陽葵、お前はどうするんだ?
「陽葵、大事な話があるんだ」
陽葵にそう告げたのはシーズンが終わってすぐの頃だった。
リンクサイドにある小さな関係者以外立入禁止のドアを開けた丞のあとを歩き着いた部屋は、丞が私室のように使っているスケートリンクの一室だった。
その部屋の戸にはプラカードが掛けてある。
『九条丞プライベートルーム』
その戸を丞は開けた。
その戸には鍵が掛かっていない。
プライベートルームに鍵を掛けないことは不用心と言われるかもしれないが、前提としてそもそも不審者がこの階に侵入すること自体が難しいのだ。
スケートリンクの入り口、関係者専用通路への入り口、エレベーター、この階の入り口と計四ヶ所でカードキーをかざし、それぞれ異なる暗証番号を入力しなくてはここまでたどり着かないという万全なセキュリティである。
プライベートルームの存在を知る人はリンクの関係者でもトップクラスのみ、ましてや部屋を持つことができるのはその中の一握りのみだ。
中学生で部屋をもらい、カナダで練習していた期間もその部屋を維持し続けてもらえていた丞は特殊である。
「入りな」
「お邪魔します……」
微かに一礼して入ってきた陽葵に苦笑する。このやんちゃ坊主がこういうときは誰よりも礼儀正しくなる。
(やっぱり陽葵は神社の息子なんだよな)
丞にとってもこの部屋に自分以外の人が入るのは久しぶりのことだ。カナダにいた間は麗奈がこの部屋を維持してくれていたと聞く。それ以来だ。
陽葵が顎で示された椅子に座った。
丞は向かいに座る。
「いや~汚くてごめんな」
「……こんなとこに部屋があったんだ」
「あれ? 陽葵知らなかった?」
陽葵が静かに頷いた。その目はキラキラと輝いていた。
「なんか秘密の場所って感じだね!」
「秘密の場所だもん」
「えっ!?」
「ここは世界で戦うようなレベルの選手が人目を避けるために作られた部屋なんだよ」
「人目を避けて?」
「そう。自分を落ち着けるためとか、人に囲まれないように、集中するための部屋。僕は中学の頃、学校帰りにここに来て勉強してたんだよ」
「へぇー」
「興味無さそうだな」
「だって僕勉強分かるもん」
「そうやって天狗になってるとそのうち失敗するぞ」
「もう、コーチはすぐに脅すんだから」
丞は笑う。声を出さずに。
「どうしたの?」
「話があってね」
「??」
陽葵は茶色よりの目を瞬かせる。
「実はね、僕の部屋の隣には翔哉の部屋があったんだけどね……」
「あった?」
「そうなんだよ。翔哉からその部屋を陽葵、お前に譲りたいって話があった」
「僕に譲る……」
「陽葵、お前はどうする? ここを使う人間は外にいると何をしてなくても囲まれる。そういう人間になるっていう覚悟があるなら使ってもいいぞ。翔哉に言われなくても一部屋お前のために空けてはあるんだけどな」
「翔哉くんはもう使わないの?」
陽葵の目が不安で揺れている。丞は安心させるように陽葵に笑い掛けた。
「ああ。だけどスケートをやめるわけじゃない。翔哉はね、僕の英雄のところに行くんだ」
「どういうこと?」
「ヴォルフガング・プシュケって人を知ってるか?」
「……うん。会ったことないけど」
「翔哉はヴォルフに誘われてスイスに行くことになったんだ。まぁ、よくある話だよ。より強い選手になるために最善を尽くすのが選手だからね」
「それで、翔哉くんの部屋を僕にくれるの?」
「翔哉が陽葵にあげたいって」
「じゃあ、欲しい」
無邪気に言っているようだが陽葵の目が言っている。
『本気だ』と。丞にはわかる。陽葵はやんちゃ坊主だ。それでもこの目をした人はふざけているわけではない。本当にうまくなるためには何でもする目である。この目をする人に会ったことがある。
他でもない翔哉と柚希である。
「そっか、じゃあ麗奈コーチと話しとくね」
「はい」
「そしたら話はそれだけだ」
「……ねぇ、コーチ?」
「ん?」
「コーチは翔哉くんを嫌いになっちゃったの?」
立ち上がって戸を開けた丞に陽葵は問いかけた。
「嫌いじゃないよ。大好き。だけど、僕の想いはちゃんと翔哉に伝わってなかったみたいだ。僕の反省点だね」
何故だか分からなかったが丞の目はとても哀しそうで後悔に満ち溢れていた。陽葵は思わず丞の腕を握る。
「陽葵?」
「……僕、やっぱりまだ部屋いいや」
「どうした?」
「僕にはまだ早いもん」
「え?」
「だって僕のこと知ってる人なんてまだ全然いないもんね」
「そうか?」
「うん。だから、僕は翔哉くんとかコーチみたいにオリンピックで金メダルを取るくらいの選手になれたら……全日本選手権でメダル取れたときに貰う」
「……」
「だから、僕のために翔哉くんの部屋は取っておいてね。他の子にあげちゃダメだよ!!」
「……それでいいのか?」
「うん!」
「分かった。じゃあ、そうしよう」
「翔哉くん、ほんとに行っちゃうの?」
丞が陽葵の声を聞いたのは練習後の更衣室の前だった。
部屋の中には翔哉と陽葵のみのはずだ。今日の男子は二人以外は練習がなかったのだから。
「ああ。行くよ」
「なんで? 僕のこと嫌いなの? 僕がコーチのこと独り占めするから?」
「違う」
「じゃあ、なんでコーチは『僕の想いはちゃんと翔哉に伝わってなかったみたいだ』とか言ってるの?」
「……そんなこと言ってたのか、あの人は」
「うん。ねぇ、お願いだよ! 翔哉くんはここにいてよ! 僕がスイスに行くから」
「はぁ!?」
「僕がいなくなれば翔哉くんは丞コーチと練習できるでしょ?」
「……」
「すごいいい考えだと思わない? 僕っててんさ……」
陽葵の声が突然止まる。
「陽葵。馬鹿なことを言うな」
低い翔哉の声が聞こえてくる。
「俺は自分の意思を持ってヴォルフガングのところへ行くんだ。俺の意思がお前如きのそんな甘っちょろい考えで変わると思うか?」
「……」
「俺は陽葵と同じでここで丞コーチと出会った。幼い頃は今の陽葵みたいにやんちゃでどうしようもない奴だった。そんな俺を現役引退したばかりの丞コーチは世界の舞台に連れて行ってくれたんだ。俺は誰よりも丞コーチに感謝しているんだぞ。その俺が丞コーチと分かれることを決めたんだ。何も知らないお前が知った口を挟むな。お前はただ俺の部屋をありがたく譲り受けとけ」
「……ごめんなさい」
「俺の言った意味が分かるか?」
「わからない。……だけど、丞コーチは翔哉くんを好きで、翔哉くんも丞コーチが好きなことは分かった」
「フフッ。そうか。小学生ならそれだけ分かれば上等だ。だから、もう二度と俺の前で行かないでと口にするな。丞コーチにいらん心配かけんな。いいな?」
「うん」
丞は二人が部屋から出てくることを察して足早に立ち去った。
(どうにかして、出発前に翔哉と話せないかな……)
丞は歩きながらそんなことを考えていた。
少し間が空いてしまいました(・・;)
翔哉と丞は離れても心は繋がってそうですね。素敵な二人。




