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オムライス  作者: 六連
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 はっきりと誰かに言われた訳ではない。

 けれど浩平は子供心に覚えていた。父親は何も言わなかったし祖母も詳しくは言わなかった。

 祖父が亡くなった時の記憶はない。浩平が聞いた話ではまだ幼稚園の時だったらしい。そして母親が倒れたのは浩平が小学生の時。

 その日もいつも通り学校へ行った。いつも通り友達と遊び、授業をして変わりなく帰り母親に迎えられる。そんないつもと変わらない日常と考えていた。

 けれどその日、母親は出迎えてはくれなかった。

 インターホンを押しても鍵を開けてくれない事は時々あった。

 そういう時はだいたい何かに熱中している時だ。掃除をしていたりお菓子を作っていたり、うたた寝をしてしまっていたり。なので今回もそうなのだと思った浩平は預けられていた鍵で家に入った。

 だが母はリビングに倒れていた。

 カーペットも敷かれていないむき出しのフローリング。倒れている母親に慌てて近づくと床の木目に沿うように赤い液体が流れているのに気づいた。

 血を吐いて倒れていたのだ。

 帰ってきた浩平に気づいた母親はまるで自分の状態など他人ごとのように浩平に声をかけた。それを浩平は今でも覚えている。母からの最期の言葉はお帰り、だった。

 その後どうしたのか浩平はあまり覚えていない。隣の家の人に助けを求めたのか父親に電話をかけたのか。思いだせるのは葬儀場で父親に手を握られていた記憶だ。

 父の隣には祖母がおり泣いていた。父親は唇を震わせて泣くのを我慢していた。浩平は涙を流さなかったし何かを我慢しようとも思わなかった。

 ただ箱に収められた母を見ていた。

 母の葬儀の記憶。白と黒の縞模様。紫や黄色、ピンク色の灯り。

 母親は死んだのだと何となく理解した。

 祖母は浩平を抱きしめながら泣いた。抱きしめて泣きながら『あなただけは……』と縋るように、願うように泣いていたのを浩平は今でも覚えている。


 ゆっくり瞼を上げて見ればそこはいつも通りの見知った部屋。

 自身のベッドは小さい膨らみが出来ている。どうやら寒くて彩香が布団にくるまっていらしい。

 時計を見ればまだ六時。日が上り始めた頃だ。カーテンに透けてオレンジの色が見てとれる。

 ぼんやりと視線を室内に彷徨わせる。

 ――久々に見た。

 今朝の夢を思い出しながら欠伸を噛んだ。昨日の夜に彩香に話をしたからだろうか?

 眼球奥の痛みと嫌な夢のせいであまり良い気分ではない。

 このまま二度寝するにしては脳は冴えているし眼も痛い。起きてしまったし気分転換も兼ねて今日は自分が食事を用意をしよう。

 そう思い浩平は静かにソファーから抜け出た。

 炊飯器を見れば米は昨日のうちに彩香が準備してくれていたようで炊きあがっている。

 冷蔵庫を開けて中身を確認する。

 卵が数個と豚肉。それとこちらも彩香が準備してくれていたであろうひじきの煮物。

 簡単だが目玉焼きにしようと決めると浩平はフライパンを火にかけた。

 油を回しかけながら最近は料理をほとんど彩香に任せていた事を思いだす。

 少し前までは優子と一緒に作ったりもしていた。

 これからは自分も料理をしようと考えながら卵をフライパンへと割落した。

 それから彩香が目覚めたのは十五分ほどしてからだった。

 まだ眠いのか目を瞬かせながら浩平の背後に歩み寄っていた。

 気配に気づいた浩平は振り返りながら、

「おはようございます。もう少しで肉が焼けるから待っててください」

「ふぁい……」

 まだ覚めきらぬ顔で返事をする彩香に苦笑しながら浩平はそのまま調理を続けた。

 出来上がった目玉焼きと豚肉。彩香が作り置いてくれたひじきをテーブルに並べていく。

 ソファーに座る彩香はまだ眠いのか首が落ちそうになっている。どうやら寝起きはあまりよくないらしい。普段は頑張って起きてくれているのだろう。

 申し訳なさを覚えつつ浩平は朝食の準備を進めた。

全て終えると浩平も座り食事を始めた。

「……いただきます」

「いただきます」

 眠そうにしながらも箸を持ち手を合わせる彩香。浩平も同じく手を合わせた。

 彩香は半熟の目玉焼きを取るとご飯に乗せてそれを割った。

 中から黄身が零れて白いご飯を黄色に染めた。そこに醤油をかけてると一口箸に取り運んだ。

「んん~」

 嬉しそうに食べる彩香。それだけで浩平は作って良かったと思えた。

 浩平は彩香の仕込んでくれていたひじきの煮物を食べる。

「へえ……」

 一晩寝かせていたお陰か味がしっかり染み込んでいた。人参は柔らかく油揚げは汁を吸っており箸休めどころかおかずとして十分に思える。

「どうですか?」

 気づけば彩香が浩平の顔を覗き込んでいた。

「ああ、いや。味が染みてて凄く美味しい。これでごはんが食べれますよ」

「よかった」

 浩平の言葉に気を良くしたのか彩香はふにゃりと柔らかく笑った。

「浩平さんの目玉焼きも半熟で美味しいです」

 そう言って彩香はまた一口、黄身のかかったご飯を口に運んだ。

「なら良かった」

「はい」

 二人はそう言って笑い食事を続けた。



「図書館には何時ごろ出かけられますか?」

 洗い物を拭きながら彩香が尋ねた。聞かれた浩平は最後の茶碗を洗い終えると蛇口を閉めて、

「そうだなあ……確か九時からやってるはずだから九時前にここを出ましょうか。それで帰りにそのまま買い物しましょう」

「卵も今朝ので終わりですし。お昼はなにが宜しいですか?」

 彩香の言葉に浩平は少し考えて、

「いつも作ってばっかりじゃ申し訳ないんでたまには俺がやりますよ。彩香さん何か食べたいものとかあります?」

「いえ、そんな。居候させて頂いてる身ですから私がやりますよ?」

「いつもやっていただいてますから、たまには俺がやりますよ」

「えー……いやぁ、でも」

 困ったような顔をする彩香。けれど浩平は彩香を家に置くにあたって何か頼んだわけでも条件を出した訳でもない。率先して彩香がやってくれたので気づけば任せてしまっていたが本来なら浩平がやるつもりだったのだ。

 だからこそ、この辺りで少し考えを改めようと思い提案をしたのだ。

「なんでも良いですよ? カレーでもハンバーグでもオムライスでも」

 彩香が知っているかは置いといて浩平は適当に料理の名前を連ねていった。とりあえずこの三品は以前にも作った事があるので大丈夫だろうというものだ。特にオムライスは母親にも教わった事がある。

 それなりに自身があるものなのだが――、

「オムライス作れるんですか?」

 彩香が食いついた。予想以上の反応に浩平が引き気味に答える。

「え、ええ。食べたことあります?」

「はい。以前父に銀座で食べさせてもらいました!」

 銀座という単語に浩平の肩が跳ねる。銀座のレストランなど入った事はないが確実に味はそれなりのはずだ。比べられると不味いと思いながら、

「銀座のお店より味が落ちるのは許してくださいね」

 保険の言葉をかけた。

「そんな事ないです。作れるだけで凄いです! 楽しみです」

 皿を拭きながら笑う彩香の顔に浩平はしくじれないなと思いながら後でスマホでレシピを確認しようと決めた。

 その後も洗濯や掃除をし全て終えた二人は着替えて図書館へ行く準備をした。

 彩香は紺のスカートに白いシャツ。日よけの薄手のカーディガンと白いストローハットという出で立ちでまるで夏の令嬢といった風だ。

 実際に彩香がお嬢様なのは確かなのだが、それでも清涼感を含んだ出で立ちは似合っていた。

「日よけで買っておいて良かったです。少し遠いし、今日は暑いみたいですから」

 色白の彩香の肌が焼けるのを考慮して一緒に買っておいたものだ。

 浩平はシンプルに無地のシャツとズボンという出で立ち。日に焼けても構わないので涼しさを重視して簡素になっている。

「それじゃ行きますか」

「はい」

 浩平の言葉に元気に返事をする彩香。ドアを開けると熱気が一気に流れ込む。陽はもう出ているので気温は上がっていた。

「外は暑いですね」

 陽の照りつける空を見上げながら彩香が言った。

「夏ですからね。暑さの本番もまだですし」

「この時代の夏は暑いですね」

「俺としては冬の方が好きなんですよね。クリスマスもありますし」

 ドアにカギをかけると浩平が歩き出す。それに続くように彩香も歩き出した。

「この時代のクリスマスはどんな事をするんですか?」

「そうですね。どちらかというとイベント……行事? いや違うな。家族がいる人は家族と過ごして、恋人がいる人は恋人と過ごすって感じですかね」

「プレゼントとかはあるんですか? 靴下とかの」

「ああ、クリスマスプレゼントですね。恋人同士ならお互いにあげあったりとか、家族がいるなら親が子供にって感じです。あとはチキン食べたりケーキ食べたり」

「……ちきん?」

「鶏肉です。骨付きの鶏もも肉。それを照り焼きにして食べるんですよ」

「それは何か意味があるんですか?」

 彩香の至極当然の疑問に浩平が黙る。

 よくよく考えればそもそもクリスマスとは何なの分かっていなかった。キリスト教関係だとは思うがイベントが先行し過ぎて意味など考えた事もなかったのだ。ただチキンを食べてケーキを食べてプレゼントをもらえる日。その程度の認識だ。

「あー……そうですね」

 言葉を濁して考えてみるが何も浮かばなかったのか、

「……そういう疑問も図書館で調べましょう」

 ばつが悪そうに浩平はそう言った。

 久慈市の図書館は市役所の隣に建てられているので市の中心に存在している。浩平のアパートから歩くと三十分程かかる。バスを使っても十五分分ほどだ。

 今回は彩香がいるので浩平はバスを使おうと思いアパート近くの停留所に向かう。

「図書館は歩いてどのぐらいかかるんですか?」

「歩くと時間かかるんで今日はバスで行こうかと思って。だからこれから停留所に行きますよ」

「バスに乗るんですね。一時間ぐらいですか?」

「いえ、歩いてもそんなにはかかりませんよ。バスだと十五分ぐらいですかね」

「じゃあ歩けば良いんじゃないですか?」

 前を歩く浩平に向かって彩香は何でもない事のように良いのけた。

 驚いて振り返る浩平だったが彩香の顔が不思議そうな顔をしているのを見て冗談でないと理解した。

「……この暑さを?」

 確認するように浩平が言った。

「はい……え? 変ですか?」

 自分の言動に間違いがあったのかと思ったらしく彩香も慌てて浩平に確認する。

 どうやら彩香にとっては暑い中を歩くというのは大した事ではないらしい。現代人と違って昔の人はこうなうなのだろうかと考えながら浩平は行先をバス停から図書館へと変えた。

 通りを超えて大通りの方が道も分かりやすい。

「いや、まあ、大丈夫なら良いですよ。歩いて行きましょう」

「いや、あの、町の風景とか道も覚えたいですし!」

 取り繕うように言葉を重ねる彩香に浩平は笑うと止めていた足を進ませた。

「そうですねたまには良いですかね。俺も歩いて図書館は行った事ないですから」

「……すいません。お時間をとらせてしまって」

「いや、大丈夫ですよ。どうせ暇ですから」

「……暇で思いだしたんですが、お聞きしても良いですか?」

 急に神妙な声で問いかける彩香。声の質に浩平が少し身構える。

「……何ですか?」

「浩平さんは普段何をされてる方なんですか?」

 彩香の質問に浩平は、ああ、と納得した。

 確かに彩香と出会ってからずっと家にいるのだからその疑問は当然だろう。

「俺は大学二年なんですよ。前に言ったと思いますが今は夏休みなんです。それで毎日暇してるんですよ」

 大学という言葉に彩香の目が大きく開いた。

「浩平さん大学生さんだったんですか?」

 信じられないとでも言うように彩香の声が上擦った。その驚きように浩平の口に笑みが漏れる。

「酷いなあ。そんなに頭悪そうに見えます?」

 彩香の反応に浩平は笑い、ふざけたように言った。

「あ、いえ、ごめんなさい。でも大学生って……凄く頭良くないと行けないじゃないですか」

「大学といってもそんな大したもんじゃないですよ。今じゃ当たり前ですし」

「はあー。今の人は皆頭が良いんですね」

 彩香の言葉を直ぐに否定しようとしたが浩平は止めた。

 確かに昔のイメージで言えば大学と言えば頭が良いとか、金がないといけないものだった。けれど今は違う。少子化の影響や若者の勉強に対する意識は低い。真面目な者がいない訳ではないが、それは少数だろう。浩平も例に漏れずに現代の若者の大多数の方だ。高校を出て、特にやりたい事もなく大学進学を選んだ人種。

 昔の人間のように大学に行きたくても行けない者。勉強のために進学したという意思のある者。それらとは違うのだ。

 だが浩平は彩香に訂正する事無くそのまま話を聞き流した。

 自ら頭が悪いと言うのも気が引けたし、考えなしで生きてきた自分が情けなく思えた。

 ――昔の人はどうなのだろう。自分の将来を明確にして生きていたのだろうか?

 そんな疑問が気づけば彩香の名前を呼んでいた。

「……彩香さん」

 なぜ聞こうと思ったのか浩平にもわからない。

「はい?」

 ただ浩平は聞いてみたくなった。

「彩香さんは将来何になりたいですか?」

 彼女がなんと答えるのか。

「……どうしたんですか突然?」

 突然の質問に訝しみながら浩平の横を歩く。

 浩平は前を見たまま視線を向けずに尚も続ける。

「いや、女だからとか結婚とか、そういうしがらみを全部抜きにした時、将来何をしたかったのかなって思って。現代は昔ほど結婚とか男尊女卑とかマシになってますから、そういうの抜きにした時に昔の人は自分が何をしたいかとか決まってるのかなって思って」

「そうですねぇ」

 浩平のもしも話に彩香は少し考えてから、

「とりあえず結婚はしないですかね」

 そう言い切った。よほど今回の結婚が嫌らしい。

 だが現代で考えれば会ったこともない相手といきなり夫婦になれという方がおかしい。インターネットの出会いが増えているとはいえ顔は分からないがその分、掲示板やメールなどでやり取りをして相手の趣味嗜好や考えを知っている。そう考えるとまだマシと思えた。それに自分に確実な選択権がある。

 彩香のように昔の結婚というと自身の意思決定権は少ないように思えた。親の言うままが殆どだろう。

「あ、結婚しないとういうのは今であって、これから素敵な人がいたらしますけど」

「口ぶりからして結婚が嫌なのかと思ってました」

「一応は私も女ですからお嫁さんというのは憧れます。でも出来る事なら自分で見初めた殿方がいいです」

「まあ、それはそうですよね」

 ――好き合っていても別れる事がある。

 考えながら浩平はその言葉を口には出さなかった。

「あとは?」

「そうですね。勉強したいとか、行ってみたい所とかありますけど、今決めるのはもったいないのでその時に考えます」

「もしもなのに?」

「捕らぬ狸の皮算用。餅は餅でも画餅は食えぬ、と申しますから」

 彩香の台詞に浩平はへえ、と感心した。語呂が良いせいかテンポも良い。

「良いですね。なんか、そういうの言えるの。頭が良いって感じします」

 浩平の言葉に彩香は笑った。

「できれば私ももっと勉強をしたかったですけどね。仕方ないです」

 戻ったらお見合いしないといけませんから、と。力なく呟いた。

 浩平は何も言えなかった。正直に言えば彩香は戻らなくても良いのではないかと考えていた。こんな自分と今後生きてくれる相手など居るかわからない。彩香も戻れば望んでいない結婚が待っている。それに彩香の時代はこれから激動の時代を進んでいく。浩平の祖父も、彩香が嫁ぐ先である広島も、凄惨な事になっていく。

 ならばこのまま――と邪な、打算に近い感情が湧き出てくる。

 けれど自分なんかが他人の人生に口を挟めるわけがない。自分なんかが……。

 すると浩平の言葉を待たずに彩香は続けた。

「このまま帰らないでこの時代で生きていくのも良いですかね」

 小さく呟いた言葉は何故か浩平の耳にはハッキリと届いた。

 彩香の言葉に浩平の心臓が一瞬跳ねた。だが直ぐに取り繕うように咳をした。

 一瞬、浩平の口からこの時代に居ればいいという言葉が出かかるが止めた。

「……でも色々と大変ですよね。戸籍とかも無いでしょうし」

「そうですねぇ……昔の人間がこの時代にいたら問題ですよね。それに知り合いも何もいないですし」

 言葉から感じる諦め。普通に考えれば誰も知り合いのいない場所に放り込まれては当然の事だろう。ひとりで外国に行くのとは訳が違う。知識も道具も無ければ経験も常識も当てはまらない。唯一救いなのは言葉が通じるという点だろう。

「……彩香さんはやっぱり帰りたいですか?」

「うーん……どうでしょう。帰りたくなくて家出をしましたけど、まさか未来にまで逃げるとは思いませんでしたしね」

 屈託なく笑うそれが浩平にはやせ我慢に見えた。

「まあ、普通は帰りたいですよね」

「そうですね。でも、もしこのまま帰れなくてもそれはそれで良いのかなとも思えます」

「……どうして?」

「お見合いとか結婚に縛られないし、この時代は見るもの全て綺麗だし、それに――」

「それに?」

「浩平さんていう善い人にも出会えましたし」

 優しく笑顔を向けてくる彩香。屈託のないその笑顔に浩平は思わず顔を逸らす。

 先ほどまで自分が考えていた打算的な思考。邪な考えが思い返される。

 帰らなければいい。そうすれな目の前の女性は自分を頼らざる負えない。もしかしたら独りにならなくて済むかもしれない。そんな邪な考え。

「――それは、買い被りですよ」

「でも浩平さんは私に優しくしてくれましたよ?」

「彼女と別れて寂しかったから、家に招いただけです」

「ならあなたは自分が寂しい時でも、辛い時でも他人に優しく出来る人なんでしょう」

 ――どういう理論の飛躍だろう? 単純に人恋しくて招き入れただけだと言っているのに。呆れてしまう。

 浩平の口元にうっすらと笑みが零れる。

「なら優しい人間らしくこう言いましょうか。彩香さんの気の済むまで好きなだけうちに居て良いですよ」

「ありがとうございます。というか、帰り方がわからないのでお世話になるしかないんですけどね」

「あー……そういえばそうですね」

「そうです。なので暫くはお世話になります」

「いえいえ。俺もお世話になります」

 二人は笑いながら図書館へと向かった。

 道中、やはり彩香は気になった建物やお店の説明を求めるので道草をしながら向かった。予定よりも大幅に遅れて図書館に着いたけれど浩平には楽しい時間であり、むしろ短く感じられるものだった。



 到着したのは久慈市役所に隣接する久慈図書館。蔵書数も近隣の図書館に比べれば最大で建物も役所と同程度の大きさがある。

「大きいですね」

 彩香が図書館を見上げながら言う。

「一応はこの辺りで一番大きい図書館ですからね」

「あの建物は何ですか?」

 少し離れた円柱状の建物を指さしながら彩香が言った。見れば普通の建物と違い窓もない大きい建物が目についた。

「ああ。プラネタリウムですよ」

 浩平はこの場所に二回程しか訪れた事はない。アパートに越した時の諸々の手続き。優子に誘われてプラネタリウムに来た時。もしかしたら他にも訪れたかもしれないが記憶に残っていない。その程度だ。

 どうやら閉鎖はされていないようで看板も立っている。

「ぷらねた……?」

 これでは通じないと判断した浩平は別名を考えたが出て来ず、とりあえず屋内で星を見る機械だと説明するとそれで理解したのか彩香は嬉しそうに両手を叩いた。

「ああ、投影機ですね。少し前に東京の有楽町にあると聞いた事があります。凄いですね。そんなものが未来では久慈にあるんですね」

 彩香の説明に浩平は、むしろ有楽町にプラネタリウムがあったのかと驚いた。

「行ったことないんですか?」

 浩平の言葉に彩香は笑いながら、

「さすがにないですよ。新聞で見たぐらいですから」

 見れば彩香の視線はプラネタリウムをじっと捉えている。

「……行きますか?」

 浩平の提案に彩香は直ぐに反応した。

「良いんですか?」

 まるで迫るように近づく彩香の顔。吐息がかかるぐらいに近づかれてしまい浩平が後ずさる。恥ずかしそうに視線を反らしながら答えた。

「あ、ああ、別に大丈夫ですよ。上映時間は決まってると思いますから先に確認しましょう」

 待っててください、と彩香に言うと浩平は走り出した。

 以前にも感じた香り。自身と同じシャンプーを使っているはずなのにこうも違うのかと思ってしまう。

 息を整えながら受付窓口を見ると上映時間が張られていた。見ると時間は十一時から。その後は十三時と二時間の間がある。

 スマホを見れば時刻は十時前。余裕はある。

 急いで彩香の元に戻る。

「最初の上映は十一時からなんで図書館で調べ物が終わった後でも間に合うでしょう」

「じゃあ帰りに寄りましょう! ありがとうございます。また楽しみが出来ました!」

 はしゃぐ彩香に浩平も嬉しくなる。けれど直ぐに図書館での調べ物の内容を思い出し顔が険しくなる。

「……そうですね。帰りに寄りましょう」

 出来れば逆が良かったかな、と思いながら浩平は彩香を先導しながら図書館へと向かった。


 中に入ると既に利用者がおり殆どが老人だ。

 図書館は冷房も効いていて暇つぶしに最適だからだろう。学生と思しき若者などいない。むしろ若者である浩平と彩香が場違いに思えた。

 けれどそんな事は気にならないのか彩香は図書館の内装に目を奪われている。

「うわー。凄い数の本ですね。学校の図書館でもこんなに本はなかったですよ」

「一応は市営の図書館ですからね。しかもこの辺りじゃ久慈市は一番大きい市ですから」

「そうなんですか?」

「そうですよ。少し前に近くの市とも合併しましたし」

「色々とやっぱり変わっていってるんですね」

 寂しそうに彩香が呟いた。

「彩香さんの時代から大分経ってますからね」

「むー……そうですよね」

 唇を尖らせながら拗ねたように言う彩香に浩平は笑うと案内盤に向かった。

 図書館は本屋のように綺麗に区分けされている訳でなく大雑把に表記されている。せいぜい児童書と一般書、AVコーナーと書かれているぐらいで他は読書室や視聴覚室といったものしか書かれていない。

 とりあえずは一般書の所から探すしかない。

「先ずは一般書の所から探しましょうか」

「わかりました。で、どんな風に探せば良いですか?」

「とりあえず俺が適当に本を探すんで好きな本を読んでいてください」

「わかりました」

 二人は二手に分かれて背表紙のタイトルから適当に幾つかの本をリストアップした。

 そうして集めた本を読書室に運び浩平が流し読みをして内容を確認していく。

 部屋には誰もおらず少し暑い。どうやら部屋が奥まっているせいで冷房が届きづらいようだ。

 他の人間は冷房の効いている送風口付近のソファーや座椅子を利用しているのだろう。

 だが人がいないのならそれはそれで好都合だと浩平は思った。

 これから説明するのは彩香にとって未来の話だ。取り乱す可能性がないとは言えない。

 浩平は運び込んだ本を流し読みして説明がしやすそうな本を幾つかピックアップしていく。

 その間、彩香は一冊の本を読んでいた。それは料理の本だった。

 カラー写真を見るたびに声を上げて読んでいる。

 何もせずに待たせているよりはいい。そう判断し浩平は特に何も言わずに作業を続けた。

 すると途中、一冊の写真集で手が止まった。。

 見ればそれは原爆を落とされた広島の写真。特徴的なキノコ雲。次に写されていたのは被爆した人々。自焦土と化した街並み。子供の書いた地獄の絵。

 浩平の眉間に皺が寄る。一瞬、どうするか悩んだ。悩んだ末、その本は別に置いた。

 仕分けを終えた浩平は彩香に説明しようかと思い顔を上げた。見ると彩香は料理の本を熱心に読んでおり集中していた。

 スマホを取りだし時間を確認するとまだ二十分も経っておらずプラネタリウムの時間もまだ先だ。

 ――まだ良いか。

 浩平はジッと彩香の読書姿を見つめていた。

 しばらくして一区切りついたのか彩香は満足そうな顔をして大きく息を吐いた。

 どうやら気に入った料理を見つけたらしく指を栞代わりに挟んでいたページに戻り材料や調理手順を反芻している。

「何かいいの見つかりました?」

「え、ああ、すいません!」

 余程集中していたのか浩平の声に驚きながら慌てて本を閉じる彩香。けれど指はしっかりとページの間に挟んである。

「すいません。つい読みふけっちゃって」

「いえ、構いませんよ。それで何か良い料理でも見つけました?」

「ええ。未来は料理が色々な料理がたくさんあって凄いなあって。それで、あの、はんばーぐっていうのを今度作ってみたいなと思いまして」

 おずおずと指の栞で挟んでいたページを開いて浩平にみせてきた。

 そこには肉汁の溢れるハンバーグの写真が載っていた。色どりで鮮やかなニンジンやコーン、ブロッコリーが添えられている目で楽しむようなハンバーグ。

 どうやら今朝浩平が提示した時はどんな料理かわかっていなかったらしい。

「お肉が好きなんですか?」

 昔の人はあまり牛や豚は食べないと思っていた浩平は疑問を口にした。

「ええ、と。はい……好きです。前に銀座で食べまして」

 申し訳なさそうに言う彩香。

 その態度にやはり珍しいのかと思いながら浩平は彩香の持つ本を覗き見る。

 載っているレシピは一般的なハンバーグの作り方。材料は牛のひき肉と卵とパン粉というシンプルなものだ。このぐらいならば家でも作れるしレシピがなくても作れるだろう。

「家で一緒に作りましょうか?」

「いいんですか?」

 勢いよく顔を上げた彩香。目は爛々と輝いている。

「え、ええ。材料も別に珍しくもないのでスーパーでも買えますし」

「本当ですか?」

 是非、と言いかけて彩香が何かを思い出したように顔を曇らせた。どうしたのかと浩平が首を傾げていると、

「……でもオムライスも食べたいし」

 浩平の顔色を伺うように彩香が呟いた。

 どうやらアパートを出る前に話していたオムライスの事も思い出したようでどちらか悩んでいるようだ。

 随分と可愛らしい悩みに浩平の口元が綻ぶ。

「ならお昼はオムライスして晩御飯はハンバーグにしましょうか?」

 浩平の提案に彩香は信じられないというように目を大きく開けた。

「……良いんですか?」

「ぜんぜん構いませんよ」

 浩平の肯定の言葉に彩香の顔が花のように明るくなった。

 それと同時に浩平の中で申し訳なさも生まれた。

 これから話す事を考えれると良かったのか悪かったのか。

「それじゃあ……そうですね。そんな楽しみの話をした後で申し訳ないですが、昨日の話の続きをしましょうか」

 一冊の本を手に取って浩平はそれを開いた。

「彩香さんにとっては未来の話で、俺にとっては体験していない過去の話ではありますが」

 そうして浩平は本を見せながら彩香にかつて日本で起きた惨状を話し始めた。

 第二次世界大戦。

 東京大空襲。

 広島と長崎に落とされた原子力爆弾。

 それらを本の写真を交えながらゆっくりと話していった。

 はじめのうちは興味深そうに聞いていた彩香だったが徐々にその顔から好奇心の色は薄れていった。

 後半では荒廃した広島の写真を見て。

 被爆した人間の写真を見て。

 子供の描いた絵を見て。

 ただ黙って浩平の話を聞いていた。

 知りうる限りの情報を伝え終えた浩平は息を吐いて本を閉じた。流石にこれだけの情報を一気に説明するのは疲れた。

「これが彩香さんの時代にこれから起きる事です」

 そう言って彩香を見れば浩平の呼びかけに答えず彩香は顔を俯かせ、膝の上で拳を握りしめていた。

 彩香としては信じられない話だろう。けれど戦争の兆候は感じていたはずだ。彩香のいた時代は一九三六年。大東亜戦争の始まりである日中戦争はその次の年の七月には始まる。そこから戦果は広がりアメリカと戦争をして日本は原爆を落とされるのだ。

 彩香にとってはこれから起こる事。

 浩平にとっては過去の出来事。

 けれどそれは現代に生きる浩平まで蝕み深い深い爪痕を残している。

「……浩平さんのお祖父さんは広島に居たんですか?」

 不意に彩香が問いかけた。

 浩平は彩香から視線を逸らすよう天を仰いだ。

「昔は知りませんでした。けれど母親がガンで亡くなったんです。その時に祖母が泣きながら俺を抱いて繰り返すように言っていました。『お前だけは』て」

 今朝も夢に見た記憶。母親の葬儀は思いだせない。なのに祖母の言葉は今でも脳の中で鮮明に再生できる。

 祈りのように、呪いのように繰り返される言葉。

『お前だけは』

 祖母の声で再生されるのはそれだけだ。その言葉だけ。

「実際には被爆者の子や孫にそれが影響するっていう科学的根拠はないんですよ。でもそんな事は関係ないんです。もしかしたらを考える。それだけで人は人を排斥できます。生まれてくる子供に影響するかもしれない、と。母が死んだときに周りから言われました。放射能の影響だろうと。もしかしたら祖父が死んだ時もそうだったかもしれない。三世代に渡って今でも言われる。ならいつこれは大丈夫だって言ってくれるんでしょね。俺の子供の代ですか? 孫ですか? それとも途絶えるまでですか?」

「……お付き合いしていた方と別れたのもそのせいですか?」

「ええ」

 見知らぬ人物から送られてきた封書。知らぬ住所と知らぬ名前。

 誰からか分からずに開いた中に入っていたのは二枚の紙に収められた言葉の数々。

 内容を読んで気づいた。それは優子の両親が送ってきたものなのだと。

「手紙が届いたんです。娘と別れてくれって」

 内容は娘を想う親の心境と浩平に対する謝罪だった。けれど文から読み取れるのはただ一つ。娘と別れてくれというものだけ。

 手紙を読んで浩平が感じたのは諦めに似た感情だった。

 ――ああ、仕方ない。

 これが祖父が全て悪いと思える事だったらよかった。

 それならば祖父を憎み、自分も被害者と言えた。

 けれど実際は違う。祖父も被害者だ。原爆によって被爆した被害者なのだ。

 地獄の中を必死に生きてきたのだ。

 それを誰が責められるだろうか。

 誰が悪い訳でもない。

 彼女を心配した彼女の両親も。

 戦争を生き抜いた祖父も。

 ガンで死んだ母も。

 浩平自身も。

 誰も悪くない。ただ、仕方がなかったのだ。

 だから浩平は理由を言わずに彼女と別れた。

 言う必要はない。彼女の両親は悪くはないのだから。

「だから別れたんです。彩香さんと出会ったあの日に」

「……それで浩平さんは良かったんですか?」

 寂しそうに彩香が言った。

「……良いも悪いもないです。仕方がなかったんですよ。もしくはこういう運命だったんです」

 仕方がない。それは浩平にとって人生を生きていくためにいつのまにか使い始めた支えだ。

 傾いでいく心を。立ち止まりそうな足を。折れそうな体を。

 ただ支えるための杖。

 いつの間にか自分で用意した貧相な杖。けれどそれしか浩平にはなかった。自分ではどうしようもない理不尽と折り合いをつけて生きていくための支えが。

 それゆえに悲しいという気持ちも、怒りという感情も沸いては来ない。

 ただ一言、仕方ないですべてを片してしまえば良いのだから。

「……仕方ないんです」

 吐くように浩平が呟くと不意に嗚咽が聞こえた。 

 見れば彩香が声を我慢しながら泣いていた。

 突然の事に浩平は慌ててハンカチを取り出した。

「どうしたんですか?」

 浩平の質問に答えずに彩香は泣き続けた。その間、浩平はどうすれば良いのか分からずに慌てふためいた。

 女性に泣かれた経験など浩平にほとんどない。彼女であった優子も涙を溜める事はあっても溢したことがない。

 女性が泣いた時にどう対処すれば良いのかなど知る由もない。

 泣き続ける彩香を見守っていると気づけば彩香の目がウサギのように赤く腫れていた。涙を拭おうと手で擦るせいだ。

 浩平は彩香の手を取り制止させるとハンカチを優しく彩香の目元に押し当てた。

 擦らないように、涙を吸わせる。

 すると彩香の手が涙を拭く浩平の手に重ねられた。エアコンで冷やされたその手は浩平には少し心地よく感じた。

 どれくらいそうしていたろうか。

 徐々に彩香の嗚咽は収まり、涙も止まっていた。けれど重ねられた手そのままにゆっくりと二人の間に熱を帯びていった。

「……すいません。お騒がせしました」

 彩香は浩平の手からハンカチを取ると恥ずかしそうに言った。

「……いえ。でも急に泣いてしまったので何かしてしまったのかと思いました」

 すると彩香は言い辛そうに視線を彷徨わせたかと思うと、

「それは……浩平さんが泣かないからですよ」

 不満を込めるように尖らせた唇はどこか幼さを感じさせる。

「――俺、ですか?」

 突然の彩香からの非難に浩平は眼を丸くする。

 何故自分なのか?

 困惑する浩平の顔に彩香は察したのかハンカチを握りしめ浩平の顔を正面に見据えた。

「浩平さんが悲しい事を悲しいと泣かないから、代わりに私が泣いたんですよ」

 ああ、と漏らすように口を開けた浩平は目を伏せた。

 そうならないために『仕方ない』という言葉を使ってきたのだ。

 今までだってそうしてきた。その言葉を杖に生きてきた、生きていこうと考えていた。

 だから今更だ。今更そんな事を言われても――。

「――っ!」

 不意に浩平の頬に何かが触れた。

 彩香の手だ。

 今度は自分の番だと言うようにハンカチが浩平の頬に優しく触れた。

 それはまるで撫でるように、なぞるように浩平の輪郭をつたう。

 どうしていいかわからない浩平は彩香の為すがままにされている。浩平の困惑した視線が彷徨う。

 ハンカチが浩平の頬を何度も滑る。そこから帯びる熱と久しい他者からの優しさに浩平の心がぐらつく。

「……泣いてないですよ」

「……泣きそうだったから」

 なんだそれは。

 言おうとして唇が震えた。

 ――いけない。

 奥歯を噛み締め拳を握る。溢れさせてはいけない。一滴でも溢せば止まらなくなる。

 今までもそうだった。そうだ、これからも――。


「……泣いて良いですよ」


 ああ、いけない。そんな言葉をかけないでくれ。今更そんなものはいらない。今までだって耐えてきた、耐えてこれたのだ。

 だからそんなもの――。

「……泣けるんなら泣いた方がいいです。人間なんですから」

 言葉と共に彩香の空いた方の手が浩平に重ねられた。

 それ以上何も言わず、ただ優しく。

「……っ!」

 浩平の口から嗚咽が聞こえ始めた。けれど彩香は何も言わずただ浩平の頬をハンカチでなぞる。

 二人だけの部屋に浩平の嗚咽だけが小さく響いた。

 どれだけそうしていたかわからない。

 不意に、

「……もう大丈夫です。ありがとうございます」

 彩香の手をのけながら浩平が言った。その顔はどこかスッキリとしていた。目は腫れてはいないので泣いたわけではない。

「泣かないんですね?」

 どこか呆れたような、残念そうな彩香の言い方に浩平は小さく笑い、

「……大人になると泣くのが下手になりますね」

 満足そうに言った。

 つられて彩香も笑う。

「残念です。せっかく浩平さんの泣いた顔が見れると思ったのに」

「……ひとの泣き顔なんて見たいものですか?」

「そうですね――」

 少し考え込む素振りを見せて、

「弱い姿を見せてくれるとそれだけ信頼してくれているように感じませんか?」

「そういうもんですか?」

 納得できないと言うように片眉を上げて浩平が聞き返す。

 男としては他人に弱さを見せるのはいけないものだと考えている。それは生物的な本能なのか、男の矜持なのかはわからない。

 けれどどちらも相手に弱いと思われてはいけないというものなのは確かだ。

 そういう意味では彩香の言う事はもっともに聞こえる。敵に弱い姿などみせられない。見せれば攻撃されるし付け入れられる。

 弱った姿を見せられるのならそれは信頼しているからとも言える。

「いつも肩ひじ張っている殿方の、ふとした時に見せる弱さに女性は弱いものなんです」

 嬉しそうに言う彩香。

 保護欲を駆り立てられる。そういう事なのかもしれない。男である浩平としてはいささか不満ではあるが。

「俺、肩ひじ張ってます?」

「私にはそう見えます」

 間髪入れず強く答える彩香に浩平は少し驚いた。

 こんな風に言われたのは出会って初めてかもしれない。凛とした顔で浩平を見返すその眼は力強く、有無を言わせなものを感じる。

「……そうなんですかね?」

「そうですよ。だから浩平さんは肩の力を抜いてもらって良いと思います」

 笑って浩平の疑問を確信したように肯定する彩香。

 なんでそんなふうに言えるのか分からない。けれど――、

「そう、なのかもしれませんね」

「そうですよ」

 頷く彩香。

 その根拠のない言葉に浩平が笑う。

「なんだか今日は随分と強いですね」

「私は浩平さんより年上ですからね。甘えてもらって全然かまいませんよ」

 胸を張る彩香。

 確かに生まれた年で考えれば大正生まれである彩香の方が年は上だ。祖父よりも上。曾祖母と言えるぐらいかもしれない。

 ――ずいぶんと若いひいばあちゃんだな。

 実際の年齢は浩平よりも下だというのに、まるで背伸びをしているようないじらしさについ口元が緩む。

 それを彩香は侮られていると思ったのか唇を尖らせて、

「浩平さん。私は大正生まれですよ?」

 まるで自慢するように言う彩香。

「ええ。そうですね」

「はい。なので浩平さんの弱音ぐらい余裕で聞けます。年上の余裕というものですね。なので安心してこれからも弱音を吐いてください」

「……これからも?」

「はい。これからもです」

 ずっと、という言葉に妙に力を込めて頷く彩香。

 まるでこれから先もあるような言い方。これは、そういう意味なのだろうか?

 浩平の心に妙な期待が生まれる。

「――っと、それは、つまり……」

「私は、ずっとです」

 含んだ言い方。はっきりとは明言していない。

 夏目漱石もあなたが好きだという言葉を月が綺麗だと喩えた。昔の人間はどうにもストレートにものが言えないのかもしれないと浩平は思った。

「じゃあ、そうですね。これからも俺の弱音を聞いてもらっても良いかもしれないですね」

「ええ。いつでも言ってください」

 はは、と笑い項垂れる浩平に彩香も笑った。

 浩平はスマホを取りだし時間を確認する。あと十分ほどでプラネタリウムが始まってしまう。

 椅子から立ち上がり浩平がすっきりしたように両手を組んで上にあげた。硬直していた筋肉や骨が音を立てる。

「……行きましょうか」

 手を差し出し優香に向けた。驚いたような顔をした彩香だったが直ぐに顔に微笑みを携えるとその手を取った。

「もう時間ですか?」

「ええ。あと十分ほどです」

 スタートが十一時なのだから本当は早めに入った方が良いのだろう。

「でも直ぐそこなんで大丈夫です」

 道路を挟んで向かいにあるプラネタリウムだ。そんな急がなくても問題ない。浩平はそう考えていたのだが彩香がハッと思いだしたような顔をした。

「早く本を返さないと」

 彩香の言葉に浩平の動きが制止した。

 見れば机に集めた本が高く積み上げられている。十数冊の本。流石にこのままの状態でプラネタリウムに行くわけにはいかない。

 慌てて浩平が積み上げられた本を持ち上げた。

「直ぐに戻さないと!」

 今回の上映を見逃すと次は一時からの上映になってしまう。この辺りに二時間もの暇を埋めてくれるものはない。

 浩平は脱兎のように飛び出す。それに彩香も続く。

 けれど慌てる浩平とは違い彩香の顔は嬉しそうに笑っていた。

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