別れの餞別
いよいよ翔哉が出発するという日の早朝のことだった。
昼頃の飛行機で翔哉が旅立つということで見送りに行く丞と陽葵がいつもより早く朝食をとっていると、誰かが丞の家のインターフォンを鳴らした。
丞に目配せをして麻緒が玄関へ向かう。
「はい」
「朝早くから申し訳ありません。目黒翔哉です」
「少々お待ちください」
麻緒が丞の方を振り返る。
丞が頷いたのを確認すると麻緒は扉を開けた。
シンプルなシャツとズボン姿で帽子をかぶった翔哉がスーツケースとバストンバック、そして大きな紙袋を手に立っていた。
「どうした?」
「コーチと出発前にちゃんと話しておきたくて」
「……!」
「入っていいですか?」
「どうぞ、こちらへ。大きいお荷物はお預かりしますね」
「お邪魔します」
翔哉が席に着く。麻緒が丞と翔哉の前にお茶を出すと陽葵を連れて奥の部屋に入った。
向かい合って座った翔哉が紙袋を差し出してきた。丞でもわかる老舗の名が書かれた袋の中には見るからに高そうな茶菓子の箱が入っている。
「これ、親からです。十二年間お世話になりました。って伝えるようにって。あと、直接丞コーチに渡せなくて申し訳ないって言ってました」
「こちらこそ翔哉と出会えて良かった。ありがたく頂戴します」
「それで……」
口ごもった翔哉に丞は声を掛ける。
「翔哉。スイスに行く前に思ってること全部ぶつけてくれ。頼むから」
「……」
「僕はもともとコーチには向いてなかった。だけどな、翔哉のお陰で世界で戦えるコーチになれたんだよ。僕は翔哉のこと戦友だと思ってる。僕のせいでうちのリンクから追い出すことになってしまったことは深く深く反省して……」
「追い出されてませんから」
最後まで丞が言うより先に翔哉はハッキリと口にした。
「だけど、結局は……」
「だから、俺は追い出されたとは一ミリも思ってませんから」
「それは違うよね?」
「ううん。俺は自分の意思でスイスに行く。俺はあのとき丞コーチに出会ってちょっとだけ出ていた芽を大きく開花させてもらった。今は枯れかけているけどヴォルフのところでまた満開になって帰ってきます。そしたら、次は陽葵のことを俺が花開かせてあげたいんです」
「……」
「コーチ、まだ俺のこと疑ってる?」
「疑ってるって……あんなに一緒に頑張ってきた翔哉に辛い想いをさせてしまっていた自分に怒りは覚えるけど」
「ヴォルフガングに声を掛けてもらえたときに言われたんです。『タスクのことを恨んでるか』と。その時に言いました。『恨んではいない』って。そしたらね、ヴォルフは笑って言いました。『僕は僕のヒーローを恨むやつには教えたくはない。タスクは人を見捨てるようなことは絶対にしない。お前がタスクの理想に劣っていたとも思わない。ただタスクはお前よりも輝く原石に出会ってしまっただけなんだ。どうだ? その原石をいつか世界一の宝石に磨く手伝いがしないか? そっちの方が人を恨むより余程楽しいぞ』と」
「そんなことをいつ……?」
「陽葵がダブルアクセルを試合で跳ぶ直前の頃です」
「そんな前に!?」
「気づいて欲しくなかったので良かったです」
「なんでそのときすぐに行かなかったんだ? そしたら、今シーズンから世界の舞台で活躍できてたのに。ヴォルフは絶対に一年でまた翔哉のことを世界に連れ戻すだけの実力があるコーチだよ」
「丞コーチ……いや、ここは九条丞選手はそんなことを、逃げ道を選べとなんて仰る方でしたっけ?」
「え、?」
「俺がまだガキだったとき虜になった九条選手はどんな状況でも、たとえ怪我をしていたとしてもそれを感じさせない演技で全力で観客を魅了してきましたよね? 勿論その演技には結果がついてくる。鬼気迫るような演技も、芸術のような演技も、儚い演技も、どんな曲も滑りこなせる九条選手みたいになりたかった。俺はこの一年に希望を見たんです。絶対負けられないオリンピックまでは時間がある。だから、今シーズンだけは俺が世界一憧れてる九条丞選手に教えてもらいたいって。今年を逃したら二度と丞コーチの生徒ではいられなくなりますから」
「……」
「そしたら、始まってすぐに陽葵が凄いことを成し遂げてしまった。もう俺の居場所はここにはないって直感で悟ったんです。それならって思って、コーチにも家族にも内緒でヴォルフに連絡を取りました。彼はいつでも来れるように俺のための枠は確保してあると言ってくれてたから」
「ごめんな。そんな言葉で片付けられるならいくらでも言う。僕はいつも失って気付く。柚希ちゃんがいることのありがたさも亡くしてから解った。翔哉といることの幸せも翔哉の信頼を失くしてから気づいた。こんな不甲斐ない、情けない僕を許してください」
「許しませんよ」
「……」
翔哉の言葉は迷いがなかった。そして、その言葉は丞の心をぐっさりと抉っていった。
「だけどね、丞コーチ。俺の言葉聞いてました? いつか陽葵を世界一にする手伝いがしたいって。そんなこと丞コーチじゃなきゃたぶん思わなかった。自分のことを見てくれなかったコーチともう一度タッグを組みたい、丞コーチとならもう一度一緒にやりたい、丞コーチの隣に立つにふさわしい演技と結果を取って胸張って陽葵のコーチがしたいって思えたんです」
今度の翔哉の言葉は先ほど抉られた丞の心をガーゼのように優しく覆ってくれた。
「ありがとう」
「そうですよ。俺こそコーチを非難するよりお礼を言わなくちゃ」
「翔哉……」
「ありがとうございました。俺を見つけ出してくれて、世界の舞台に連れていってくださって。今までもこれからもずっと俺にとっては、丞コーチだけが恩師ですから。そして永遠に俺の憧れですから。それだけはたとえ丞コーチに否定されようが変わりません」
「その言葉に恥じないようにこれからもコーチを続けるよ」
「俺は丞コーチのこと大好きですよ」
「ありがとう」
丞もやっと微笑むことができた。どこにも力が入っていない自然な笑みだった。
「ねぇ、コーチ。最後にお別れの餞別として俺に一曲プレゼントしてくださいませんか?」
「今から?」
「はい。だから、こんな早くから押し掛けたんです」
「ほんと、ちゃっかりしてるんだから」
「俺らしいと思いません?」
中学生の頃の、柚希との結婚を祝う旗を作ってきた頃のやんちゃな笑みと同じだった。
手早く荷物の支度を整えた丞は翔哉と並んでリンクへ向かう。早朝の澄み渡った空はどこまでも広く青かった。
「何がいい?」
準備を終えた丞が訪ねる。
「それはもちろん、『火の鳥』で」
丞の予想通りの回答が帰ってくる。
「……人生で最後に挑む四回転半にする」
「その挑戦を拝見できて光栄です」
曲が始まる。引退のときの演技が、忘れることのできない懐かしいあの世界選手権の光景が蘇ってきた。
(あ、柚希ちゃん……!)
柚希が座っている。真剣な表情で四回転アクセルの成功を祈ってくれている。
そして、丞は跳んだ。思い切り……柚希と翔哉が世界で一番と言ってくれた四回転半に挑んだ。二人は丞のことを、丞の演技を心から好きでいてくれた。世界で注目されていた丞を純粋に目標にしてくれていた。
もう二度と会えない彼女へ、新たな道へ進む彼へ、かつて麗奈に送られた日と同じように彼を送り出す自分へ。悲鳴を上げながらもあの日まで耐え続けてくれた己の腰へ。最後まで側にいてくれたシンシアへ。応援してくれていた、支えてくれていたすべての人へ。
元世界王者としてのプライド、丞を丞たらしめ世界一に連れて行ってくれたこのジャンプへの感謝、このジャンプを見本にしてくれた自分の愛弟子への激励、すべての感情も思いも込め、丞は氷を蹴った。
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あと少し、本当にあと少しだった。
それでも転倒してすぐに立ち上がった丞は着氷したような気持ちだった。
大観衆が興奮しながら拍手してくれる。慣れていたはずの懐かしい感覚に思わず笑みが漏れた。
丞は自由に無我夢中に大空を羽ばたく一羽の鳥だった。
曲が終わった途端に丞はあの日の世界選手権の会場からホームリンクへと戻ってきた。
最後に柚希に言われたような気がした。
『やっぱり丞くんが一番です』
と。
「やっぱり丞コーチが世界一ですね」
「流石に四回転半はきつかったね」
「生徒に手本で跳んでみせてるとはいえコーチになってもう十年なのにその完成度で演技できるところが凄いですよ」
「ありがとう。翔哉にとっていい贈り物になってればいいけど」
「なってますよ。今の丞コーチは紛れもなく九条選手でしたから。俺が好きだった九条選手のままだった。最高でした。ありがとうございます」
「翔哉、またな。絶対戻って来てな」
「はい」
「俺もいいですか?」と聞きながらいつの間にかスケート靴を履き終えた翔哉がリンクに下りてくる。
「始めた頃、丞コーチが手を繋いで滑ってくれましたね」
「そんなこともあったね」
「そしたら、最後に俺から暫しのお別れに」
そして、翔哉はスピードを上げて滑り始める。
思わず丞はリンクサイドに置いてあったスマホを練習のときのように構える。彼が別れの餞別に何をしようとしているかが分かった。
そして、翔哉は丞の前で跳んだ。気持ちは着氷したといっても実際には転倒している丞とは異なり、翔哉は美しく完璧に四回転と半分回って滑らかに着氷した。
「翔哉、次に会うときには試合でそれを決めてくれ」
「任せてください。僕は世界の九条丞の初めての生徒です。それはヴォルフのとこに行ってもずっと変わりません。コーチの顔に泥を塗ることなんてできませんから。期待しててください」
丞の出した拳と翔哉の拳がこつりとぶつかる。二人の大切な約束はこうやってたてられていた。
「あのねぇ!!! 集合時間過ぎてるのに全く気にするような素振りもなく、開館時間にもなってないリンクでこんな朝っぱらから勝手に滑っているのは誰ですか!? 私はこんなことさせるためにあんたにリンクの鍵預けてるわけじゃないんですけど!?」
高難度の技をするわけでもなく、並んでただ滑っている二人のスケート靴のブレードの音だけが響く、心地よい静けさを切り裂いたのは麗奈の怒鳴り声だった。
「あ、やべっ!」
丞の焦った声に翔哉は苦笑しながら氷から上がる。
(やっぱり麗奈コーチは丞コーチのコーチなんだな。一番怖い人って昔言ってたもんね)
「今日はメディア呼んでないから」
「ありがたいです」
丞が運転席、助手席に麗奈、後部座席に翔哉、その膝に陽葵が座り、別れの車は走り出す。
ポツリポツリと時々会話しながらゆっくりと進む車もやがては空港に到着する。
出発ロビーで丞はコーチとして最後の言葉を翔哉にかけた。
「翔哉、今までありがとうな」
「柚希さんにもよろしくですよ、コーチ」
「お前は本当に……」
「いつかお二人に会えるの待ってますからね」
「……百年後くらいかな」
「だから、今度こそ約束守ってくださいね」
「そうだな」
「翔哉くん! また会える?」
「当たり前だろ、陽葵。またお前と会えるの楽しみにしてるからな。忘れんなよ? お前は世界一になるんだからな。練習さぼんなよ?」
「当たり前じゃん!!」
「こっちは真剣だぞ。いいな? 約束だぞ?」
「分かった! 翔哉くん、元気でね!」
「あぁ。お前もな」
「翔哉、無茶しちゃダメよ」
「麗奈コーチ……たくさんご迷惑おかけしました」
「出掛け間際にそんなこと……もう時効よ」
「時効なんて一生来ませんよ。帰ってきたときには反省文提出します」
「うふふ、じゃあ気長にコーチやりながら待ってるわ」
「それじゃ、行ってきます。丞コーチ、麗奈コーチ、陽葵。次は試合で」
丞と陽葵、それに麗奈に見送られながら軽く手を振り軽やかな足取りで、翔哉が単身スイスへ飛び立ったのは日本に春の風が吹き始めた頃だった。
今日の更新はおしまいです。次は0時!!
翔哉がスイスへ旅立ちました。
麗奈が一番遠い位置から手のかかる弟子たちを見守っています。
いつか翔哉はまた栄光を掴むはず……




