丞の不調
オリンピックがあと二ヶ月に迫ってきていた。丞は本番に向け、練習に励んでいた。
それは年が変わってすぐのことだった。ジャンプ練習をしていたとき、クワドアクセルの着氷に失敗し、丞は派手に尻もちをついた。ジャンプで転ぶことは練習では日常茶飯事だ。丞は氷をはたき、立ち上がった。
そのままリンクをグルグルと周回する。何かがいつもと違う気がした。今日は跳んだジャンプを全て転倒している。
「タスク。どこか痛めた?」
コーチに聞かれた。
「いや、別に……」
怪我をしたわけではない。丞は否定した。ただ身体を重く感じているのだった。自分の中の違和感を素直に口にする。
「なんか、身体が重い」
心配そうな表情をしたコーチが顔を覗いてくる。
「休んだ方がいいわ」
「たぶん気のせい。大丈夫だから練習するよ」
「そうは見えないけど」
丞は少し笑う。
「そんなに心配しなくて大丈夫だよ」
「世界一になっても自分に対して過信しすぎなとこは直らないわね。いい!? オリンピックまであと少しなのよ! 今怪我することだけはなんとしても避けないといけないでしょ!!」
「もう僕二十二歳だよ? 自分のことは自分で管理してるから」
「何言ってんのよ!? 試合当日に寝坊するのは誰? しょっちゅう忘れ物してるのは誰!? 偉そうに管理してるとか言うのはできるようになってからにしなさい!!!」
コーチの特大雷が落とされた。一瞬震えた丞は「はい」と頷いた。
「はぁぁぁ。全く、二十一歳になっても世話が焼ける……」
(シンシアも過保護なんだよな…………)
丞は苦笑する。
高校一年生の春からずっと丞はこのシンシア・アトキンコーチの元で練習している。母は一緒にカナダで暮らしていたが数年前父が待つ日本へと帰国した。現在、丞はリンク近くのアパートで一人暮らしをしている。シンシアは丞にとって第二の母のような存在である。
丞はもう一度滑りはじめる。ジャンプの軌道にはいる。しっかり踏み込んで完璧なフォームで跳び上がった……はずだが着氷が乱れる。
シンシアが撮影した動画を確認する。やはり大きなミスはない。僅かにタイミングがかみ合っていないとしかいいようがない。ただ、この僅かなズレが試合では命とりである。ピースがずれ、はまらないパーツが続出してしまう。
「一度日本に帰る?」
「ん?」
「しばらく帰国してないでしょ」
「金メダル取ってから凱旋帰国するから今はいいかな」
「でも、わたしには精神的なものに感じる。一回家族のもとでゆっくりしておいでなさい」
そうかもしれない。特にここ一年ほどは自分と周囲の気持ちの隔たりがはっきりとしていた。
丞自身は最近以前ほどには勝利を考えなくなっていた。勝つことよりもスケートができることが楽しいのだ。そして完成度の高い演技を披露することが何よりも楽しいものになっていた。それでもメディアやファンは優勝することを喜んでくれるし、オリンピック連覇を期待してくれている。
それをコーチが心配しているのも分かっていた。オリンピックという舞台でその小さな隔たりはきっととても大きな溝となるだろう。すると、満足できるパフォーマンスができるかは分からなくなる。
丞は少し考えたが首を振った。
「僕はここに残ります」
「そう?」
少し寂しげな微笑みをコーチは浮かべた。
「練習熱心なのはいいことだけどタスクのお母さんと同じく子をもつ母としてはしっかり休んで欲しいところだわ」
「…………そしたらせめて、カナダで一日遊びたい」
「あら」
丞はカナダにきてから一度も観光地を訪ねたことはない。カナダには遊びに来たのではなく、練習に来たからだ。
コーチの家族と共にナイアガラの滝にドライブしに行こうと誘われたときも丞は練習を優先した。
「そしたら今週は明後日暇だからどうかしら?」
「僕も大丈夫」
練習するはずだったのにいつの間にかミニ旅行に行くことになっていた。
そして二日後。予定の時刻は朝早くだ。オリンピック前に余裕ぶっこいていると噂にならぬよう丞は髪型を変え、ニット帽を被り、マスクを着けた。以前柚希に会いに行ったときにはサングラスもつけていたが逆に目立っていると指摘を受けたので今回はやめておこう。
服装もトレーナーとジーンズという無難な格好にしておいた。たとえバレてしまっても丞のファッションセンスの肩書が傷つかない程度のオシャレはしつつ。
支度を終え、シンシアコーチからの連絡を待つこと二十分。予定時刻より十分ほど経ってからコーチからメールが入った。まだ人は全然いない。丞は家から出ると素早く停車中の見覚えのある黒い車に近づいた。
「Hi! タスク。おはよう。よい朝ね!」
コーチは遅れたことを詫びる素振りを微塵も見せず、笑って手を振っていた。
丞が乗り込むとコーチは車を発進させた。
ナイアガラの滝はそれほど遠くはない。会話しながら車に乗っていれば二時間もしないうちに到着した。
車から降りると空気が少しひんやりとしていた。滝を綺麗に見ることができるスポットまで二人は歩く。
「おぉーーー」
突然目の前が大きく開けた。思わず声が出た。朝日が登るのを背景に大量の水が大きな音を上げながら壮大な滝を流れ落ちていた。
何年カナダにいたのだろう。こんなに近くにいたのに一度も見たことがなかった。驚くほどテレビで見る姿より何倍も雄大で迫力があった。
思わず子供のようにはしゃぐ姿をシンシアコーチが優しく見つめていた。
「そろそろ気分転換はすんだかしら」
どのくらいの時が経ったのだろう。太陽はけっこう高くなっていた。食い入るように滝を見つめていた丞にコーチが声をかけた。
丞は慌てて声のした方を見る。
「うん。大丈夫」
丞が頷くとコーチは颯爽と歩き始めた。
「シンシア?」
「いいから来なさい」
首をかしげながら丞はコーチの後ろを追いかける。ある建物の前でコーチは立ち止まった。そして、その建物に入る。
中に入ると一気に周囲の音が遠ざかった。こじんまりとした小さな店である。コーヒーのよい香りが漂っている。
席に着いた丞が周囲を見回しているうちにコーチはオーナーらしき人と話していた。
「シンシア?」
「タスク、なに頼むの?」
丞はホットコーヒーを注文する。しばらくして暖かいコーヒーが届く。一口飲むと口の中にじんわりと甘さが広がった。
「まったく、ブラックじゃないなんて……。シュガーとミルクなんてお子さまじゃないの」
コーチがからかってくる。が、そんなことは気にならないくらい彼の淹れたコーヒーは美味しかった。
コーチも丞をからかうのをやめ、コーヒーを堪能している。もちろんブラックコーヒーを片手に。
「シンシア、このお店よく来るの?」
「……ええ。わたしが幼い頃からよく母につれてきてもらっていたわ。ここは私にとって思い出の場所なの。オーナーのお父様には本当にお世話になったわ」
懐かしそうな目でコーヒーの水面を眺めているコーチを丞は少し意外に感じながら見つめていた。コーチは常に笑顔で明るく、さばさばした性格だと思っていた。こんな風にしんみりと語ることがあるとは思っていなかった。
「ありがと」
丞が言うとコーチは目を丸くした。
「何が?」
「連れてきてくれてありがとう」
コーチはくすりと笑う。
「当たり前でしょ?」
「なぜ?」
「わたしはタスクのコーチよ。愛弟子が調子でないときに支えなくてコーチなんて言えないわ。こっちに来てから練習の鬼だったあなたが、出掛けたいなんて言ったのよ? ここに連れてこなくてどこに行くのよ」
『愛弟子が調子でないときに支えなくてコーチなんて言えないわ』
その言葉が頭の中で温かく優しく響いた。
(…………オリンピックで僕はシンシアのために金メダルが取りたい)
初めて心からそう思えた。今まで一番傍で支えてきてくれた、スケート以外のことも含めて知識を余すことなく授けてくれた人生の先生に報いるためにはオリンピックという世界一の大舞台での金メダルで証明するしかないのではないか。
そう思ったら心の奥底からふつふつと力が湧いてきた。近年は消えかけていた勝利への執念だった。オリンピックで負けてたまるか、という想いが胸の中を渦巻く。
愛弟子の気持ちの変化を感じ取ったのだろうか。コーチが笑って言った。
「じゃあ、練習しに帰りましょうか」
「うん」
美味しいコーヒーをもう一度口に含むと、丞は立ち上がった。
あと二ヶ月で本番だ。
次回は『羽澄神社の祭礼』、明後日の更新予定です。
お楽しみに♪




