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出着点 ~しゅっちゃくてん~  作者: 東雲綾乃
第1期 第3章 家族になりたい
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丞のラストラン Last Dance

 いよいよその日がやって来た。

 柚希と丞はそれぞれのホテルで静かな朝を迎えた。


 丞にとっては選手生活の集大成、最後の戦い、最後のフリープログラムの朝だ。


 朝早く、丞は最後の公式練習に向かうため部屋を出発しシンシアと合流する。


「体調は万全ね? 睡眠は十分とったわね?」

「大丈夫だよ」


 この言葉を聞けるのも今日が最後。そう思ったとたん、目の奥がツンとした。試合前には泣かないと決めていた丞は自然と溢れそうになる涙を必死に押し止めた。


「タスク。私はあなたと出会えて、あなたのコーチでいられて、あなたと共に戦えて、あなたの一番近くにいれて、本当に幸せだった。最後まで楽しませてちょうだい」

「シンシア…………」

「あなたは世界最高のエンターテイナーだものね。期待してるわよ?」


 丞は笑う。


「もちろん。楽しみにしてて」






(今日も特別な日になる)


 シンシアはそう感じた。

 オリンピックの時にも同じことを思ったような気がする。あのときは最終的に逆転を許してしまった。


 それでも心からそう思う。きっと最後の試合は特別な試合になる、と。そして、実際丞はショートで世界歴代最高得点を更新して首位に立った。

 オリンピックで痛めた腰の怪我が治り、完全に想いのままに滑ることができる今、丞に怖いものなど存在しない。


「タスク、行きましょう」

「オーケー」


 二人は会場行きのバスに乗り込んだ。……はずだったが丞は派手にステップを踏み外した。


「「わぉ!!」」


 思わず二人で同時に声が出る。


 丞は何事もなかったのようにバスに乗り込んできた。

 バスが出発する。丞がチラッとシンシアの方を見てくる。


「やっちゃった」


 丞は苦笑いを浮かべる。シンシアは軽く丞を睨む。


「試合直前にヒヤヒヤさせないで」


 丞は憎めない笑顔で見つめてくる。


「ねぇ、シンシア。今のは不可抗力。しょうがないよ」

「しっかりしてよ、二十一歳。最後の戦いに行くんでしょ。こんなとこでドジってどうするのよ」

「今だからだよ、シンシア。もうちゃんとするから怒らないで。ね?」

「はいはい、どこも痛めてないでしょ?」

「うん」


 シンシアが諦めぎみに適当に頷くと、丞はふぅと息を吐いた。





 その瞬間、隣に座る丞の表情が変わった。纏う空気が変わった。


((今日は、行ける))


 二人ともそう思っていた。





 バスが会場に到着した。

 今度は危なげなく丞は無数のカメラのフラッシュに取り囲まれながらバスから降り立つ。


 カメラに軽く会釈すると丞は真剣な表情のまま会場入りした。





 丞にとっては競技人生ラストの演技が控えているというのに丞は何ともいつも通りだった。

 シンシアの表情も常と何ら変化ない。

 朝の公式練習は二人の口元には頻繫に笑みが訪れ、丞は心から楽しそうに滑っていた。その背を追いかけてきたライバルたちの視線を一身に集めながら、曲練習ではすべてのジャンプをクリーンに決める。最後のトリプルアクセルを寸分の狂いもなく着氷し、静止すると会場中から優しい拍手が降り注いだ。


「タスク」

「帰ろっか」

「ええ。最高のショーにするために栄養を取りましょう」

「そだね」


 丞とシンシアは制限時間ぎりぎりまで練習し、ライバルたちが全員立ち去ってから会場を後にした。


 それが丞のいつも通りであった。









 そしてそのときは刻一刻と迫っていく。


 六分間練習も恙なく終わり、いよいよ丞の演技が近づいてきた。

 丞は抽選でオリンピックのと同じく最終滑走を引き当てている。


 最終グループの演技が続く。ついにウォームアップエリアで調整しているのは丞のみとなる。


「そろそろ行きましょうか」


 シンシアの言葉に丞は軽く頷くと荷物を手早く片付けウォームアップエリアから出る。

 リンクに近づくにつれ、歓声が上がってくる。ひとつ前もオリンピックのときと同じくエマニュエルだ。


 丞がリンクサイドとバックヤードを隔てるカーテンを開けて姿を見せた。


 丞の心は波風一つとして立っていなかった。静かに凪いだ心の奥深くでふつふつと熱いものが沸き上がっていることを丞の頭は冷静に見つめているようだった。


(きっとうまく行く)


 丞は自分に言い聞かせる。だって、柚希もこの会場のどこかで見守ってくれているのだから。


 エマニュエルの演技が終わる。丞がリンクインした。丞はリンクを周回しながら、ジャンプを二本飛ぶ。

 そのうちにエマニュエルの得点が出る。現在一位はヴォルフガングだった。









 リンクの内と外でシンシアと向かい合う。これが本当に最後の見送りだ。


「タスク。何も気にしないで、思いっきり滑りなさい」

「楽しみにしてて」


 丞はホテルでシンシアに言ったことと同じ言葉をかけた。


「行ってらっしゃい」

「行ってくる」


 二人の拳がぶつかり、丞は滑り出す。

 観客の大声援に覆われながら丞はリンクの中央へと進んだ。





 曲が始まる。

 会場が静寂に包まれる。





 四分と三十秒後。

 会場は大歓声に包まれていた。


 言葉が必要ない演技だった。完璧だった。

 微塵の揺らぎもなく、雄大に、壮大に大空を自在に駆け回る鳥を演じきって見せた丞は演技が終わったとたん、リンクに崩れ落ちるように膝をついた。





(やりきった……)


 肩で息をしながら、丞はそう思っていた。スタンディングオーベーションをしている観客に向かい、丁寧にレヴェランスをする。

 リンクサイドに戻りかけた丞は思わず固まった。シンシアが顔をくしゃくしゃにして泣いていた。頬に後から後から絶え間なく涙がつたっている。


「シンシア、ただいま」


 丞がそう言うとシンシアは泣きながら、それでも満面の笑みで腕を大きく広げた。

 丞はそこに飛び込んだ。


 上手くいったときも、ボロボロの演技しかできなかったときも、この腕はいつも変わらず優しく、暖かく力強く抱き締めてくれた。


「お帰りなさい。見事な演技だったわ」


 キス&クライに座った丞はシンシアの頬の涙をそっと指で拭いた。


「シンシア、ありがとう」


 丞は日本語で言った。


「ありがとう、タスク」


 オリンピックの後から、本格的に日本語を学び始めたシンシアが、まだ若干の固さはあるものの滑らかになってきた日本語で話しかけてくる。


「すごく、よかった」

「今までで一番ゾーンに入ってたかもしれない」

「そうね」

「ここまで成長できたのはシンシアがいたから。シンシアなしには絶対に世界一なんかなれてないし、引退するときにこんなに惜しまれる選手にはなれてなかった。だから、ありがとう」


 丞は途中から英語に切り替えて話した。シンシアはうんうんと頷きながら聞いていた。


「私もタスクのコーチでいられたことを誇りに思うわ。あなたのコーチになれたのは世界で二人だけだもの。そのうちの一人になれるなんてこんなに光栄なことはないわ」





 会場で手拍子がなり始める。得点を催促する期待の音が響き渡る。


 演技が終わってからかなりの時間が経過している。

 流石にそろそろ得点が発表されてもよい頃合いだろう。


 二人は並んで、手元に表示されている電光掲示板を見つめた。





 会場アナウンスが流れる。得点が掲示板に表示された瞬間、丞は呆然とその数字を眺めていた。243.96点。ショートプログラム同様に、世界歴代最高得点だった。オリンピックでミスをし、金メダルを逃したラストのトリプルアクセルは満点の加点を引き出した。丞は彼の実力で出し得る最高得点をラストの試合で出した。


 合計359.68点。これももちろん世界歴代最高得点である。丞は引退試合で自身が持っていた世界最高得点を全て更新して見せた。圧巻の引退試合であった。





 会場から悲鳴のような歓声が鳴り響く。丞は未だに信じられないと言うような表情で掲示板を見つめ首を振っている。


 動くことのできない丞にシンシアが隣から抱きついた。


「おめでとう、タスク。やっぱりあなたが真の王者よ。そして、この得点は、この演技は永遠に語り継がれる」

「ありがとう、シンシア」








 今までの丞のスケート人生における、汗と涙、笑顔、そして感謝が詰まった最高の金メダルだった。

 文句のつけようがない、フィギュアスケートとはこういうものだと体現してみせた。









 フィギュアスケートの真髄を表現しきったプログラムはシンシアが言った通り、スケート界において丞の存在とともに語り継がれる伝説の演技となった。

丞、ありがとう。

やっと丞に心から満足する最高の演技をさせてあげられました。

丞ファンの皆さんお待たせしました。

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