伝えた想いと伝えられた想い (丞視点)
僕は毎日子どもたちと接している。
子どもたちと練習するのは嫌いではないし、自分のアドバイスで彼らが上達した時に浮かべる笑みjを見ながら充実した毎日を過ごしている。
それでも頭の隅に常に住み着いて離れない人がいる。出会いから何年もかかって多くの人をヤキモチさせながらようやく僕の彼女となってくれた羽澄柚希ちゃんの存在だ。
いつも笑顔を崩さない柚希ちゃんの表情には本人も気付いていないようだが、疲労と孤独が隠れている。
僕が柚希ちゃんと羽澄神社で共に暮らしていきたいと思ったのには、そんな柚希ちゃんを近くで支えていきたいと思ったからだ。
今日は僕の上司にあたる武井麗奈コーチに何年か先の自分の決断について話す予定だ。あらかじめ丞が時間を空けて欲しいと麗奈に頼むことは滅多にないため、麗奈も何かしら大切な話があるのだろうと理解しているはずだ。
受付の裏にある事務室でリンクの製氷の時間に向かい合う。
「丞から話があるなんて珍しいわね」
「麗奈コーチ、大事な話なんです」
「いいわよ」
「……僕、結婚します」
「お相手は?」
「羽澄柚希さんです」
「ふぅぅぅ。良かったわ。他の名前が出てきたらぶん殴るところだったわ。やっと、やっと伝わったのね」
「はいっ!?」
「安心して。誰にも言ってはないけど……あははは。私に隠し通せると思ってた?」
「いつからばれてたんですか……」
「あなたがパラリンピック見に行ったっていう噂が流れていた頃からは」
麗奈はにやりと笑う。それでも、麗奈のことは憎めない。
「はぁぁぁぁ。麗奈コーチには隠せないですね」
「当たり前じゃないの。あんたがカナダに行くまでずっとコーチやってるのよ? 甘く見ないでちょうだいな」
「……まだ内緒にしておいてくださいね」
僕はそう言うと、窓からリンクを眺める。製氷ももうすぐ終わりそうだ。
「じゃあ、戻りますね」
「待ちなさい。どうやってプロポーズしたのよ」
「……失礼しますっ!」
「逃がさないわよ?」
「一応、今の僕はコーチなんで。生徒優先です。機会があればお話しします」
僕はそう言うと逃げるように事務室から退出した。麗奈の爆笑と大声が響いてくる。
「あははは! もっと自信持ちなさいよ!! 情けないわよ!」
僕は聞こえなかった振りをしてリンクに戻った。
一番伝えなければならない人に無事に?伝えられたことに僕は安心していた。
……はずなのに、これは一体なんなのだ。
僕は翌日出勤した後、リンクの正面を呆然と見つめていた。
そこには手作り感満載の垂れ幕が下がっていた。
『九条コーチ、羽澄選手、結婚おめでとう!!!』
でかでかと書かれた文字をため息を吐きながら眺める。
「……こんなに立派に作らなくても良かったのに」
不意に隣から聞こえてきた声を軽く睨む。
予想通り麗奈が立っていた。
「これは、どういうことですか!?」
「練習後に可愛い生徒たちが『九条コーチの大切な話って何だったんですか?』って質問してきたからさ」
僕は思わず床にへたりこむ。麗奈にこの手の話を隠すなんてできるはずがなかったのだ。迂闊だった。
「こんにちはーーー」
「あっ、翔哉くんが作ったやつだ!!」
座り込んで頭を抱えるなか、学校帰りの生徒たちがやってきた。
一人満足そうに頷く男の子がいる。目黒翔哉。もともと選手コースに通っていたが、丞が才能を見出だして世界で活躍するジュニア選手へと成長している。
「おい、翔哉。お前か!」
中学二年生になってもやんちゃ坊主の頭をペシンとはたくと翔哉は悪戯っ子らしく笑う。
「麗奈コーチが教えてくれたんで!」
「あの人の言うことを丸飲みしないように」
「じゃあ、違うんですか?」
「違くはないけど」
「困ってる丞コーチもいいですね」
「こら! 丞コーチのことを馬鹿にしないの!」
こういうときにだけ丞の味方をする麗奈も大人げないと思う。
「それで、丞コーチ。羽澄選手はいつ来てくれますか?」
翔哉のキラキラ輝く瞳をじっと見つめる。
「残念でしたー! 連れては来ません!!」
「「えーーーー!!!」」
何故ブーイングの声があがるのだろう。そして何故一番大きな声を出しているのが麗奈なのだろう。
「みんな、丞コーチのお嫁さんに会いたいよね?」
「「うん!」」
「ということなんで宜しくね」」
バチンと音がしそうなくらい大きく麗奈がウインクする。
「はぁ……いつかですよ?」
「気長に待ってるわ」
もう一つ昨日伝えていなかったことがある。
「麗奈コーチ、二度目で申し訳ありませんが話があります」
「……おいでなさい」
もう一度事務室で向かい合う。
「それで、何かしら」
「麗奈コーチ、昨日に引き続きで申し訳ないです」
「変な前振りはいらないからどうぞ」
「……昨夜柚希ちゃんと話しました。そのときに決めたことがあります」
「いいわよ。聞きましょう」
麗奈が微笑んだ。寂しげな笑みだった。
「僕コーチ辞めます」
その一言で麗奈にはすべて通じたようだ。
「あーーまた丞と遠くなっちゃうわね」
「え?」
「新潟の羽澄神社にご奉仕するってことじゃないの?」
「なんで分かるんですか……」
「私は丞のコーチです」
僕を見て麗奈は笑った。麗奈の生徒だった頃に戻った気がした。
「これは偉そうなことだとは自覚した上で言わせてもらうけど……幸せになりなさいね。絶対に。でもね、人生ってそんな簡単じゃない。あなたが一番分かってると思うけど。……苦しいとき、辛いとき、頭の片隅にスケートや私、ここの生徒たちの顔が浮かんだのならいつでも帰ってきなさい。ここは……私はあなたのことをいつでも待っているから」
「麗奈コーチ……」
「あなたは今までたくさんの人を笑顔にさせてきた。もうあなた自身の幸せを考えて良いと思う。だけど忘れないで。九条丞は永遠の選手なの。たくさんの人があなたを待っている。あんたを目標にスケートを始めてるの。もちろん私も丞に会いたい。だから、二度とスケートに携わらなくなるのは私が許さないわよ?」
『もう決めたことだ』
そう言おうと思った僕の口から出たのは全く違う言葉だった。
「麗奈コーチ、今まで本当にお世話になりました。必ずまた会いに来ます」
「子どもでも連れてきなさいね」
「……」
「丞、まだまだ人生長いのよ? 存分にやりたいこと楽しみなさい。これまで丞に励まされた人、背中押してもらった人、勇気をもらった人はみんな丞に感謝してる。それで、きっとみんな思ってるよ。丞に幸せになってもらいたい、笑顔をずっと見ていたいって。もちろん私もその一人よ」
思わず僕は深々と一礼した。他のお礼の言葉が見つからなかった。
麗奈が近付いてくる。
「こんなこと婚約中の男にするのは間違ってると思うけど……」
遠慮がちに僕のことを抱き締めてくる麗奈に自分からぎゅっと抱きついた。
「丞!?」
「麗奈コーチはいつも試合後に僕のことをこうやって迎えてくれました。上手くいったときも、ボロボロだったときも……。カナダに行ったときにシンシアもそれを知っていてずっと続けてくれた。麗奈コーチは今でもずっと僕のコーチですから」
「丞……あんたのコーチになれたことが、あんたの基礎を作れたことが、私の誇りであり、幸せなのよ。知っておきなさい」
柚希が選手の間はコーチを続けることも伝える。
「そしたら、あとしばらくは大丈夫ね」
「はい」
「翔哉を世界一に連れていってあげてからやめなさい」
「……?」
「あの子はここに来たときに言っていた。『九条選手のようになりたい』って。今、憧れのコーチに見てもらえているのよ? 丞をもう一度世界王者に連れていく、そのために自分が金メダルをとって丞をコーチとしても世界一にするんだって今頑張ってるのよ?」
それは知らなかった。生徒の気持ちに気が付けないのはコーチ失格だ。
「丞?」
「分かりました。翔哉が金メダル取ったらそのときに伝えて引退します」
「言ったわね?」
「言いました」
「やっぱり止めるはなしよ?」
「麗奈コーチ、僕が自分の決めたことしなかったことなんてありますか?」
「……ふふ。ないわね」
「もうしばらくはお世話になります」
次回は『絶望の始まり (麗奈視点)』、明後日の更新予定です。
お楽しみに♪
もともと丞&麗奈で話を作ろうと思っていたのですが、丞視点が長くなったので分けます。




