11. 一緒にいたい
ロックス伯爵家で過ごしてから、一か月近い時が経った。
最初は不安を覚えていたものの徐々に慣れてきた。
しかし、国境を超える目処はなかなか立たない。
というのも、ロックス伯が帝国と交渉を慎重に進めているようで、時間がかかりそうだとのこと。
グリムも帝国へ行って交渉を進めているそうで、ここ最近彼の顔を見ていない。
あれからゼパルグ殿下の刺客に襲われることもなく、私はロックス伯家で過ごしていた。
自由はあまりないが、屋敷の庭園を出歩くくらいはできる。
安心と引き換えの不自由だと思えば安いものだろう。
「おはようございます」
「リアナさん……おはようございます」
毎朝、起きると専属にしてもらった侍女がやってくる。
実家にいたころの侍女はまったくお願いを聞いてくれなかったのに、彼女……リアナは何でも言うことを聞いてくれる。
だから、かえって申し訳なさが勝って話しづらい。
「エムザラ様。何度も申し上げておりますが、わたしに"さん"は不要ですよ? 聖女様がそこまで畏まらないでください。権威というものがありますから」
「すみません……その、私は元来がこういう話し方ですので。あまりお気になさらないでください」
「そうですか……まあ、エムザラ様がそうおっしゃるなら仕方ありません」
聖女の権威……などと言われても。
王国では聖女は『特別な力を持つ者』という程度の認識だ。
そこまで大仰なものではないと思う。
「あ、そういえば帝国へ行かれる話がまとまりつつあるようです。
お髭の伯爵様と、芸術家の伯爵様が話していました」
『――の伯爵様』と侍女たちが言うように、このロックス伯爵家には主人がたくさんいる。
みなマクシミリアン・ロックス様の影武者だ。
この家だけでもマクシミリアン様の代理伯爵が十名以上いるとか。
「……グリムはどうしていますか? 最近、会っていませんが」
「グリム様は帝国に行き、色々と交渉されているそうですよ。あのお方……長年ロックス家に出入りしていますが、どういう立場なのかよくわからないんですよね。帝国の密偵だそうですが、そもそも帝国でどういう地位のお方なのか……」
「グリムは自分のことを話しませんからね」
「ふふ、そうですね。もうすぐ帰ってくるかもしれませんよ」
実家を離れての……異郷での生活。
最初はどうなることかと思っていたが、今ではすっかり慣れてしまった。
それだけ王都の実家が、私にとって薄い存在だったということだろう。
むしろ実家を離れた方が落ち着いて、開放感もあった。
あとは王国を抜けることさえできれば……
そんなことを考えていると、部屋の扉がノックされた。
「失礼しますぞ、聖女様」
入ってきたのは『芸術家の伯爵』。
彼もまたロックス伯として振る舞っている影武者だ。
芸術が好きで、領内の花畑なども彼の考案をもとに整備されているらしい。
「伯爵様。なにかご用ですか?」
「今後の貴殿の待遇について、お話ししたく。帝国との話がある程度まとまりましたので。朝食を終えたら執務室に来ていただけますかな?
……ああ、私の執務室は別棟の美術室ですが。はっはっは!」
「わかりました。後ほどお伺いします」
「うむ、よろしく頼みますぞ。それでは。それと、リアナにも来てもらえると助かります」
「わたしですか? 承知しました」
リアナも一緒に来るとのこと。
グリムが不在の今、彼女がそばにいてくれると心強い。
それにしても……伯爵代理には、変わった人が多い。
個性が強いというか、癖があるというか。
その方が色々な噂が立って便利なのだろうか。
私たちは支度を整えて、芸術家の伯爵の執務室に向かった。
***
執務室とは言っても、彼の仕事はやはり芸術関連で。
部屋に入った瞬間、絵の具のにおいが鼻をついた。
「失礼します」
「おお、参られたか! さあさあ、座ってくだされ」
座れと言われても、辺りは筆や絵の具が散乱していて座れる場所がない。
困惑する私をよそに、リアナがツッコミを入れる。
「……あの、伯爵様。エムザラ様の座る場所がないのですが」
「おお、それは失敬! よっ、と……ここにどうぞ」
床の絵具を壁際に追いやり、伯爵代理は椅子を置いた。
リアナは顔をしかめていたが、私は特に気にすることなく椅子に座る。
伯爵は筆を置いてさっそく本題に入り始めた。
「昨夜、マクシミリアン様からお話がありましたぞ。帝国との交渉がうまくいき、無事に聖女様を逃がすことができそうだと。帝国もまた瘴気による災害に悩まされております。聖女様の到着を今か今かと待っており、同時に貴女を暗殺しようとした王国に憤慨しているとか」
「そうですか。あまり興味はありませんね……政争や権力争いには」
「はっはっ。そうですなぁ、貴女の目的はあくまで王国の魔の手から逃げること……そんな感じですからな。まあ、面倒なことは置いておきましょう」
最近、私は自分がどうしたいのか考えるようになった。
聖女の役目から解放されて、生活に余裕が生まれたからだろうか。
私はグリムと一緒にいたい。
そして幸せに、無事に生きたい。
だから悪意に満ちたゼパルグ殿下から、王国の刺客から逃げるのだ。
そのためならば再び聖女の力を振るうことも、多少の苦難を強いられることも厭わない。
どちらにせよ『人形』として扱われていた日々よりは、ずっと自分の心に健全に生きられるから。
「さて。重要なお話がひとつ。マクシミリアン様とグリム様の交渉により、帝国における貴女の立場が決まりましたぞ」
「私の、立場……?」
「聖女様、あなたは帝国で公爵位を賜ることになりました」