柚希との思い出 (紬視点)
たまたま私はオフの日だった。柚希は練習が入っていた。
それだけだった。
私は幼い頃からの友だちに電話をかけていた。
「紬?」
「なっちゃん、久しぶり!」
なっちゃんというのは守屋夏芽のことだ。私の幼稚園時代からの幼馴染み。遠征であまり一緒にいられなかったが私と一番親しかった友人だ。日本に帰れず友達とも疎遠になってきたときにも必ず帰れば遊びに来てくれていた。
「どうしたの?」
「いや、大したことじゃないんだけどね、私もうすぐ日本に帰るからもし暇だったら会えない?」
「新潟だよね?」
「私がなっちゃんのとこに行くよ?」
「ダメダメダメダメ!」
「なんで?」
「オリンピック選手がうちになんか来たら大騒ぎになるから!! 私が紬のとこに行くよ!」
「分かった……って、なっちゃん今何してるの?」
「私?」
「うん」
「高校生卒業したときには一応大学生になっておこうかって思って大学には入ったけど、大学でいろんな出会いと縁があって二年で中退して本屋開いたの」
「えっ!! 今までなんで教えてくれなかったの!?」
「だって驚かせたいじゃん? 紬も忙しそうだったからこっち来てくれた時に突然見せるのもありだなって。でもね、紬が夢ずっと追いかけてる姿見て、私も自分が本当にやりたいこと実現できたよ」
「長かったね、おめでとう」
「うん」
「お疲れ様」
「ありがとう、紬」
なっちゃんも大変な人生を送ってきた。
自宅は放火にあい、たまたま祖父母の家に遊びに行っていたなっちゃんだけ生き残った。両親はその家事で亡くなり、なっちゃんは祖父母に育てられた。
「やっぱり私が行くよ」
「え!?」
「力になれるか分かんないけど、サインでも書くよ。売上貢献」
「いいの?」
「当たり前じゃん、なっちゃんの夢がやっと叶ったんだよ? それでどんなお店なの?」
「本屋とカフェ併設してる小さな本屋で私の好きな本を厳選して置いてる感じかな」
「素敵!」
なっちゃんはずっと書店員になりたがっていた。そして、将来は自分の店を持つことが夢だった。
「紬、もう元気になった?」
「ん?」
「……オリンピック」
「大丈夫だよ?」
「ほんとに? 紬はずっと抱え込むから心配で……」
「ふふ。ほんとに大丈夫。私は恵まれてることにたくさんの友だちがいた。優しいコーチと仲間たちが支えてくれた。それに……柚希が私の代わりに金メダル持って帰ってきてくれたから」
「……」
「もちろん悔しくないって言ったら九十九パーセント嘘だよ? だけど、次のオリンピックで私は頂点に立つ。そのためにはこの前のオリンピックも必要だったんだと思う」
「ずっと応援してるからね」
「お互い頑張ろ!」
「うん」
その時だった。外から大きな地響きのような音がする。窓がミシミシと音をたてて、大地が地震のように揺れた。
「何!?」
思わず叫んだ私の声は電話越しのなっちゃんに届いていた。
「どうしたの!?」
「分かんない! 地震かも!!」
夏芽と電話していた時のベッドに膝を抱えた状態のままじっと待っているとやがて物音ひとつしなくなった。
そして建物内がにわかに騒然としだす。廊下で誰かが走っている。そしてコツコツと音を立てて早足で誰かが歩く。その人は電話をしているようだ。そしてその人の声が聞こえた時私は耳を疑った。このスーザンスキークラブのオーストラリア寮の管理人だったからだ。
普段であれば立ち入りが禁止されている女子寮で彼の声がすることにやはり何かが起きたのだと実感する。
廊下を何人かが何度か駆けていく音がしていたがやがてその音は私の部屋の前で止まった。ノックされたので私はドアを開ける。そこに立っていたのは顔面蒼白のフローラの姿だった。
「ツムギ!? 良かった! あなたは大丈夫ね?」
「フローラ! 何があったの?」
「…………雪崩よ」
「えっ!?」
かけたままだった電話から夏芽の声がする。
「何かあったみたいだから一回切るね。大丈夫になったらまたかけて」
「ごめん、ありがと」
フローラは肩で息をしている。
「あのね、ツムギ。実はねユキが……」
「今日練習だったよね!? 柚希は? 無事だよね!!!」
「雪崩に巻き込まれたみたいで…………まだ連絡が取れなくて……救急隊が探してくれているところ」
「なんで!? なんで、柚希が!?」
しばらくフローラが言っていることが理解できなかった。いや、理解したくなかったが正しいか。
「私も聞きたいわよ。……だけどね、今は信じるしかない」
「信じる……」
「ユキをみんなで待ちましょう」
「でも……」
「大丈夫。ユキはきっと帰って来てくれる」
大慌ての私とは違い、フローラは落ち着いていた。
それでも、不安なことには変わらないだろう。キリスト教徒のフローラはひたすら首に垂らした十字架のペンダントを握りしめていた。
窓からそっと外を覗くと青空が広がっていた。雪崩なんて知らない顔をして、希望に満ち溢れるような青空だった。
「スーザンからの言伝てよ。ユキの家族に連絡してって。それでそのことをクジョウさんにも連絡してもらえるように伝えて、だって」
「……分かった」
「私は他のみんなのとこにも行くからごめんね」と言うとフローラはまた廊下を走っていった。
一度深呼吸して息を整える。そして、震える手を総動員してスマホを再び手にすると以前柚希に教えてもらっていた番号に電話をかけた。
「は、羽澄さんのお宅でしょうか?」
『はい。こちら羽澄神社でございます』
「私、スーザンスキークラブで柚希さんと共に練習している小鳥遊紬と申します。柚希さんのご両親はいらっしゃいますか?」
『申し訳ございません。只今外出中です。折り返しお電話させていただきます』
「緊急なんです!!!」
『それでは……羽澄紫苑なら在宅しておりますが……』
「代わっていただけませんか?」
『少々お待ちくださいませ』
紫苑が電話に出るまでの間、保留中の音楽が流れる。心臓がバクバクしている私の気持ちには全くそぐわない春の野原で鳥を追いかけているような明るい曲だ。
『お待たせ致しました。羽澄紫苑です』
「小鳥遊紬です」
『あぁ、小鳥遊選手ですか。いつも柚希がお世話になっております。いかがしましたか?』
「……柚希が…………雪崩に」
『はい!?』
「柚希が雪崩に巻き込まれて…………行方不明です」
『どこ情報ですか!?』
「スキークラブのコーチからです。私も音だけは聞きました。…………間違いないかと」
声が震える。沈黙の後に聞こえた声は想像以上に落ち着いていた。私よりもよほど不安なはずなのに紫苑さんは逆に私を励ましてくれた。
『僕は信じないよ。柚希がこんな形でいなくなるはずがない。だから、大丈夫。大丈夫。きっと大丈夫』
「……大丈夫」
大丈夫を連呼する紫苑さんは強がっているようにも感じる。それでも、私も思う。
柚希ならきっと、きっと大丈夫。
『それで他に何かありますか?』
「あとこのことを九条丞さんにも連絡していただくようにと言伝を預かっています」
『……そうだね。僕から連絡しておきますね』
「よろしくお願いします」
『はい。また何かありましたら連絡ください。いつでも電話とれるようにしておりますので』
「わかりました」
スーザンスキークラブのロビーには柚希の無事を願う人々で溢れていた。
そこに一人の老女の姿を見つける。柚希と時折訪ねていた雑貨屋の店主だった。彼女は日本語で話しかけてくる。今更ながら日本語が話せることに驚く。
「あなた、時々来てたわね?」
「はい」
「ユキさんは……?」
私は静かに首を振る。
「そう……」
「まだ見つかってないみたいです」
「あの子なら大丈夫」
「……?」
「サヨコさんの自慢の孫がこんな風に亡くなるなんて絶対にないわよ」
早代子さんが誰かは分からなかったがこの人は柚希と関わりがある人だということは分かった。
「私も柚希は帰ってくると思います」
「そうね。だから私たちは待ちましょう。暖かいお茶でもいれて」
「そうですね」
私はキッチンに向かった。
入ろうとして立ち止まる。すでに誰かがいたのだ。
「……ナターシャ?」
「ツムギ!!」
「柚希ならきっと大丈夫よ」
「なんで……なんでユキはこんなに苦しまなくちゃならないの!?」
ナターシャは英語でわめいた。涙がナターシャの頬を流れる。
「ナターシャ」
「かわいそうじゃない」
「ねぇナターシャ。みんな言ってるよ。こんな風に柚希は私たちを置いていかないって」
「そうよ。そうよ。柚希は私の前でフルートをもう一度吹いてくれなくちゃ」
「柚希はきっと大丈夫だよ」
会う人が皆、呪文のように『大丈夫』と繰り返す。
柚希にもう一度会いたいのだ。いつも通りの笑顔で帰ってきてほしいのだ。
お茶を入れる。美味しくなるように想いを込めて……。
ナターシャとポツリぽつりと語り合っていると唐突に玄関が騒がしくなった。
「柚希?」
「帰ってきたのね!?」
ナターシャの顔がパッと明るくなる。私もきっと同じなのだろう。二人で手を繋いで走り出す。ロビーに駆け込んだ。
「柚希! お帰り!!」
私の声は虚しく響いただけだった。
「ツムギ、ナターシャ」
スーザンの静かな声が聞こえた。そちらを見ると普段は笑顔で呼び掛けてくるスーザンが青白い顔で入口にたっていた。
「スーザン?」
「ユキは……」
そう言うとスーザンは涙を流す。
その姿に嫌でも分かってしまった。朗らかに笑う柚希にはもう二度と会うことはできないのだと。
「なんで!? なんで、柚希が!?」
私は今まさに設置作業が進んでいる献花台を睨み付ける。飾られている写真はパラリンピックで金メダルを取ったときのものだ。晴れ晴れとした顔の柚希が世界一幸せそうな顔で笑っている。
「許せない……許せない! なんで……柚希なの!?」
怒鳴る私をスーザンが抱き締めてくる。
「スーザン……! 教えて!! なんで、柚希なの!?」
「ごめんなさい。ごめんなさい、ユキ。私が最後一本滑らせなければこんなことには…………」
私たちは抱き合ってしばらく号泣していた。
メディアが到着し始める。
何も答えられる状況ではない私はキッチンに向かう。
先程いれたお茶を自分で飲む。想像の百倍は美味しくなかった。自然と涙が出てくる。
私は涙を拭くとトボトボと部屋に戻った。
二人で共用している机を見つめる。
そこには二人で過ごしてきた大切な日々の思い出の品々が並ぶ。
雑貨でお揃いで見つけたペンケース。柚希は絶対に金がいいと言って譲らなかったなぁ。
九条選手のスケート靴とサイン。この靴が柚希の人生を大きく変えたと聞いたことがある。『いつかあの日のことも教えてあげる』って言ってたじゃん。
二人のツーショットの数々。撮る度に写真をコルクボードに張っていった。貼り切れなくてどんどん上に貼るから下の方になった出会った頃の写真なんてもうすでに見えなくなってる。これから増えないなんて思いたくない。
柚希のテーブルの前に立つ。
そっと引き出しを開ける。そこには大切にしまわれたフルートケースが入っている。
フローラとナターシャたちのオリンピック選考会の壮行会で吹いてくれたときの涙と寂しげな笑みが脳裏に蘇る。
『パラリンピックで金メダルを取るまでは楽器を吹かないって決めた。だけど、分かった気がする。わたしはフルートを吹きたかったのかもしれない。自分の音を聞いたとき、これがわたしだって思えた』
柚希の言葉は今でも忘れることができない。
夢を諦めるのはどれほど苦しかっただろう。あの柚希の音と言葉と涙を知れば柚希のフルートの技術が一朝一夕に出来上がったものではないこと、とてつもない才能があったことも自然と理解できた。
その柚希が再び夢を奪われたことがとても悔しかった。
「柚希……帰ってきてよ」
自分の声が漏れたことに何秒か経過してから気が付く。
「柚希……あんたがいないと私はやっていけないみたいだよ」
それでも私にはしなくてはならないことがある。
私は未だ震えている手でスマホを取った。
『はい、こちら羽澄神社でございます』
紫苑さんは連絡が来るのを本当に電話の傍で待っていたようだ。由緒正しい全国的に有名な神社の跡取りが電話を自ら取るなんてことは普通はないだろう。
「……小鳥遊紬です」
次回は『自慢のお嬢様 (たゑ視点)』、明後日の更新予定です。
あと一話で本当に完結です!
お楽しみに♪




