紫苑と弓道
射場の隅で練習風景を眺めていた柚希は次第に紫苑の射に引き込まれていった。
弓を構える仕草、的を見つめる厳しい視線、矢が離れる直前の緊張感、的にあたったときのパンという弾けるような音。紫苑の射には丞のスケートのように溢れ出るオーラがあった。
約三十分、柚希は射場の片隅に佇んでいた。
練習を終えた紫苑は、片付けをして、きっちりと神棚に向かって礼をすると柚希のところへと歩いてきた。
「なんか……せっかくお越しいただいたのに立ち見をさせてしまい申し訳ありませんでした」
「いえ、とんでもないです。すごくきれいで驚きました」
「そうですか」
紫苑は軽く笑った。その顔は少々自慢げで、それでも何故か憎めなかった。
紫苑が柚希の前に正座する。見下ろすような形になり、慌てて座ろうとした柚希を「お気になさらず」と軽く手を上げて止めた紫苑は深く頭を下げた。
「改めまして、羽澄紫苑です。高校三年で卒業後は神官を育てるための学校に通うことが決まっています」
「こちらこそ、はじめまして。羽澄柚希と申します。同じく高校三年です。今シーズンのパラリンピックで金メダルを獲得することが目標です」
「自信の程は?」
「そりゃもちろんありますよ。無いなら金メダルなんて言いません」
「何故それ程自信があるのですか?」
「そう言えるだけの努力をしてきましたから。汗も涙も挫折もたくさんしてきました。あと足りないのは試合の経験と栄光だけです」
「かっこいいですね」
柚希は思わず赤面する。
「そんなことないです、誉めすぎですよ」
「羽澄選手は本当に強くてかっこいいですよ?」
「あ、ありがとう、ございます。でも羽澄さんの弓道の方がかっこいいですよ」
しどろもどろになりながら柚希がお礼を言うと紫苑は少し視線をさ迷わせたあと言った。
「なんか、羽澄さんって言われるとどちらを指しているのか分からないので、もしよろしければ私のことは紫苑で結構ですよ」
どこまでも控えめな紫苑は「羽澄さんでも別に構いませんけど」とフォローしてくれた。
「じゃあ、お言葉に甘えて紫苑くんと呼びますね。同級生だし、わたしのことは柚希で大丈夫です」
「そしたら、柚希」
『柚希』なんて何千回、何万回と聞きなれていたはずだった。それでも紫苑の口から発せられたそれを聞いたとたん脳に雷が落ちたような感覚がした。
「紫苑くん……」
思わず柚希の口からもその言葉がこぼれ落ちる。
「柚希、また僕の射を見てくれる?」
「も、もちろんです!」
柚希はそのあと弓道場の隣にある大きな平屋の建物に案内された。
「ここは……?」
「僕の自宅」
「はいっ!?」
大きすぎる。それまでとても広いと思っていた柚希の家が丸々入る――いや、それよりも大きい建物だ。
「ご家族と暮らしていらっしゃるのですか?」
何故そんな話題を口にしたのか分からない。
紫苑はずっと浮かべていた優しげな笑みを一度引っ込めた。すぐに復活したけど、それは何かを隠しているような表情に見えた。
「…………」
「あ、なんでもない……」
「僕には母がいないんだ。この家には父と巫女の皆さん、そして神官の方々が暮らしてる」
「お母様、そうなのですね……。それにしても結構大勢の人が暮らしていらっしゃいますね」
「柚希の家も広いって聞いたことあるけど」
紫苑がからかうように尋ねてくる。
「紫苑くんは弓道好きですか?」
柚希が尋ねると紫苑は少しだけ首を傾ける。
「うーん、どゆこと?」
「いや、なんか生まれたときから神社の跡取りだって決まってて、流鏑馬あるから弓道習うって決まってるのは辛くないのかなって……」
「柚希はスキー好き?」
質問に質問で答えるのはずるくないだろうか。
「好きですよ? スキーがあったから生きていけてるから」
「でしょ?」
「どういうこと?」
「僕も同じ。流鏑馬とか弓道があるから毎日生きていけてる。というか他のスポーツとか体育の授業以外でやったことないから分からない」
「辛くはない……と」
「そういうこと。そういうものだって思えばこの家に生まれてきたのも意味がある」
「なるほど………」
柚希は紫苑に質問をたくさんした。弓道のこと、神社のこと、新潟での暮らしのこと…それでも、ひとつ聞けなかったことがある。それは、家族のことだ。
『あなたのお母様はわたしの母かもしれませんよ』
本当はそう言いたかった。だけど、言おうと思ったところで不安になる。それを知った紫苑はどう思うだろう。否定するのではないだろうか。それに、自分と紫苑が双子だという証拠は全くないのだ。
結局、柚希は紫苑にそのことを聞くことはできなかった。
気がつけばもう夕方になっていた。空が赤く染まっている。
「長い間ありがとうございました。そろそろお暇させていただきます」
柚希がお礼を言うと紫苑は軽く眉を上げた。
「そんな堅苦しい挨拶は抜きで大丈夫ですよ。僕こそ久しぶりに同年代の人と話せて楽しかったので」
そう言った紫苑の目は明るいと言うには些か無理のある光を宿していた。
「送りますよ」
そう言って柚希の隣を歩き始めた紫苑はしばらく真っ赤な空を眺めていたが、やがてポツリと呟くように声を発した。
「さっき、柚希は辛くないかって聞いてきたけど、辛くはないけど、苦しいことはある」
「紫苑くん?」
「前から友達があまりできなかった。あの妙な噂が流れてるせいで」
「あ……」
昨日の紬の言葉が頭をよぎる。
『ここの神社はね、ご利益めっちゃあるの。それに、本当に神様いそうな感じしない? シャキッと背筋が伸びる感じあるでしょ』
そしてもうひとつ。
『あとね、ここの神社には魔物が住んでるって言われてんの。もちろん本当にご利益あるから誰も信じてないけどね、ずっと広がってる噂。ここの宮司さんの息子には魔物が取りついていて人の記憶を読めるとか、死んだ後に戻ってこれるとか……地元の人こそ信じてないけど、ちょっと信じたくなる感覚はあるよね』
思い出しても紫苑のことを怖いとは思えなかった。こんなに親切で穏やかで優しい人に魔物なんて取り憑くはずがない。
紫苑が軽く笑った。
「柚希も思う? 僕に魔物がいるって」
柚希は強く首を振った。
「思わない。話してみてそんな人じゃないって分かった。だけど……みんなは思うかもしれないね、本人をしらないから」
「そもそもみんな近づいてこないから友達とかできないんだけどね」
「それはきっと紫苑さんがあまりに魅力的だからだと思います」
照れすら感じさせずに微笑む紫苑の笑顔はとても美しい。しかしどこか痛々しい。
(今までもこういう噂を聞く度に、囁かれる度にこうやって笑ってきたのかな……)
何故か自分が苦しくなった。本当に苦しいのは紫苑のはずなのに。
「昔、学問の神様を祀っている神社の息子さんは絶対に受験で受からなくてはならないプレッシャーがあるって聞いたことがあるけど、僕も似てるのかな。スポーツの神様を祀っている神社の息子はスポーツの試合で負けることができない。まぁ、スポーツとか偉そうに言って弓道しかやったことないけど。それに弓道は武道だからスポーツじゃないし」
「…………」
黙っている柚希を一度見つめた紫苑は再び空を見上げた。
「…………ここに生まれたことを、この立場でいることを、恨んだりはしないけど、もっと気楽に生きていける家庭に生まれたかったなって思うことはある」
ポツリと呟かれたその言葉は赤みを増した夕暮れの空に吸い込まれていった。
次回は『手紙』、土曜日の更新予定です。
お楽しみに♪




