羽澄神社の祭礼
新年になった。いよいよ夢を叶える年がやってきた。元旦、柚希は紬と二人で羽澄神社へ向かって参道を歩いていた。
羽澄神社の正月は毎年、全国からやってくるスポーツに取り組んでいる大勢の人で賑わっている。そのため、人混みの激しい参道を歩いている二人もさほど目立ってはいない。
「柚希と一緒に初詣するのは初めてだね」
「そっかぁ。わたし毎年オーストラリアで年越ししてたもんね」
「そうそう。日中に電話繋いで明けましておめでとうって言いあうくらい」
「今年からは一緒に年越せるもんね」
「ね!」
「とりあえず今年の抱負を神様にしっかり伝えなくちゃ」
世界最高峰の舞台に挑む直前の二人は他愛無いことを語り合いながら、何者かの手によって雪が退けられている参道をさくさくと歩いていく。
「柚希は何をお願いするの?」
紬の問いかけに柚希は少し考える素振りを見せながらも答えた。
「今年一年も大きな怪我をせずに笑顔で過ごせますように、かな」
「ふふっ。やっぱ柚希らしいね」
「そう?」
「今年こそはパラリンピックで金メダル取れるようにってお願いするかと思ったけど」
「だって、試合に勝てるかは願掛けすることじゃないでしょ」
続きを言おうとした柚希を紬がにこりと微笑んで止めた。そして少しばかり笑みを深めて言った。
「試合に勝つか負けるかは実力なんだから……でしょ?」
「紬!?」
「だって毎年、電話越しでもおんなじこと言ってるもん」
手水舎で手と口を清めると、二人はお賽銭を待つ長い列の最後尾に付く。
何人か前の方にナターシャがいるのが分かった。ナターシャは普段フローラと共に行動しているが今日はひとりで過ごしているようだ。
人の波はジリジリと前に進んでいく。
賽銭箱がようやく近づいてきたというところで和太鼓の太い音が聞こえてきた。拝殿を見上げると誰かが太鼓を叩いていた。そしてその太鼓の脇から何人かの人が静かに拝殿に進み出ている。前から三人目の人は妙に見覚えがあった。柚希は若干背伸びしながらその人をじっと見る。
「……あっ!!!」
思わず声が出てしまった。その人が間違いなく紫苑だったからだ。
突然声を上げたことで周囲の人から懐疑的な視線を受ける。それと同時に微かなざわめきも起こった。おそらく柚希と紬の存在に気付いた人がいるのだろう。
「柚希? 前空いてるよ?」
ずっと紫苑の動きを目で追っていると、不審に思ったらしい紬に声をかけられた。
「あっ、ごめん。ありがとね」
慌てて前へ詰める。それでも自然と目は紫苑に向かってしまう。
拝殿内では儀式がゆっくりと執り行われている。それを見ていた柚希は不意に紫苑がこっちを見た気がした。間違いないだろう。紫苑は一瞬あっ、という顔をしたあとこちらをチラチラ見ながら儀式をしている。
その様子が何とも可愛くて思わず柚希は笑みをこぼしてしまった。
柚希と紬の番がようやくまわってきた。お賽銭を投げ入れ、柏手を打ち手を合わせる。
(今年一年も大きな怪我をせずに笑顔で過ごせますように……)
一礼して、顔を上げると隣では紬がまだ祈っていた。気がつけば紫苑もいなくなっている。儀式は恙なく終わったらしい。
しばらくして紬が顔を上げた。柚希の方をちらりと見ると紬は笑った。
「柚希の方がだいぶ早かったね」
「紬は絶対祈りすぎ」
二人で話しながら境内を歩いていると後ろから声をかけられた。
「Happy new year! Yuki,Tsumugi!!」
明けましておめでとうと言いながら二人の名前を呼んだのはナターシャだった。
ナターシャが紬と帰りに寄る店について相談しているのを横目で見ながら柚希は考え事をしていた。
「……あのっ! わたしこれからひとりで行きたいとこがあるから一抜けしてもいいかな?」
「もちろん。いってらっしゃい!!!」
日本語で尋ねた柚希に対し、日本語で答えた紬はそう答えるとナターシャに通訳した。そして、ナターシャも許してくれたので柚希は二人と別れて歩きだした。
何をしようとかあまり考えていない。ただあの人に会いたかっただけだ。
柚希は境内を奥へと歩きだした。
ところが……
目的地であった、そして会いたかった人がいると確信していたはずの弓道場は静まり返っていた。
「……え?」
引き戸が微かに開いている。的場に面している方のシャッターは三か所あるうちの一つが開いていた。おそらくやはりここにいるのだろう。
柚希は罪悪感を抱きながらも射場を覗き込む。
そして、軽く悲鳴を上げる。
そこには一人の男の人が倒れていたのだ。
柚希は慌ててその人に駆け寄る。呼吸を確認しようとその人の額にかかっている柔らかい髪をそっとどかすと差し込んでいる光に照らされ、その人が紫苑であると分かった。
柚希はその胸を見て安心した。その胸は静かに規則正しく上下に動いていた。
いったいどれほどの時間が経っていたのだろう。紫苑の隣に座っていた柚希は隣の空気が微かに動いたのを感じて目を開ける。
「んーーー寝すぎた」
独り言を呟きながら目を開けた紫苑は、まだ覚醒し切っていない寝ぼけ眼を柚希の方に向ける。そして固まった。
「…………柚希?」
その声はいったい誰に何を確認していたのか。
「柚希?」
「そうです。羽澄柚希です」
「あぁ目覚めたら目の前にいるから幻覚かと思って焦ったわ」
「本物ですよ」
「良かった」
二人で笑いあう。柚希にはどうしても紫苑に聞いておきたいことがあった。
「なんでここで横になっていたんですか?」
「いやあ、外は息がしにくいからね」
「…………」
「そんな顔しないでよ。ここが僕にとっては一番自分らしくいられて、一番居心地がいいってだけで」
「弓引いているのかと思っていました」
「もちろん、引いてはいたけど。寝ちゃいました」
柚希は笑う。これほどまでに神聖な空気が満ち溢れているこの場所で神主の息子は『寝ちゃいました』だそうだ。
「というか紫苑くん、勝手に入っちゃってごめんなさい。倒れてるのかと思ってただただ必死で」
「いや別にいいんだよ。それに元はと言えば柚希だって家族なんだから当たりま……………………」
「……………………」
「……………………」
『当たり前』と言いたかった紫苑の声が不自然に途切れ、沈黙と静寂が広がる。
そしてその途切れ方で柚希も確信するしかなかった。
「……………………知ってたんだ。紫苑くん」
「………………………………うん」
先ほどの沈黙とは比べられないほど躊躇した紫苑は柚希の視線に耐えかねたかのようにようやく首を縦に振った。
「最初に会ったときに言わなくてごめん」
「いい」
「柚希にとって大事な年なのは分かってたからとりあえずパラリンピック終わるまでは友達のままでいて、終わってからタイミング見て言おうと思ってた」
「そっか。わたしもどちらにしてもメンタル影響されるだろうから、パラリンピック終わるまではうやむやでもいいかなって思っていたんで。おあいこですね」
紫苑が少し俯いていた顔を上げる。
「柚希。…………敬語やめて」
「え?」
「……家族にも敬語使われるのはキツイって」
「紫苑」
「……!」
自分から言ってほしいと頼んだくせに柚希が紫苑の名を口にすると彼は目を丸くして、しばらく停止した後、顔に浮かんでいた曇りは影を潜め鮮やかな笑顔だけが残った。
柚希にも『紫苑』という言葉は優しく響いた。なんともしっくりくるもので、在るべきものが在るべきところに戻ったような安心感があった。
「紫苑。わたしはただいまって言ってもいいの?」
「もちろんだよ。…………おかえり、僕の大好きな柚希」
「ただいま、私の大好きな紫苑。戻ってきたよ」
パラリンピックイアーの元旦であるこの日、柚希は十五年ぶりに己の片割れと再会した。
次回は『記憶の整理と明日への一歩』、金曜日の更新予定です。
お楽しみに♪
GWなので毎日更新できるように精進します




