小さな勇気
それからしばらくは同じことを繰り返していた。
毎朝起床するとランニングをして朝食を食べ、トレーニングをして、少しだけ読書をして、寝る。
そんな生活も常に周囲の笑顔があり、日常的に英語を話すことによって自然と語学力も向上し、毎日しっかり練習できることでスキーの技術も向上し、そして何よりも大好きな日本で生活できていることに柚希は感謝していた。
やはり、日本で滑るのは気持ちの面で安心感が違うのだ。
そして、毎日練習も晩飯も終わり、時間があるときはチームメイト全員とひとつの部屋に集まって話し合いやゲームをする。その時間は一日の疲れを癒すのにうってつけで、たとえうまく行かずに落ち込んでるときには前向きになれる時間だった。
結構広い部屋である。テーブルが五つ置いてある。その他にホワイトボードが一台と、ソファーが三つある。正面では昔ながらの薪ストーブがパチパチと音を立てながら燃えていた。全員が思い思いの場所に座っていても部屋全体が暖かかった。
ここに来て柚希は薪ストーブの暖かさを理解した。今まで電気ストーブを使用していたが暖かさが段違いだった。人それぞれだろうけど。
「柚希?」
少し考え込んでいたら不審に思われたらしい。隣に座っている紬が心配そうに覗いてきた。
「あ、ごめん。大丈夫」
「もう、柚希は時々どこか違うとこ見てるような目するから心配だよ」
それは自分でも知らなかった。
「違うとこ?」
「うん。なんか宇宙を見つめているみたいな」
「なにそれ」
柚希が笑うと「そんなことないか」と紬も笑った。そして少し真剣な表情になり、ガタリと立ち上がって正面に立つ。
「それじゃあ話し合い再開するよ」
今はフローラたちアメリカ勢の壮行会の話し合いをしていた。彼女たちにとってはオリンピック出場がかかる大事な大会だ。
紬にとって彼女たちはライバルだが一番率先して壮行会の話し合いに参加しているのも紬だった。
「ねぇ、ツムギ。あなたたちも練習したいだろうし、そんなに盛大にやってくれなくていいのよ?」
机の向かいに座っているアメリカチームのメンバーの一人、ナターシャ・リンドが言ってくる。ナターシャは三十歳で生粋のアメリカ人だ。そのため日本語が話せない。
それでもナターシャはフレンドリーで優しい性格だ。ナターシャはフローラと同じ部屋で暮らしているので柚希と紬にとっては隣人だ。ナターシャと交流を持とうとして英語を真剣に学んだ結果、柚希は英語がけっこう話せるようになった。
「いいの、ナターシャ。私たちがあなたたちの応援がしたいんだから」
「それでも…………」
「ナターシャ。みんなの気持ちありがたく受け取っておきましょ」
ナターシャを優しく止めたのはフローラだった。
それでも少し悩むような素振りを見せていたナターシャはひとつ頭を振った。
「それじゃあ、お願いするわ」
「任せて」
紬が笑う。
それからは話が早い。なんだかんだ皆こういうパーティーは大好きなのだから。アイデアが次々と出てくる。
盛り上がっている周囲を柚希が眺めていると、ナターシャがテーブル越しに柚希の方に身を乗り出してきた。
「ねぇ、ユキ?」
「どうした?」
「ちょっといい?」
二人で廊下に出る。ふとあの日のことが頭をよぎった。蒼依に屋上に呼び出された日のことを。疎遠のまま既に三年という月日が流れてしまった。だからこそ蒼依からの手紙が嬉しかった。
「ねぇ、ユキってフルート吹いていたのよね?」
「そうだけど?」
「私たちに応援ってことで一曲吹いてくれない?」
「えっ!?」
「ユキのフルート聴いてみたいわ」
久しぶりにフルートという単語を聞いて頭がフリーズした。固まっている柚希にナターシャは優しく笑いかけた。
「ユキ、私にとって今回のオリンピックは年齢的に最後のオリンピックなの。もちろんフローラにも負ける気はないけど、ユキに励ましてもらえたら頑張れる気がするのよ」
「気が向いたらお願いね」みたいなことを口にしながらナターシャは話し合いが行われている部屋に入っていった。
柚希は自室に戻った。あの部屋に戻る気にはなれなかったのだ。ひとりでいられるうちにしておきたいことがあった。
机の引き出しをそっと開ける。フワッと微かに風が起こった。その中にはフルートのケースが入っている。
不思議なものだ。自分の目標を全部達成させるまで、夢ノートに書いたことを全部達成させるまで、二度と吹かないと決めていたのに、オーストラリアに行くときも新潟に来たときも気付いたときにはついスーツケースに入れてしまっていた。
ケースに指が触れる。そっと取り出して机に置くまでは良かったものの蓋を開くことはできなかった。怖かった。あの頃のことを思い出しそうで。ケースに触れた指先の震えのせいでケースがカタカタと音を立てる。
震える指を総動員して蓋を開くと、中には銀色に輝くフルートがあの頃と同じように入っていた。
取り出して組み立ててみる。コンクールの日のことを思い出す。先輩に殴られた感覚が蘇る。
(楽しかった思い出も、嬉しかった思い出も、辛かった思い出も、苦しかった思い出も、このフルートは全部抱えて仕舞いこんでくれてるんだな……)
それでも何故かまた吹いてみたいと感じることができた。こんなに怖いのに、こんなに震えているのに、何故かワクワクしている。
柚希はフルートを一度解体し、ケースにしまうと部屋から出た。
真っ直ぐと歩きだした柚希の行き先は決まっていた。フローラやナターシャたちの応援と言うよりかは、自分の再出発といえるかもしれない最初の音はあの人に聞いて欲しい。
どんな関係なのか分からないけどそう思った。
柚希は外出届を提出すると闇の中へと足を踏み入れ、真っ直ぐに歩いていった。
いつの間にか震えは消えていた。
次回は本当に『世界女王の姉妹』、月曜日の更新予定です。
お楽しみに♪




