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オムライス  作者: 六連
7/9

 八月も半ばを過ぎて学生が徐々に陰鬱になる頃。

 浩平は今日も彩香とスーパーへ買い出しに訪れていた。そんな中、荷物を袋に詰めていると不意に壁に貼られているポスターが目に入った。

 それは久慈村の夏祭りだ。

 一応は山車も出るし駅前の通りは出店が多く出店するそれなりに大きい祭りだ。

 去年も浩平は優子と行った事がある。

 視線を戻しまた買い物袋に荷物を入れていく。。

「彩香さんの時代にも久慈の祭りってありました?」

 不意に浩平が彩香に問いかけた。

「ありましたよ。山車も出ましたし出店も出ていました」

 こちらも浩平と同じく買い終えた品を袋に入れていく。中にはネギとうどんと蕎麦と素麺。それに鶏もも肉と油揚げ。

 アパートから遠い訳でもないが彩香が消えたと勘違いした日から浩平は少し過保護になりつつあった。

 過保護、というよりも束縛に近いかもしれない。自身でも分かってはいるが前回の事が尾を引いており彩香がいないとどうにも不安でたまらなくなっていた。

 それでも一応は不味いと理解している。こうして買い物に付き添うのも彩香に誘われるか、誘われなくても三回に一度ぐらいには自制しようとしている。

 いくら心配とはいえ彩香も一人になりたいときはあるだろうがやはり心配なのは変わらない。

 袋に入れ終えると浩平が空いた方の手を彩香に向ける。二つとも持つ、という意思表示なのだが彩香は小さく笑うと「ありがとうございます」とだけ言い浩平には渡さずにそのまま店を出てしまった。

 これでは荷物持ちの意味がないなと思いながらながら浩平も続いて店を出る。

 店を出ると陽の光が頭上から降り注ぐ。さすがに八月にもなると外に居るだけで汗が滲む。

 一方の彩香は暑さが辛くはないのか鼻歌交じりに歩いている。

「楽しそうですね」

「そうですか? だとしたら浩平さんとお買い物をしているからかもしれませんね」

 こちらが赤くなるような事を平然と言う彩香。恥ずかしくもあるが嬉しくもある。

「俺は暑いの苦手です。春とか秋が良いですよ」

「春はお団子が美味しいですもんね。秋はサンマが美味しいですし。でも夏はスイカとかあんみつ、かき氷とか美味しいですよ?」

 気温の話をしているのに何故かイベントの、主に食の話題にすり替わっていく。

 どうやら彩香の食への関心は相当のものらしい。

「そんなに食事が好きなら早く帰って麺を茹でましょう。暑くて敵いません」

「あ、そうですね! 早く帰って作らないと」

 彩香の足取りは軽やかで今にもスキップをしそうな勢いだ。

 しばらく歩いていると不意に彩香の足が止まった。他所の家の庭を見てる。

「どうしました?」

 つられるように浩平も視線を向けるとそこには兄弟なのか小学生低学年ぐらいの子供が二人、庭に広げたビニールプールで遊んでいる。

 お互いに水鉄砲をかけあい遊ぶ姿は無邪気で、夏の風物詩のようにも思える。

 そんな子供のはしゃぐ姿を見ながら彩香は噛み締めるように言った。

「この時代は本当に全てが綺麗に見えます」

 感嘆と共に紡がれた言葉は心の底から言っているのがわかる。

 確かに彩香の時代と比べれば何もかも真新しく綺麗に写るだろう。もし彩香が元の時代に居ればその先にあるのは地獄だ。広島に行かないとしても戦争によってこれまでの日常は全て壊れる。

 だからこそ彩香はこの時代にいればいいと浩平は思う。自ら進んでそんな悲惨な目に遭いにいかなくてもいい。こんな何世代にも渡って爪痕を残すような悲惨な事は。

「そういえば――」

 話題を変えるように浩平が口を開いた。

「彩香さんの誕生日もうすぐですよね?」

「誕生日……」

 少し考え込んだが思いだしたらしく、

「ああ、そういえばそうですね」

 胸元で柏手を打った。その少し古臭い仕草が浩平は好きだった。そして次に彩香が言った言葉は浩平には予想外のものだった。

「でももう済ましてありますよ?」

 意味が分からず浩平は首を傾げる。彩香の誕生日は八月二十二日のはずだ。出会った時にそう聞いた。

 ならばまだ誕生日ではないはずだ。

「え、と……まだ今日は十七日ですよ?」

「え? ええ、そうですね。でも新年は迎えましたよ?」

 話が通じない。意味が分からず浩平の頭が混乱していく。

「え、と誕生日は新年に祝うんですか?」

 浩平の言葉に今度は彩香が不思議そうに首を傾げる。

「――? そうですよ。ですから今年は私は満十九歳なんですもん」

 そこまで言われて浩平は理解した。確か昔読んだ本で知った事がある。日本は昔数え年という年の測り方をしていた。新年を迎えると一歳年をとるという考え方で中国から伝わったものだ。そのため誕生日を迎えた日に年を足すのではなく新年を迎えると早々に一歳年を足すのだ。

 彩香が年齢を教えてくれた時に妙な言い方をした理由がわかった。

「なるほど。理解しました。えっと、現代だと誕生日は本人が生まれた日に一歳とるっていう考えなんです。だから今は新年に皆で年を取る訳じゃなくて個人個人の生まれた日にお祝いをするんですよ」

 浩平の説明に彩香は驚きながら話を聞いている。

「なので現代だと皆一斉に祝わないので誕生日の日にはプレゼントとかしますけど、昔もありました?」

「お正月は甘い物とかもらいましたよ?」

 ――甘いもの。

 彩香の言葉に思い起こされるのは以前食べたシベリアだ。あまり洋菓子のイメージは思い起こされない。というよりもプレゼントやケーキはなかったのだろうか?

「プレゼントとかありました?」

「……ぷれぜんと?」

 この反応である。もしかしたらケーキとかもなかったのかもしれない。

「あー……ケーキは?」

「私の時代にもケーキはありましたよ。今みたいに豪華ではないですがちゃんとイチゴも乗ってます」

 膨れる彩香に謝りつつ浩平はもう一つの事も聞くことにした。

「他に何か貰ったりとかは?」 

「むしろ現代は他に何かあるんですか?」

 言葉から察するに他は特に何もないのだとわかった。

「あー、そうですね。大事なイベントですから子供だとやっぱり玩具あげたりとかじゃないですかね?」

 言いながら自分の時はなにをもらっただろうかと思い返すがパッとは浮かばなかった。 そういえば今使っている財布。これは優子から貰ったものだと思い出す。

 自分は何をあげたのだったか?

 記憶を掘り返そうとしていると不意に彩香が思い出したように声を上げた。

「子供……という事は大人の場合はあげるものが違うんですか?」

「そうですね。現代の誕生日はイベント……行事ですからね。子供や親や大事な人と祝ってケーキ食べてプレゼントをあげる。そういう事をします」

 浩平の説明に彩香は何か考えるように唸ったかと思うと、

「浩平さんも去年はされたんですか?」

「ああ、まぁ、そうですね。彼女とはしましたよ」

「へー。優子さんには何をあげたんですか?」

 妙に深入りしてくるなぁ、と思いながらも隠す理由はないので浩平も素直に答えた。

「んー、正直思い出せないんですよね。向こうからは財布を貰いましたけど、何をあげたんだっけか……」

「それは流石に酷いと思いますよ?」

「ぐ……」

 彩香の正論に何も言い返せない。確かに悪いとは浩平も思うが、けれど別れた今となっては確かめようもないしどうでもいいことだ。

「いいんですよ、もう別れたんだし。思い出す必要もないです」

 浩平のぶっきらぼうな返しに彩香は不満そうに口を尖らせた。

「どうですかね? 必要になるかもしれませんよ?」

 覗き込むような姿勢で言う彩香に何を言っているんだと言おうとしたが直ぐその話はなかったように話題を変えたてきた。

「私もプレゼント欲しかったなあ……」

 浩平に聞こえるように言うと彩香が視線だけを浩平に向けてきた。

 その行為に浩平は不満を持つどころか驚いている。

 彩香がこうして分かりやすいぐらいに何かを要求するのは初めてだったからだ。

 買い物に行っても余計なものは買わないし服もこれ以上は必要ないと断られていた。前回、彩香が居なくなったと勘違いした事もありスマホを渡そうとしたがもったいないと言われて断られてしまっていた。

 そんな彼女からの初めての要求。

 これ見よがしとはいえ、不快になるどころかむしろ嬉しく思えた。普段家事をしてくれているのでそのお返しも出来る。

 浩平は二の句も告げずに早々に切り返した。

「何がほしいんですか?」

 すると彩香は待ってましたと言わんばかりに浩平に顔を近づけた。

 突然の事に驚いて浩平が後ろに退け反る。

 だがそれは許さんとばかりに彩香の空いた手が浩平の服を掴み引き寄せた。そしてーー、

「旅行に行きたいです」

 予想外の希望にまたも浩平は驚かされる。

 浩平の驚きの顔とは裏腹に彩香は嬉しそうに笑っていた。



 それから二人は二日後の十九日に旅行に出掛けた。

 浩平は当初、旅行はまだまだ先だと思っていたのだが何処で調べたのか彩香は深夜バスで行けるからとこんなにも早く行く事になった。

 まだ浩平の夏休みは残っているしこれからも当面は一緒に住むのだから何をそんなに急ぐ必要があるのかと説得を試みたが頑として聞かず仕方なくバスの予約をとった。完全に行き当たりばったりの旅行だ。

 新幹線を使わない分、安くは済んだが彩香との初めての旅行なのだから出来ればもう少しゆったりと来たかった。

 バスの中は普通とほとんど変わらない作りで席だけを減らしたような造りになっていた。

 特徴的なのは座席で、席が片側は一列なのだがもう片方は二列になっている。

 既に何人か乗車している。夏休みというのもあるのだろう。浩平と同じぐらいの年の若者がそれなりにいた。

 思ったよりも多い人に内心で驚きながら自分たちに宛がわれた座席を探す事にした。

「えーっとF……Fっと、あった」

 席の手すりに書かれている番号を見つけると二列側のちょうど真ん中にあたる席だ。

「じゃあ奥どうぞ」

 そう言うと浩平は彩香に先に座るように促した。

「え? 良いんですか?」

「初めてのバスで長距離だし。もし酔っても外の景色見ると落ち着くから。それに外側だと人が歩いた時に気になるだろうし」

 一応は持ち込んだカバンに酔い止めも常備はしているが初めてのバスならば出来るだけいい思い出にして欲しい。

「それにバスの中から見る夜景って思ったより綺麗だから見ておいて損はないと思いますよ?」

「じ、じゃあお言葉に甘えまして」

 彩香はそう言うと窓際の席へと座った。それを確認すると浩平はもう一度車内をぐるりと見回した。

 トイレは後方に位置している。車内備え付けの時計を見れば出発まであと十分程。こうなるともうそこまで人は増えないだろう。

 思ったよりは利用者がいるがそれでも自分たちを含めて十数人はいる。

 スーツの人間もいれば浩平たちのようにラフな格好の者もいる。自分たち若人は夏休みの旅行なのだろうがサラリーマンは仕事だろう。社会人に夏休みはないらしい。

「浩平さん?」

「ああ、うん。もうすぐ出発だから待ってましょう」

「はい。楽しみですね!」

 窓からの風景を見ながら彩香は嬉しそうに言った。今日は彩香にとって初めての事が多くある。

 初めての東京に初めての夜行バス。そして、初めての広島行き。

 夜の東京駅に興奮している彩香の横顔を見ながら浩平は呟くように言った。

「なんで、広島に行くって思ったんですか?」

 その言葉に彩香は一瞬、体を跳ねさせた。笑顔が固まるのがわかる。

「そうですね……」

 言葉を探す彩香の視線は今も外を向いている。昼間とは違い灯りもまばらだが東京駅は地元の駅と違い明るくにぎやかだ。

 その光景を見ながら彩香は小さく呟く。

「綺麗……」

 飾り気のない純粋な言葉。

 オレンジの街頭はまるで舞台の照明の様で、それに照らされる人々全てが演者に見える。

 今見えるだけでどれだけの人間がいるのだろう?

 それだけの人間がこんな夜遅くに集まっている。それが浩平にはなんだか不思議に見えた

 ただオレンジの街頭に照らされた大きいだけの駅とそこを歩く人々。それだけなのに夜という黒い照明を点けると世界はこんなにも見え方を変えて、不思議なものに見える。そしてその中に自分たちもいる。この綺麗だと思えるものの一部として。

「ちゃんと見ておきたくて」

 彩香の言葉を浩平は静かに聞いている。

「まっさらになってしまった広島がどれだけ綺麗になったのか見ておきたくて。写真でみた広島は原爆で何もかもなくなったものばかりでした。それが今はどうな風になっているのか見ておきたくて。私の時代の人がどれだけ頑張って街を復興させたのか見たいと思ったんです」

「そう、ですか」

 彩香の言葉に頷きながら浩平は彩香と同じ景色を眺めた。

 いつの間にか運転手が乗り込み広島までの予定をマイクで説明していたがそんなものは耳には入っていないのか二人は車が発車してもずっとその光景を見続けていた。



 ――なんだ?

 ぼんやりとした意識のなかで違和感に脳が起こされる。

 何か眩しいものが顔に向けられていると気づいた浩平は身をよじる。けれど動かそうとした体は上手く動かない。それどころか体のあちこちに走る鈍痛。

「ん……?」

 微睡む頭を何とか起こしながら浩平は状況を確認する。瞼を上げると強い光に意識がたたき起こされた。

 ――ああ、そうだ。

 ぼんやりと考えながら辺りを見回す。隣の席では彩香が薄手の毛布をかぶり小さく寝息を立てていた。

 窓から見える景色は闇夜から変わり白んだ朝焼けに変わり始めていた。先ほど当てられていた光はカーテンの隙間から入り込んだ朝日だ。

 手すりを補助に体を起こす。

 時計を見れば時刻は七時を示している。どうやらあのまま眠りに落ちてしまったらしい。

 まさか初めての夜行バスでここまで熟睡するとは思わなかった。

 手で顔を揉んで大きく欠伸をした。

 窓の外を見ればそこは知らない景色で、バスの高い視点のお陰でより一層不思議に思えた。

 広島に着くのは九時過ぎ。

 記憶を探るが昨日の運転手の説明もおぼろげだ。あと二時間ほどならこのまま休憩を挟まずに行くだろう。

 浩平はもう一度座席に座り直すと大きく息を吐いた。隣で眠る彩香を見れば薄く口をあけて寝息を立てている。

 あどけない寝顔を浩平は見つめ落ちかけている毛布を引き上げてやった。

 一瞬身じろいだので起こしてしまったかと焦ったがまた直ぐに寝息をたてたので胸を撫で下ろす。

 彩香の烏の濡れ羽色の髪が光に当たり輝いて見える。

 彩香が広島に来たいと言ったのは原爆で壊された街がどうなったかを見たいからだと言った。

 嫁ぐかもしれなかった場所。せめてその場所をみておきたいと思ったのかもしれない。 元の時代に戻る術がわからない以上彩香はこの時代で生きていかないといけない。そうなれば広島に来ることはないだろう。だからせめて一度は見ておこうと思ったのかもしれない。そう思えたからこそ浩平も彩香を広島に連れていくのを承諾した。それは同時に彩香がこのまま居続けてくれるという保証でもある。

 夏休みが終わればまた大学が始まる。このままあと二年通い問題なく卒業をしてどこかの会社に入ってその時まで、彩香は今のように自分の側にいてくれるだろうか?

 そうだと嬉しい。そうあって欲しい。独りでいいと思い、優子と別れたというのにやはり独りは寂しいなどと何とも勝手な話だと思う。けれど彩香なら浩平の過去の話も知っている。一緒に居ることに反対をする者もいない。なにより浩平と同じくこの時代では天涯孤独の身の上だ。頼れるのは浩平しかいない。このままいけば彩香はずっと浩平の側にいるはずだ。

 我ながら何とも偽善的で打算的な醜悪な考えだと浩平は思う。

 ――自分がここまで身勝手で汚い人間だとは思わなかった。

 浩平はその黒いものに蓋をするように頭から毛布を被りまた目を閉じた。


 

 駅に着くと二人はバスから降りて浩平は運転手から荷物を受け取った。夏の暑さと熱気で既に汗が滲む。

 今日は流石に浩平も帽子をかぶっていた。動きやすいようにネイビーのシャツとモスグリーンの綿パン。一方の彩香は以前と同じストローハットに白いワンピースという夏の代名詞のような恰好をしている。肩には日よけの淡い水色のカーディガン。

「さて、と先ずは何処か行きたい所はありますか?」

 スマホを取り出すと画面に広島駅と入れた。

 彩香に広島に行きたいと言われたので来たが何処に行きたいかの話は一切聞かずにここまで来たしまった浩平に予定などなく、ただ彩香の行きたい所に着いていけばいいぐらいに思っていた。

 すると彩香は直ぐに、

「平和記念館に行きたいです!」

「ああ……」

 やはりそうなるよな。

 そう思いながら浩平は口には出さずに「じゃあ行こう」とだけ言うと先導をしはじめた。

 困惑しながらも彩香も続いていく。

「あ、あの浩平さん?」

「どうしました?」

 返事をしながらも浩平は足を止めずに進んでいく。その足取りに迷いはな駅へと向かって行った。

「行き方ご存じなんですか?」

「前に一度来ましたからね」

 忘れてなどいない。以前来た時とほとんど変わらない風景。広島駅の二番ホームから電車に乗って新白島駅で乗り換えて本通駅で降りる。

 数年前の記憶とはいえ頭に残っている。学友と共に行き、そして周りが原爆の悲惨さに固唾を飲んだり泣いたり、怖さを紛らわせてふざける中、自分ただ一人無感傷に並べられた遺品や写真。記憶という名の記録を眺めて浮かんだ感情は【仕方ない】だった。

 皮膚が焼けただれ幽鬼のような人の姿。亡者のように手を挙げて歩く姿。剥がれ落ちた皮を引きずり、水を求めて死の河と化した墓穴へ向かうその様。

 そんなものを見せられては納得するしかなかった。

 祖父が死んで被爆したせいと言われても。

 母が死に放射能のせいと言われても。

 祖母が自身を抱きしめて『お前だけは』と泣きながらに言ったのも。

 あんな地獄の中を生き、そんな地獄を生き延びた者から生まれた母や自分が今も放射能から逃れられなのも、仕方ない。自分が知らない、体験した事でないのに被爆三世と言われても。

 それが理由で彼女の両親から別れを切り出されても。

 仕方ない。そうやって納得するしかない。

 だから優子とも別れたのだ。



 平和記念館に着くと浩平は彩香に財布を差し出した。訳が分からず財布と浩平を見る彩香に長方形の建物を指さす。

「俺は外で待ってますから行って来てください」

 示された先を見れば長方形の建物とそれを挟むように左右にある建物。その間を細長い連絡通路が繋げている独特の形状。

「このまま真っすぐ行くと入り口があるんでそこから順番に見れますから」

「え、あの……浩平さんは行かないんですか?」

 不安そうに顔を向ける彩香。けれど浩平はその顔を見ないように逸らした。

「一回見ましたんで、二回目はちょっと……許してください」

 その言葉だけで彩香は何かを察したのか唇を噛んだかと思うと、

「……わかりました。では、行ってきます」

 そう言って建物へ歩いていった。

 遠ざかる彩香の後ろ姿を見送ると浩平は適当に近くのベンチへ腰を下ろした。植えられた大きな木が枝を広げ天然のパラソルを作ってくれている。

 周りを見れば人の姿がまばらながら見える。

 日差しが空気を熱し、どんどん暑くなっていく。

 けれど人は多く行きかっている。夏休みというのもあり若い人が多く見受けられた。

 かつてこの場所であんな悲劇があったとは思えないほどにのどかだ。幼子を連れている人もいる。

 周りはこんなにも穏やかなのにあの建物の中にはまだ地獄が残されている。あの地獄はかつて祖父が体験したもの。そして彩香が体験したかもしれないもの。そしていまだに自分を苦しめるものだ。

 あれを見れば確実に彩香は元の時代に戻るとは思わないだろう。同時に自分に対して同情か、もしくは拒否反応を示すかもしれない。科学的に放射能は遺伝しないと言われても日本人特有の穢という概念がある以上全ての人間が納得できるわけがない。

 だからここで彩香が元の時代への未練を絶てればそれでいいと浩平は思う。

 そのあとはこの平和な時代で生きていけばいい。

 


 それからどれぐらい待っただろうか。

 しばらく人の流れを見ていると遠くから彩香が歩いてくるのが見えた。どうやら浩平を探しているようで辺りを見回しながら歩いてくる

 浩平はベンチから腰を上げるて彩香に手を振った。

「こっちです」

 すると浩平に気づいた彩香は歩く速度を上げた。走らない、けれど早歩きで向かってくる。

 その動きに何となく察した浩平も歩いて彩香に向かう。

 差し出した両手を縋るように彩香が掴んだ。

 震えている。

 それだけで浩平は理解した。

「そこのベンチに座ってください。今飲み物買ってきますから」

 彩香に話す暇を与えないように一方的に喋る浩平。よく見れば色白の彩香の顔はそれを通り越して青くなりうっすらと汗もみてとれた。暑いからではないのは一目瞭然だ。過呼吸も出ているのかもしれない。

 ああ、やっぱり朝食は食べなくて正解だったと思うと同時に、一緒にいけば良かったと後悔も出た。

 飲み物の前に彩香を落ち着かせようと考えた浩平はベンチに誘導すると彩香を座らせ自身は膝をついて彩香の正面に座る。

 彩香の手を優しく握りながら、青くなった彩香の顔を正面から見据える。

 努めて冷静に、優しい声色で語りかける。

「ゆっくり息を吸って、ゆっくり吐いて。焦らず、何も考えないで。呼吸だけに集中して」

 朧気だった彩香の焦点が徐々に浩平を捉えていく。乱れていた呼吸も少しずつ静かになり、出ていた汗もだんだんと引いていった。

 十分ほどそうしていただろうか。先ほどまで肩で息をしていたのも落ち着き汗も完全に引いた。

 もう大丈夫だろう――。そう判断した浩平は彩香から手を離し飲み物を買ってくるとだけ伝えた。

 彩香もまだ呼吸を整えているがその目にしっかりと焦点があい大丈夫と告げていた。

 浩平は財布とると足早に自販機へとむかった。水と、味のあるものも必要だろうかとお茶も買った。いらない方は自分が飲めばいい。

 急いで戻ると彩香はもう落ち着きを取り戻し呆っと景色を眺めていた。

「落ち着きました?」

 言いながら飲み物を差し出す。少し迷って彩香はお茶を手に取った。

「……ありがとうございます」

「……うん」

 頷きながら浩平もベンチへと腰をおろした。

 二人並んで景色を眺める。

 水を口に含むと喉から腹に落ちていき熱を吸い取ってくれていく。

 彩香も両手でお茶を持ちながら飲んでいる。青かった顔は白くもどり、今は鼻先が少し赤らんでいた。

「気分悪いですか?」

「……少し」

「そうですか」

 どうしようか悩んでいると何も言わずに彩香が浩平に体を預けてきた。まるで子供が親にすり寄るように。

 熱で体が汗ばんでいるのだが彩香は気にした風もなく、また浩平も拒絶せずにそのまま受け入れた。預けられた彩香の重さが少し心地よかった。

 そしてゆっくりと彩香は口を開いた。

「……酷かったです」

 浩平は彩香の言葉に何者言わず静かに耳を傾けた。

「あんな事が起こるなんて信じられません。いえ、浩平さんたちからしたら起きたなんでしょうけど、それでも信じられません。あんな――」

 見てきたものを思い出したのか彩香の言葉はそこで止まってしまった。無理もない。いくら人形とはいえ人があんな姿になるなんて誰が信じられる。

 浩平も初めて見たのは写真だった。モノクロなので現実味はなかったがここに来て人形を見たときより一層現実に感じた。リアル過ぎて感情が揺さぶられるのを通り越して静まってしまった。

 こんなものを見ては言葉など出ない。視覚からの情報が強すぎて心が追い付かない。

 昔テレビで見た心理学者が言ってい。映画やドラマの悲しい話で泣けるのはそれは当事者でないからだと。自分の身にそんな悲劇が降りかかると人間は現実味のなさからむしろ冷静になり涙も出ないらしい。

 その心理学者の言葉が今なら理解できる。確かに浩平の心には悲しみも絶望も怒りも湧かなかった。出てきたのは仕方ないという諦めに似たものだけ。

 全てが仕方ないと思えた。

 祖父と母の死も。

 祖母の渇望も。

 父の交通事故も。

 そして優子との別れも。

 全て仕方ない。そう思えた。

 だからせめて彩香は地獄に関わらず生きてほしいと願う。現代に来て孤独かもしれないが、それでも地獄を生きるよりはいいと、そう願って。最後にその隣にいるのが自分じゃなかったとしても。

「彩香さん――」

 そう浩平が声をかけようとした。だが直ぐにその言葉は彩香によって消される。

「でも来て良かったです」

 満足に似た笑顔でそう言った。

 その言葉に浩平は耳を疑った。

 ――よかった? 何が良かったというのだろう?

 唖然とする浩平の顔を見て彩香は更に続けた。

「だって未来はこんなに平和なのでしょう? 私の時代から百年も経たずに食べ物に困らず、寝る場所に困らず。確かにあの光景は地獄でした。怖くて、陰惨で、何処にも救いなんてないと思えるほどに」

 そうだ。陰惨だ。恐ろしい光景だ。破れでた内蔵を引き摺り、溶けた皮膚を纏い、ガラスが付き刺さった姿で、潰れて見えなくなった目で、骨が剥き出された四肢で歩く姿は亡者よりも酷い。多くの人間が列をなして血に濡れた体を引きずりながら歩くあの光景は地獄としか言いようがない。

 なのに目の前の女性はその様を見ても言うのだ。この場所に来て良かったと。

 浩平には訳が分からなかった。驚きのあまり言葉が出ない。

 それでも彩香は変わらず微笑み浩平に語りかける。

「あの光景は確かに地獄です。人の世に現れた地獄。でも今は違う。あの地獄を生き残った人達が今を作ってきた。悲しかったでしょう。辛かったでしょう。声にならない慟哭をあげたでしょう。亡くなった大切な方を思い涙を流し(しの)んだことでしょう。生きる事を辞めたいと思ったかもしれません。全てを終わりにしたいと望んだかもしれません。でも、それでも生きて今に繋いでくれたんです。地獄を繰り返さないようにと祈りながら今に繋いできたのです」

 気づけば彩香の視線が前を向いていた。つられるように浩平も見る。

 車椅子に乗った老人。そしてそれを押す若人。

 その近くには三歳ぐらいの女の子が駆けていく。元気な子供の姿に後ろからゆったりと歩いていく夫婦。

 鳥も雲一つない空を力強く飛んでいる。

 皆一様に穏やかな今を過ごしている。

「とても穏やかです。陽の光に暑さを感じられる。生きていると思える。子供達が安心して世界を生きれるように。穏やかな今を生きれるように今に(つむ)いでくれたんです」

 ――そして、と彩香は続けて、

「浩平さんとこうして座ってお話出来るように」

 そう言って彩香は優しく微笑んだ。

「だから未来に紡いでくれた先人のために浩平さんは今をちゃんと生きてください。私も、私の今をちゃんと生きていきますから」

 見とれてしまうぐらいに綺麗な笑顔。

 けれど浩平は直ぐに顔を逸らしてしまった。

 彩香の笑顔を見ると思いだしてしまう。

 優子の事を。

 自分から別れを告げて、離れて、それでもなお記憶から消せずに思いだす卑しい自分。

 自分にそんな価値があるとは思えなかった。相手の幸せを願っているふりをして自分の事しか考えていない。

 自分はそんな綺麗なものを向けられる程大層な人間ではないのだと自分が一番知っている。

「浩平さん」

 優しく彩香が呼びかける。

「嫌な事なんて生きていれば幾らでもあります。でもその中にも美しいものはある。今見ている光景も。あなたが大切な人を想って別れた事も。あの日あなたが私を迎え入れてくれた事も」

 彩香はベンチから立ち上がると浩平の前に立った。立って浩平に両手を伸ばす。

「この世は理不尽で、仕方ない事もあります。でも、だからこそ人は希望を持ち美しいものを目指して歩き続けるんです。そしてあなたもその世界の美しいものの一つなんですよ?」

 彩香の双眸に嵌められた目が光る。穢れなど知らないというように澄んだ瞳。眩しさで浩平は顔を落とすしかない。

「――俺は……俺にそんな価値があるとは到底思えない」

 言い訳をして優子を傷つけた。言い訳をして彩香を利用しようとした。

 本当にそんな人間に価値などあるのだろうか? 

「ありますよ。だって私はあなたに出会えてこんなにも嬉しいんですから」

 彩香の手が浩平の手を掴み無理やり立ち上がらせる。

「しっかりしてください。男の子でしょう? あなたには健康な体も健やかな心もあるんですから。大丈夫です」

 自身満々に言う彩香に浩平は小さく笑ってしまう。

 どこにそんな根拠があるのだろうか? ほんの少ししか一緒に過ごしていないというのに訳がわからない。

 けれど何故だか彩香にそう言われると浩平の胸に熱いものが脈打つ気がした。まるで元気を注ぎ込まれたようだ。

「彩香さん……」

「なんですか?」

「抱きしめても良いですか?」

 浩平は何故かそうしたくてたまらなかった。下心など無い。ただ感謝を言葉だけでは伝えられないと思った。

 浩平のお願いに彩香は少し呆れたような笑みをすると、

「仕方ないですね。良いですよ」

 そう言って両手を広げてくれた。

 浩平の体が彩香の体を包むように抱き寄せた。

 ――熱い。

 ただそれだけ。けれど浩平には何よりも嬉しく思えるものだった。

「彩香さん」

 二人だけの蜜事のような小さい声で浩平が呼んだ。

「まだお願いですか?」

 静かに収まっていた彩香は優しく聞き返す。

「――いえ、でも……」

「なんですか?」

「……ありがとうございます」

 言葉と共に彩香はただ静かに背中を撫でた。

 まるで子供をあやす母親の様に、優しく静かに。

 震える背中を優しく撫で続けた。

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