、嬉しく思います」
素直に感謝を伝えると、グリムはふっと笑った。
こういうとき、私も笑い返せたら嬉しいのに。
あまり表情筋が動かない。
ずっと心から笑う機会がなかったから。
「……少し変わったな」
「変わった?」
ふと、グリムが私を見上げて呟いた。
「今まで自分の気持ち、あまり口にしなかっただろう。感謝とか喜びとか……口にしてもあまり実感が籠っていない感じだった。
……あくまで俺の主観だがな。今の君は、心の底から言葉を吐けているように思うよ」
そう言われてみると、そうかもしれない。
自分の気持ちを俯瞰して見ることは難しい。
だけど、グリムに接することができて嬉しいと思うのは……最近になってますます強くなっている気がした。
「でも、笑えません……私はまだ笑えないんです。グリムが言ってくれたように、昔みたいに笑いたいのに。まだ人形みたいだって言われそうで。このまま素直に生きていたら、笑顔を取り戻せるでしょうか」
私を幸せにするために、昔のように笑わせるために、グリムは王都から連れ出してくれた。
その期待に応えられるだろうか。
少なくとも、今の私には自信がなかった。
『聖女』として課せられた呪縛が、いつか壊れる日が来るのか。
これからも私は聖女で在り続ける必要がある。
ならば、再び感情を奪われないように気をつけなければならない。
「言っただろう。俺が君を幸せにしてやるって。約束は違えない。それが俺の信条だ。
……まあ、王国を裏切った俺が言うのも何だけどな」
しかし、グリムは元々帝国の密偵だった。
忠実に任務を果たしただけだろう。
聖女を暗殺から救い、帝国に連れ出すという功績も遺した。
「俺は……許せない。君を劣悪な環境に置き、道具として扱ってきた王国を、ゼパルグ王子を、君の家族を。君から心を奪った連中を許せない。そいつらを見返してやるためにも、必ず俺たちで幸せになろう」
グリムが指をそっと差し出す。
私はうなずき、指切りを交わした。
膝枕をしたまま指切りなんて、ちょっとおかしいけれど。
「……グリム、眠くなっていませんか?」
「よくわかったな」
「そのまま寝てもいいですよ」
「……じゃあ、お言葉に甘えることにするよ。疲れてきたらいつでも言ってくれ。この後は……逆に俺が膝枕でもしようか?」
「はい、されてみたいです」
「素直でいいな。君のそういうところ、嫌いじゃない」
瞳を閉じたグリムの顔を、じっと見つめる。
よほど疲れていたのだろう。
彼はすぐに寝息を立てて、眠りに入ってしまった。
そよ風に吹かれて、庭園を見つめる。
色とりどりの花畑がどこまでも続いていた。
赤い花弁が一枚、グリムのまっしろな髪に乗る。
私は静かに花弁を払った。




