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出着点 ~しゅっちゃくてん~  作者: 東雲綾乃
第1期 第2章 世界一へ
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オリンピックが終わる

 公式練習の朝、唐突にバスで丞に言われた言葉に正直シンシアは動揺していた。

 別れを告げられた気がしたのだ。もしかしたら、丞は引退を考えているのではないかと。シンシアは頭を振ってその思いを消し去る。


(………まだ二十一歳よ。早すぎるわ)


 フリースケーティング当日の朝早く、まだ太陽が昇っていない時間にシンシアは目覚めると部屋から出た。

 外は凍りつくような寒さである。もちろん冬季オリンピックが開かれる場所なのだからそれなりに寒くないとおかしいが、今年の冬は例年よりも寒い気がする。





 丞との会話を思い出しながらシンシアは歩きだす。


(タスクは、いつもならあんなふうにお礼を言う子じゃないわ。今回、引退を考えているとすれば分かるけど……。だけどそんな重大なこと私に相談せずに一人で決断するようなことはないはず)


 今日の演技は特別なものになる予感がした。

 そして、シンシアがそう思ったときの丞の演技はいつも特別なものになる。

 世界最高得点を始めて叩き出した五年前のフリースケーティング。初めてのオリンピックでありながら圧巻の演技を披露してくれた四年前。試合前に高熱を出し、完治する前に挑んで見事優勝した三年前の全日本選手権。

 それらのときに感じた高揚感というべきなのだろうか、冷えた大地に熱がじわじわと広がっていくような感覚を抱く。





「ワーオ、シンシア?」


 ホテルの近くを歩いていると不意に声をかけられた。シンシアが顔を上げると、そこにはヴォルフガング・フシュケの姿があった。


「おはよう、ヴォルフ」

「おはよう、シンシア」


 二人は三十歳の差があるが、仲の良い友達でもある。

 丞が憧れているヴォルフガングはシンシアの滑りを生で見たことがきっかけでスケートを始めた。以前、一年だけ臨時コーチとしてヴォルフガングの面倒を見たこともある。


 シンシアにとってヴォルフガングは丞のように第二の子とまでは言えないが、一時期だとはしても大切な生徒であったことに変わりはない。


「早いわね」

「しっかり寝れないんだ」

「あの頃からそうだったわね」

「今でも試合の朝、言ってるの? 『体調は万全ね? 睡眠は十分とったわね?』って」

「当たり前じゃないの」


 ヴォルフガングは笑った。昇り始めてきた朝日に良く似合うカラッとした笑顔だった。


「あなたにも期待してるわよ」

「シンシアの期待に応えてみせるよ。まだ若手に負ける気はないから」


 明るい笑みの中に確かな自信とプライドをのぞかせると「じゃ」と軽く片手を上げ、ヴォルフガングはスイスの選手村へと戻って行った。





 太陽が昇った。空が明るくなった。





 約束していた時刻の五分前に集合場所に到着した。珍しい。思わずシンシアは拳を握った。


 時間通りに丞が部屋から出てきた。シンシアの顔をみて少し意外そうな表情を浮かべた。


「…………おはよう、シンシア。んっ~と、どうしたの?」

「どうしたとは何? しっかり時間守っただけよ」

「誰かに叩き起こされたの?」

「あんたよりずっと早くから起きてましたけど」


 いつも通り丞と軽く話しながら丞とバスに乗り、リンクへ向かう。

 最後の公式練習が待っている。


 シンシアは丞の顔をじっと眺めた。品の良いその顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。緊張の欠片も感じさせない、冷静で端正で精巧な彼の表現からは何も読み取ることはできなかった。珍しい。いつもならシンシアには丞の感情がなんとなく読み取れるのだ。


(完全に自分の世界に入っているのね……)


 バスが到着する。そして、丞はゆっくりと会場に入った。堂々とした背中をシンシアは追いかける。








 試合前最後の公式練習が中盤に差し掛かった頃のことだった。

 丞が滑らかにシンシアの元に滑ってくる。


「シンシア、もう大丈夫」

「そう?」

「うん」


 丞が自分の曲かけ練習を待たずに練習を切り上げることは基本的にありえない。

 それでもシンシアは丞の意思を尊重し、リンクを下りることに決めた。

 リンク裏に入るとすぐに更衣室に向かおうとする丞を引き留める。


「タスク。正直に答えなさい。痛むの?」

「いや。安静にしたいだけ」

「本当にね? 悪化してるのここで隠しても後で後悔するだけよ」

「大丈夫だよ」


 丞の「大丈夫」に騙されたことは何度もあるが今回は丞を信じることにした。

 本番前に無駄に動揺させないことが大切だ。それに自分が見ていた中で新たに怪我をしたような素振りも場面もなかったはずだ。






 いつもと同じ様子の丞がいつもと違う行動をとってから約七時間。いよいよ決着のフリースケーティングが始まった。


 六分間練習はショートプログラムとは異なり一通りのジャンプを跳び、丞は自信をもってリンク裏に向かう。





 時計の針は刻一刻と丞の勝負のときに近づく。





 最終滑走の丞がリンクに降り立つ。

 ひとつ前のエマニュエル・オステルメイヤー選手がかなりの高得点を叩き出した。ショートプログラムでの点差があるものの、丞も自己最高得点、つまりは世界最高得点を出すくらいの演技をしなければならない。

 それでも丞の表情には微塵の揺らぎもなかった。


「タスク、あなたならできる。行ってらっしゃい」


 丞はひとつ頷くとスッと拳を差し出してきた。二人の拳がぶつかった瞬間に丞はリンクの中央へと滑っていった。





 『火の鳥』が会場に流れ始める。

 丞はしっとりと演じきった『白鳥』のときとは打って変わり、風を切りながらスピードを出して滑り始めた。何度か翼に見立てた手を振りながら突然氷と強くけると丞は大きく空に舞い上がった。


 一、二、三、四と半分……


 きっちり四回転半回り、丞はクワッドアクセルを着氷した。そのまま勢いを殺さずに後ろへと滑っていく。怪我をしているとはにわかに信じられない。





 見ていたシンシアは不思議な感覚にとらわれた。丞が本当に鳥に見えたのだ。大空を自由に飛ぶ、若い鳥がそこでは一心不乱に舞っていた。


 もしかしたら観客もそんな気持ちなのかもしれない。丞がひとつジャンプを決める度に周囲のボルテージが一段ずつ上がっていく。


 最後がトリプルアクセルという珍しい構成のプログラムだ。

 その助走に丞が入った。





(それにしても、勢いがありすぎるわ……)


 飛び上がった…………はずだったが、丞はふわりと一回転半すると下りてきた。

 プログラムのクライマックスでのいわゆるすっぽ抜け、パンクと呼ばれる状況に、周囲から悲鳴が降り注ぐなか、丞はフィニッシュポーズをとった。





 それでも最後のアクセル意外はミスがなかった丞にスタンディングオーベーションをした観客から温かい拍手と歓声が降ってくる。


 四方に丁寧なレヴェランスをした丞がこちらに向かって滑ってくる。


「シンシア、ただいま」

「お帰りなさい」


 丞の表情には後悔の色は一切浮かんでいなかった。


 キス&クライで得点の発表を待っている間に丞に尋ねてみる。


「何があったの?」

「ジャンプの軌道に入ったときにタイミングが少し遅くなった。跳んだ瞬間、シングルアクセルになってしまったんだ」

「それまでが完璧すぎたものね。ただこれだけは言っておきたい。たとえアクセルでミスをしたとしてもあのジャンプも含めて完璧だったし素敵だったわよ。感動した」

「自分でも驚くくらい身体が軽くて空を飛んでるような気持ちだった」

「ゾーンに入ってた?」

「もしかしたら。最後跳ひ上がった瞬間に意識がはっきりしたから」




 丞の得点が出る。

 やはり点数が1.1倍になる演技後半のラストジャンプとだけあって、丞にとっては大きな得点源で武器でもあるトリプルアクセルの点を取りこぼしたのは痛手だった。

 文句の出る余地のない演技を披露したエマニュエル・オステルメイヤー選手にわずか0.26点届かず二位。フリースケーティングのみの点では三位のクロード・カスティーユ選手にも負けているが、ショートプログラムの得点がぶっちぎりの一位だったため踏みとどまった。


 手元の電光掲示板を真剣な表情で眺めていた丞が顔を上げて大型スクリーンに写し出された自身の姿を見つめる。シンシアにはそれまで満足気な顔をしていた丞がその瞬間にぐぐっと歯を食い縛るのが分かった。


「シンシア、ごめんね」

「何が?」

「金メダルかけてあげれなかった」


 少々かすれた声で話しかけてくる丞は、唇を薄く噛み、拳を強く握っている。リンクから上がってきたときには感じることのできなかった悔しさがありありと読み取れた。


(最後のアクセルはね…………悔しいよね)


「私、言ったわよね。最高の舞台で最高の演技をしなさいって。タスク、あんたはちゃんとしたじゃない。最後のアクセルも含めて私にはあんたが一羽の鳥に見えたわ。だから、今回はあなたらしい演技をしてくれたと思っている。ジャンプと表現、どちらも世界一のあんたらしい演技だったわ」

「…………」

「ありがとう、丞。今のあなたにとったら銀メダルなんて悔しい色でしかないかもしれないけど、私は嬉しいし、誇らしいわ」

「………ありがとう、シンシア」


 丞のことを大きくハグする。そのとたん会場中から温かい拍手が鳴り響いた。

 そして気がつく。未だにキス&クライにいたままだったことを。


 少し照れた表現を浮かべた丞が立ち上がる。


「みなさん、ありがとうございました!!! Thank you very much!!!」


 大声で叫んだ丞に会場からも「ありがとう」の声が降ってきた。シンシアも日本語を少し勉強しているので「ありがとう」は聞き取れる。


 思わず口に出ていた。


「タスク、アリガトウ」


 丞がこちらを振り返る。驚いた目に涙が浮かぶ。


「ありがとう、シンシア」


 初めて丞から日本語で話しかけられた。

 もう一度大きくハグをすると、丞とシンシアはリンクから去った。









 銀メダルを手にした丞が、金メダルのカナダ代表、エマニュエル・オステルメイヤーと、銅メダルのルクセンブルク代表、クロード・カスティーユと共にリンクを周回していたとき、ミラクルが起こった。









 丞は周回しながら笑顔だったが浮かない気持ちだった。


(シンシアはああやって言ってくれたけどさ、やっぱり金メダル掛けたかったな………。最後、しっかりアクセル決めきれたら、僕が一位だった………)



 それは写真撮影を終えた三人がそれぞれの国のカメラマンの前で撮影をしていたときのことだった。

 カナダのカメラマンたちの前で写真を撮っていたはずのエマニュエルが突然、日の丸を肩にかけて写真撮影に応じていた丞の前に滑ってきた。カメラのシャッター音が一斉に鳴り響く。


 信じがたいことが起こった。エマニュエルが自らの首に掛けてあった金メダルを丞の首に掛けたのだ。


「えっ!?」


 丞は思わずエマニュエルを凝視した。ライバルの、それも敗者の首に自分のメダルをかけるなんてことは普通であればあり得ない。


 そんな丞にエマニュエルは笑って言った。


「僕にとってはタスク、君が優勝だよ。君こそゴールドメダリストにふさわしい」

「なぜ? 僕は君に負けたんだ」

「僕はジャンプが成功したから勝っただけだ。でもそれは本来のフィギュアスケートじゃない」

「…………」

「君は以前のインタビューで言っていた。表現力では太刀打ちできなかったからジャンプの数を増やした、と。僕は真逆なんだ。ジャンプでは勝ったかもしれない。だけど、表現力では絶対にタスクに負けてる。グリーンルームで見ながら思ったんだ。鳥がいるって。ショートもフリーも君は一羽の鳥だった」

「エマニュエル………」

「君にとってのスターはヴォルフガング・フシュケかもしれない。でもそれと同じように僕にとってのスターは、タスク・クジョウ、君なんだよ」


 話していた二人のもとへクロードもやってきた。クロードは二人にとっては少し先輩だ。


「そして、僕の憧れはタスクとエマニュエルなんだよ」


 銅メダルも掛けられる。


「タスク、もっと自分を誇ってよ。そんな暗い笑顔じゃなくて、君には心からの笑顔が一番似合うよ」


 そう言ってくれたクロードの言葉に耐えきれなかった涙が零れてきた。敗北したときに勝者の前では礼儀だと信じて、一度も見せることのなかった悔しさとプライドと感謝と少しの喜びと言葉にできない想いが折り重なった熱い涙だった。

 エマニュエルとクロードと三人で固く抱き合った。


「ありがとう。今日一緒に戦えたことを誇りに思うよ」


 そう言って丞は自分の背を追ってきて遂に栄光を勝ち取った後輩と、自分を追いかけて強くさせてくれた先輩の首に彼らのメダルを掛け直した。


 軽くなった自分の胸元を見ると、それまで曇り空のような灰色にしか見えなかったメダルが明るい銀色に輝いて氷に反射していた。








 リンクから降りた丞は真っ直ぐとシンシアの前へ歩いていった。


「ありがとう、シンシア」


 シンシアは彼女にしても珍しい泣き笑いの表情で丞を抱き締めてくれた。


「私は今、最高に幸せ者よ」

「僕もだよ」



 シンシアの首にメダルを掛ける。


「銀でごめんね」

「いいのよ。まだこれからも一緒なんだから」



 シンシアに金メダルを掛けるまではまだ、あいつらと金メダルを競い合っていたい。

 そう思うことができたときには丞はすでに次を見据えていた。


「シンシア、世界選手権で金メダルとってくるから」


 シンシアは微笑んだ。その目から一筋の涙が流れた。


「それじゃあ、行きましょうか」


 二人は並んで歩きだした。

いろいろ詰め込みすぎていつもの倍になってしまいました(・・;)(;^_^A


たくさんの人の思いの籠った銀メダル。次は柚希の番ですね。


次回は『スイスに行こう』、明日の更新予定です。

いよいよ柚希の初めてのパラリンピックが幕を開けます。

お楽しみに♪

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