勇者と聖女の反省会
漆黒の大広間。
奥の壁は無く、暗雲立ち込める空と、荒涼とした大地が広がっている。
広間には三つの光源がある。
黄金の光。青年が発する光だ。
スリムな甲冑に沿うように、青年の体を包んでいる。
白い光。
飾り気のないスモッグに、首から下げたアミュレット。両手の指を胸の前で結んだ女性が光っている。
三つ目は黒い光。
いや、それを光といってよいのか。
炎のように、たゆたうそれは、まるで虚無があふれ出しているように見える。
それを身にまとう者は、人に近い姿形をしている。
違いといえば、背中から生えた四枚の猛禽のような翼と、蛇のようにのたうつ頭髪。それを割って生えている雄牛のような双角。
そして額にある第三の目。
魔王。
そう呼ばれる存在である。
黄金の光を発する青年、勇者レオニダスが両手で持った長剣を振り下ろす。
彼の体同様、黄金の光に包まれた聖剣が魔王の黒い炎を割る。
だが、金属のような光沢のある体に届く前に、手にした錫杖によって防がれる。
光の爆発が起こり、勇者レオニダスと魔王は互いに大きく吹き飛ばされた。
先に次の攻撃に移ったのは魔王だ。
空いた左手を握り、それを前に向けて突き出す。
黒い炎が、拳から蛇のように伸びて勇者レオニダスに向かう。
立ち上がった勇者レオニダスに、黒い炎の蛇が襲い掛かる。
……かに見えた。
それは勇者の目の前で宙に溶けた。
半球状に勇者の周囲を囲った白い光の壁が数秒現れ、消える。
聖女マリアンネの力だ。
魔王がいまいましげに聖女マリアンネを睨む。
勇者が走った。
黄金の光が聖剣に収束し、太陽のような強烈な光となる。
魔王が迎え撃つように錫杖を両手で握り、前に突き出す。
黒い炎の塊が八つ、魔王の前に浮かび上がり、次々と勇者に襲い掛かる。
勇者はそれを潜り抜け、あるいは跳んでかわす。
だが、後ろには下がらない。
残った三つの黒炎弾が合体し、1つの大きな球体になる。
勇者をまるごと包み込んでも余るほど大きい。
それが勇者に向けて放たれる。
勇者は走りながら、炎の球体を斬った。
割れた炎の間を走り抜け、魔王に接近する。
勇者のまとう甲冑は溶け、ところどころ剥がれている。
その代わり、聖剣はさらに強く、まばゆく輝いている。
黄金の光が尾を引きながら、魔王の身にまとう黒い炎をかきけしていく。
勇者が、残る全ての力をこめた渾身の突き。
聖剣の切っ先は魔王の肌を突き破り、その分厚い胸板を貫き、背中の四つの翼のちょうどまん中から飛びだした。
青い血しぶきがあがる。
血は口からも吹き出し、勇者の明るい金髪を染めた。
魔王を覆っていた黒い炎が消えた。
「今だ、やれ、マリアンネ」
勇者が叫んだ。
聖女は逡巡した。
もう一度、勇者が叫ぶ。
聖女の祈りの声がそれに重なった。
白い光が聖女の手に集まる。
聖女が輝く両手の平を前に突き出した。
両手の平の前に光の壁が現れる。
それが大きく前に伸びていき、光の柱となる。
光の柱は勇者ごと魔王を飲み込んだ。
光の柱はそのまま広間を横断し、黒々とした空に突き刺さった。
光の柱が消えた後には、魔王も勇者も無くなっていた。
髪の毛一本、灰すらも残らなかった。
聖女はその場にくずおれた。
四肢をつき、嗚咽する。
だが、それも長いことではなかった。
聖女の体から急速に生命のともしびは消えていき、嗚咽の代わりに赤い血がこぼれ、床を濡らす。
最後に聖女は床に突っ伏し、息絶えた。
こうして、人界と魔界の長い戦いは終わった。
◇◇◇
レオは、読んでいた分厚い本をパタンと閉じると、大きく息を吐いた。
小さなベッドに机。明るい色の壁紙。窓から差し込む光が、床板に四角い絵を描いている。
彼が、つい今しがたまで読んでいた本。『勇者レオニダス戦記』は、百年前の勇者と魔王軍との戦いをこと細かに記録した本である。
勇者レオニダスの活躍をもっとも詳細に、なおかつ事実に沿った形でまとめあげており、娯楽作品としての要素も備えてた傑作である。
勇者レオニダスがこれを読めば、「おいおい、なんでそんなことまで知ってるの? これってプライバシーの侵害じゃね」と言いたくなるだろう。
実際、レオはそれに近い感情を抱いた。
なんで、魔王との戦いをここまで事実と近い形で記せているのか。
あの場にいたのは、勇者レオニダスと魔王、それに聖女マリアンネの三人だけなのである。
マリアンネが実は生きていて、この本を書くのに協力したのではないか、と疑ったが、調べてみると、やはり彼女はあそこで死んだらしい。
レオを呼ぶ声がした。
レオは本を机に置くと、トコトコと部屋を出た。
きっと幼なじみのマリアが遊びに来たのだ。
ちょうどいい、とレオは思った。
今日こそ、はっきりさせよう。
そして、もし、彼女が自分の思っている通りならば、いろいろと言いたいことがある。
レオは勇者レオニダスの生まれ変わりである。
彼はレオニダスの人生の記憶を全て持っていた。
それこそ、物心ついてから、魔王と戦い、最後に光の柱に飲み込まれるまで。
レオの記憶がはっきりとしたのは、三年前、三歳の頃である。
それまで、赤子として日々刻まれる記憶と、剣を振り回して魔物と戦う男の記憶が、交互に現れては消えるというような日々だった。
それがある日、落ちついた。
ああ、俺は、俺だ。
自身をレオニダスとして自覚できたのだ。
前世の記憶から、転生魔法というものがあり、どうも、そんなような現象が起こったらしい、と理解した。
まあ、だからと言って、「俺、実は伝説の勇者レオニダスだったんだぜ」とか言って回ることはしなかった。
せいぜい、両親に隠れて、勇者として身に着けた剣術や魔法を再現できるように、練習したくらいである。
レオとしては、「前世、あれだけ人類に貢献したんだから、今世は気楽に過ごさせてくれよ」という気分であった。
「はっきり言って勇者とかもう勘弁して欲しいんですよ」という気分であった。
だから、ごく普通の子供として怪しまれないように過ごした。
とはいえ、本人はそのつもりでも、やはりところどころでボロは出るもの。
そもそも幼児の演技など、なかなかできるものではなく、ましてや前世でレオニダスは未婚であった。
レオの両親は理解力があまりにも早すぎる幼児に「うちの子は天才だ」とはしゃいだ。
運動能力が高すぎる我が子に、これは将来Sランク冒険者も夢じゃない、などと期待した。
前述の『勇者レオニダス戦記』が、先日、の七歳の誕生日に贈られたのはそういった理由からである。
◇◇◇
村を見下ろす小高い丘の上。
丸く枝葉を茂らせた大樹が、一本生えている。
青々とした下草の間からポコポコと顔を出している岩。
レオは椅子が二つ並んだような岩の1つに足を組んで腰かけた。
「座れよ、マリア」
白っぽい金髪の女の子が腰かける。
その笑いをこらえているような顔に、レオはイライラとした。
「これについてなんだけど」
レオは持っていた分厚い本を足の上に載せた。ポンポンと革表紙を叩く。
勇者の紋章(翼の生えた剣)が描かれている。
「『勇者レオニダス戦記』ですね。先日のお誕生日にいただいたという。読み終わりましたか? わたくしに貸してくださるのですか?」
レオはじっとマリアを見つめた。
マリアが小首を傾げる。
「マリア、お前、聖女マリアンネだろ」
「いったい何のことでしょう? わたくしがマリアンネ? おっしゃっている意味がわかりません」
言葉とは裏腹に、マリアの様子はあからさまに動揺していた。
顔をそむけ、プルプルと小刻みに震え、手をもんでいる。
「聖女が嘘をついていいのか? ちなみに俺は勇者レオニダスだ」
マリアがレオに顔を向ける。
目を見開き、口は半開きである。
「レオニダス……。そんな、あなたも転生していたというのですか……」
三歳でレオニダスとしての記憶を完全に取り戻したレオ。
ちょうど、近所に住む同い年の女の子マリアと遊び始めた頃だ。
マリアは変わった子だった。
まず話し方がおかしい。
このような田舎の村で、彼女のような口調で話す者はいない。
話し方だけではない。
ゆったり、おっとりとした動きは、上流階級のそれである。
田舎の村なので、ちょっと変わった子で済んでいたが、レオは彼女も転生者だと疑った。
転生者。
それも、最後まで一緒に戦った聖女マリアンネなのではないか?
幼い体以外、雰囲気、癖、性格など、ほとんどそのまんまだ。
「もう少し、隠せよ」と思うくらい、そのまんまだ。
おまけに、やたらと聖女の話題に食いつく。
レオニダスは何度かかまをかけ、当事者以外に知り得ないだろうことを聞き出している。
そんな脇の甘さもマリアンネっぽかった。
「そうですか。レオニダス、あなたでしたか。子供にしてはエスコートが上手だと思っていましたが。なるほど、レオニダスならば……」
目を閉じて、ふう、と息を吐く。
「もっといろいろなところに注目しろよ」とレオは思ったが、視野がものすごく狭いところもマリアンネらしい。
レオがレオニダスの転生体だとは、今の今まで疑ってもいなかったようだ。
やがてマリアは目を開くと、聖女の代名詞たる慈愛の笑みを浮かべた。
「お久しぶりです、という言い方はおかしいでしょうか? そうです。わたくしはマリアンネ。聖女マリアンネです」
「お前、もう少し隠すとかした方がいいんじゃないの? その口調とかさ。それとも、また聖女やりたいの?」
マリアンネが首を傾げた。
「上手に隠せていると思いますよ。現に、こうしてあなたが指摘するまで、誰一人わたくしがマリアンネだとは……」
「そりゃあ、誰も転生してるなんて思わないだろけど。そもそも転生の魔法すら知らないだろうし。だからって、まんまってのもさあ」
「別段、支障はありません。こんな村ですもの。わたくしは、ここで、すろ~らいふ、を存分に満喫し、一人の村人として穏やかに過ごすのです」
それから気が付いたように、口元に手を当てた。レオにきつい眼差しを向ける。
「もしや、レオニダス、あなた、有名になる気なのですか? ちやほやされたいのですか? 黄色い声援を受けたいのですか? 無理もありません、前世であれほど、持ち上げられて、調子に乗っていたのですもの。ですが、わたくしは、もう聖女など嫌です。絶対に嫌です。わたくしを巻き込もうというのならば、断固たる態度にでなくてはなりません」
レオはマリアの座った目を見て、懐かしく思った。
が、それ以上に、うんざりとした気分になった。
前世で、何度、暴走しようとする彼女を押しとどめたか。
「俺だって、もう勇者なんてごめんだよ。できれば、このまま田舎で一生を過ごしたい。行った先々で無茶振りされるのは、もううんざりだよ」
「お願いします、勇者様」と懇願されて、何度死線をさまよったことか。
マリアはそのまま、じっとレオを睨んでいたが、やがて、ふっと眼差しをやわらげた。
「では、わたくしとあなたの利害は一致しているということですね。なによりです」
レオは頷いた。
それから本をマリアの揃えた両足に載せる。
「読めよ。話はそれからだ」
千ページ近くある大作だが、聖女マリアンネならばすぐに読み終わるだろう。
実際に彼女は本を、パラパラと、読んでいるとは思えない速度でめくっていく。
懐かしそうな顔をしたり、厳しい顔になったり。目に涙を浮かべたり、怒りに目尻を吊り上げたり。
三十分も掛からずにマリアは本を読み終えた。
大きく息を吐く。
「少し脚色された部分はありましたが、おおむねよくできているといえるでしょう。わたくしたちの戦いがこのように正確に残されているのは、実に喜ばしいことです」
「正確すぎるだろ。なんで、魔王城のことまで、こんなにしっかり書かれてるんだ。俺たちしかいなかったのに」
「それはもちろん著者が『真実の書』を閲覧して、参考にしたおかげでしょう」
目を白黒させるレオに、マリアは『真実の書』の説明をした。
過去に世界で起こったすべての出来事を知ることができる本。
アルディア大神殿の書庫に収められており、閲覧には大司教の許可が必要。
「そういうことか。納得したよ」
「それはなによりです」
「つまり、ここに書いてあることは間違いないわけだな。お前の目から見ても」
「多少の認識の齟齬はあるのでしょうが、大きな違いはないでしょう」
「あのとき、魔王を俺ごと『神罰の光』で消し去ったのも、間違いないってわけだな」
レオの顔に剣呑さが入る。
「はい。『神罰の光』です。それも、わたくしの命を注いだ最強の一撃。死ねばもろとも。聖女マリアンネはレオニダスだけを死なせはしませんでした」
えっへん、と胸を張って言う。
「だから、なんで『神罰の光』なんだよ。『大浄化』で片付いたはずだろうが。いや、『聖なる光』でもいけたはずだろ。なにしろ、俺が、魔王の力を封じてたんだからさ」
自分がレオニダスだったことを思いだし、最後に包まれた光の柱を思いだし、うん? と疑問を感じた。
なんでマリアンネはあそこで、究極の神聖魔法『神罰の光』を撃ったのだろうか。おかげで自分は死んでしまったではないか。
ひょっとして、最初から、自分を殺すつもりだったのか?
アルディア教から抹殺対象に指定されていたとか?
いや、あの時点で大司教がマリアンネにそんな指示をするはずがない。
では、各国の王が魔王亡きあと勇者は邪魔だと判断し、抹殺を聖女に命じたのか。
疑心暗鬼になった。
前世のこととはいえ、ものすごく後味が悪かった。
あれだけ、人界に貢献したのに。
様々な国々を回って救ってきたのに。
マリアンネとだって、深い絆を結んできたはずなのに。
首を傾げているマリアに、レオはもう一度、最終決戦の状況を話した。
魔王のまとう闇鎧気の前に、あらゆる攻撃が無効化されたこと。
聖剣『ヒュマニタ』に自分の鎧気を集中し、必殺技『勇気衝撃』で、闇鎧気を破って、魔王の核にダメージを与えたこと。
あの状態なら、本来、闇の生命の弱点である神聖魔法が効いたこと。
『大浄化』であの場の闇の瘴気を払えば、魔王の力は枯渇したこと。
レオの話を聞いているうちに、マリアの顔が青ざめてきた。
最後は小刻みに震えた。
「で、ですが、そんなことは、一言もおっしゃらなかったではないですか。今だ、やれ、だけでした。あの時、あなたがおっしゃったのは。あのような状況なら、十人中九人は思ったはずです。俺のことはいいから、こいつを倒せ、という意味だと」
それから、はっ、と気づいて、睨んだ。
「そうです。わたくしは覚えています。魔王城を進む中で、わたくしにおっしゃったではありませんか。俺は命に代えても、魔王を倒す、とか。もしもの時は俺ごと、魔王を倒してくれ、とか。こう、悲壮感を漂わせながらも、微笑んで。あれは嘘だったのですか? ただかっこうをつけていただけだったのですか? あなたという人は本当に、余計なかっこうばかりつけて」
「言ったよ。言ったけどさ。俺も、最悪は相打ち覚悟だったしさ。でも、別に相打ちにならなくてもいい場面だったわけだろ。もう、九割九分勝てるところだったわけだろ。なんで、最後の一手で引き分けにするんだよ」
「ですから、あなたの態度が紛らわしかったのです。なにが、今だ、やれ、ですか。今だ、『大浄化』だ、と叫べば良かったではないですか。あなたはいつもそうです。察してくれるだろう、わかってくれるだろう。おい、とか、なあ、とか。私はあなたの妻ではありませんよ」
「あの時は必死だったんだよ。『ヒュマニタ』にすべてを注いでたの。いろいろ考えてる暇はなかったんだよ。誰が、よりによって『神罰の光』で撃ってくると思うよ」
「わたくしだって必死でした。それこそ、いろいろと考えている暇はなかったのです。ああ、レオニダスが身を犠牲にして好機を作ってくれた。これを無駄にしてはいけない。魔王はここで倒す。倒すといったら、『神罰の光』と、こういう自然な流れでした」
「それが納得いかないんだよ。俺の命をもっと尊べよ。聖女の癖に、人命軽視しすぎだろう」
「泣きましたからね、わたくし、あの後、号泣しましたから。泣きながら死にましたから」
「泣けばいいってもんじゃないだろ。お前の涙は薄っぺらいんだよ、いつも、いつも」
「あなたの心が歪みに歪んでいるから、そう思えるのです。わたくしは聖女としてとても敬われていました。あなたの言った言葉はその本の中でくらいしかお目にかかれませんけど。わたくしの言葉は、いくつもこの時代に残されていますから。薄っぺらいのはあなたの人格です」
「お前の胸もずいぶん薄かったけどな」
「なんという下劣なことを。仮にも勇者とあがめられていた人間の言葉ですか。あと、わたくしは清貧を旨としており、必要以上に食をとらなかったので、痩せていたのです。手足など、枯れ枝のようでした。当然、そのような状態では、胸に栄養がいかないのもいたしかたないこと。わたくしは自分のつつましい胸に誇りを持っていました」
「そうかあ? 結構、バクバク食ってたような気がするんだけどなあ」
二人がそのまま相手を口ぎたなく罵り続けること、数十分。
さすがに疲れて口数も減った。
「まあ、あれだ。俺も紛らわしい態度だったしな。とにかく、お前が勘違いしただけだっていうなら、いいよ」
レオは言った。
マリアンネに裏切られただの、国々に裏切られただのよりも、勘違いの方がずっといい。
「……いえ、わたくしの方こそ。自分の失敗を認めることができず、あなたを責めてばかりで。命を失ってしまった、あなたにはわたくしに文句を言う権利があるというのに」
「もう、いいじゃないか。終わったことさ。俺たちは勝ったんだ。こうして平和な世の中が百年も続いてる。あの時の、自分たちを褒めようぜ」
「そうですね。わたくしたちはこうして生まれ変わったのですから。新しい生を楽しみましょう」
レオはほがらかに笑い、マリアはしとやかに笑った。
緑の匂いを乗せた風が吹き、二人の頭上の枝葉を揺らす。
レオの赤茶色の髪と、マリアの白っぽい金髪をかき混ぜる。
「あっ」とマリアが声をあげた。
「どうかしたのか?」
「そういえば、『黒龍ジオンベレス』の宝玉はどうしたのですか?」
「ジオンベレスの宝玉? ああ、師匠に預けたままだったな。たぶん、師匠の宝物庫にあるんじゃねえの」
勇者レオニダスの師匠といえば、大精霊にして妖精王国ペルダリオンの女王ミリネムミネルバである。
世界の創生とともに生れたという彼女ならば、百年の歳月も、ほんの数日のできごとのようだったろう。
「なぜですか?」
マリアが眉根を寄せた。
「なぜ、一度も、使用しなかったのですか? かの宝玉を使えば、ジオンベレスを使役することができたはず」
マリアの脳裏に、黒龍ジオンベレスとの激闘が蘇った。
◇◇◇
剣俊たる山である。
天を突き上げる剣のような尖った頂き。ゴツゴツとした黒い岩肌。
当然、雑草の1つとて、生えていない。
青紫色の雲海は、あまりにも毒々しく、この場が人の領域ではないことを、はっきりと表している。
その、岩の大地に取りつくように、四人の人間が立っている。
赤茶色の髪をした白いスリムな甲冑を身に着けた青年。
勇者レオニダス。
腰までの白っぽい金髪に、ゆったりとした白いスモッグ。首から下げたアミュレット。
聖女マリアンネ。
肩のところで黒髪を切り揃えた、真っ赤なローブと帽子をかぶった女性。
天才魔女レグリナ。
大きな盾と大きな青い甲冑。手に持ったハルバード。
戦士の中の戦士ウォルフ。
「次で決めるぞ、レオ」
雲海を睨みながらウォルフが叫んだ。
「ああ、マリアンネの結界も限界だ。次に奴が接近したときが、最後のチャンスだ」
レオニダスは剣を正眼に構えたまま叫び返す。
「本当に決めてよ。私の『時間凍結』もあと一回で終わりなんだから」
レグリナが紫水晶でできた懐中時計を握りしめながら言った。
レグリナの傍らでは、マリアンネが両目を閉じ、胸の前で両の指を結んで、祈りを捧げている。
彼女の額から滝のように流れる汗。
雲海が割れた。
山がもう1つ現れたかのようだった。
青紫の雲海から飛びだしたそれは、まっすぐに勇者たちに向かってくる。
山ではない。
ドラゴンだ。
黒曜石のように半透明な黒い表皮で、全身を覆われた巨大なドラゴン。
開いた両の翼はあまりにも大きく、それ1つで人の街を覆い隠してしまいそういだ。
生きとし生ける者すべてを食らわんとするような凶悪な頭部。
トカゲと獣をまぜたようなそれが、顎を開いた。
吐き出される黒炎。
それは、勇者たちを、彼らが立つ山ごと飲み込んだ。
黒い炎は岩すら溶かした。
剣のようにそそり立っていた山が、綺麗に削れて消えた。
黒炎に飲まれた勇者たちは……。
いた。
まるで炎が彼らの周りだけ避けて通ったかのように、四人のいる周囲だけが残っていた。
黒龍ジオンベレスが急接近する。
小癪な人間たちを直接攻撃でしとめるために。
巨大な黒い塊が人間たちを押しつぶす。
その直前。
黒龍が一瞬だけ静止した。
人間たちに前足を向けたまま、人形のように、宙でピタリと止まったのだ。
レグリナの魔法『時間凍結』。ほんの一秒間だけ、相手を止めることができる。
「『勇気剣』」
レオニダスの叫び声と同時に、彼が握る剣が黄金の輝きを発した。
その光が長く長く伸びあがる。
一振り。
無防備な黒龍に、光の斬撃が振り下ろされた。
黒龍の胴に大きな亀裂が走る。
レオニダスと同時に戦士の中の戦士ウォルフも仕掛けていた。
高く高く空へと跳ぶと、黒龍の真っ赤な目に向けてハルバードを投げる。
「『戦士団魂』」
ウォルフの投げたハルバードが宙で青い光をまとい、矢と化す。
それは黒龍の左眼に突き刺さった。
黒龍が動き出した。
だが、同時に身に受けた二つの傷に、怯む。
なぜだ、破壊者は我の方のはず。なにが起こった?
黒龍が退く。
させるか。
レオニダスがもう一振り、長大な黄金の刃を振るう。
それは黒龍の片翼を半分ほど切り裂いた。
これが戦いの決め手となった。
黒龍ジオンベレスは戦意を失くし、龍の命ともいうべき、宝玉をさし出した。
これさえあれば、いつでも黒龍を呼び出し、使役することができる。
戦えば魔王軍を圧倒し、背に乗れば大陸間を移動することも容易。
勇者一行にとって、なによりも強力な味方となろう。
◇◇◇
「黒龍ジオンベレスで、魔王城に乗り込めば良かったのでは?」
マリアが言った。
当時は、レオニダスもなにか考えがあるのだろう、と思っていた。
ひょっとしたら、最後の切り札にするつもりかもしれない、などと。
だが、結局、黒龍を呼び出すことは最後までなかった。
「馬鹿、あんなおっかない奴、呼び出せるかよ」とレオ。
「もし、言うことを聞かなかったらどうするんだよ。いや、俺はいいんだよ。だけど、な。黒龍がそのまま街にでも行ってみろ。簡単に滅ぼされるぞ」
「要するに、ビビっていた、と。勇者の癖に、ビビっていた、と」
「勇気と無謀は違うんだよ。自分が使いこなせないようなものを使うのはリスクマネジメントの観点から言っても……」
マリアは大きなため息をついた。
「思えば、あなたはいつもそうでした。宝箱を見つければ、一度、戻ってスカウトを連れてきて開けさせる。仕事を依頼されれば、考えてみます、と返事を保留して、ミーティングを開く。その、おかげで幾度、好機を逃したことでしょう。慎重と言えば聞こえは良いのでしょうが、要するに、ただの小心者。あなたほど勇者の名が相応しくない勇者も珍しい」
「そのおかげで魔王を倒すことができたんだろが。勇者のプレッシャーは半端なかったんだからな」
「聖女だとて、プレッシャーは同じようなものでした。むしろ、常に素行に気を付けていなくてならない、わたくしの方こそ、大変でした」
マリアは、またため息をついた。
「まさか、ビビって黒龍を呼び出せなかったなんて……」
「じゃ、じゃあ言わせてもらうけどな。お前だって、アレじゃん。『聖女シリーズ』装備しなかったじゃないかよ。せっかく師匠が作ってくれたのに」
魔王軍との戦いの終盤。
妖精王国の女王ミリネムミネルバが聖女のために作らせた聖女のための装備品。
『聖女の衣』『聖女の靴』『聖女の仮面』。これら聖女シリーズには強力な力があり、聖女の能力を大幅に増幅させるだろうと思われた。
だが、聖女マリアンネは、最後までそれらを身に着けることはなかった。
「あんな破廉恥な服、着られるわけがありません」
マリアが怒鳴った。
「スケスケで、体にピッタリくっついて。重ね着すると妙な呪いがかかるし。こう言ってはなんですが、あなたの師匠の悪意しか感じませんでした」
「じゃあ、靴は? 仮面は?」
「靴はサイズが合いませんでした。なぜ、服はあれほど体に合っていたのに、靴はそうならなかったのか、不思議で仕方ありません。悪意を感じました。わたくしが自分の足が一般女性に比べて、少し大きい方だということを気にしていることを知った上での嫌がらせに違いありません。それに歩いたときの、あの珍妙な足音も最悪でした」
「ええと、仮面は?」
「あんな禍々しい仮面をつけた聖女がどこにいますか。邪教でも、もう少し聖よりですよ。そもそも、服は『魅了』、靴は『気配隠し』、仮面は『呪殺』の効果付与とはいったいどういうことですか。聖女をなんだと思っているのですか。あなたの師匠は間違いなく、わたくしに悪意を持っていました。断言できます」
「そりゃあ、あれだ。師匠がせこくサバ読んでる年齢を、毎回毎回、訂正したりしたからだ。あと、あなたの態度は師としても、一国の女王としても不適切だと思います、なんて容赦なく言うから、スネたんだよ」
「それは、あの方が、あなたにくっつきすぎるから」
怒鳴った後に、マリアは耳まで真っ赤になって言い直した。
「あの方の態度に問題があったからこそです。わたくしは破廉恥な行動を正しただけです」
「とにかく、お前のその頑固な性格のせいで、いろいろ迷惑したんだよ。一人になってさらわれたこともあったしな」
「あれは、誰にも訪れる不可避の生理現象を解消するためでした。仕方がないことだったのです」
「小便くらい近くでしろっての」
「異性の側で、そんなことできますか」
「レグリナはしてたぞ」
「あの人はそういう人です。確かにあの時は油断しましたけど。まさか、たかだか盗賊に遅れをとるなんて」
言いながらもマリアは内心、不自然さを感じた。
当時は、襲われ、拉致されたショックと、助けに来たレオニダスの勇姿に感動して深く考えなかったが、あの事件は不可解だ。
まず、油断があったとはいえ、魔王軍との戦いも終盤。
生半可な魔物など相手にもならないほど強くなっていた聖女の自分に接近し、昏倒させるなど。
そんな盗賊がいるのだろうか。
それに、世界中の国々から支援を受けていた勇者一行を敵に回すのは、リスクが高すぎる。
「まあ、その件はいいや。なんだかバタバタしてて、覚えてないしな」
レオは頭をかいた。掘り下げたくない話題だった。
「あの直後に、ウォルフとレグリナがパーティから外れましたからね。そうです。あなたと仲違いして」
マリアはレオの大きな非を見つけ、人差し指を突き付けた。
「ウォルフとレグリナがいれば、どれほど助けとなったことでしょう。それこそ、わたくしもあなたも魔王と刺し違えずにすんだはずです。魔界突入を前に苦楽をともにしてきた仲間とケンカ別れをするなど。それでも勇者ですか」
「……その件に関しちゃあ、返す言葉もない。俺が悪かったと思う」
マリアは、まさかレオが素直に自分の非を認めるとは思っていなかったので、拍子抜けした。
さらなる糾弾のために準備していた言葉を飲み込む。
レオは子供らしからぬ寂しげな笑みを浮かべて、輪を描いて飛ぶ鳥を見ている。
なにかを隠している。
マリアはそう感じた。
思えばレオニダスはいつもそうだった。つらいことがあっても、それを自分の中に押し込める。
勇者と初めて会った時、彼はとても傷ついて見えた。
たくさんの痛みを抱えながら、それでも進み続けるのをやめない、そんな風に見えた。
「なにがあったのですか? ウォルフとレグリナと。ただの仲違いではなかったのですね?」
◇◇◇
あの日、マリアンネが起きると同室のレグリナのベッドは空だった。
よくあることだったので、胸に痛みを感じながらも務めてそれを気にしないようにした。
身支度をしてロビーで待っていると、降りてきたのはレオニダスだけだった。
「ウォルフとレグリナはパーティから外れる。これからは俺たち二人だ」
レオニダスは苦い顔でそう言った。
「なにがあったのですか?」
「ただのケンカさ。だが、どうしようもないケンカだった。すまない」
寂しそうに笑うレオニダスに、マリアンネはなにも言うことができなかった。
マリアンネなりに、ケンカの推測はついた。
レオニダスとレグリナの痴話ゲンカ。そこからウォルフとのいさかいに発展したのではないか。
ひょっとしたらウォルフはレグリナに好意を寄せていたのかもしれない。
とにかく、マリアンネは納得した。
魔王との決戦よりも、個人的な感情を優先した三人に呆れたが、その個人的な感情に長く苦しめられてきた彼女には納得することができた。
これからの戦いはさらに厳しいものとなるだろう。
敵は魔王軍の幹部たちと、神に匹敵するという最強の存在、魔王。
対して、こちらは戦力が半減したのだ。
だが、不安と同時に、胸をくすぐるような思いがあった。
ずっと心を縛めていたイバラが溶けたような解放感。これから、とても素敵なことが起こりそうな予感。
「マリアンネは俺が守る」
レオニダスの小さなつぶやきは、マリアンネのそんな心を大いに盛り上げた。
だからこそ、見逃していた。
レオニダスが負った心の傷に。
◇◇◇
黙ったままのレオに、マリアはもう一度、言った。
「教えてください。わたくしたちは転生したのです。過去にとらわれ続けてはいけないのです。すべてをすっきりとさせ、新しい人生を生きるべきです」
しばらくの沈黙の後、ようやくレオは頷いた。
「聖女マリアンネの存在を快く思っていない連中がいた。心当たりあるだろ?」
「わたくし、いえ、聖女を? 異教徒でしょうか?」
人界で最大勢力を誇るアルディア教。
聖女の存在によりアルディア教は、より一層、繫栄するはずだった。
それを異教徒たちが危惧していただろうことは想像に難くない。
レオは首を横に振った。
「大司教とそのシンパさ」
「そんなわけがありません。デルモンド様は、わたくしを実の娘のように……」
「ルーベル王国の件だよ」
「ルーベル王国……」
マリアは口を押さえた。
アルディア教とは異なる宗教であるエルラー教。ルーベル王国はエルラー教を国教とする国だった。
ルーベル王国の王宮に巣くっていた魔物を倒し、城を解放した後のこと。
王から救国の英雄として紹介されたときに、マリアンネは演説をしたのだ。
例え、異なる神を信じていようとも、同胞であることに変わりはない。これからは手を携えて、ともに魔王軍と戦おう。
「ですが、あれくらいのことで、デルモンド様がわたくしを……」
確かに大司教デルモンドは、狂信的な部分があった。
異教徒は邪悪。滅ぼすべき。
だが、魔王軍との戦いはすべてに優先するべきことではなかったのか。
「魔王を倒した後、君は大司教よりも力を持っていたかもしれない。少なくとも、彼はそう確信したんだと思う」
マリアは喉の渇きを覚えた。
「……それが、ウォルフたちとの仲違いとどのようにつながるのですか?」
言った後に、一つの黒い想像が頭に浮かんだ。
寒気を感じながらも、恐る恐るレオを見る。
「まさか、ウォルフは……」
「君を徹底的に汚し、聖女としての力を無くさせようとしていた。あいつなりに、命を取るよりは、と考えたらしいけどな」
「それでは、わたくしをさらったのは、盗賊ではなく、ウォルフだったのですか?」
「君を昏倒させたのはウォルフだ。雇った盗賊崩れに監禁させた」
レオは目を閉じた。
当時の苦い記憶がまざまざと蘇ってくる。
◇◇◇
姿を消したマリアンネを、仲間たちと必死で探した。
だが、見つからなかった。
魔物に食べられたんじゃないのか、とレグリナは言ったが、レオニダスには信じられなかった。
マリアンネが、いくら不意をつかれたとしても、この周辺に出る雑魚魔物に不覚をとるわけがない。
「あいつ、最近、変だったからな。その……なあ」
ウォルフがレオニダスを意味ありげに見て、言葉を濁した。
「それで、なにもかも嫌になって逃げちまったのかもしれねえ」
「マリアンネは逃げない」
レオニダスは言い切った。
不器用で頑固で、何事にも真正面からぶつかっていく。
そんな彼女が気の迷いから逃げるなんてことができるとは思えない。あの子はきっと、破滅する最後の瞬間まで、前進し続けるだろう。
「とにかく、ここら辺にはいない。私の『捜索魔法』を信じなさいよ」
レグリナが言った。
何が起こった?
レオニダスは焦燥感の中、自身に問いかけた。
考えろ、何かが起こったんだ。誘い出された? さらわれた? 襲われた?
思考を巡らせていると、マリアンネのはにかみ笑いが脳裏に浮かんでくる。
泣きたくなるほどの恐怖が身内に起こる。
彼女になにかあったら……。
結局、その日は、捜索をやめて近くの街に戻った。
レグリナの『捜索魔法』によると、マリアンネは半径五十キロの範囲にはいないらしい。
もちろん、『捜索魔法』も絶対ではない。なんらかの結界が張られていれば、魔法の目から隠れられる。
あるいは死んでいれば探知の網に引っかかることはない。
明日、『転移魔法』を使って、今まで訪れた国々を回ってみようということになった。
マリアンネ自身は『転移魔法』を使えないが、聖女の力が暴走し、どこかへ跳んだ可能性はある。
その場合、彼女の既知の場所に向かうだろう、とのこと。
レオニダスは食事もろくに喉を通らなかった。
マリアンネのことが心配で、ほかのことに気が回らないのだ。
「焦ってもしょうがねえぜ」とウォルフは酒を勧めたが、とてもそんな気にはなれなかった。
早めにベッドに入ったが、寝付けるはずもない。
いつかマリアンネがくれた小さな木彫りの人形を両手で握っていた。
教会前に捨てられていた彼女とともに置いてあったそうだ。
眠れるわけがないだろう、そう思っていた。
だが、焦りから相当に疲れていたのだろう。
いつの間にか、眠ってしまった。
夢を見た。
マリアンネの夢だ。
見知らぬ男性と獣のように交わるマリアンネ。
その喘ぎ声が、愉悦に歪んだ表情が、レオニダスに裏切られた怒りよりも、欲望を湧き起こす。
いつの間にか、マリアンネが自分の上にまたがっていた。
ああ、君は本当に美しい。
ふいに、目が覚めた。
カチリと小さくドアが開く音がする。
知っている気配。レグリナだ。
だが、なにか違和感がある。
レオニダスは寝たふりを続けた。
衣擦れの音。レグリナが服を脱いでいる。
今まで何度も、レグリナが誘惑してきたことはあった。
もちろん好意を直接的に伝えられたこともある。
こんな時に、とレオニダスは怒りが湧いた。
レグリナがベッドに乗った。そのまま覆いかぶさってくる。
はねのけようと体に力を入れる、その寸前。レグリナがつぶやいた。
「今頃、夢と同じことになってるわよ」
本当に小さなつぶやき。
レオニダスが寝ていることを確信してのひとり言。
だが、レオニダスはそれを聞き逃さなかった。
上体を起こしながらレグリナの肩をつかむ。
「どういうことだ。さっきの夢は君が見せていたのか? マリアンネになにが起こっている?」
レオニダスは全身から殺気を放っていた。それは仲間として彼の近くで戦ってたレグリナをも怯ませるに足るほどのものだった。
「マリアンネになにをした。答えろ」
レグリナの肩をつかんだ手に力がこもる。
レグリナの悲鳴。
だが、レオニダスはそれを怒声でかきけした。
「答えろ、レグリナ」
レオニダスはレグリナを引き倒した。
裸体の彼女をベッドに押し付ける。
涙目で、それでも気丈に彼を睨むレグリナ。
勇者と呼ばれる男と、天才と呼ばれる魔女。
しばし、二人の視線が絡み合った。
「頼む、答えてくれ。マリアンネになにがあった?」
レグリナが先に視線をそらした。
「肩が痛いのよ」
横を向いてつぶやく。
レオニダスはようやくレグリナの肩から手を離した。
闇の中でもはっきりとわかるほど、白い肌が変色していた。
「最初から嫌いだったわ。ろくに努力もしていないのに、聖女だなんてチヤホヤされてさ」
それからレグリナは、マリアンネに対する積もり積もった恨み言を吐露していった。
血のにじむような努力をして、這い上がってきたレグリナにとって、マリアンネの存在がどれほど不快だったか。
妬ましかったか。
それにマリアンネは自分が初めて愛した男の心を奪っていた。
それがなにより許せなかった。
「だからウォルフの話に乗ったのよ」
「ウォルフ。あいつもグルなのか。二人でマリアンネを」
「あいつから話を持ち掛けてきたのよ」
「お前たちは、マリアンネをどうした。どうするつもりなんだ?」
「わかるでしょ。ウォルフがマリアンネに何をしたいかさ。ずっとどんな目で見てたかさ。同じ男なんだから。そんなあいつに、大司教が大義名分を与えたのよ」
「大司教が」
そこでようやく、レオニダスにはこのカラクリが読めた。
大司教がマリアンネを危険視し、ウォルフを使って消そうとしているのだ。
探しても見つからないはずだ。三人中二人が、仕掛け人だったのだから。
「教えてくれ、マリアンネはどこにいる? ウォルフはどこに彼女を閉じ込めた」
「もう遅いわよ。今頃、心も体もボロボロになってるんじゃない。あんたの聖女様はさ」
言ってレグリナはケタケタと笑った。
レオニダスはマリアンネが失踪してからのことを思いだした。
その時の、ウォルフの言動。
すぐに答えは出た。
いつまでたっても戻ってこないマリアンネ。
呼びに行ったレグリナがすぐに戻ってきて、彼女がいなくなったと言う。
全員で周辺を探した。あの時、ウォルフが向かった方角に、洞穴があったはずだ。
レオニダスは外へ飛びだすと、馬を走らせた。
胸中はウォルフに裏切られた怒りや悲しみよりも、ただマリアンネを案ずる気持ちで一杯だった。
◇◇◇
「あの夜、俺はウォルフを斬った。あいつが君になにもできなかったことを知ったのは、そのすぐ後だ。君は眠り続けていたが、無意識に身を守っていた。君の肌に触れると、火傷するんだ。何とか君を、宿に連れ帰った。レグリナはいなくなっていたよ。君は三日ほど、覚醒と睡眠を繰り返していた。記憶が混乱しているのはそのせいだろう」
レオは重すぎる記憶を吐き出した後、全身で息を吐いた。
知らずに握りしめていた手を解く。
マリアの顔を見るのが怖かった。
仲間たちのひどい裏切りを知った彼女は深く傷ついたことだろう。
できれば、秘密にしておきたかった。
マリアの手が伸びてきて、レオの、膝に置いた手に重なった。
レオは顔を上げた。
マリアの顔は青ざめていた。
だが、そこに浮かんでいるのは気づかわし気な表情だった。
レオを心配げに見ている。
「あなたはそんな傷を抱えて、戦い続けたのですね」
マリアが言った。
「わたくしを守るために……」
「もう少し、うまくできたら良かったんだけどな」
レオは空を見上げた。
涙がこぼれそうだった。
二人はそのまま何も話さなかった。
いつの間にか、傍らに立つ木の影は、長く長く伸びていた。
二人は手をつなぎ続けていた。
互いのぬくもりが尊かった。
前世では、互いに好意を抱いていたにも関わらず、結ばれることはなかった。
自分の人生を走り抜けていった彼らには、あまりにも時間がなさ過ぎたのだ。
だが、今生では……。
「そろそろはっきりとさせておくべきだと思うのですが……」
マリアがささやくように静かな声で言った。
「レオニダスは、わたくしを、マリアンネを愛していたのですね」
「ああ、そうだ。誰よりも愛おしく思っていた」
レオは言った。
「マリアンネも、レオニダスにそんな想いを抱いていたのか?」
「はい」
マリアは赤くなって頷いた。
「どちらかが想いを打ち明けていれば、違った結末が待っていたのかな」
レオは隣の岩に置いた本をポンと叩いた。
「そうかもしれませんね。今生では、ぜひ、そうしてください」
マリアは言って、潤んだ瞳でレオを見上げた。
「今回も君を好きになるとは限らないけどな」
レオは言った。照れくささからの軽い冗談のつもりだった。
はっ? とマリアが雰囲気を一変させるような声を上げた。
「なんですか、それは? あなたはつい先ほど、わたくしを愛していたとおっしゃったではありませんか。その舌の根も乾かぬうちに、なんという不埒な」
「いや、つまり、俺も君も、まだこんなに小さいわけだし。これから、なにがあるかわからないだろう? そもそも、生まれ変わったわけだから、前世に縛られる必要もないんじゃないか、と」
「あなたはいつもそうでした」
マリアは立ち上がると言った。
「優柔不断で、いざとなったら尻込みする。わたくしが、何度も、勇気を出して、大胆な行動をとっても、あなたはそれを見逃す。おかげで、レグリナの嘘に、まんまと騙されてしまいました。わたくしはつい先ほどまで、レオニダスがレグリナと男女の関係にあったと勘違いしていたのですからね」
「そ、それは俺のせいなのか?」
「あなたのせいです。あなたがはっきりとわたくしに意思表示をしていれば、レグリナの嘘もたわごとだと聞き流せたのです。だいたい、わたくしがマリアンネの生まれ変わりだと知ったときの態度からして、どうかと思います。わたくしのミスを糾弾するよりも、再会の喜びに感涙むせぶのが筋というものでしょうが」
「そんなこと言ったら、君だって、微妙な態度だったぞ。とても、愛しい男との再会には思えなかったぞ」
「驚いたからに決まっているでしょう。家に帰ってから、こっそりと想いをかみしめるタイプなのです、わたくしは」
「意思表示というなら、マリアンネだってたいがいのもんだったろうが。俺が誘っても断ってばかりだったじゃないか」
「聖女という立場もありました。その辺を慮るのが、上手な男というものでしょう?」
そのまま二人は空が夕焼けに染まるまで、罵りあった。
レオは、レオニダスだった当時、あんなアプローチをしました、と主張し、マリアはマリアンネだった当時、あんな脈のあるリアクションをしましたと主張。
「まあ、あれだな。レオニダスとレオは別人なわけだしな」
声をからして、レオは言った。
声を出し過ぎた。
それはマリアも同様。疲れた顔でレオを睨む。
「そうですね。確かにマリアンネはレオニダスに恋心を抱いていましたが、だからどうした、という話なわけです。もちろん、レオがどうしてもわたくしと結ばれたいと願うのであれば、わたくしも前世の因果もありますし、前向きに検討することにいたしますが」
「えっ、別に、いいよ、どうしてもってほどじゃないし。考えてみれば、レオニダスだって、まあ、ちょっと好きかな、程度だったし」
「それを言うなら、マリアンネも、ちょっといいかも、程度でしたから。愛とか恋とか、そういうレベルにまで達していない、こう淡くて薄い感じのものでしたから」
「よし、俺たちはもう、前世のしがらみとは無縁に生きる。前世では、まあ、アリかなしかって言ったらアリだよな、くらいには思っていたが、マリアに関してはなしだな」
「わかりました。いいでしょう。もはや、マリアンネはマリアンネ。わたくしはわたくし。前世では、精一杯妥協して、このあたりで手を打ちましょうか、という程度にはレオニダスのことを考えていましたけど。いくら妥協してもレオでは……ねえ」
「お前、その言葉忘れるなよ」
「あなたこそ、後悔なさらないように」
などと捨て台詞を吐いて、二人は別々に家路につくのであった。
◇◇◇
その夜。
レオはなかなか眠れなかった。
小さなベッドで、何度も寝返りを打つ。
目を閉じると、清楚華憐なマリアンネの姿ばかりが現れて、すぐにでも飛びだしてマリアに求婚したい想いに駆られる。
大丈夫、まだ俺たちは七歳だ。
時間はたっぷりある。
そう自分に言い聞かせ、焦れる心を静めようとするレオだった。
一方、三軒家を挟んだところにある住宅の二階でも、似たようなことをしている子供がいた。
マリアは、ベッドにすら入らずに、開け放った窓枠に手をついて、弓なりの月を眺めていた。
いや、彼女が見ているのは月ではなく、脳裏に浮かぶ男の姿。
レオニダスの精悍でハンサムな顔。
はあ、と悩まし気な吐息が、時折、口からこぼれる。
勇者だった彼と、聖女だった彼女の希望に満ちた物語は、まだ始まったばかり。
結末がわかるのは、まだまだ先になりそうだ。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。