部屋に籠った怒り
凌久が来た次の日は日本到着から三日目。柚希が家にいるのはこの日を含めてあと二日だ。
外には重い雲が厚く垂れ込めており、雨が降っていた。
外出する気にはさらさらなれなかった柚希は運動も兼ねて広い家のなかを歩き始めた。階段を降り、ひとつの部屋の前で立ち止まる。
ここは懐かしい部屋だ。昔、凌久が我が家に来ていた頃はここで咲来と三人で遊んでいた。我が家の部屋の扉には基本鍵はかかっていないため柚希は躊躇いなく扉を開けるとその部屋に入った。
「あれ? こんな部屋だったっけ」
柚希が驚いたのも無理はない。その部屋にはベッドや棚などあの頃にはなかったものがたくさん置かれて生活感溢れる部屋になっていたからだ。
「誰かこの部屋に住んでいたのかな?」
柚希は過去を思い出す。柚希の記憶のあるかぎりこの部屋を使っていそうなのは、柚希が入院している間暮らしていた凌久か、柚希がリハビリ病院に移動する前日に泊まった丞以外いないだろう。
「もしかしたら……凌久かな」
何の根拠もないがそう思った。懐かしいこの部屋で過ごしたいと凌久が言ったのなら理解できる。そして母と咲来は嬉々として部屋の準備をしたのだろう。凌久が恐縮している姿が容易に想像できてしまい柚希は声を出さずに笑みを漏らした。
長年我が家に慣れ親しんでいる凌久はともかく流石に丞には客室で寝てもらっていただろう。
そんなことを考えながら柚希はまた廊下に出た。
長い廊下の突き当たりにはひとつのドアがある。心持ち周囲の空気より暗くて冷たい気がする。
以前入ろうとしたときには珍しく鍵がかかっていて入ることは叶わなかった。そして、その事を伝えたときの母の取り乱し様は凄かった。それからは怖くて母に尋ねることはできていない。
あれから十年ほどが経過した。今なら何か変わっているかもしれない。あの部屋の空気も、母の態度も。
(とりあえずドアノブを回してみて開かなければ諦めよう)
そう自分に言い聞かせるようにして柚希は扉の前まで歩いていく。
ドアノブに手を掛ける。
ドアはギギという微かな声をたてたものの静かに開いた。
ドアの中から優しい風が吹いてきた。「どうぞ入りなさいな」と言われた気がした。
柚希は部屋に足を踏み入れると扉の方を向きそっと閉めた。
薄暗い部屋は静かだった。物音ひとつしない。自分の呼吸音ですら雑音になっている。
静寂に包まれているが、それでも心地よい場所だった。
正面にカーテンが掛かっている。分厚い遮光カーテンだ。さぁっと開くと雨の日なのに明るい光が差し込んできた。この僅かな光ですら明るく感じてしまうとは、この部屋はよほど暗いようだ。
柚希はゆっくりと部屋を見回した。
しばらくここで生活している人はいないようだが埃ひとつ無いことからこまめに掃除されていることは分かる。
大きな本棚がある。テーブルがひとつ。壁にはどこかの風景の写真が額に飾られていた。
そして、壁にあるガラス扉の棚には数々のトロフィーや賞状がところ狭しと飾られていた。
(ここ、もしかして、おばあちゃんの部屋……かも)
ふと懐かしい面影が浮かんだ。いつも笑顔で接してくれた、大好きだった祖母。柚希にフルートを教えてくれた。基本的に日本にはいなくて、どこかの国を演奏し歩いていた。時々帰国すると柚希のことを指導してくれ、いつか世界の大舞台で柚希が演奏することを楽しみにしていた。
しかし、祖母は柚希が小学六年生になったとき唐突に倒れた。そしてそのまま二度とフルートを吹くことなく亡くなった。
柚希は窓辺に立つ。見慣れない角度から自宅の庭を見つめる。雨がしとしとと降り注いでいる。
(今、フルートのことなんか忘れて、スキーで世界一になってるなんて言ったらおばあちゃんどんな顔するんだろう……)
きっと怒り狂うだろう。祖母はそういう人だった。
咲来はフルートに興味を示さなかった代わりに幼少期から英語が得意だった。今では外国人の旦那をもち、海外で生活しているのだ。
それでも祖母は咲来に笑顔を向けたことはほぼ無かったはずだ。祖母にとってフルートは何よりも大切なものだったのだろう。
そう、実の孫よりも………………
『さすがは羽澄さんのお孫さんだこと』という言葉を聞くときほど柚希のことを優しい目で見つめてくる祖母は見たことは無かった。己の名を守ることに必死だった。フルート奏者に片足……片足の小指を突っ込んでいた柚希にもその気持ちは少しわかる。音楽家というものはひたすらに孤独なのだ。
いろいろ過去を思い出した後でまた部屋をぐるりと見回す。柚希は正面にある大きな本棚の前に歩いていった。
そこにはフルート関連の本と小説で大部分が締められていたが、上から3段目の段には古びた手帳がずらりと並んでいた。
背表紙に自分の生まれた年が刻印されている一冊を取り出してページをぱらりと捲った。
十二月二十四日。柚希の生まれた日である。万年筆で書かれた線のはっきりとした文字には確かに見覚えがあった。
『今日はクリスマスイブ。とんでもないサンタさんがいらっしゃった。お二人さん、ようこそ羽澄家にいらっしゃったわね』
柚希は思わず硬直した。『お二人さん』という言葉が頭の中をぐるぐると回っている。
それはおかしい。柚希は咲来以外に兄妹はいない。………いない、はずだ。
全てを疑いたくなる。
もし、兄妹が他にいたなら? もし、自分が双子だったら? もし……もし、まだ父が生きていたら?
ふと思いついて柚希は父が亡くなった年の手帳を取り出す。
『二度とあの顔を見たくない。二度と新潟なんて訪ねるもんですか』
書きなぐられていたのは怒りの二文。柚希ははっきりと自覚した。
両親は死別ではなく、離婚であること。母がずっと自分に嘘をついていたこと。そして、新潟に父がいるということ……。
不意に電光が走った気がした。もしかしたら父と双子の兄妹に会えるかもしれない。何故なら、自分はこれから新潟に行くのだから。
壁に掛かっている写真を改めて見る。神社の境内のような場所だ。
(ここに父さんがいるの……?)
いつか会えたらいいなという思いと、会ってもどうしたらいいんだろうという思いが交錯する。
そして、部屋の隅には箱が四つほど積まれていた。そのうちのひとつを開いてみる。
中には大量のアルバムが納められていた。
怖くて開くことはできなかった。開いてしまえば、今まで母と祖母がこの部屋に隠していた何かを知ってしまう気がしたからだ。知りたいという好奇心ももちろんある。それでも少なくともパラリンピックまでは知らないでおこうと言い聞かせる。今は大事な時期だ。何かを知り、不安定になってしまえばコンディションも整わない。パラリンピックで金メダルを獲得するまでは我慢しよう。
柚希は手帳と箱をあるべき場所に戻すとカーテンを閉じ、部屋から出た。ドアが閉じると入る前と同じように暗く廊下に沈んでいた。
スマホを出先に忘れてしまい、昨日の更新は不可能でした……(。>д<)
次回は『新潟にようきなさった』、明日の更新予定です。
お楽しみに♪




