紫苑と丞の約束
陽葵はスケート体験教室に入会した。
今まで何にもたいした興味を示さなかった陽葵が初めてやりたいと告げてきたことがフィギュアスケートだった。
初めてのフィギュアスケート体験教室の日、紫苑は陽葵の見送りをしていた。
「お坊っちゃま、参りましょう」
車の前で須野原剛志が陽葵を呼ぶ。
「はぁい」
「はいは一度です」
「……はい」
紫苑は微かに笑った。
剛志は優しく厳しい。
たゑと同じように……いや、たゑよりは穏やかだが、彼女と変わらず一歩離れたところから温かく家族を見守ってくれている。
たゑは現在、羽澄神社の片隅で静かに暮らしている。
柚希がいなくなってから途端に元気を失ったたゑは八十六歳となった。相変わらず背筋の伸びは健在ではあるものの、人前に姿を見せることは少なくなった。
「……陽葵のこと、よろしく頼みます」
「お任せくださいませ。旦那様」
二人を乗せた車が神社を去る。
午前中に来客への対応を手早く終わらせた紫苑は雑務をしながら剛志に持たせたタブレットを通して午後の陽葵の体験教室をライブで見守っていた。
おそらく栞奈も自室で見ていることだろう。
「はい。それじゃあ、みんなゆっくりと氷に降りて~」
丞の明るい声が聞こえる。
子供たちが恐々と氷に降り立つ。
その中で一人、氷にジャンプして派手にこけた男の子がいた。
……陽葵だった
「こら! ダメでしょ!!」
武井コーチに怒られても陽葵はニコニコ笑っていた。そしてそのままペタリとリンクに座り込むと氷をトントンと叩く。
「すごいキラキラ!」
画面の隅で丞が笑いを堪えきれずさりげなく口を押さえる姿が映る。
「そしたら、手すりをもってゆっくり、いいね陽葵くん! ゆっくりだよ!! ゆっくり滑ろう」
丞の言葉に周囲の子どもたちと彼らを見守っている観覧席の保護者たちから笑いが起こる。
「丞、交代しましょう」
武井コーチが丞のもとへ滑っていく。その後ろをペンギンのように滑っている男の子がいた。
……見間違えようもなく陽葵だった
丞の目が大きく見開かれる。
「なぁ、陽葵。今日初めてだよね? ほんとに初めてだよね?」
「うん」
「お父さんか、お母さんにスケート教わったことは?」
「ないよ?」
「この子はすごい選手になるわよ」
たまたま剛志の前で話していたため彼の手にあるタブレットのマイクは音を拾っていたが、他の保護者のことも考えてか抑え気味の武井コーチの声は心持ち興奮していた。
「今、陽葵のお父さん来てる?」
「ううん。だけど、須野原さんがいるよ?」
「須野原さん?」
「あそこ」
陽葵が指さした先にいた剛志に丞が近づいてくる。
「初めまして。九条丞と申します。……旦那様はご在宅ですか?」
最後は周囲を気にしてからか、小さくなった声に剛志は答える。
「はい。しかし、旦那様は今日は神社からは離れることができなく……」
「じゃあ、僕が行きます」
「えぇ!?」
「紫苑くんには僕から話したい」
「……」
丞が剛志の手にあるタブレットに気付く。同時にそれ越しに紫苑がいることにも思い当たったようだ。タブレットのカメラを覗き込みながら、手を振る。
「紫苑くん~、今から行くね!!」
「えぇっ!?」
カメラの向こうでは剛志が、カメラのこちらでは紫苑が、同じように叫んでいた。
「あの……大変申し訳ございませんが、旦那様は本日は面会が難しいので、後日改めてお願いできませんでしょうか」
「そっかぁ……うーん。明日なら大丈夫?」
「明日であれば面会の予定は入っておりませんが……九条さんは大丈夫でしょうか」
「うん。明日の午前中であれば大丈夫。そしたら、明日の朝一で入れておいてもらえますか?」
「……畏まりました」
剛志の言葉に一つ頷くと丞は再び、いや、三度陽葵の言動に頭を抱えつつも楽しそうな武井コーチのもとへと戻っていった。
次の日の朝早く。
日帰りの予定だったものの、神奈川に泊まることになったため宿を予約しようとしたところ、自分が用があって予定を変更させているからと丞に丸め込まれ、丞の自宅に泊まっていた剛志と陽葵が少々疲れた面持ちで帰宅する。
そして、二人の後ろから笑顔の丞が降りてくる。
「陽葵、お帰りなさい。そして九条コーチ、ようこそお越しくださいました」
「ここでは丞で大丈夫だよ?」
「……畏まりました。こちらへどうぞ」
丞が何を言うのか分からなかった紫苑はとりあえず丞のことを家に招き入れる。
「お久しぶりです。ようこそいらっしゃいました。お待ちしておりましたよ」
栞奈がにこやかにお茶を持ってくる。
先日神奈川を訪れた際、丞に栞奈がおしとやかになったと驚かれていたが、こうしてみると神社の一員として立派に務めを果たしているし、丞の言葉も伊達ではないと感じる。
「ありがとう。栞奈ちゃんもここにいてもらっていいかな?」
「ええ。構いませんが……」
栞奈の目が紫苑をそっと見る。
「栞奈、いてくれ」
「わかりました。少々お待ちください」
お盆を障子の外の巫女に任せた栞奈がそっとソファに座る。
「それで……どうされましたか?」
「あなた、待って。丞くん、いや九条コーチ。申し訳ありませんでした」
栞奈が深く謝罪の礼をしたことで紫苑にも想像がついた。
「昨日は息子が多大なご迷惑をおかけしました。大変申し訳ありませんでした」
二人から頭を下げられた丞はどういうわけか大層慌てた。
「二人とも頭を上げて! 僕たちそんなこと気にしてないから! 毎回言うこと聞かない子はいるしね」
「それじゃあ、どうしたんですか?」
「……」
丞が突然立ち上がると床に正座した。
「丞くん!?」
「……僕に陽葵のコーチをさせてください!!!」
暫しの沈黙。
やがて栞奈が静かに尋ねた。
「何故そのようなことを仰るのでしょうか?」
「陽葵にはスケーターとしての才能があるんです」
「そうではなく……私たちは陽葵を選手コースに通わせることを前提として体験教室に参加させているのですよ?」
「え……」
「本当に体験させるだけならば、高い月謝を払わずとも一般解放で滑ればいいのです。九条コーチに教えていただきたくて、参加させているのです。本来ならば私たちがお願いする立場にあります。ですから、お立ちください」
栞奈の微笑みに丞が立ち上がった。同時に紫苑が立ち上がり深々と礼をする。
「神社という閉鎖的な空間で大切に育てられた箱入りの息子ではありますが、誰かに似たようで負けず嫌いの頑固なところがある、それでも自分の近くにいる者を笑顔にさせるためには手段を択ばないような息子です。たくさんご迷惑をおかけするでしょう。九条コーチ……いや、ここは丞くんと呼ばせてください。丞くん、陽葵をよろしくお願いします」
「任せて。僕が必ず世界一にするから」
丞が手を差し出す。その手を紫苑は躊躇うことなく握った。
「そうしたら、陽葵をうちで預かってもいい?」
「もちろん。お願いします」
栞奈が遠慮がちに言い出す。
「あの……麻緒さんに一緒に行ってもらわない?」
「麻緒さん?」
「柚希の家にいたお手伝いさんです。この家の人で、たゑさんのお子さん。麻緒さんならきっと行ってくれますよ」
「ちょっと聞いてみようか」
呼び出された麻緒は話を聞くと、そっと笑った。
「私でよいのですか?」
「麻緒さんがいいのです」
「旦那様に必要とされているのならば、私は喜んで参りますよ」
「剛志さんは良いのですか?」
「あの人は、馬のお世話をする方が似合いますから。旦那様、奥様、これからも弟をどうか頼みます」
麻緒は丞に向き合った。
「私は世界一を目指した柚希さんと共にいました。柚希さんの血も引く陽葵お坊っちゃまと再び世界を目指すことができて嬉しく思います」
〖柚希さん、私が丞さんの側で悪い虫は追い払いますからね。丞さんは一生柚希さんだけの旦那様です〗
麻緒の【声】が聞こえる。その内容に紫苑はそっと笑った。
(母さんの時はたゑに頼まれて断れなかったような感じだったけど、今回は自分の意思ってことでいいのかな……?)
「丞くん、麻緒さん、陽葵をお願いします」
「はい」
「お任せくださいませ、旦那様、奥様」
ある程度の予定を決めると丞は午後のレッスンのために帰ることになった。
紫苑は丞の横を歩いて、共に境内を一周する。
「丞くんもしかして初めてですか?」
「そうだよ。よく考えたら今まで僕、羽澄神社来たことなかったね」
「なんか柚希からたびたび丞くんの話聞いたからか、よくいらしてくれてるように感じてました」
「僕も初めて来たようには思えないんだよね」
「ですよね。でもこれからはたくさんいらしてくださいね? 陽葵の付き添いでも何でもいいので理由付けて。もちろん理由なんてなくてもいいんですけど」
「そうだね。柚希ちゃんのこと思い出してつらくなるかと思ってたけど逆に来れてよかったよ。陽葵が連れて来てくれたのかもね」
「ですね」
丞が柚子の木の前で立ち止まる。境内の奥、柚希と再会した弓道場の脇にそびえ立つ柚子の木には毎年、美味しい柚子が実る。
「柚希ちゃん、今度こそ約束守るからね。見ててよ」
丞がその木に向かって誓う。
そのときだった。
軽く吹いてきた風と共に金色の粉が舞い始めた。それに気づいた人はいなかった。
丞が陽葵と出会ったときの衝撃。
柚希の親戚であることは分かっていても陽葵はそんなこと関係なく才能があった。
ひなたすくの歩みの始まりです。




