九歳の誓い
陽葵は今日、九歳の誕生日を向かえた。
すでに陽葵の存在はスケート関係者の間だけにとどまらず、じわじわと有名になっていた。
「陽葵、誕生日おめでとう!」
「陽葵お坊っちゃま、おめでとうございます」
麻緒が作ったケーキを三人で食べる。
三人のうち誰かが誕生日のときには必ず行っている。
これは血の繋がっていない三人にとって大切な儀式なようなものだった。
「はい、陽葵。電話きてるよ」
丞に差し出された携帯には紫苑と栞奈の顔が写っていた。
「陽葵~、久しぶり!」
「陽葵、元気にしてましたか?」
「お父さん! お母さん! お久しぶりです。僕は元気です」
「誕生日おめでとう」
「ありがとう!!」
「ダブルアクセルもようやく試合で成功できたようですね。皆で見ていましたよ」
「えっ!?」
「テレビで放送されていましたから」
「そうだったの?」
「私たちも見たときは驚きましたわ。まさか陽葵がダブルアクセルを跳ぶことができるとは思っていませんでしたから。私たちも誇りに思っていますよ」
「これからも頑張るんだよ」
「はい!」
「陽葵、また会える日を楽しみにしていますね」
「はい。僕もお母さんに会うのが楽しみです」
「身体には気を付けるんですよ。無理はしてはいけません。丞コーチの言うことをよく聞いてくださいね」
「次に会ったときには父さんと母さんにメダルを見せてね」
「頑張ります」
紫苑と栞奈が自慢の息子を画面越しに優しく見つめているのを丞は少々苦い想いで見つめていた。
確かに丞にとっても我が子のような存在だ。しかし、やはり紫苑と栞奈が陽葵の親であるという事実を覆すことはできない。たとえ、丞の方が二人よりも陽葵の近くにいるとしても。
(もし……もし、柚希ちゃんがいれば、僕たちの間にもこんなふうにかわいい子どもがいたのかな……)
柚希が笑っていて、丞が笑っていて、二人の間で子どもたちが笑っている。
どれほど願っても、どれほど望んでも、手に入れることのできなかった、そしてもう手に入れることは一生できない、たらればを丞は時々想像してしまう。
「何やってんだ、僕は……」
丞はため息をつく。
一人で生きると決めたのではなかったのか。柚希の分も生きると。柚希のことを世界で一番愛している自覚が丞にはある。それと同等の気持ちを他の女性に持つなど不可能であることはよく分かっている。
「丞コーチ! お父さんが話したいって」
「……あ、分かった」
陽葵に差し出された電話を丞は耳に当てる。
「はい、丞です」
「丞くん、お久しぶりです」
「どうかした?」
「いえ、何もないんだけど……お礼を言いたくて」
「いや、僕は何もしてないよ?」
「優勝はコーチの指導のお陰ですよ」
「そうかな? 陽葵は試合だけじゃなくて練習するのが大好きな子だから」
「そうなのですか?」
「うん。終わりって言ってもあと一本って」
「……ふふふっ。柚希みたい」
「柚希ちゃん?」
「スーザンコーチに聞かれたことがあるんですよ。柚希を休ませるにはどうしたらいいのかって。オフの日でも必ずスキー場で姿を見るから。困ってたみたいですよ?」
「そうだったんだ。そう言われると似てるかもしれないね。僕も良く後一本、後一曲ってシンシアのこと困らせてたなぁ」
「柚希と丞くんが二人も似てるんのは知っていますよ。……でもほんとテレビとかで見てても丞くんと陽葵が並んでる姿は親子みたいで」
「親子!?」
「はい。並んでたりするとすごい見えます。特に陽葵は柚希とよく似てるから。……まあそうですよね。だって小学校ですらそっちのとこに通ってて……もう僕たちの方が会う回数が少ないんですから」
「それはそうかもしれないね」
「だけど、きっと柚希も喜んでますよ」
「……?」
「大好きだった丞くんが、大好きだったスケートを続けてくれていて」
「柚希ちゃんがいたってずっと続けてたと思うよ?」
「だって柚希が引退したら、神社に来てくれるつもりだったでしょう? 僕たちには言ってくれなかったけどそのつもりだったでしょ? 柚希と最後に電話した時に気にしてましたよ」
「そうだったの?」
「ええ。丞くんの気持ちを柚希が否定することはないと思うからきっとありがとうって伝えてたんじゃないかなって思うけど。きっと気にしてました。だって……」
「だって……?」
「丞くんはスケートに生かされている人だから」
「スケートに、生かされている?」
「柚希は事故まではフルートに生かされてました。きっと凌久くんが柚希のフルートをずっと好きでいてくれたように、雪の音色にひかれていた人はたくさんいたと思います。……スキーを初めてからは柚希はスキーに生かされてました。僕はフルート時代の柚希は知らないけど、スキーならよく分かります。柚希にはスキーをしている姿が一番似合うんですよ」
「……それが僕にも当てはまると?」
「はい。そのうち神社に来てくれると聞いて、想像したんですよ。袴姿で神事を執り行う丞くんを。だけど……無理でした」
紫苑が少し笑う。
「僕が想像できた丞くんは、ヒラヒラでキラキラの華やかな。衣装に身を包み、軽やかにリンクを舞っている世界で一番上手なフィギュアスケーター九条丞選手だったんです。……間違いなく、重くて分厚い袴姿ではありませんでした」
「……」
「だから、もう柚希のことは置いといて……忘れろとは言いませんよ。僕だって無理だから。だけど、一旦横に置いて、柚希のことなしに陽葵を見てやってください。丞くんにはやっぱりスケートが似合うから。陽葵を世界のてっぺんに連れていったら、麻緒さんも一緒に三人で胸を張って羽澄神社にお越しください。きっと柚希が待っています」
「柚希ちゃんもきっと同じことを言うだろうね。……はぁぁ、ほんっと君たち二人は十五年も離れていたとは思えないほどよく似てるんだから」
「僕をいうなら、柚希と丞くんだって似てますから」
「それはそうだろうね」
「自分で言いますか」
「自分でも思うもん」
「……丞くん、変なこと聞いてもいいですか?」
「ん?」
「今、幸せですか?」
「……どうした。急に」
「いや、丞くんは幸せなのかなって思って」
「幸せだけど?」
「コーチなんてつらいことばっかりだろうに一人で抱え込んでませんか?」
「……あはは。だから大丈夫だって」
「あまり一人で抱え込んでたら柚希も心配すると思うから……」
「柚希ちゃんの何が分かるの?」
紫苑は丞を思って言った言葉だったが、耳に流れてきた声はやや冷たくなっていた。
「え……」
「柚希ちゃんならこう思う。柚希ちゃんならこう言う。僕の周りの人はみんなそう言う。僕を思ってのことなのは分かるよ。だけどね……」
「だけど……?」
「僕は僕だから」
「……!」
「僕は自分で決めたことを変えたくない。自分の決意を曲げられたくない。僕は柚希ちゃんと一緒に一人で生きていくって決めたんだ。だから僕はこの生活を続けていくよ。この先誰と出会っても、どんなことがあってもこの想いは変わらない。柚希ちゃんのことが大好きで、柚希ちゃんのために滑って、柚希ちゃんに救われた僕は、これまでもこれからもずっと柚希ちゃんのただ一人の男でいたいから」
お互いに暫く沈黙が続く。
「コーチ、喧嘩してるの?」
不意に陽葵の心配そうな声が聞こえた。
「大丈夫。喧嘩じゃないよ」
丞は陽葵の頭を軽く撫でるとそっと麻緒に目配せした。軽く頷いた麻緒がさりげなく陽葵を隣の部屋に連れていく。
「丞くん?」
遠慮がちな紫苑の声が耳に届く。
「この前ね、同じようなことを麻緒さんにも言われたんだ。このまま一人で生きていくつもりなのかって」
「……それになんと?」
「そのつもりだって」
「……」
「僕には柚希ちゃんが必要だったんだ。柚希ちゃんがいないなら何もいらないよ」
「……そう、ですか」
「柚希ちゃんには笑われるだろうなぁ。諦めが悪いって」
丞は笑う。乾いた笑いだった。
自嘲っぽく笑う丞の声を電話越しの紫苑は微妙な思いで聞いていた。
丞が何年経過しても柚希のことを大切に思ってくれていることへの安堵と、柚希のことが忘れられない丞に対する不安だった。
このまま誰の助けも求めずに自分で抱え込む丞が容易に想像できてしまう。
「……丞くん、約束してください」
「何を?」
「絶対に幸せになるって」
「だから幸せだよ?」
「丞くんは選手時代、僕たちを何度も笑顔にさせてくれていました。だから、だからこれからは丞くんが世界で一番笑っていてください。誰にも負けないくらい、誰も追いつけないくらいに。これはお願いじゃないですよ。日本一ご利益があると噂されている羽澄神社神主からの命令です」
「守らなかったら天罰が下りそうだな」
「きっと下りますよ」
紫苑がいたずらっぽく笑う。丞も思わず笑った。今度は昔のように笑えた、気がする。
「そしたら、夜分に申し訳ありませんでした」
「大丈夫だよ」
「また会いましょう」
「うん。楽しみにしてる」
「陽葵のこと頼みます」
「任せて」
電話を切る。
一つ息を吐く。
丞は柚希の写真と向かい合う。棚の上に置かれた額に入った写真はパラリンピックで優勝したときの写真だ。
丞が見ていた前で世界新記録を叩き出した滑りだ。
金メダルを空に掲げた柚希が満面の笑みで笑っている。
そしてその写真の横にはコルクボードが置かれている。そこには柚希と二人で写っている数多くの写真が貼ってあった。出会ってから分かれるまでの日々は長くはない。お互い選手であったからこそなかなか表立って会うことも出かけることもできなかった。それでもこのボードに貼られている写真には楽しい思い出が詰まっている。
どの写真にも笑顔で収まる柚希を丞はしばらく見つめていた。
「柚希ちゃん、何年後でもいいし、僕が死んでからでもいい。だから、また会えないかな」
思わず丞は呟いた。
『当たり前じゃないですか。わたしだって丞くんに会いたいですよ。だから、もう少し頑張って。陽葵と金メダルとってください』
どこからともなく柚希の声がした。丞は周囲を見回す。当たり前だが柚希の姿などどこにもない。
それでも何年も思い返していた柚希の声を聞き間違えるはずがない。
「柚希ちゃん見ててよ」
丞は空中に拳を突き出した。二人の約束は常にそう約束してきていた。
丞の挑戦も始まったばかりだ。
今でも丞にとっての一番は柚希。
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