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オムライス  作者: 六連
3/9

 日が傾きかけた午後。少し薄曇りのような日差し。

 食事を終えた二人は買い物を済ませアパートに戻り荷物を置いてこの神社に来た。

 目的は彩香の家へ行く事。

 彩香の言う番地をスマホに入れてみたが番地も変わってしまったらしく検索にヒットしなかった。ならばと神社から記憶を頼りに彩香の家に向かうことにした。

 昨日ぶりの神社は夜と違い恐くは感じられなかった。滑り台やブランコが併設され神社の横の看板には絵馬が幾つも吊るされている。

 絵馬には『旅行にいけますように』『海外旅行無事に』などと書かれている。この神社の由縁はわからないがどうやら旅行や旅に関するものが祭られているらしい。

「神社の向きとかは変わってないはずですから」

「そうですね。ここから行けば多分家に行けると思います」

 そう言って彩香は公園の中心へと向かい神社を背にして太陽の位置を確認している。

 特に手伝えることがない浩平は周りを見ながら昨日の事を思いだす。

 彩香と出会った場所。遊具などブランコとシーソーぐらいしかない公園とよんで良いのか迷う場所。けれど名称としては三船神社公園と表に書いてあるのだから一応は公園なのだろう。

 彩香はここの社に隠れて気づいたらここに来ていたと言った。そもそもこの神社に何か不思議なものでもあるのだろうか?

 浩平は何の気なしに社に近づき中を覗いてみる。

 中にあるのは鏡が一枚。くすんではいるがうっすらと浩平の顔を写しているのがわかる。

 戸に触れて開けようして――、

「……あれ?」

 いつのまにか施錠されたのか戸は開かなかった。昨日か今日か、神主か管理人が鍵をしめたのかもしれない。

 できれば中を見てみたかったがこれでは仕方ない。諦めて浩平は彩香の元に戻った。

 彩香はルートを確認しているのか独り呟いていた。

「わかった?」

 伺うように浩平が声をかける。

「……多分だいじょうぶです。とりあえず何となくの方角はわかると思いますので」

「そう。川とか昔から変わらないものとかもあるだろうからそういうのも目印になるんじゃないかな」

「そうですね。家の近くには川もありました」

 ――川か。

 彩香の言葉に浩平はスマホを取り出し地図を見る。

 近くに三本程流れている。

「じゃあ大丈夫じゃないかな。一応スマホで位置情報は確認できるから迷子にはならないだろうし」

 スマホには神社周辺を含んだ地図が表示されている。さすがに紙の地図のように番地や名前までは記載されていないがある程度建物や地名などは出るので役には立つだろう。

「それ、色々出来るんですね」

 彩香がスマホを興味深そうに見ながら言った。確かに今はこの小さな機械で多くの事が出来る。会話も調べ物も。果ては買い物まで。昔の人間からすれば不思議な箱に思えるだろう。

「みんな持ってますよ」

「電話も出来るんですよね。私の時代だと電話はもっと大きいです」

 言われて浩平が思い浮かべられる古い電話は黒電話までだ。それだって現代の若者からしたら知らない人間もいる。

「電話があるって事は、彩香さんち中々にお金持ちだったりですか?」

「そうですね。それなりじゃないですか? だから政略結婚もさせられそうなんですけど」

 乾いた笑いをしながら歩き出す彩香。

 ――余計な事を言ってしまった。

 自己嫌悪になりながらも彩香に続いて神社を出る。とりあえずは道なりに進んでいく。

 その間も彩香は道すがら何か見つけるたびにそれに興味を持ち道草を何度もした。時たま投げられる質問に一つづつ答える浩平。

 まるで校外学習のようだと思いながらも彩香に付き合いながらゆっくりと歩を進めていった。

 歩きながらも浩平はスマホで位置情報を確認するのも忘れない。まだ神社からま五百メートルほどしか進んでいない。

 ――長くなりそうだ。そう思い不意に視線が一つの建物を見つけた。

 郵便局だ。

 浩平のアパート近くにある支店とは違いこちらは本店なのか幾分も大きい。

「……ここも昔からあるのかな」

 独り言のように呟くと彩香が反応した。

「あ、この建物って郵便局なんですか?」

 気づいていなかったらしく彩香が驚きの声を上げた。

「そうですよ。ほら郵便のマークがついた車があるでしょう?」

 浩平が指さした先の駐車場から特徴的な赤い車やバイクが何台も出入りをしている。赤地に特徴的な白い郵便マーク。

「あ、本当ですね。ずっと変わらないんですね、ああいうのは」

「彩香さんの時代も同じですか?」

「はい。いつも郵便屋さんが自転車で手紙を届けてくれます」

「ああ、そっか。昔だと車もバイクも少ないですもんね」

「そうです。浩平さんの時代みたいにこんなに車は走ってないですよ。牛の方が闊歩してます」

「牛、ですか」

 想像をして妙な気持ちになる。この辺りで牛など見た事がない。けれど昔は確かに労働力としていて当然だろう。

 八十年という差でここまで違うものかと思い知らされる。昔ならばこの郵便局も今とは違った造りだったことだろう。

「ここは……本店なんですね」

 建物の入り口に掲げられた看板を見ながら彩香は浩平に問いかけた。

「みたいですね。手紙とか出さないんで自分はあんまり利用しないんですか」

「そうなんですか?」

「ええ。メールもありますし」

「めーる?」

 首を傾げる彩香に浩平はスマホを見せて簡易的に説明をした。

 すると、

「なら字が汚くても問題ないんですね。羨ましいです」

 嬉しそうに手を叩いてはしゃいだ。

「彩香さん、字汚いんですか?」

「どうにも苦手であまり褒められません。習字の授業は苦手でした。学校でも先生に怒られてましたし」

 お恥ずかしい、と付け加えながら照れる姿は年齢よりも幾分か幼く見えた。

「彩香さん学生さんだったんですか?」

「久慈高等女学校を卒業しました。それからは家で家事とかしてました。それで今回のお見合いで……」

 そこから先は言葉にはしなかった。どうなったかは浩平も知っている。こうして自身の目の前に彼女がいるのだから。

「彩香さんは何の授業が好きだったんですか?」

 話題を変えるように少し声を張って問いかける。

 そんな浩平の気遣いを悟ったのか彩香は顔を上げて小さく笑った。

「そうですね。国語と裁縫が好きでした」

「裁縫とかあるんですか?」

「はい。授業でありますよ。この時代にはないんですか?」

「いやー、聞いた事ないですね」

 少なくとも大学まで進学した浩平の人生で裁縫という授業はなかった。家庭科の話かとも思ったがそれも小学校でしかやった記憶がない。どう考えても彩香の年齢でやる授業ではない無いはずだ。

 歩きながら浩平は彩香からその時代の話を聞いてみた。

 聞けば本当に今と色々と違うのがわかる。興味が湧いてきた浩平はこの機会に色々聞いてみようと思い彩香に質問を重ねていた。

「休みの日はなにしてるんですか?」

「家の手伝いが主ですね。とは言っても女中の古河さんがいるのでお手伝いぐらいですが」

「女中……家政婦ですか」

 言い直しながら思うのはやはり彩香は良家のお嬢様なのだろうという確信。現代とは多少違うとはいえ家政婦を雇うぐらいなのだからそれなりなのは確かだろう。

「あとは喫茶店によく行って本を読んだり……そこのシベリアが好きで」

「……シベリア?」

 聞いた事のない名前に浩平が聞き返す。

「はいシベリアです」

 やはり聞き間違いではない。

 浩平にとってシベリアとは地名という認識でしかない。なのに彩香は喫茶店のシベリアが好きだという。飲み物か食べ物の名称なのだろうと予想は出来るがそれが何なのかまったくわからなかった。

「……シベリアってなんですか?」

「ご存じないんですか?」

 驚いて目を丸くする彩香。まるでこちらが非常識のような気分になる。やはり色々と時代の違いはあるものだと感じる。

「すいません……あいにく見た事も聞いた事も」

「あ、と。羊羹をカステラで挟んだお菓子なんですが――」

「うーん……」

 記憶を紐解いてみるがやはり見た事がない。そもそもそれは和菓子なのか洋菓子なのかという疑問が浩平には浮かんだ。

 唸る浩平を見て彩香は申し訳なさそうに項垂れた。

「すいません……昔のお菓子だからそんなものありませんよね」

「ああ、いや……」

 せっかく話を変えたのにやはり暗くなってしまった事に浩平は後悔する。

 寂しそう彩香の顔に申し訳なくなり直ぐにスマホで検索をかけてみた。

 画面に画像が並びその中の一枚。包装されてシベリアと書かれている袋が写っている。

 どうやらスーパーやコンビニでも売っているらしい。先ほど買い物した時にパンコーナーを覗けば良かったと後悔するが、とにかく現代でも売っているようだ。 

「彩香さん。シベリア売ってます」

「本当ですか?」

 浩平の言葉に彩香の顔が一瞬で明るくなる。もしかしたら出会ってから一番かもしれない笑顔だ。それだけ好きなのだろう。

「ええ。検索したらあるみたいです」

「そうなんですね。この時代にもまだあるんですね」

「帰りに探しましょ」

「……良いんですか?」

「ええ。コンビニとかスーパーとか回ればあるでしょう」 

「……ありがとうございます。シベリアが待っているなら急がないと!」

 意気揚々と歩き出す彩香。まとめられた髪が犬の尾のように揺れている。彩香の表情が明るくなった事で浩平の足取りも軽いものになった。

 現金な態度。けれど浩平にはその方が彩香に似合っていると思えた。


 数回、道に迷いその度に来た道を戻りながら進んだ。途中に学校や神社、道祖神などの目印を見つけながら何とか彩香は目的の場所と思われる所にたどり着いた。

 そこは広い公園だった。

 敷地の中には多くの遊具がある。中央にはひと際大きい木が鎮座しておりそこを日陰にできるようベンチが幾つか配置されていた。緑を多く取り入れたいらしく公園の外周も気が植えられている。

 入り口には久慈東公園と書かれている。

 二人が着いた場所は家ですらなかった。

 慌てて浩平はスマホを取りだし現在地を確認するが表示されるのは公園の名称のみ。地図を見れば公園を超えた先に川も流れている。

 辺りを見回しても古い家屋は存在しない。あるのは最近建てられたであろう建売ばかりで集合住宅と化している。

 気まずそうに浩平が彩香を見る。

 呆然としたような、心ここにあらずといった面持ちで公園を見ている。

「あー……別の場所かもしれないからもう少し辺りを見ましょうか?」

「……いえ。多分ここです」

 確信めいたものがあるのかその声に揺らぎはなく凛としていた。

 ゆっくり公園の中央に歩みを進める彩香。浩平も無言で続いていく。

 向かったのは公園の中央の巨木。ではなく端に植えられている二対の木。高さは少し差があり大きい方は六メートル程。小さい方は四メートル程の高さで葉の形に多少対外が見受けられた。

「なんの木ですかね?」

 浩平の問いかけに直ぐには答えず彩香は枝に指先で触れた。何かを確認したのか彩香は木を見上げて息を吐いた。

「……金木犀と銀木犀です。庭にありました」

「へえ」

 木の種類などわからない浩平からすると並んだ木の違いなど大きさぐらいしかわからない。だがそれだけでここが本当に彩香の自宅跡地という理由になるのだろうかという疑問も沸く。金木犀など自然に生えているものではないのだろうか?

 すると浩平の疑問を見透かしたように彩香が答えた。 

「父が、私が生まれた時に植えたと言っていました。金と銀は縁起が良いと。金木犀の方は自然には生えていないので植えないといけないそうです。だからわざわざ並べて植えたと言っていました」

 しばらく木を撫でていた彩香だがそっと手を離した。

「帰りましょうか」

 浩平に向き直りそう言った彩香の顔はいつも通りの顔で、浩平にはそれ気丈に振る舞おうとしているように写った。

「……大丈夫ですか?」

「あー……はい。予想はしてましたがやはり実家がないというのは少し堪えますね」

 あははは、と力なく笑う彩香。

 伸ばそうとした浩平の手が上がりかけて止まる。

 ――自分が彼女に何が出来る?

 惚れた相手すら見送った自分に。

「……帰りましょう」

 紡げた言葉はそれだけだった。浩平の言葉に彩香は眼を伏せて頷いた。

 会話のないまま公園を後にする二人。

 どことなく足取りが重い。

 歩き始めて少しすると浩平のうしろに付いていた彩香が「あの……」と声をかけた。

 何だろうと足を止めて浩平が振り返ると彩香が深々とお辞儀をしていた。

 突然の事に浩平が呆気にとられていると、

「すいません」

 謝罪された。

「……なんで、謝るんですか?」

 浩平の言葉に彩香は顔を上げた。眉を下げて困った顔をしている。少し悩んで「色々と迷惑かけてしまって。実家も無駄足でしたし……」

 彩香の言葉に浩平の顔が歪む。

 ――ああ、この人はそんな事を気にするのか。

 一番大変なのは自分であろうに。見ず知らずの場所で、わずかの可能性の実家もなくこれからどうすれば良いのか先行きもわからないのに。

「彩香さん」

 出来るだけ優しく名前を呼んでみた。

 彩香が「はい」と答えて顔を浩平に向ける。澄んだ目も今は揺れていた。 

 当然だ。唯一の寄る辺の実家すら綺麗に跡形もなく消えていたのだから。本当に孤独だ。まるで今の自分のようだと浩平は思った。

「シベリア買って帰りましょう」

「……え?」

 目を瞬かせてる彩香。どこか小動物的な可愛さを感じさせる。

 唖然とする彩香を尻目に浩平は尚も話を続ける。

「俺食べた事ないんですよね。お茶とコーヒーどっちが合うんですかね? 羊羹ならお茶なんでしょうけどカステラで挟んであるんですもんね。ならコーヒーなんですか? どう思います」

「あ、と……私はコーヒーで食べてました。でもお父様はお茶が良いと仰ってました」

「なるほど。じゃあ帰りにコーヒーとお茶も買っていきましょう。ああ、うち急須もないや。またスーパー寄りましょう。そんでお茶とコーヒー買ってシベリアも探しましょう。あと他にも甘い物買いましょう。チョコとかケーキとか。彩香さん和菓子の方が良いですかね?」

 まくし立てるように話をする浩平。それが彩香に対する気遣いと理解したのか薄く笑うと、

「あまり食べ過ぎますと晩のご飯は入らなくなってしまいますよ?」

 まるで母親のような注意をしてきた。

「甘いものは別腹でしょう? それに疲れた時や気分が暗いときは甘いものが一番です」

「そうですね。甘いものは元気が出ますね」

 そう言って跳ねるように浩平に近づくと不意にその手を掴んだ。それは浩平の手よりも幾分も小さく華奢だった。

「そうと決まれば行きましょう浩平さん」

「ええ」

 握られた手を振り解くことはせずに浩平は頷いた。

 二人はそのまま手を繋いでまた歩き出した。

 またデパートに戻り急須とお茶。それに目的の菓子であるシベリアも見つかった。

 ただ一点、彩香が不満な事があるらしく買い物を済ませた帰り道聞いてみると唇を尖らせて言った。

「私の食べていたシベリアは三角でした」

 デパートのパン売り場で見つけたシベリアは長方形切られているもので、どうやらそれが不満なようだ。

 浩平はそんなに気になる事だろうか、とも思ったが今度三角のも探してみようとも思った。


     ※


 彩香との生活が始まって三日経った。

 この三日の間で彩香も現代の生活にある程度慣れてきたらしく今では家事を彩香がこなしてくれている。今朝も朝食を作ってくれてその後もキッチンで何やら作業をしている。

 話を聞くと元々高等女子学校というのはそういう授業をするのが目的で通うものらしい。普通の授業、国語や数学といったものもあれば裁縫や家事、手芸という珍しいものもあるらしく彩香の学校では習字もあった。

 まるで花嫁修業だなと浩平は思い、なるほど、以前言っていた習字が苦手といったのも授業で本当にあったのだと納得をした。

 自身の祖父や祖母の代に近い生活の話に浩平はいつしか彩香に多くの事を聞いていた。

 子供の頃の生活から小学、中学と。彩香の時代にはこの辺りはどうなっていたのか、どんな生活をしていたのか。

 数日前まで彩香が昔の人間などと信じてはいなかった。けれど今は話を聞く度に本当に 昔の人間なのだと確信が増していく。

 けれど同時にその先の歴史を知る浩平としては彩香に話を聞くだけであまり話題にはしなかった。日常生活において必要な知識程度にしか教えてはいない。

 彩香の生まれは一九一六年。今年二十歳になるということは彼女のいた時代は一九三六年。これから彼女は激動の時代に進んでいく。もしかしたら既になっているのかもしれない。浩平が歴史の授業で習った記憶では日本がアメリカと戦争をすることになったのは一九四〇年。彩香のいた時代の四年後。確かその頃は既に日中戦争は始まっているが、どうなのだろう?

 視線を台所へ向けると彩香は料理をしている。はじめのうちはコンロなど分からず四苦八苦もしていたが若いからなのか、元々好奇心が旺盛なのか今では使いこなし洗濯機も掃除機も使えている。

 ――もし優子と今でも付き合えていれば。

 そんな有り得ない空想を頭を振って消した。

 もう終わった事。自ら終わらせた事だ。どうしようもない。

 ぼんやりと彩香の後ろ姿を見ていると不意に振り返り、

「浩平さん、お昼はどうしますか?」

 キッチンから彩香が声をかけて来た。手には鍋を持ち何かしようとしている。まるで同性を始めたカップルのようだな、と自身の無意識の思考に浩平はまた自己嫌悪を覚えた。

 彩香は今浩平が買ってあげた服を着ている。クリーム色のブラウスとベージュのレーススカート。その穏やかな色合いが彩香には似合っていた。

 浩平は立ち上がりキッチンへと向かう。

「なんでもいいですけど」

「もう。なんでも良いが一番困ります」

 口では言いながらも表情は穏やかに笑っている。

「すいません。そうですよね」

 軽く謝りながら彩香の持つ鍋を覗き込む。中には青々としたほうれん草が水に浸されていた。どうやらほうれん草を煮ようとしていたらしい。

 彩香が家事をしてくれてからというもの浩平は今まで自分がどれだけ野菜の類を食べていなかったかを自覚した。

 基本意識して緑黄色野菜を採ろうとはしていたが彩香の作る料理に比べれば雲泥の差だ。

 食事には必ず副菜が添えられるようになった。それもほうれん草の胡麻和えやひじきの煮込みといった懐かしいようなもの。逆にサラダなどというのはあまり出ず野菜はこうした小鉢や汁物で出してくれる。小学校で習った一汁三菜という形態。

「でも彩香さんの作る料理は美味しいですからね。本当に何でも良いんですよ。何を食べても美味しいから」

 言い終えてから浩平は我に返った。何とも恥ずかしい事を言った気がする。

 慌てて、

「あ、いや、彩香さんは本当に料理が上手だなってですね」

 恥ずかしそうに頭を掻く浩平に彩香は嬉しそうに笑い、

「ありがとうございます。そう言って頂けると作り甲斐があります」

 優しく笑い鍋をコンロにかけ始めた。

「そうですね。ならサバの味噌煮を作りますね。あと今朝仕込んだ筑前煮の味見もしてみましょう。お味噌汁は大根が残ってるのでそれで」

 筑前煮という単語で彩香がキッチンで何やらしていた理由がわかった。本当によくしてくれる。

「すいません。いつも色々作っていただいて」

「いえ。居候させていただいてる身ですし、それにこの時代はとても豊かですね。お買いものに行けば野菜もお肉もお魚も全部揃ってます。お料理がとても楽しいです」

「ああ、まあそうですね。昔に比べれば色々と手に入りやすいですよね。俺もあんまり料理しないんでいつも弁当とか買ってましたし」

「お弁当というと、駅弁とかの類ですか?」

「ああ、まあそんなもんです。今はそういうのを普通に売ってるんですよ」

 はあ、と彩香は分かったようなわからないような顔をして冷蔵庫を開けてサバの切り身としょうがを取りだした。

 もう慣れたもので当初のようにいちいち驚きはしない。冷蔵庫の中身も以前は味噌などなかったのに今は入っている。あったのはせいぜいが塩や砂糖。醤油程度だったのだが今はみりんやダシ、料理酒も常備されていた。

「凄いですね。家でサバの味噌煮なんて食べるのいつ以来でしょう」

 調理を始める彩香の横で浩平が覗き込むように作業を見守る。

 彩香は慣れた手つきでサバの中骨や血を取り除き隠し包丁を入れていく。

「上手ですね」

「授業でよくやりましたから」

 へー、と感心する浩平を横目に彩香はどんどん作業を進めていく。空いているコンロの片方に鍋を乗せると次々と調味料を入れていく。分量は計らなくても覚えているのだろう。

「これで一煮立ちさせてサバを入れれば終わりです」

 造作もないというように説明をする彩香に浩平は感嘆の声を上げるとそれに答えるように胸を張る。

「ご実家でも食されてましたか?」

「子供の頃ですけどね。母親が作ってくれました」

「ああ、それじゃあお母様の味とは違うかもしれませんね。お口に合わなかったらごめんさい」

「ああ、大丈夫です。もう味なんて覚えてませんから」

 何気なく言った言葉だったのだろうが彩香がその言葉に引っかかる。

「あの、お母様とは、その……」

 言い辛そうにする彩香に浩平は何の事はないように続けた。

「喧嘩とかじゃないですよ。母親は俺が小学生の頃に死んでるんで」

「……え?」

 一瞬で彩香の顔色が変わる。横目で見やると直ぐに浩平は視線を鍋に向けた。

「ガンです。彩香さんの時代でも言うのかな? まあ体の中に悪い腫瘍が出来ててそれが元で。だから基本的に親の料理とかあんまり記憶にないっていうか、作ってもらったのは覚えてますが味はもう覚えてないですね」

「あ、と……すいません」

「ああ、気にしないで下さい。もう昔の事なんで気にしてませんから。父親もその時はいたし祖母もいたので」

 伏し目がちに謝る彩香の頭を一度撫でると、

「サバの味噌煮楽しみです」

 そう言ってキッチンから出ていった。

 背中に視線を感じながらもそれを無視して浩平はソファーへと戻った。

 昔からこういうのには慣れている。知らない人間にこの話をすると大抵は同情されるか褒められるかのどちらかだ。

 けれど身内からは違う。言葉では同情を言うがその裏に隠されているのは『やっぱり』という言葉だ。

 そしてそれは今も浩平を苦しめている。彼女であった優子と別れる原因ともなったもの。浩平にはどうしようもないない事。

 だというのに、それは見えないながらもずっと浩平に付きまとっている。

 彩香が広島に嫁に行くと聞いた時も内心では動揺していた。そして彩香がこの時代の人間でないと分かるとそれは一層増した。

 一方的なシンパシー。このまま元の時代など戻らなければ良いとも思っている。戸籍など不都合もあるだろう。けれどそんな面倒なものよりもあの時代の広島に戻るという事を考えればこうしてこの時代に居た方が良いと思える。だからこうして彩香を住まわせているのだ。

 この先どうなるかはわからないが、あそこよりはマシな筈だ。ずっとずっとマシな筈なのだ。今もそう自身に言い聞かせている。

 キッチンから鍋が煮える音だけが響く。

 と、スマホのランプが点滅しているのが目に写った。何気なく手に取り画面を着けるとそこには元恋人からのライン。

 会って話したいという一文。

 ――確かに一方的過ぎたかもしれない。

 別れた日の事を思い返すと少し無理くり過ぎた。離縁を言われた方からすれば納得できないのは当然だろ。

 家では不味い。

 前の喫茶店でいいだろうと考えて返事を送った。

 既読はすぐにつき今日の夕方を指定された。

 わかったという短い返事だけをして。そして直ぐに彩香に声をかける。

「彩香さん」

「あ、はい。なんですか?」

「夕方少し出かけるので留守番お願いしても良いですか?」

「あ、大丈夫です。晩御飯はどうしますか?」

 三十分、長くても一時間ほどで話はつくだろう。

「食べます。遅くはならないと思いますから」

「わかりました。作っておきますね」

「お願いします」



 浩平は玄関で靴を履きながら考える。

 これから浩平は元彼女の所へ向かう。恐らくは復縁を迫られるか、もしくは別れた事への誹りを受けるかもしれない。

 足取りが軽くなるわけがない。

 未練はある。あるからこそ会いたくない。会えば感情に火が灯るのは目に見えている。 彼女が嫌いになって別れた訳ではなく、相手に嫌われたから別れた訳でもない。今でも好きで、想いはある。

 だから今回でちゃんと終わらせようと浩平は考えていた。出来れば理由は言いたくなかったが最悪、彼女に伝えなければいけないかもしれない。

 考えるだけで食道の辺りに嫌な重みを感じる。

「あの……」

 浩平の表情で何かを察したのか彩香が心配そうな顔で浩平を覗きこむ。

「大丈夫ですか?」

「ん? ああ、大丈夫ですよ」

「……もしかしてお口に合いませんでした?」

 不安げな声で問いかける彩香。どうやら浩平の険しい顔の理由を昼間の食事だと勘違いしたらしい。

「そんなことないですよ。サバの味噌煮美味しかったです。晩御飯も楽しみです」

「そ、そうですか? じゃあ腕によりをかけてお作りしておきますね」

 浩平の言葉で暗かった顔が一瞬で明るくなる。それにつられて浩平の口元にも笑みがこぼれる。

 ――本当に良い子だ。

 と、そこである事を思いだし浩平は財布を取りだし、小銭入れから一本の鍵を取り出し彩香に差し出した。

「はい、これ」

「え?」

 訳が分からず彩香の顔が浩平と鍵を往復する。

「いや、一応何かあった時にないと不便かと思いまして。なのでどうぞ」

「え、と。良いんですか?」

「ええ。それに今日みたいに俺が留守で彩香さんが外に出たいときに鍵がないと出かけられないでしょう?」

「それは、そうですが……」

 悩む彩香に浩平はその手を取ると鍵を握らせた。

「持っていてください。あって困る物じゃないんですから。ああ、と裸だと味気ないですね。あとでキーホルダーでも買って付けましょう」

「きーほるだー?」

 言葉の意味が分からず首を傾げる彩香に浩平は優しく笑って、

根付(ねつけ)の事です」

 そう言うと「いってきます」とだけ伝えてアパートから出た。閉まっていくドアの向こうでは彩香が見送ってくれていた。



 喫茶店へ着いた浩平は直ぐに店内をぐるりと見回す。相手はまだ来ていないようだ。夕方という事もあり店にはあまり客はおらずテーブル席がちらほら空いていた。

 若い女性の店員が浩平に近づきいつも通りの接客をしてくる。

「おひとりさまですか?」

「いや、待ち合わせなんでテーブルいいですか?」

「かしこまりました」

 そうして案内されたのは以前と同じテーブルだった。最悪だな、と内心で悪態をつきながらも店員に誘導されるままにテーブルへと座った。

 店の時計を見ると約束の時間まであと十分ほどある。

 事前に舌を濡らしておきたい浩平は店員にアイスコーヒーを注文した。

 以前ならば一緒に彼女の分も注文する。彼女の好きなココアも。

 けれど今は違う。もう他人なのだ。

 コーヒーは直ぐに出された。いつもは先に断る砂糖とクリーム。今日に限っては断りを忘れたので一緒に出されてしまう。

 やはり緊張しているのだろう。浩平は自身に落ち着け、と言い聞かせてコーヒーを一口運ぶ。

 味は普段通りだった。変わらない美味しさ。浩平の好みで少し薄いぐらい。けれど匂いと酸味を確かに感じる味。

 この喫茶店に連れてきてくれたのは優子だった。以前から気になっていたと言われて一緒に入った店。

 そして別れを伝えた場所。まさかそんな場所になるとはあの時の浩平は想像もしていなかった。

 静かにコーヒーを(すす)り半分程飲み終えた頃、不意に視界の端に影が入った。

 見ると元彼女である優子が立っていた。髪型は変わらず簪でまとめ、服装は白のブラウスに目を引く黄色のスカート。

 相変わらず綺麗だな、と呑気に元恋人を眺めていると相手は不機嫌そうに眉間に皺を寄せながら相対するように席に着いた。

 優子の表情に怯えながら注文を聞きに来る店員を憐れみながら浩平が代わりに答えた。

「アイスココアを一つお願いします」

「か、かしこまりました」

 注文を貰った店員は早々に退散する。

 浩平の頭の中で自身の鼓動が大きくなっている。けれどそれを表情に出すわけにはいかない。努めて冷静に口火を切った。

「店員さんにそういう態度はよくないだろ?」

「……別れた女に説教なんて出来るわけ?」

 完全に臨戦態勢といった態度の優子に浩平は気圧されかけるが先ずは舌を濡らすためにコーヒーに口をつけた。

「で、今日は何で呼びつけたの?」

 感情の起伏のない、抑揚のない言葉が浩平の口から吐き出される。同時に優子の眉が片方吊り上がった。

「別れた理由を確認しに」

 当然だ。

 優子としてみればいきなり別れを告げられその理由がわからないでは納得できない。優子を納得させるのに一番簡単な方法は事実を告げる事だと浩平は理解している。

 だが本当の事を言っても優子が納得などしないのも分かっている。なによりも優子を愛し、優子が大好きな人を傷つける事になる。

 親の愛情。それは浩平にもわかっている。とても深く大きいことを。

 早くに母を亡くした。けれど愛されていた事は覚えている。父親からも愛されていたと理解している。

 親から愛情を貰ったからこそ愛を知り、優子を愛せた。

 そしてだからこそ、目の前の愛する人間を自分よりも長く愛した人達を裏切ったり悲しませたりする権利は自分にはないのだと考えたのだ。

 だから優子と別れた。それが理由だ。愛しているから別れたのだ。

 浩平は眼を閉じて小さく息を吸った。

「別れた理由……」

 確認するように呟き、ゆっくりと閉じた双眸を上げた。

 奥二重の切れ長の目が浩平を見ている。きつい印象を持たれやすい彼女。けれど接すると分かる。(かお)に似合わず優しい事を浩平は知っている。情に厚く感情的だがその実、裏を返せば自身に素直で真っすぐなのだ。浩平は優子のそういう所に惹かれたのだ。

 優子の親から貰った手紙の事を言えば優子は両親と喧嘩をするだろう。間違ったことを間違いだと言える人間だ。両親からの不条理にも真っ向から戦う。

 そうなれば恐らく親子の仲は最悪になる。よしんば優子との仲が戻っても優子と親の遺恨は残る。負い目が残る。小さいヒビは徐々に広がりいつか全てを割るかもしれない。

 なら自分が引けばいい。

 そうして優子が新しく決めた人と両親が納得した人と、幸せになればいい。

 自分のような人間と結婚するよりずっと良いはずだ。不安を抱えて生きていくよりずっと良いはずだ。


「優子の事が好きじゃなくなったからだよ」


 我ながら安易な言葉だな、と浩平は思う。同時に自分の口から吐き出された言葉を不快に感じる。

 瞳が揺れないように優子の目をジッと見つめる。力強くではなく、興味がないと伝わるように。

「……本気で言ってる?」

 優子の眉間に皺が寄る。怒りを向けられているのに予想外に浩平の心は穏やかだった。

 ――はじめて会った時もこんな顔で睨まれたな。

 数年前と同じ表情に気づけば浩平の口元に小さな笑みが漏れてしまっていた。

「なに笑ってんのよ!」

 優子の怒声が弾け、同時に両手でテーブルを叩いた。

 一瞬で静まり返る店内。

 他の客が一斉に浩平と優子を見る。浩平の視界の端に写る顔は全員唖然としていた。鳩が豆鉄砲とはこういうのを言うのだろうな、と冷静に考えていると、

「……うちの親?」

 俯きながら絞り出す様に優子がこぼした。

 それにも浩平は努めて冷静に、

「違うよ。ご両親は関係ない。普通わざわざそんな事調べないでしょ?」

 そう。普通は調べない。結婚までするというのならわかる。犯罪歴はないか。身内に犯罪者、借金などないかを調べるというのは浩平も聞いた事がある。

 普通はしない。けれど優子の両親の愛情は普通よりも大きく深かったのだろう。可愛い一人娘と考えればあり得なくはない。

 結果、こうして浩平の祖父母までたどられた訳だがそれを認める訳にはいかない。

「単純に俺が君を好きでなくなっただけだ。だから早めに別れようと思った。下手に先延ばしにしても君に失礼だし、無駄に付き合うのも俺としても疲れる。だから別れたんだ」

「……本気で言ってる?」

「本気だよ。そう言っているだろ?」

 浩平のこの言葉がトドメだったのか優子は勢いよく顔を上げた。泣いてはいない。ただ怒りが嫌悪の表情には変わっていた。

「そう。わかった。今までありがとう」

 優子は椅子から跳ねるように立ち、去り際に一言、

「さようなら」

 一瞥(いちべつ)もくれずに店から出ていった。

 店内の視線が優子の後ろ姿を失うと今度は浩平に向けられた。だが直ぐに何事もなかったように談笑が始まった。

 浩平が手で顔を覆い大きく息を吐くと、

「あの……ココアお持ちしましたけど」

 先ほどの若い店員が横に立っていた。運んできたきたココアをどうすればいいのか分からず困惑している。

 浩平は直ぐに店員に向き直り手のひらでテーブルを指し示した。

「ありがとうございます」

 言われた通りにココアの入ったカップを置くとそそくさと店員は厨房へと戻ってしまった。

 悪い事をしたなと思いながら浩平は出されたばかりのココアに口を付けた。

 コーヒーとは違う香りと甘ったるい味。口の中に残りそうな甘さ。

 ――よくこんな甘いものをいつも飲んでたな。

 浩平は出ていった彼女の分のココアを嚥下した。



 それから三十分ほどかけてココアとコーヒーを飲み終えた浩平は喫茶店を後にした。

 出る際に先ほどの騒動を謝罪すると店員は所作無さげに浩平を見て「いえ、大丈夫です」とだけ返してくれたた。

 店を出ると辺りは暗くなりかけており帰宅時間のせいで道は人であふれていた。

 しばらく人の流れを眺めていたが帰ろうと歩みを進めた。

 すれ違う多くの人。家族の者もいれば恋人同士の者。友人同士もいる。無意識にそういう誰かといる人間に目がいってしまう。先ほどの優子との二度目の別れ話が効いているのかもしれない。

 息を吸うたびに心が震える。

 歩ていると鼻孔に美味しい匂いが届いた。見れば定食屋前だった。同時に彩香の事を思いだす。恋人でも友人でもない奇妙な同居人の事。

 はじめは正直面倒な事になったと思ったが今となっては良かったのかもしれない。

 これで家に帰って独りでは本当に首でも吊りたくなってしまう。いや、実際に浩平は道具の準備までは終えていたのだが正直やる気などはなかった。自分の命をそこまで軽んじる程愚かではないし、けれど忘れて次の恋などと考えられるほど優子との事は遊びではなかった。

 歩きながら空を仰ぐ。

 夏なのに心底心が冷える。

 


 家に着き玄関を開けると直ぐに彩香が出向かえに来てくれた。

「おかえりなさい。丁度ご飯も炊けました。お召し上がりになりますか?」

 浩平の心とは裏腹に彩香は温かい笑顔で出迎えてくれた。今はそれが嬉しくある。

「そう、ですね。いや、お風呂入ってからで良いですか?」

 自分で言って直ぐに風呂など準備していな事に気づきしまったと思うがそれを見透かしたように彩香が胸元で柏手を打った。

「あ、それならもう沸いてますのでどうぞお入りください!」

「え? 沸かしてくれたんですか?」

「はい。外は暑いですから汗を流したいかと思いまして。あ、勝手にやっては不味かったでしょうか?」

 浩平の言葉に余計な事をしてしまったのではと彩香の顔が曇る。

「ああ、いえ。まさかお風呂まで準備してくれているとは思わなくて。ありがとうございます」

 靴を脱いで室内に入ると開け放たれた窓から空気が入り浩平の横をすり抜けていった。

 普段ならば家に帰ってきてすることは電気をつけて窓を開ける事だ。

 だが今は彩香がいる。帰れば基本的に窓は開いており、暑すぎればエアコンが稼働している。帰ってきて部屋が涼しいのは当然で、暗くなれば電気が灯っているのは当然だ。

 けれどその当然が今の浩平には酷く有難かった。

「じゃあお風呂に入ってきてください」

「すいません」

 断りをいれて浩平は風呂場へ向かった。

 風呂にはちゃんと湯が張られており問題なく入れた。一応は教えていたがまさかここまでしてくれるとは思ってもいなかった。

 コンロも冷蔵庫も、初日は驚いていたドライヤーも今では上手に使いこなしているのだから彩香の適応力には目を見張るものがある。

 知らない場所で知らない男といきなり同居する事にもなっているのに強い人だと浩平は感心した。

 先ほどの喫茶店での事を洗い流す様に浩平は湯船のお湯で顔をゆすいだ。

 二回目という事もあり最初ほど辛くはない。涙も出ていない。

 自分で選んだ事なのだ。覚悟はしていたはずなのだ。仕方ない。

 そう言い聞かせて浩平は優子の事は忘れようと思った。

 風呂から上がるとテーブルには食事が用意されていた。

 ごはんとみそ汁。それに鶏の照り煮と昼の残りの筑前煮だ。

 ――凄いな。

 並ぶ食事に感心していると風呂上がりの浩平に気づいた彩香が、

「あ、お湯加減は大丈夫でしたか?」

 笑顔で迎えてくれた。

「ええ。良かったです。おかげさまで」

「それは良かったです。それじゃあご飯にしましょう」

 カーペットを敷いた床に座ると向かいに彩香も座った。あぐらの浩平と違い彩香は正座で背筋を立てていた。立ち振る舞いでお家が知れるというのはこういう事かといつも感心する。

「どうしました?」

 視線に気づいた彩香が首を傾げた。どうやら無意識に見入っていたらしい。

「いや、彩香さんて本当にお嬢様なんだと思って」

「なんですか急に?」

 目を瞬かせて驚いたように浩平を見るその顔は少し幼く見える。

「いや、食事の姿勢とか家事能力とか、本当に何でもできるなと思って。俺、鶏の照り煮なんて作った事ないですよ」

「すいません。洋風料理もこれから覚えていきますので、当分は和風で我慢してください」

「ああ、いやいや。俺は全然嬉しいですよ。スーパーとかコンビの弁当だとあんまりこういう和風なのはないですから。それに彩香さんの料理美味しいし」

「ふふふ。ありがとうございます。これからも美味しいものをお作りしますね」

 嬉しそうに笑う彩香。

 恐らくは社交辞令で言ってくれたであろう言葉。けれど今の浩平にはとても嬉しい言葉でもあった。

 これからも、という他人が自分との未来を語ってくれる事があるとは思っていなかった。



 食事を終えた浩平は彩香に風呂に入るよう促し自身は洗い物をする事にした。はじめは彩香が自分がすると言ったがそれでは申し訳ないと浩平が風呂へと促したのだ。

 お椀を拭きながら浩平は今日のおかずを思い出していた。

 鶏の照り煮。甘辛くて美味しく、筑前煮は前よりも味が染み込んでいた。やはり彩香は料理が上手い。彩香との生活も問題なく過ごせている。このままでも良いと思えるほどに順調だ。

 このまま――。

 食器を拭きながら浩平はそんな事を考えていた。彩香が帰る方法などわからない。それにもし帰れても広島に嫁に行かせられるだけだ。彩香は知らないだろうが、あの時代、広島がどうなるか浩平は知っている。日本人なら誰もが知っている。

 学校でも学ぶ。八月になればテレビでもやる。日本は毎年黙祷を捧げている。戦後七十五年、亡くなった人もいればまだ存命している人もいる。その爪痕は日本という国に大きな痕を残している。国交や教育、生活意識。そのすべてに影響を残している。

 戦争を体験したこともない浩平にすら暗い影を落とす程に。

 洗い物を終えた浩平は木製の小棚から一枚の封筒を取り出しソファーに座った。

 宛名には浩平の名と住所。差出人は浅野雄一・彩子と書かれている。律儀に向こうの住所と電話番号も。

 あの子にしてあの親ありだな、と考える。ちぐはぐではあるが相手を知らない浩平にはそう思えてしまう。

 初めて手紙を受け取った時は誰だろうかと疑問であったが差出人の名と中身を読んで直ぐに気づいた。

 娘である優子に黙って調べたのだ。優子ですら住所は分かっていないはずだ。恋人が住んでいるアパートの名前や地名は分かっても郵便番号や細かい番地などそうそうは覚えていない。そのまえに行くと連絡を寄越す方が常だった。

 喫茶店で浩平は優子に『わざわざ調べない』と言った。

 優子の両親はわざわざ住所を調べたのだ。

 裏を返せば娘の恋人がどういう人間なのか知りたいと思うほどに娘を想っているとも言える。

 だからこそ手紙の内容にも浩平は納得をした。

 当然だ。大事な一人娘にリスクなど負って欲しくはない。たとえそれが科学的根拠などなくとも、そう考えるのが親だろう。

 被爆者の孫など、生まれる子供が健常かどうか気になって仕方がないはずだ。

 ――そう仕方ない。

 そう考えて浩平は封筒を丸めるとゴミ箱へと投げ入れた。

 するとタイミングを見計らったように彩香が風呂から上がってきた。濡れた髪をタオルで拭きながらスウェット姿で。

「お風呂いただきました」

 濡れた髪をタオルで拭きながら浩平の隣へ座る彩香。もう慣れたものでこうして距離感も縮まっている。

 座ると同時に彩香の髪先から雫が弾けた。

「今日は髪洗ったんですね」

 何気なく言った言葉。その言葉に彩香は顔を呆けさせると直ぐに浩平に向き直り頭を下げてきた。

「すいません!」

 突然の事に今度は浩平の顔が呆ける。何故謝罪をされたのか? 訳が分からず慌てていると、

「お湯を無駄に使ってしまいまして……」

 彩香の言葉に意味を理解した浩平は急いで先ほどの言葉の意味を説明した。

「ああ、違うんです。そういう意味はなくて、女の人なのに毎日髪を洗わなくて良いのかと思って言っただけなんで深い意味はないです」

「……そうなんですか? この時代の女性は毎日洗うものなんですか?」

「あー……優子は――」

 言いかけて浩平は直ぐに口を噤んだ。

「いや、どうでしょう? 毎日は洗わないのかな?」

 話をはぐらかすように言うと浩平は立ち上がりドライヤーを持ってきた。

 電源プラグをコンセントに挿すと彩香に渡そうと差し出すが彩香は浩平とドライヤーを交互に見ていたが何かに気づいたのか恥ずかしそうにドライヤーを受け取り髪を乾かし始めた。

 どうやら初日のように浩平が髪を乾かしてくれと思ったのだろう。だからドライヤーを差し出す浩平を見たのだ。

 何とも可愛らしい。

 浩平は彩香の手からもう一度ドライヤーを奪うと肩を掴んで背中を向けさせた。

 突然の事で彩香が慌てふためきながら「え? え?」と困惑しているのを無視し何も言わずに浩平は彩香の髪を乾かし始めた。

 彩香も黙って為すがままだ。

 ドライヤーを当てながら浩平は彩香の髪の柔らかさを感じていた。絹のように滑らかで指に隙間から滑り抜けるような髪質。 

 風と共に運ばれる匂い。自身と同じシャンプーを使っている筈なのに違うように感じる。

 なんで乾かしてやったのかはわからない。もしかしたら人恋しかったのかもしれない。気が向いたからかもしれない。

 ただしてやりたくなった。それだけだ。

 髪を乾かし終えると特にすることもない二人は寝る事にした。いつも通り、ベッドは彩香に使わせ浩平はソファー。

 真っ暗な室内には風と虫の音が入り込む。

 薄暗い中ぼんやりと映る天井を眺める浩平。やることがないので寝る事にしたのはいいが夕方の事があったせいか如何せん寝つきが悪い。

 ただ無心で天井を眺め虫の声に耳を傾けるしかなった。寝返りを打ち横になったりしていると――、

「……起きてますか?」

 か細い子で彩香が話しかけてきた。

 夜中で話しかけられたのは初めてだった。

「……起きてますよ」

「そう、ですか……」

 一瞬で終わる会話。何かあったのかと思い浩平が話を続けた。

「どうしました。眠れないんですか?」

「ええ、まあ……ちょっと……」

 歯切れの悪い物言いが気になったのか浩平が首を少し上げて彩香の方を見る。ちょうどベッドの頭とソファーの端が延長線上で重なるように配置しているので横を向いていればベッドで寝る彩香の顔が見れるのだ。

 薄暗い室内ではあるがこの程度の距離ならば何となく輪郭は見える。どうやら彩香も浩平の方を向いているようだ。

「じゃあ少し話でもしましょうか。何か聞きたい事とか気になった事とかあります?」

「え、えー……そうですね」

「なんでもいいですよ。答えられる事なら答えます。もし分からなければ後で調べますし」

「ううー……」

 暫く唸っていた彩香だが「じゃあ――」と告げ一拍置いた。

「なんで彼女さんと別れたんですか?」

「あー……」

 その質問か。

 内心で思いながらも浩平は隠すことではないかと考え素直に話はじめた。

「前にも話たと思うんですけど、彼女の両親に結婚を反対されたんです」

「はい。前にお聞きしました」

「その理由なんですが俺の祖父が被爆者だったんです」

「――ひばくしゃ?」

 困惑する声に浩平はどう説明したものかと考える。被爆の話をするとなると原爆の話も、広島の話も、戦争の話をしなければならない。悲惨な日本の歴史を。

 だがそれは彩香にとって未来の話だ。これから起こる事が決まっている事。それを浩平は上手く説明できるだろうか? それを聞いて彩香はどう思うだろうか?

 数秒の沈黙の後、

「あした図書館へ行きましょう」

「図書館、ですか?」

 会話と関係のない突然の提案に彩香が驚いた声を上げた。

「ええ。言葉で上手く説明できるかわからないので、明日図書館で説明します」

「そう、ですか……」

 彩香の不満が言葉に混じっている。けれど強く言わないのは彼女の気質だろう。

 浩平は申し訳ないと思いつつ、目を閉じた。

 彼女に本当に伝えて良いのか悩みながら意識が途切れるその時まで浩平は考えていた。

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