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オムライス  作者: 六連
9/9

 彩香が消えてから既に二週間近く経った。あの日から記憶が曖昧で時折飛んでいる。

 彩香を探して色々回った気もするし家で彩香が帰るのをジッと待っていた気もする。

 虚ろで、曖昧だ。

 半身を失ったような感覚。どこを探しても見つからず。幾ら待っても帰って来ない。

 本当は夢だったのではないかとも思うが部屋に掛けられた彩香の羽織がその存在を証明していた。

 彩香が遺してくれた唯一の物。タンスを開ければ彩香に買ってやった洋服もある。帽子も靴もそのままだ。

 けれど彩香本人だけがいない。まるで蝉の抜け殻の様に残された残滓に触れても心は満たされない。

 彩香がいないのだ。

 ずっといると思っていた。

 また失った。

 また独りだ。

 もう、何もしたくない。

 ならばこのまま終わるのも仕方ない。

 ――仕方ないのだ。

 糸の切れた操り人形のようにソファーに項垂れていると不意に玄関の鍵が開けら扉が開いた。

 ゆっくりと視線を向けるとそこには見覚えのある人物が立っていた。

「――あ」

 浩平は名前を呼ぼうとしたが暫く誰とも口を利かなかったせいか喉が上手く機能しなかった。

 だが相手はそんな事など気にした風もなくカバンと袋を玄関に置くと靴を脱ぎ捨てドカドカと部屋に侵入してきた。

 勢いのまま浩平の胸倉をつかむと、

「どんだけ最低な生活してんのよ!」

 懐かしい罵声に初めて会った時の事を思いだす。

「ゆ、うこ」

 擦れながらも何とか絞り出した声に優子は答えず切れ長の二重を細めて浩平を睨んだ。

「先ずは風呂入りなさい! どれだけ入ってないの? 臭いったらない! 私はその間に部屋片すから! エアコンも切って! 喚起しないと!」

 まくしたてる様に次々と言葉を発する彩香に浩平は眼を丸くしている。

 ――なんで?

 そんな言葉が頭の中で幾度も出るが上手く言葉に出ない。気づけば着替えを渡されて風呂場に押し込まれていた。

 外では優子が怒りながら部屋の片づけをしているようで大きい独り言を叫んでいる。

 当分は外に出られないと察した浩平は仕方なく言われた通りにしようと服を脱いだ。

 そこでふと鏡に映った自分を見る。

 髪は汗や油でバサつき無精髭は伸び目の下に隈も出来ている。まるで浮浪者のような自分の顔に驚いた。

 ずっと鏡など見ていなかったので気にも留めていなかった。酷い状態だ。

 優子に最低と言われても致し方ない。

 久方ぶりのシャワーは熱く感じた。気持ちが良いけれど妙な喪失感も感じた。

 髭を剃る時に感じた喪失感。まるで汚れを落とすと、剃刀で髭を剃り落とすと同時に彩香との思い出もこそげ落している気になる。

 今まであったものへの喪失感。それに似ていた。

 風呂から出れば室内は換気をされて暑い外気が室内を占領していた。せっかくシャワー浴びたが浩平の額には既に汗が滲んでいる。

 風呂から上がった浩平に気づき優子が笑いかける。

「お、すっきりしたね。まあ目の隈は仕方ないとして髭剃ったからそれなりに見えるじゃない」

 まじまじと浩平の顔を見ながら優子は以前と変わらない笑顔を浩平に向けてくる。何もかも訳が分からない。

 どうして優子が来たのか。どうして以前と同じように話しかけてくるのか。そもそもなぜ鍵を開けれたのか。

 次々と沸きあがる疑問に浩平は何を聞けば良いかわからず頭が混乱し言葉にならない。

「聞きたいことは沢山あるでしょう?」

 不敵な笑みを浮かべて笑う優子に浩平は直ぐに頷いた。

 必死な浩平の形相に尚も笑みを浮かべる優子は「なら先ずはこれ」と言って部屋中の衣類を浩平に渡してきた。浩平が脱ぎ散らかし洗わずに置いた洗濯物たち。

「話をするにも先ずは部屋の掃除をしてからね」

 勝手知ったると言うように優子は掃除機取り出しかけ始めていた。室内に響く掃除機の音。

 どう考えても話をする状態ではない。

 浩平はグッと言葉を飲み込み言われた通りに洗濯機を回した。優子は掃除機をかけ、浩平は溜まっていたゴミをまとめて共用のボックスに捨てに行った。

 久しぶりに出た外はやはり暑く、太陽は相変わらず世界を照らしていた。

 大事な人がいなくなっても変わらない世界。

 かつて彩香は世界を美しいものと例えた。

 けれど今の浩平にはとてもそうは思えなかった。

 怠けて重くなった足を動かしながら部屋に戻ると 既に優子は掃除を終えたらしくタオルで汗を拭きながらソファーでペットボトルの麦茶を飲んでいる。

 見れば浩平の分なのかもう一本置かれている。どうやら優子が買ってきたものらしい。

「お疲れ様。にしても本当にずっと籠ってたんだね。冷蔵庫の中の物、駄目なやつは捨てたから」

 言われて浩平は彩香に最後に作ってもらったオムライスの事を思いだした。

 あれはどうしたのだったか? 食べたのか捨てたのか、それとも仕舞っぱなしだったのか思いだせない。

 呆ける浩平に彩香は自身の隣を叩き浩平を誘導する。とりあえず優子の言う通りに座ると優子が「お疲れ様」という言葉と共に先ほどまで使っていたタオルで浩平の汗を拭いてくれた。

「……なんで、来たの?」

 なすがままで顔を拭かれながら問いかける浩平に優子は手を止めた。

 止めて、浩平の目を真っすぐに見据えた。

 凛とした佇まいが空気を鋭いものに変える。浩平も優子の出す雰囲気に当てられ無意識に体強張る。

 すると優子の薄いピンクの唇が小さく開いた。

 

「自分の成す事を成しに」


 優子の言葉に浩平の心臓が締まった。彩香の手紙に書かれていた言葉そのままだ。

 偶然だろうか?

 動揺する浩平とは裏腹に優子は尚も凛とした態度で浩平を見ている。

 拭われた汗がまた噴き出す。暑さのせいだけではない。

 じっとりと湿る手を握りながら浩平が口を開こうとした時、優子が一枚の封筒を差し出してきた。それは一度丸めたのか皺が幾重にも刻まれている。

 訳が分からず受け取り見ればそれは浩平が捨てたはずのもの。

 優子の両親から浩平に宛てて送られた手紙。確かに捨てたはず。

 それが何故優子の手にあったのか。

 ゆっくりと封筒から視線を上げると優子が勢いよく浩平に頭を下げ、簪でまとめられた髪が乱れる。

「ごめんなさい」

 突然の謝罪。それだけ浩平は全てを理解した。自分が隠そうとしたものは既に暴かれたという事に。

 けれど何故なのか?

 封筒は確かに浩平が捨てたはずだ。それを何故優子が持っているのか。考えられる理由は一つだけ。

「……彩香さんに会ったの?」

 力なく問いかける浩平に優子は顔を上げて頷いた。申し訳なさそうに歪められた眉根。

 怒る理由など無い。ただ疑問はある。なぜ優子が彩香と会ったのか。

「……はじめは浩平に電話したのが切っ掛けだった」

 優子がぽつりぽつりと話し始める。

「その時に電話に出たのが彩香さんだった。私はてっきり浩平が直ぐに新しい女でも見つけたのかと思って怒鳴っちゃったの。でも彩香さんは違うって。出来れば会って話がしたいって。だから会いに行ったの」

 言われて思い出すのは市役所に行った時だ。彩香にスマホを渡した日。彩香が居なくなったと勘違いした日。

 その前に彩香は既に封筒を拾って読んでいたのだろう。神社で優子のアドレスも消そうとして途中だった事を思いだす。

「それで家だと不味いからって喫茶店に行って、そこで手紙を見せてもらったの。両親の書いた手紙。でも彩香さんが両親を責めるなって。親が子を思うのは仕方ない事だからって言われた。それをわかっているから浩平も別れを告げたんだって」

 話を続ける優子の顔はずっと申し訳なさそうになっており時折目を伏せて話した。浩平も口を挟まずにただ話を聞いた。

「それで少し時間が欲しいって言われた。それに両親にも会わせて欲しいって。はじめは私の友達として紹介したんだけど何だか知り合いに似てたみたいでお母さんが彩香さんの事を妙に気に入って、それから時々私を抜きにして会ってたみたい。それで八月十八日に家に来て封筒を二つ渡されて言われたの。一つは浩平で、もう一つは私に。九月に入ったら読んでくれって。あと、あんたを借りるとも言われた」

 旅行に行く一日前。確かその日彩香は一人で買い物に行った。旅行に必要なものを買うと浩平に伝えて。何を買うのか疑問には思ったが一人で行くと言うので聞くのは野暮かと思い浩平はついていかなかったのだ。これがただの買い物ならば同行したかもしれないが彩香は浩平に何と言えばついてこないか分かっていたのだろう。

 どうすれば浩平が気を遣い一人にしてくれるか。

「はじめは何の事かわからなかった。けど今日お母さんとお父さんに謝られた。それでこれを渡されたの」

 そう言って優子はカバンの中から一冊のノートを取りだした。日に焼けたのか白かったであろう表紙は茶色になり所々千切れヨレた古臭いノート。

 差し出されたそれを受け取り表紙を開くとそこには日記なのか日付や出来事が書かれていた。流すようにページをめくっていくと途中に封筒が挟んで合った。

 見れば宛名には“長尾浩平様へ“と書かれている。

「それは彩香さんに渡された封筒」

 糊付けたされた封を破き手紙を取り出すと中身は三枚の便せん。開けてみると流れるような細い字。

 かつて彼女が教師に叱られたと言っていた字がそこに連なっていた。


 “拝啓、長尾浩平様。いかがお過ごしでしょうか? この手紙を浩平さんが読んでいるのは恐らく私が消えて数日経った後かと存じます。

 私は浩平さんと広島から帰った日に神社のお社に行く事を決めました。それはもしかしたらこのお社が元の時代に戻るための場所ではないかと分かったからです。既に優子さんからお話は聞いているとは思いますが私は優子さんのご両親とお会いしました。はじめは浩平さんと優子さんの事を糾弾しようとしたのですが私と会ったお母様は様子がおかしく私の事を知っているようでした。それから何度もお会いするうちにどうにもお母様の大叔母様が私に似ているとの事で写真をお見せいただくと何と私とそっくりな人が写っておりました。名前も同じ彩香という事で大変驚きました。それから詳しく話を聞けば生まれは久慈村で広島にお嫁に来たということ。そこで私は確信しました。その大叔母様は私の事なのだと。

私は出来る限りお母様からお話を聞きました。どうやら未来の私はやはり広島に嫁いで、そして結婚をしたようです。

残念ながら子供には恵まれないまま旦那さんは戦死したそうです。自分の事なのですがどうにも他人事のように感じてしまいます。それと養子をとったそうで。名前を聞いて驚きましたが、同時に自分の成す事もわかりました。

 どうにも未来の私は少し変人で通っていたようで優子さんのお母様にも自分は未来に行ったと吹聴していたらしいです。我ながら偏屈だと思います。

 でもそのお陰で私は元の時代に戻るにはやはりあのお社が鍵なのだと思いました。

 結果は分かりませんが未来の私が生きているという事は元の時代に戻れたのでしょう。

けれどそうなるとやはりこれから広島は地獄になるということも事実なのだとわかりました。

 浩平さんは私を愚か者とお思いでしょうか? 確かにそうかもしれません。自ら地獄に行くのですから。

 ですが私は私の成すことを知りました。私にしか出来ないことです。それを成すために私は未来に来て過去に戻るのです。      

 その事に迷いはありません。私に優しくしてくれたあなたに私は私が出来ること、成すべき事を成したいのです。

 最後に忘れないで欲しい事があります。あなたはあなたが思うより孤独ではないということ。あなたは素晴らしい人間であるということ。私があなたに救われたということ。

 あなたも、この世界の美しいものの一つだということ。

 それを忘れないで下さい。あなたと過ごした日々は私の大切に思い出です。それをくれたのは他ならぬあなたなのです。

 未来を生きて下さい。しっかり生きて下さい。私の望みは、それだけです。

 本当にお世話になりました。

 あなたと出会えたから私は未来に向かい歩けるのです。

                                   松井彩香”



 手紙を読み終えた浩平の手が震えた。無意識に込められた力のせいで手紙に皺が刻まれていく。

 目から溢れた涙が落ちて手紙を滲ませる。

 ――なんで?

 頭に浮かぶのはその言葉だけだった。

 帰らなくても良かったろうに。このまま居れば良かった。あんな地獄に行かなくても、このまま平和なこの時代にいれば大変な思いなどしなくて済んだはずなのに。

 自分のために帰った。そう彩香は書いている。

 そんなことしなくて良かった。そんな事をされるような人間ではなかった。

 自分勝手に他人から離れるような男だ。自分の都合で他人を居続けさせようとした人間だ。

 そんな価値などない。彩香に思われるような価値なんかない。そんな人間ではないのだ。

 手紙に(こうべ)を垂れるように泣き伏す浩平。不意にその頭を撫でられた。

 顔をあげれば優子が悲しそうな顔をして浩平を見ていた。

 かつて彩香がしてくれたのと同じように優しく頭を()くように撫でながら。

 我慢出来なかった。それから浩平は優子にすがるように抱きついて、泣いた。

 まるで今まで溜めていたものを吐き出すように。

 祖父や祖母。母や父の死も我慢し続けた男が、ただ子供のように、声高く泣き続けた

 その姿に優子はただ優しく浩平の髪を撫で続けた。

 

 ようやく涙が収まると浩平は「顔洗ってくる」とだけ告げて洗面所へと向かった。鏡を見れば涙で泣き張らした目には隈もあり、心底酷い顔だと浩平は思った。

 タオルで顔を拭きながら戻ると優子は先程のノートを読んでいる。

「――それ」

「ん? ああ、こっちは彩香さんの日記」

「日記……」

 元の時代に戻ってからのものだろうか? ゆっくりとソファーに座った浩平に優子が手渡す。

 見ればこちらも手紙と同じ流れるような細い字でかかれている。

 表紙を開き読み始めようとすると、

「あなたのおじいちゃんね、彩香さんの養子だったのよ」

「―は?」

 優子の言葉に浩平の目が見開かれた。

「親戚の広島に疎開に来てたのよ。それで原爆で……」

 言い淀みながらも手は動いておりノートを開くと浩平に見せた。

『今日、我が家に家族が増えた。初めは義父も義母も善い顔はしなかったが私はどうしてもこの子を助けたかった。何度も頭を下げやっとお許しを頂いた。名前は長尾姓のまま。浩助さんという。浩の字も、泣きそうな時の顔もそっくりだ。あの日の思い出が昨日の事のように思い出せる。私はこのために戻ってきたのだ』

 長尾浩助という覚えのある名前。

 ――祖父の名だ。

「彩香さんの旦那さん、つまり大叔父さんが戦争で死んじゃって変わりに弟の私のお祖父ちゃんが家を継いだの。ただ彩香さんは実家も家族も戦争で亡くされたから浅野家に居続けた。そこで拾ったのがあなたのお祖父さんよ」

 優子の言葉に浩平の手が次々とページをめくる。

 書いてあるのは浩平の祖父の事。

『浩助が社会人になった』

『浩助が東京に転勤になる。一緒に行こうと言われたが断った。この体ではあの子の邪魔になるし私は私の意思で広島に来たのだからここが今の私の故郷だ』

 ――この体? 

 不穏な単語に浩平の指が震える。

『東京にいる浩助がわざわざ広島に来てお嫁さんを紹介してくれた。名前は道子さんという。笑うとエクボの出来る素敵な子だ。未来に繋がるのが嬉しい』

『一昨年結婚した浩助の元に女の子が産まれた。写真も同封されており小さく可愛い。名前は彩に決まったらしい。私の字を使ったそうだ。嬉しくて堪らない。出来ることならこの手で抱いてあげたい。そして願わくば産まれてくる彼も抱き締めてあげたい』

『浩助が道子さんと彩を連れて広島に来てくれた。もう小学生だという。目尻の辺りが彼に似ている気がする。いや、彼が彩に似ているのだ。どうにも順番を間違えてしまう』

『彩が成人式の写真を送ってくれた。とても綺麗な晴れ姿だ。もうすぐ彼が産まれてくる。けれど間に合わないかもしれない。一目だけでも会いたい』

 時折書かれる文に浩平の背がぞくりとした。優子を見れば所作なさげに目を伏せている。

 急いでページをめくる。

『最近は体調が芳しくない。年のせいか、それとも……いや、だとしても私は最後まで生きなくてはいけない。彼に生きてと言ったのは私なのだから。そんな私がへこたれる訳にはいかない』

『彩が結婚したと連絡を受けた。残念だが式には参加できない。心苦しいが今の私には病院のベッドから願う事しかできない。私の変わりに祐介さんが電報を送ってくれた。血の繋がらない私をずっと姉と慕ってくれた彼には本当に救われる。あと少し。もう少しだけ時間が欲しい』

 浩平の手がまた震えだす。収まれと言い聞かせるが駄目だった。

 震える手で次のページをめくる。

『どうやら間に合わないらしい。けれど後悔はない。私は私の人生を生き、成すべき事を成した。彼には結局会えないままだが大丈夫だろう。私がいなくても優子さんがいてくれる。彼の隣に私はいないけれど、ひとりぽっちではない。それに彼は強い。そして優しい。私が遺した言葉が彼の中にあるならば私は彼の中に生きている。この日記は甥の幸夫さんに預けよう。そして産まれてくる優子さんに繋いでもらおう。そして優子さんから彼に。今まで多くの人がそうしてきたように紡いでもらおう』

 次に書かれていた文字からは目に見えて分かる程に字が拙くなっていた。

『いつ書けなくなるかわからないのでここに記しておく。私は広島で地獄を生きてきた。彼に教えられたのに。行かなくて良いと言われたのに。けれどそうすると彼がいなくなってしまう。私を救ってくれた彼が消えてしまう。生きていくのは辛く苦しい。けれど彼との思い出があったから生きてこれた。未来の美しさを知っていたから今日までやってこれた。彼との出会いは無駄ではない。だから彼も無駄ではない。あの日、私は彼と出会えたから生きてこれたのだから。いつの日かあなたがこれを読んでくれるのを信じています。最後だから書きます。あなたは私の初恋でした。見ず知らずの土地で私に優しくしてくれた人。私はあなたをいつまでも想っています』

 そこで日記は終わっていた。後に残るのは空白のページだけ。

「……彩香さんは?」

 問いかけながらも浩平にもわかっている。結末がどうなっているかなど。

 けれどちゃんと聞かなければいけない。

 優子は浩平の望み通り、その口から答えを告げる。

「彩香さんはもう亡くなってる。私達が産まれる五年前、一九九五年。七十九歳。癌、だって」

「……そっか」

 当然だ。祖父よりも年上なのだ。もうこの世にいるわけがない。

 けれど浩平は確かにあの日、彩香に出会ったのだ。一緒に食事をし、買い物をして、広島に行った。

 思い返せばあの時既に彩香は帰る覚悟をしていたのだろう。

 また広島に来てくれますか? と彩香は問いかけた。一緒にでも、来ましょうでもない。 そこに彩香は含まれていなかった。まるで待っているような言い方だった。最後のページをめくるとそこには一枚のカードが貼り付けられていた。擦れて若干文字が剥げかけている。PASPYと書かれたミントグリーンとグレイのカード。浩平が彩香に渡した電子カード。また一緒に行きたいと思い渡したカードだ。

 もう使う事のないカード。

「……なぁ優子。彩香さんの墓って――」

「広島にあるわ。何度も行ってるから知ってる」

「……そっか」

 項垂れながら答える浩平に優子はそれ以上何も言わなかった。

 不意に風が浩平の頬を撫でた。見れば開け放たれた窓から夕日が差し込み黄金色の光を見せていた。

 もうすぐ日がくれる。夜になり、また明日が来る。

 いくら悲しんでも。いくら楽しんでも。明日もまた今日が始まるのだ。

 大切な人がいない世界を生きていかなくてはいけない。多くの人が遺してくれた今なのだから。

 ――先ずは彩香さんの墓参りに行こう。平和資料館にもまた行こう。彼女との約束だ。

 そう思い体を起こそうとして不意に浩平のお腹が鳴った。

 まさかの事に優子が呆れた顔で浩平を見た。

「し、仕方ないだろ、生きてりゃ腹も空く!」

 優子の視線に耐えきれなくなったのか浩平が誤魔化すように声を上げた。 

「散々真面目な話しておいて最後にそれぇ?」

 言いながら優子は立ち上がると、

「オムライス作ってあげるから感謝しなさい」

 そう言って台所に向かう優子の後ろ姿は、どこか彩香と重なった。

「……なぁ、家の鍵って――」

「んー? 彩香さんがくれた。自分にはもう必要ないからって」

「そっか……」

 ――必要ない、か。

 確かにその通りだ、と浩平は自嘲気味に口元に笑み作った。

 ソファーに座りながら天井を仰ぐ。変わらない部屋。けれど今は数日前までいた同居人はいない。その変わりにまた別の人間がいる。

 自分で離れたのに彼女はこうして戻ってきている。今更かもしれない。ちゃんと謝ろう。先ずは、自分の間違いを認めて。

「なぁ優子――」

「私も広島行くからね」

 浩平が言い終える前に優子が掻き消すように言った。 

 浩平としてはその話もしようと思っていたのだがそれとは別のことを聞こうと思っていたのだが切っ掛けを失ってしまった。そして次も優子が口火を切る。

「あと私はやっぱりあんたと別れないから。それで後でうちに来なさい。お父さんとお母さんに手紙の件を謝らせるから」

「は?」

 彩香の突然の提案に浩平の声が跳ねる。

 昔から優子は間違いを許さない質だ。やるといったら必ずやる。浩平としては謝られなくてもいい。むしろ初対面の親御さんにいきなり謝られても困るだけだ。何とか最悪な方向へ行かないように優子を宥めようとするが、

「もし謝らなかったり遺恨が残るなら私も家出してここに住む。彩香さんだって家出してここに住んでたんだから私だっていいでしょ?」

「いや、それは――」

「なに?」

 反論しようと心見るが優子の目が浩平を睨む。元々切れ長の目なので睨むと余計に威圧感を放っている。

 もうこうなってはどうしようもない。優子には別れを告げた理由も知られている。

 どう説得をしたものかと悩んでいると、

「それに彩香さんにも頼まれたから」

 そう言って優子はどこに仕舞っていたのか封筒を見せつけた。浩平がもらったものと同じ封筒。彩香からの手紙だろう。内容は優子の顔を見る限りロクな事は書いていないのを察した。

「……なんて書いてあった?」

「女同士の秘密だから教えない」 

 そう言うと優子はガスコンロを点けてあろうことかその手紙を燃やし始めた。封筒が火によって一瞬で炭化していく。

「ちょっ?」

「火事にはならないわよ」

 慌てふためく浩平を尻目に優子は平然と言い放ち燃える封筒をシンクへと捨てた。

「これで秘密は守られる」

 満足げに笑う優子に浩平の背に寒いものが走った。

「……そこまでするか普通」

「秘密のお願いだもの。私だけが知っていれば良いのよ」

「だからってなあ……」

 辟易(へきえき)しながらぼやく浩平に優子が小さく呟いた。

「……同じ男に惚れた仲だもの。約束は守るわよ」

 浩平の耳には届かない程の声で呟いた。そして唇を噛む素振りを見せたが直ぐに、

「さあ、我が家伝統のオムライスを作りましょうかね」

 啖呵を切るように声を上げる優子に呆れながら浩平が近づく。

 ――我が家伝統。

 伝統という事は受け継いでいるという事だ。となると――。

「……直伝て、優子は親御さんから教わったの?」

「そう。お母さんはおじいちゃんから」

 予想通りの話の流れに浩平の顔が更に暗くなる。

「……そのおじいちゃんは叔母さんから教わったってオチ?」

「オチってなによ!」

 どうやら予想通りらしく優子が咆えた。

 ならオムライスを彩香に教えたのは浩平で、そのオムライスを教えてくれたのは浩平の母だ。

 つまりこれから作られるのは母の味。

 いつの間にか紡がれていく味に浩平はただ苦笑いを浮かべるしかなかった。

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