隠されていたこと
「……陽葵、あとで話すから取り敢えずは待ってろ」
長い沈黙のあと、父がそう言った。冷えきった空気の中、陽葵は小さく頷く。
内心陽葵は焦っていた。これまでも『柚希ちゃん』という単語は度々周囲で飛び交っていた。自分に近い人だと感じていた。だからこそ、その『柚希ちゃん』の話になった今なら尋ねられると思ったのだ。それが、これほどまでに皆が硬直するとは思っていなかった。
「お待たせいたしました」
雰囲気を察したのかは分からないが、ちょうど良いタイミングで麻緒がお茶を持ってくる。大人たちの前にはお茶が、陽葵の前にはジュースが入ったガラスコップ置が置かれた。
氷がカランからんと明るい声を立てる。
「……そういえば、凌久くんって今どこで仕事してるの?」
母が口を開く。
「俺?」
「ええ。この人には大阪にいるってことしか教えてもらえなかったのよ。丞くんに聞いても元気にしてるってことしか教えてもらえないし」
「俺は大学附属病院に勤めてますよ。基本診察と手術もしますね。……医者としてはまだひよっこなもんで」
「なんで大阪なの? 地元には戻らないの?」
「んー、なんでだろな。最初は地元で病院開くつもりだったんだよね。だけど、今は大阪が好き。関西の空気が俺に合ってたのかも」
「空気?」
「あっちの人たちって結構ガサツな人が多くて。もちろんみんながみんなそうとは言えないけど。だから、初めての相手と話してても気ついたときには友だちになってるっつー空気感が楽しいよ」
「怒られるかもだけど凌久くんって、あまり人に関わらないっていうオーラを出してた気がするけど……」
「それ普通本人に言わないでしょ」
「だから先に断ってるじゃない」
「まぁな。だけど、大阪に行くって言ったとき、兄ちゃんには大反対されたけど、今全く後悔してないぞ? 向こうの人たちにすごく良くしてもらっているから」
丞が微笑む。
「僕が反対したのはプライドの高い凌久が孤立するんじゃないかって思ったからだよ」
「そうなのか?」
「なんでだと思ってた?」
「リンクの収入が減るから」
「なんで?」
「俺が受付しなくなるからね。一般客減ってるだろ」
丞が声を立てて笑い出す。
「別に凌久がいなくても困らないよ」
「そうか? 俺がバイトしてるときだけ客多いのかと思ってたわ」
「僕のこと嘗めてる?」
「んなわけ」
「じゃあ、分かるでしょ。オリンピックメダリスト何人いると思ってる? 僕に、翔哉もだし。世界一になる選手の出身リンクが注目されないわけないでしょ。今は陽葵がいるんだし、嫌でも注目度高まってるよ」
「そういや、翔哉もスイスに行ったんだよな。俺がいた頃はムカつくやんちゃ坊主だったのに」
「昔の凌久にそっくりだな」
「は?」
「ふふっ。まあ愛想はいい奴だったから顔だけの凌久よりはいいのかもしれないけど」
「兄ちゃん、ひでーな。自慢の弟ちゃうんかい。……それにしてもまさかあの坊主が兄ちゃんのとこから去るなんて思ってなかったぜ」
「まぁ、いろいろ思うこともあるけどまた一緒に滑れるのを楽しみにしてるよ」
「兄ちゃんらしいな」
「蒼依さんは何をしてるの?」
「私ですか?」
「あら、同級生なんだし敬語はやめてよ」
「ですけど……昔テレビで見てた結城選手に会えて緊張してるんです」
「選手じゃなくなって何年経ってると思ってるの」
「……」
「それで? 蒼依ちゃんは何してるの? 蒼依ちゃんも大阪住んでるの?」
「トラックの運転手やってます。今回はたまたま関西の方で仕事しててどうせならって凌久くんに会いに行ったら、こっちくるって聞いたんで付いてきたんです。地元でそのまま暮らしてます」
「配送業ってこと?」
「はい。毎日高速道路ぶっ飛ばしてます」
「かっこいいわ」
「そんなことないですよ。免許持ってれば誰だってできる」
「そんなことないよ」
「丞くん?」
「誰だってできるわけないじゃん。蒼依ちゃんにしかできないよ。毎朝、市場に新鮮な野菜を届けることなんて誰でもできることじゃない。蒼依ちゃんの天職なんだよ」
「……ありがとうございます」
「そうね。かっこいい。それに、ここに皆を乗せて連れてくれたのも蒼依ちゃんなのでしょう? 陽葵なんて寝ていたって聞いたわ。安全運転ができることは誇りよ」
「なんでそんなに照れるようなこと言うんですか。……ありがとうございます」
「ほんとかっこいいよ」
「私は野菜の受け取りに行ってるだけなのに、いつの間にか農家の皆さんに優しくしていただいて……ここだけの話、収穫の手伝いしてる日もあるんです」
「蒼依ちゃんが、収穫?」
「はい。市場に出せない野菜をいただいちゃったりもして……」
「いいなあ」
「うふふ。いいでしょ。ほんと、毎日楽しいです」
照れくさそうに言うその姿に丞と凌久、蒼依が笑う。
一度沈黙の時間が訪れる。
「そろそろだな」
父が呟き、一度目を瞑った。そしてゆっくりと目を開くと立ち上がる。
「それじゃあ……今年も皆さんいらっしゃってくださりありがとうございます。柚希が亡くなってから十年が経ってしまいましたね。まだこれだけの人が柚希を忘れないでいてくれるのが嬉しいです。一分間の黙祷をお願いします」
父の「黙祷」の掛け声に合わせ、皆が黙祷する。
「はい。ありがとうございました。また来年ここでお会いしましょう。せっかくお越しくださったのです。今日は我が家で新潟の海の幸と山の幸を堪能していって下さい」
この後、丞は栞奈とお茶を、凌久と蒼依は境内を歩くらしい。
「陽葵は此方だ」
父に呼ばれ、陽葵は後を歩く。
予想通り秘密基地に向かっているらしい。
「はい。ここに座りな」
先にソファに座った父が隣をポンポンと叩く。陽葵は素直にそこに座った。
「それで? 何から知りたい?」
「……柚希ちゃんって誰?」
父と話すことができる時間も限られている。陽葵は端的に質問した。
父は暫く顎に手をおいて考えていた。
「……柚希は…………僕と双子で、陽葵の叔母さんだ」
「……今は何処にいるの?」
「天国にいるんだ」
「なんで?」
「……ほんとはな、陽葵がもっと大きくなってから伝えようと思ってた。だけど、ちゃんと話すから、陽葵を大人だと思ってしっかり伝えるから、ちゃんと聞いてくれ」
「うん」
そして、父は陽葵が知らなかった叔母について話し出した。
羽澄柚希は僕と双子としてここで生まれたんだ。二人でどんなことも競争しながら、成長していった。
だけど僕たちが三歳のとき、母さん……陽葵のおばあちゃんのことな、母さんの仕事の都合で僕たちは離ればなれになった。僕は父さんと共にここに残り、あとの二人は母さんと一緒に暮らすようになったんだよ。
それから再開するまでの十五年間、柚希たちがどう過ごしていたのかは分からない。
知ってることは……そうだな。柚希は、ばあちゃん、陽葵のひいおばあちゃんの影響を受けてフルート奏者だった。柚希の演奏は世界一だよ。本当にきれいな音色だった。って言っても僕もそんなに何度も聞くことはできなかったんだけどね。
だけどな、柚希は中学三年生の夏に交通事故に遭って片足を失った。それからはパラアルペンスキー選手として、栞奈と世界で戦ってたんだ。
ひょんなことから僕たちは高校三年のときに十五年ぶりにここで再会したんだ。
知ってた? お母さんと叔母さんはライバルだったんだぞ? 初めの頃はライバルだったけど、そのうち仲良くなってたな。
僕が栞奈と出会えたのも柚希のお陰だったし。
栞奈は柚希よりも先に引退した。それで、羽澄神社で巫女になった。
その後も柚希は選手として、日本代表として、世界で戦っていた。強かったよ。世界一のパラアルペンスキーヤーだった。
丞くんと婚約して、幸せな未来が待ってたはずだったんだ。
陽葵は驚く。
「丞コーチ!?」
「ああ、そうだ。凌久と丞くんは従兄弟でしょ? 実は柚希と凌久くんは幼馴染みなんだ。三歳でここを去ってからは凌久の家の近くに住んでいたんだ。ばあちゃんの家で暮らしてた。二人が従兄弟なことは柚希も知らなかったみたいだけど、事故の後に凌久くんが丞くんと出会わせてくれたらしいぞ。まぁ僕はそのとき一緒にいられなかったから分からないけど」
「結婚するはずだったの?」
「うん。ほんとなら丞くんはお前の親戚になるはずだったんだよ」
「知らなかった……」
「知らなくて良かったんだ。丞くんがそれを望んだから」
「そうなの?」
「陽葵とは親戚じゃなくて師弟関係でありたいって言われた」
「なんで?」
「それは丞くんにしか分からないよ。……もう少し話してもいいか?」
「うん」
柚希は中学三年の夏に事故に遭った。飲酒運転していたトラックに轢かれて右足を失ったんだ。
それでも柚希は負けなかった。僕が知っているのは柚希がスキー選手として、テレビに出るようになってからだけど……。
だけど、足を失った柚希を支えてくれた人たちがいた。それが、今日来てくれた皆なんだ。
凌久は自分が柚希を守れなかったことをすごい悔やんでいた。柚希の事故がきっかけになって、医者になろうと決めたみたいだよ。
もしかしたら、蒼依ちゃんがトラックのドライバーなのも柚希の事故がきっかけなのかもしれないね。分からないけど……。
だけど、柚希の苦しみはそれだけでは終わらなかった。
家にトロフィーとか賞状とかたくさんあるだろ? お母さんのメダルが入ってる棚の上にあるガラスケースに入ってるのは全部柚希が持って帰ってきたものだよ。柚希は世界一のスキーヤーだったんだ。
それなのに……それなのに、突然いなくなったんだ。柚希は練習中に大規模な雪崩に巻き込まれて帰らぬ人になってしまった。
ボドレスの悲劇って聞いたことないか? それのことだ。今の子たちは知らないかもしれないね。もうそんなに前のことになってしまったって訳だよ。
三日後には丞くんと結婚の挨拶に来る予定だったのに、柚希は僕たちの誰にも看取られることもなくいなくなってしまった。
「そうだったんだ……」
「だからな、陽葵。陽葵に話してなかったのは隠してたわけではないんだ。何て伝えればいいのか分からなかったんだ」
「……」
「今のことも、忘れてくれてもいい。だけど、そろそろ知っておいた方がいい気がする。きっといつか取材で聞かれるから」
「僕が?」
「うん。陽葵の家族はすごい人ばかりだからね。注目されるんだよ。僕が伝えられることは多くはないけど、これだけは伝えておく。柚希はきっとお前が世界一になったら戻ってきてくれる」
「なんで?」
「世界一になる幸せを一番知ってる人だから」
「世界一の幸せ……?」
「いつだったか聞いたことがあるんだ。世界一ってどんな気分?って。そしたら答えたんだ。嬉しいし、誇らしいけど怖いって。たけど、そこからの景色は最高だってね。そこまでの苦しさを、悔しさを一番知ってる人だから、きっと陽葵が世界一になったら戻ってきてくれる」
「僕、がんばる」
「ああ。陽葵ならできる。だって、お前は羽澄家の人間だからな」
そう言って笑いながら陽葵の頭を撫でた父の顔は今までの中で一番寂しげな笑みだった。
ゆきちゃんが、誰だったのか。
陽葵の長年の疑問が解消されました。
紫苑も重い話になることが分かっているからあまり伝えられなかったのです
それに、どうしても丞が絡んでくるから……




