丞の変わらぬ想い
陽葵は小学生になった。
相変わらず頑固でやんちゃ坊主ではあるものの、オリンピックで金メダルというスケートを始めた日に丞と誓った夢に向けて練習に励んでる。小学校に入学してからも入学前と変わらず練習に打ち込む日々だから友達はできているのか丞は少しばかり気にしている。
数年前に悲惨な死を遂げた、当時世界一であったパラスキーヤー・羽澄柚希の甥にあたる陽葵は初めての試合から注目され続けている。
もちろん陽葵の母がその柚希とライバルであった栞奈であるということも大きいが。
まだ小学一年生の陽葵にはここまで注目されている訳をしっかりと理解できていない。そもそも注目されていると自覚しているのかも定かではないが、陽葵は人々からの視線をものともせず楽しく滑っていた。
「おーい、陽葵。夕飯の時間だよ」
丞に呼ばれる。
陽葵が席につくと麻緒が夕飯を持ってきてくれた。その手には温かそうに湯気を上げているステーキが乗っていた。
「はい。これが陽葵お坊っちゃまのですよ」
「わぁぁぁぁ!!! ステーキだ!」
「今日も練習頑張ったそうだから。今日は少し豪華にしてみましたよ。どうですか?」
「ありがとう!」
「しっかり食べてゆっくりお休みなさってくださいね。明日も学校と練習で忙しいのでしょうから」
「はい!」
「そしたら……」
「「いただきます」」
「どうぞ」
丞と陽葵は食べ始める。食事中の話は専らスケートに関してだ。
食事は丞と陽葵が先に食べ、食べ終わった頃に麻緒は一人で食べている。共に暮らすことになったときに丞は一緒に食事をとろうと誘ったのだが、自分が使用人であることは忘れたくないと麻緒に固辞されてしまった。
「コーチ」
「ん? 何?」
「今日、翔哉くんからこんなのもらったんだけど。丞コーチなら何かわかるはずだよって」
「……!!」
陽葵が何かをポケットから出した。それは幾重にも折り畳まれた布だった。陽葵がその布をばさりと広げる。
そこにはでかでかと『九条コーチ、羽澄選手、結婚おめでとう!!!』と書かれていた。
陽葵は丞の信じられないというような表情を見ながら丞に純粋な疑問のままに尋ねる。
「ねぇ、コーチ。これ何?」
「……」
「丞コーチ?」
「翔哉は何か言ってた?」
「んーとね、コーチにこれを渡してほしい。って」
「……あのばか野郎」
丞は呟くと静かに笑った。その目は軽く濡れているようだった。その目の奥にきらりと光るものが見えたような気がした陽葵はそれ以上尋ねることをやめ、口を閉ざす。
「……陽葵、お前が柚希ちゃんくらい上手くなったら、そのとき全部話してあげるから」
「……ゆきちゃん? 誰?」
「世界中の人たちを笑顔にしてくれた人だよ。僕にとって一番大切な人」
「いつになったら話してくれるの?」
「トリプルアクセルを跳んだら……かな」
「トリプルアクセル!?」
「うん。陽葵は世界を目指してるんだよね?」
「うん」
「そしたら、トリプルアクセルは跳べなくちゃね。トリプルアクセルすら跳べないうちは世界一なんてまだまだだよ」
「……」
「大丈夫。陽葵はまだ小学一年だ。時間はいっぱいあるんだから。焦らずに腐らずに一歩ずつ丁寧に進んでいけば絶対に辿り着くからな」
陽葵の顔を見て何を思ったのか、丞は陽葵の頭をくしゃりと撫でた。
「僕は陽葵のことを世界一にするためにここにいるんだ。そう思わないと受け入れられなかった。大丈夫。陽葵にはたくさんの味方がいるんだよ。その味方たちの中で一番陽葵のことを世界一にしたいと思っているのが、元世界一になった僕なんだよ? だから陽葵は絶対大丈夫だ。陽葵が口にするすべての夢も目標も僕だけは信じる。他の誰もが信じてくれなくてもね。それに口にしなければ絶対に夢なんて叶わないことを僕は身を持って知ってるからね」
眩しそうに陽葵のことを見つめて笑う丞の口から出た言葉は、この先陽葵の心の底にずっと残り続けることとなった。
「丞さん」
麻緒の声に顔を上げると丞が麻緒の差し出したタオルで目元を拭っていた。
「ありがとう、もう大丈夫」
「あまり、抱え込まないでくださいね、もう何年も経っているんです」
「大丈夫です。麻緒さんに心配はかけません」
「……柚希さんも丞さんも本当によく似ていらっしゃるのだから」
「ふふ、嬉しい」
「誉めてはいませんよ?」
とがめるような口調で麻緒が言う。
「柚希ちゃんと同じって言われたらどんなことでも嬉しいんだからしょうがないよね」
「ほんとに……丞さんって人は」
「頼りないだろ?」
「ええ」
「……素直に答えないでよね」
「うふふ。私はあなたのお母様と同い年ですから」
「僕にとっても麻緒さんは第二の母みたいな存在なんで」
「ありがたいことです」
「そうなったのは柚希ちゃんのお陰だからね」
「……そうですね」
陽葵は思う。
話の内容はよく分からないけど、とりあえず自分はスケートを頑張ればいいんだ、と。
その日の夜遅く、目覚めた陽葵は居間から電気の光が漏れていることに気が付きそっと向かった。
音を立てずに近づくと麻緒と丞がテーブルを挟んで向き合いながら何か話している。
「……だから、麻緒さん。僕はもういいんです」
「それでも……」
「僕にとって一生を誓える相手は柚希ちゃんだけなんです。柚希ちゃん以外の人なんて考えられないし、実際にそれ以上の人がいないから一人でいるだけです」
「今、ひとりでウジウジしている丞さんを見たら柚希さんは何と仰るでしょうか」
「きっとあきれたように笑うんだろなぁ」
「……まだそこにいるんですか、と仰るでしょう。柚希さんは丞さんにそろそろ前へ進んでほしいと仰るのではないでしょうか」
「僕もそう思いますよ。だけど、それが僕だから」
「……」
「柚希ちゃんが作ってくれたご縁に恵まれて紫苑くんと出会えて、栞奈ちゃんの戸の間に生まれた陽葵のコーチをすることになって、陽葵の成長を近くで見守ることができるんです。それどころか、僕が実際の親よりも傍で陽葵の成長を支えることができる。そして、麻緒さんが来てくださったから僕はコーチに専念できてます。この生活に何ら不満がない、どころか大満足なんだからそれでいいんですよ。まぁ……ここに柚希ちゃんがいたらどんなに幸せだろうとは思うけど」
「それではこれからどうするのですか?」
「どうするもこうするもないですよ? 僕はコーチを続けてくだけなんで」
「ご結婚はされないのですか?」
「うん。それが一番僕らしい」
「もう三十ですよ? あなたの隣を狙っている方は大勢いらっしゃいますよ」
「だから?」
「だからって……。これは本来私が言ってよいこととは思いません。それでも、言わせてください。私も独り身です。羽澄神社に人生の全てを捧げてきました。智恵さまが神社を出て行かれる際に、ともに出ていくように母に告げられたときは悔しく思いました。神社に必要とされてないことを知ってしまったので。それでも不思議なご縁が重なり、梗平様と智恵さまの再婚により私は神社に戻ることができました。そこで知ったのです。家族の暖かみを」
「…………僕は陽葵と麻緒さんと過ごしているこの空間が大事だし、続けたい。陽葵が海外に行ったりするまでは、柚希ちゃんのことを忘れるようなことがあるまでは、このままでいたい。僕にとっては今ここにいる三人と柚希ちゃんが家族なんです。……それじゃダメですか?」
丞の小さな声に麻緒は微笑んだ。
「私も自分の息子と孫のようにお二人を想っています。丞さんのお心がそこまで固いのであれば私はこれからもここでお二人を支えて参ります」
「……何かあったの?」
「お伝えするべきか悩んでいました。今日の昼頃、週刊紙の記者がお越しになりました」
「……!」
「私と丞さんの関係を探っているようでした。羽澄神社について執拗に尋ねられていました。当たり障りないことをお話し、ご帰宅いただいたのですが、今の丞さんにとって柚希お嬢様がどのような存在かをお伺いしておきたかったのです」
「……」
「安心しました。流石あの柚希お嬢様がお選びになった方。丞さんであれば、いつまでも柚希お嬢様のお側にいてくださると確信いたしました」
「僕は柚希ちゃんと最期まで一緒にいることができなかった。だから、陽葵とは一緒にいたいんです。それで、柚希ちゃんと見れなかった景色を一緒に見たい」
「私もその旅にお供させてくださいませ」
「もうすでに出発しているんですけどね」
「存じております」
扉の隙間からその様子を眺めていた陽葵は静かに部屋に戻った。
『陽葵、お前が柚希ちゃんくらい上手くなったら、そのとき話してやる』
ゆきちゃんが誰なのか、自分にとってどんな人なのかは分からない。それでも、コーチは約束を守る人だ。だから、たくさん練習してトリプルアクセルを跳んで教えてもらおう。
陽葵の本気の挑戦がここから始まった。
掲げた途端に外すことになってしまったあの横断幕を翔哉はずっと大切に持っていました。
こっそり陽葵に渡したつもりがあっという間に丞に知られているとは翔哉も想像してなかったのでは?笑




